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古代甲斐国の歴史ロマン第5章~石和・大蔵経寺は行基菩薩が開基した旧蹟彌勒堂から始まった!18-01

2018-01-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

古代甲斐国の歴史ロマンを辿る~第5章~

石和「松本山大蔵経寺」は、あの行基菩薩が養老6年(722年)に

開基した大蔵経寺山々中の旧蹟「彌勒堂」から始まったと伝わる!

今号ブログは、その旧蹟「彌勒堂」「彌勒実相院」跡を辿って見る! 


 その「彌勒堂」は、御室山々頂の旧蹟物部宮のすぐ上にあった!

往時、仏教普及を目指す都の行基上人が采配する仏教寺院配置は、

畿内(現在の近畿地方)を始め、各国の要衝の地が選ばれている!

享保6年(1721年)江戸時代の古絵図に記される旧蹟「彌勒堂」礎石。

※大蔵経寺所蔵古絵図より複写

「彌勒堂」の記載がある大蔵経寺寺領域他松本村等三ケ村の境界協定図

 


旧蹟「彌勒堂」は、御室山々頂の旧蹟物部宮を経て、少し上に、

テラス状の平地があり、この辺りに建立されたものと思われる。

しかし、現在は遺構も甲斐国志に記される礎石も見あたらないが、

この古絵図や甲斐国志の記載がある以上、彌勒堂の礎石は平地

何処かに埋まっているはずだ!? 

この辺りが「彌勒平」と呼ばれ、旧蹟彌勒堂と彌勒実相院跡があった・・・!?

旧蹟「彌勒堂」の礎石は、この登山道に近い場所にあるかも・・・・!?


御室山の恒例旧蹟物部宮のすす払い(清掃)行事を営む大蔵経寺井上副住職!

恒例の清掃行事には大蔵経寺運俊副住職と3名の物部神社関係者が参加。

筆者は、住職が急用で登山できなくなったことで、とにかく運俊副住職の車

(四駆)に便乗させて頂き、旧砕石作業道を上り、少しだけ歩いて伝旧蹟物部宮

まで登った。かえってお邪魔だったのではないかと思いますが感謝しています。

写真は清掃が終わり、副住職の響声の読経あり、世話役の松川さんら清々しく!


御室山山頂に祀られた旧蹟物部宮の目印に御神体柱と双頭の大石神の間に

小石祠が(現住職の代に)祀られるも、殆どの登山客は見過ごしてしまう處だ。

ましてや、すぐ上で現在の登山道(古絵図より若干道が異なる)が通る道がら

にある二段のテラス状の平地辺りを「彌勒平」と呼び、伝行基開基の「彌勒堂」

「彌勒実相院」とも伝えるが、後の「靑獅子山松本寺」伽藍があった處とは!?

注)何れ公の調査が行われ、古代史蹟解説が掲げられる處であろう! 


 第1~第4章で述べたように・・・、

都から遣わされた物部氏一族が古代甲斐国の覇権統治の拠点に

選んだ松本山(靑獅子山~大蔵経寺山)山麓を選び、その物部氏

一族の高祖を背後の御室山山頂に祀ったとされる旧蹟物部宮と

養老6年(722年)、伝行基開基の旧蹟「彌勒堂」と「靑獅子山松本寺」

の七堂伽藍に発展していったと云う・・・・。

現在は雑木林だが、写真のようにテラス状になっている2段の平地

がある。そこに立つと、雑木の間から甲府盆地が一望できる。

帰路、石和温泉駅からその尾根位置を見上げて見ると「もし・・・、

そこに三層塔の伽藍があったとしたら、古代甲斐国の荘厳な風景で

あったあろう・・・と、想像している

大蔵経寺山を石和温泉駅から見ると右側丸い頂上が御室山、その左平地が

彌勒平と呼ばれる辺りで、ここに三層塔伽藍が立っていたらと想像する・・・。 

流石に行基開基伝説をもつ「彌勒堂」と「彌勒実相院」が時間を

かけて山上に伽藍を備え「靑獅子山松本寺」になった歴史ロマンを

想像すると荘厳なスケールである!

寺伝に伝わるも、具体的な遺構や資料はなく、唯一上記古絵図のみ

で、大蔵経寺山中の三ケ村境界分けの絵図面ではあるが、彌勒堂

礎石跡が記される貴重な資料である。

往時この立地は古代甲斐国形成のための要衝であったであろうと

感じいるばかりである。

また、靑獅子が蹲踞(そんこ)していると云われ、獅子が横たわって

いる山容が山上に伽藍(三層塔含む)を有す「靑獅子山松本寺」と

称した由縁が想像できるような気がする。 


 注)伽藍)ウイキペディアにより、要約すると・・・、

伽藍(がらん)は、僧侶が集まり修業する清浄な場所の意味であり、後には寺院

又は寺院の主要建築群を意味するようになった。・・・・・。

日本の伽藍は、伽藍を構成する主な建物として、山門、本堂、仏塔、講堂、庫裡、

食堂(じきどう)、鐘楼、東司などがあり、時代によって異なる。

日本に仏教が伝来してきた6世紀前半には本格的寺院はなく、日本書記によれば

宮殿や邸宅の中に小規模な仏堂が建てられたのみであったと想像される。・・・。

崇俊元年(588年)に百済から寺工や鑪盤博士、亙博士等が来て最初の本格的

伽藍、法興寺(飛鳥寺)を着工したと伝える。

7世紀初頭に発願された大阪の四天王寺や奈良の法隆寺(斑鳩寺)の旧伽藍

(若草伽藍)の伽藍配置は、中軸線上に中門、塔、金堂、講堂を南から北へ一直線

に並べるもので、これを「四天王寺式伽藍配置」と呼ぶ。・・・・、 


これらを解析すると、大蔵経寺山の山上にあったと云う七堂伽藍は、行基の時代で

あるも、「四天王寺式伽藍」を越えるものではないと思われる。

飛鳥寺は、推古4年(588年)造営開始するも、最終的に本尊を完成し金堂に安置

して完成したのは推古14年(606年)と云われ、工期は約21年もかかっている。


伽藍建造の歴史で見ると、奈良時代、聖武天皇の命で各地に国分寺伽藍が建立

されたが、1塔、1金堂形式が基本で塔は回廊の内側又は外側の位置に建つ。 


平安時代になると、密教の山岳寺院では敷地の制約があり、整然とした伽藍配置は

見られなくなっているようです。 


 従って、簡単には推量できないが、恐らく、行基開基の彌勒堂建立の頃は、先ず

彌勒菩薩像を安置する「彌勒堂」と称する金堂が最初に建立されたのではないか!?


また、天智2年(663年)には、白村江の戦いがあり、その後、我国では大津京

への遷都が行われ、朝鮮式山城が相次いで築かれていったように、我が国でも

・・・山間部に修行道場を構える場合でも防衛の要衝としての立地を考慮される

ようになってきた。

従って、行基上人が朝廷の中枢に招かれ、仏教布教施策を主導した頃には、

朝廷は仏教普及と寺院拡充を重視したことから、要衝としても戦略的に配置される

ようになっていったことは明らかである。


 注)行基施策の甲斐国内における仏教普及と東国防備の寺院配置は

①中門に、現大蔵経寺山々中の旧蹟彌勒実相院(彌勒堂)

②菩提山長谷寺、③廃鎮目寺、④鬼門に、裂石山雲峰寺、

東門には柏尾山大善寺・・・と。


 ウイキペディアによると「行基は天智天皇7年(668年)~天平21年2月2日

(749年2月23日)、奈良時代の高僧。

行基開基の寺院記録は「続日本紀」で40余処。※主に畿内が多い。

興融寺の鎌倉時代中期の顕彰碑では49院と云われるほど多くが不明であり・・・、

小規模な修行と布教の為の拠点だったと見られる。

養老元年(717年)4月23日、朝廷は行基の大衆迎合を恐れ、詔を以て糾弾、

弾圧をしたが、天平3年(731年)には弾圧を緩め、翌年には河内国の狭山池

築造に行基の技術力や農民動員の力量を利用した。天平10年(738年)に、

朝廷より「行基大徳」の諡号が授けられた。

さらに朝廷は天平15年(743年)東大寺勧進に起用し、東大寺大仏殿を完成

させている。勧進の効果は大きく、天平17年(745年)には、行基は朝廷より

仏教界最高位「大僧正」の位を日本で最初に贈られている。※(続日本紀) 


 従って、この古代甲斐国に養老年間に伝行基創建の寺院が多いのは、行基が

養老元年より朝廷に弾圧を受けていた時、地方を行脚して行基地図を残し、後に

天平3年(731年)頃から弾圧が緩んだことで朝廷に召され、中枢で仏教普及寺院

を開基創建できるようになった頃、遡って養老年間に伝行基開基として名刹寺院

が配置されたとも考えられる。

あるいは修行行脚の時、もしかしたら行基は、甲斐国へ来ているかも知れないが・・・、

何れも不詳である。 


注)現在、里人が嘗て「彌勒平」と呼んだ山中を二~三度踏査するも・・・、

旧蹟「彌勒堂」跡の礎石はなかなか見つからない。 

甲斐国志巻七十四仏事部第二「松本山大蔵寺」松本村の項に・・・、

寺記に云う古七堂伽藍建立の時、山形獅子の蹲踞するに似たり、因って靑獅子山

と号す。後今の名に改む。

・・・三層塔迹、飛騨工匠の造建するところ山上五町餘にあり・・・。

彌勒像一躯、黄金仏なり、塔跡礎石のあるところを「彌勒平」と云う・・・。と記される。

甲斐国志の記述による「山上五町餘りにあり・・・、礎石のある處を「彌勒平」と云う

と記される場所は、上記古絵図に示される礎石と推定できる。

注)以上から、礎石は三層塔跡かも知れないし、その名を彌勒堂(金堂)と云った

かもしれないが、この絵図に基づいた写真の辺りが、七堂伽藍が築かれたと云う

「彌勒平」と呼ばれた場所に違いないと考えている。

しかし、現在は礎石が何処かに埋まっていると思われるが、確認出来ないので

比定地は推定に過ぎないことをご容赦下さい。


5世紀、雄略天皇の御代、ヤマト王権から遣わされた物部一族に

よって覇権・統治された・・・!?と考えるところから始まり・・・、

本ブログは、現在、その古代甲斐国の謎を辿っている!

第1章~第4章で述べてきたように・・・、

現大蔵経寺境内辺りに、物部氏一族は最初に本拠を構えたのでは

ないかと云う証しが御室山頂(現大蔵経寺山中)に伝わる旧蹟物部宮

ではないか考えている!?

そして、その山頂辺りに養老6年(722年)伝行基開基の彌勒堂が建立

されたと云う!

従って、現大蔵経寺山は、古代甲斐国の形成には重要な要衝立地で

あったことが裏付けられるのである。


参考)武田家中興と云われる第10代武田信武公が、足利尊氏に組し鎌倉幕府

倒幕と足利幕府開府に貢献したことで、武田家6代~10代に渡って、安芸国

左遷状態にあった武田家は甲斐守護に任ぜられ、甲斐帰還することになったが、

武田家中興と云われる第10代信武公は、鎌倉倒幕後の処理が直ぐには終わらず

入国できなかったと云われ、嫡子第11代甲斐守護武田信成公」が先に甲斐国

入国を果たして、東八代の清道院館を構えたことから、八代信成館の正面に

臨む北山筋(現大蔵経寺山南麓)を要衝と考え、いち早く、室町三代将軍義満の命

(進言?)で麁子観道上人を迎えて、真言宗に転派、現在地に移転し・・・、

現「松本山大蔵経寺」の基になる大伽藍を建立したと云う。