「信玄堤」は、甲府盆地を平穏で豊かな国にした歴史の布石!
「信玄堤」は、甲斐市竜王にあり、戦国時代に武田信玄(晴信)の命により築かれたと云われている!
史料では「竜王川除場」と記され、近代は「信玄堤と呼ばれて親しまれている・・・!
伝統の技法「聖牛」と釜無川の風景 冠雪の八ケ岳に桜の紅葉が映える「信玄堤」
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「信玄堤」は、甲府盆地の絶景ビューポイント・・・!
「憩いの公園」として、知る人ぞ知る人気スポットです!
春、信玄堤の中聖牛と冠雪の八ケ岳連峰 満開の桜と冠雪の南アルプス鳳凰山と甲斐駒!
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「信玄堤」には、武田信玄公が開発したと云われる「聖牛」など・・・、
甲斐国が誇る伝統的な水防工法が今も活きている!
甲斐国は、内陸部の山間地域であるため、平野部である甲府盆地の底部にも縄文時代より定住が始まったが・・・、
特に、甲府盆地の中心に流れる笛吹川(日川、塩川等が合流する現笛吹市石和地区)と、釜無川(御勅使川等が合流する現甲斐市竜王地区)は、大雨による氾濫が発生し、頻繁に洪水被害が起こっていた。
戦国時代、国内統一を果たした武田信虎の時代に、度々大水害にあった石和の川田屋敷を引き払って、甲府の「躑躅ケ崎館=現武田神社」へ本拠を移してから、現甲府市内に武田城下町の拡大整備を図るとともに・・・、
特に食料・米穀栽培を拡充する必要もあって、田園開発に取り組むことが急務であった。
武田信玄の時代になって、東の氾濫川「笛吹川」を治水するために「万力林」を・・・
西の釜無川(御勅使川との合流地点)の氾濫を治めるため「信玄堤」を構築し・・・、
頻繁に洪水(水害)が繰り返される中、20年以上もかけて、知恵と努力の水坊工事が重ねられ・・・、江戸時代初期に、用水路が構築され、新田開発が進み、安定した農業生産力が確保されたと云われている。(甲斐市教育委員会)
注)その後、昭和年代まで何度か大水害記録は残るが、最近は河川水坊技術も近代化されて、比較的水害は聞かれなくなっている。
但し、水害は天から起こる想定外の大雨による場合もあり、余段は許されない。
注)竜王川除工事の開始時期は不明だが、川除場で行われる夏御幸(祭り)の開始時期が弘治年間(1555年~1557年)と云われており、着工時期と同時期とする説もある。
注)1542年(天文11年)6月に信虎を追放してから、晴信の時代に工事は本格化されたと云われているため、信玄説が根強いが、実際は古代から河川水坊の歴史が続いているようです。※もともと甲府盆地は太古は海~湖であった説もあって、数々の歴史的な水難があったらしい。
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「信玄堤」は、甲斐国が誇る水防技術の歴史的文化遺産!
この公園になっている堤防だけでは、釜無川と御勅使川(みだいがわ)の洪水を防ぐことが出来ないくらいの激しい氾濫であったため、長い年月をかけ、幾多の知恵を重ねて、集大成で築かれています。
※詳しくは、現地、国土交通省の解説版の配置図と解説をご覧下さい。
①「石積み」 = 御勅使川の流れを上流の”石積み”で北側へはね出す。
②「将棋頭」 = このはねた流れを二つの将棋頭で受け止める。
③「堀切」 = 次に河岸段丘を切り開いた”堀切”で御勅使川の洪水の流れを
「高岩(たかいわ※竜王鼻とも言う)」に導き、その勢いを弱めている。
④十六石 =16個の大きな石を並べ、御勅使川の洪水流を釜無川にうまく
合流させ、高岩にぶつけて減勢させた。
⑤聖牛 = 江戸時代の地方凡例録によると、主に急流河川における水衝部に
複数個配置され、減勢効果、導流効果が期待できる透過性の水制。
三角錐(すい)に木を組み合わせた形状で、その形が牛の形に似て
いるので”聖牛”と名付けられたと言う。
その大きさにより、大聖牛(瀬替え=流れを変える)、中聖牛(取水堰
・河岸部の保護)などがあり、地域により、”川倉”(山梨市等)、材木を
四角錐に組んだ”菱牛(ひしうし=小河川で川の流れを変える”)と呼
ばれるところもある。
⑥信玄堤 = 高岩から不連続で築いた堤防で、これを「霞堤」と云い、洪水の時、
溢れた水を河川に戻す工夫をした堤防である。①~⑥の工夫を重ね
た上で、弱まった流れをこの”信玄堤”でしっかりと受け止めている。
※ 現在の信玄堤は昔の思想を受け継いで、「霞堤」として改修されています。
信玄堤には、桜やカエデの他、堤防の役割を果たすケヤキやエノキ等の大樹木も根を張り、水害防備林として指定されています。
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往古より”水防の守護神”として・・・、「三社神社」が甲府盆地の平穏を見守る!
「三社神社の石鳥居」は、明神鳥居(台輪鳥居)と云われ、古来の貫禄を感じる!
額裏に承応元年(1652年)極月吉祥寺と修理年代が記されているが・・・、
創建は桃山時代と推定されています。(※甲斐市教育委員会)
古来の甲斐国の神社鳥居は、幅3.16m、高さ2.62mの台輪鳥居が貫禄!
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三社神社は、天長2年(825年)国中地域が未曾有の水害に襲われた時・・・、
第53代淳和天皇が、一宮浅間神社(木花開耶姫命)、二宮美和神社(大物主命)、三宮玉諸神社(大国魂命)へ釜無川の水防祈願を行うよう勅使を遣わしたことで、現在地で「川除祭」を行ったと伝えられている古社です。
現在も「大御幸祭」として、毎年4月15日に水防の神事が執り行われています。
※一宮、二宮、三宮の三社が合同して各社から神輿等が渡御し、信玄堤(竜王川除)上で、水防の神事として「御幸祭(みゆきまつり」が行われている。
※大御幸、三社御幸、おみゆきさん等と呼ばれている。
※山梨市の窪八幡では「おかわよけ」(御川除)が行われている。
現在の本殿は、建立棟札によると、「御旅殿」として貞亨3年(1686年)に建立、
宝永4年(1707年)に三社大明神社として修造されていることが記されている。
現在も江戸時代中期の装飾技法が見られる建造物です。(甲斐市教育委員会)
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「信玄堤」は、甲斐の歴史の趣と優美な大パノラマが楽しめる!
筆者お気に入りは・・・、春の桜と秋の紅葉時期に眺める信玄堤の風景だ!
①釜無川越しに見る冠雪の鳳凰三山と甲斐駒ケ岳・・・、
②堰堤から遠望する冠雪の八ケ岳連峰・・・、
③樹林越しに被る茅ケ岳・・・、
④樹林の垣間見る冠雪の富士山・・・
信玄堤は、絶景のビューポイントです!!
春の桜、秋の紅葉時期には、いずれも冠雪の名山を大パノラマで眺めることができる。
電車でも車でも便利が良く、誰でも気軽に行ける「信玄堤」は、この大パノラマ風景がお薦めポイントです!
詳しくは、Http://www.kai-city.com/ 甲斐市観光ガイドをご覧下さい。
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広大な信玄堤の土手道 紅葉の美しい公園の風景
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樹林の垣間に見る冠雪の富士山(ちょっと雲が懸かる)背景は茅ケ岳(別称ニセ八ケ岳)
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桜の季節は富士山が真っ白い冠で美しい! 信玄堤の桜は、優しい彩り!