新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

10)続編 「吉田のうどん」・・・富士吉田・伝統の郷土食! 

2011-01-23 | 山梨、郷土食と温かいもてなし!

富士吉田といえば、”グルメ”は、何と言っても・・・「吉田のうどん」!

10)富士吉田の魅力探訪の続編として、”郷土食(グルメ)”の話を少々・・・!

・”吉田のうどん”は、山梨県富士吉田市や周辺の郡内地方(甲斐国都留郡一帯の県東部地域)で食べられている伝統の郷土食で、独特の”うどん”・・・なのです。

・富士吉田の「うどんマップ」でもご覧頂けますが、うどん店舗だけではなく、民家を兼ねる”うどん屋”がたくさんあって特徴的です。「うどん」”のれん”や”竿旗”が町のあちこちに目立ちます。また、”のれん”も看板もない民家のうどん屋もたくさんあるようです!

2011年1月現在、(財)ふじよしだ観光振興サービスの推進する”「吉田うどん」のスタンプラリー”加盟店62軒あります。

※ちなみに、手元にある古いパンフレットで2~3年前の軒数を数えてみたら、09年3月は、54軒、09年9月は63軒・・・と、2年前に比べ加盟店は8軒も増え、知名度が上がっていて、ここ数年ですが、けっこう、頑張っていますよ!

吉田うどんMAPをご覧ください。何処に、・・・しようか? 迷いますね!

マップと店舗案内は http://www.fujiyoshida.net/forms/info/info.aspx?info_id=2002

地元の話によると、民家でうどんを食べさせてくれるところは、2~3倍の数はあるのではないかというくらい!?実は、昔から長い間、富士吉田の風土に育まれた、特に、来客をもてなす伝統の郷土料理でもあったのです。(詳細後述)

とにかく、能書きの前に、まず、食べてみましょう!

今回は、創業明治25年、地元で最も老舗といわれる参道沿いの「手打ちうどん・ はなや」を昼時に訪ねました。普通の住宅の座敷に10卓ほど座卓が並び、週末でもあり、座席は殆どいっぱいでした。筆者が選んだ理由は、ここのシンプルな”湯もりうどん”が、もっとも”吉田うどん”らしい味が楽しめると思ってのことなのです。

※ご免なさい62軒のうち、数軒しかしらないのに・・・、

PhotoPhoto_2

「はなや」のれん

「吉田うどん」の名物「湯もりうどん」

伝統の”湯もりうどんは、手打ち吉田うどんを”讃岐の釜アゲうどん”のように、茹でたうどんのアツアツの湯をそのまま出汁にして、オリジナルの辛子味噌でサッパリと味付けをし、醤油でお好みの味にして食べるのが”湯もりうどん”です。”うどんそのものにある栄養分をそのまま”逃さず食べられる知恵だとも思います。醤油を加えなくても、薄味で独特の味が楽しめるが、関東の饂飩出汁を好む人は、醤油を少々加えれば良いでしょう。トッピングは、上質の削りガツオブシがたっぷりもられて出汁の味と香りを増しています。口直しのサッパリ感に小松菜のオシタシが載せてある。薬味は刻みネギと、七味唐辛子を好みで添えてある尽くサッパリ系です。

「吉田のうどん店一覧表」を見ると、各店の特徴がPRされているが、ほとんどが、”具だくさんのテンコ盛り”を売り物にしている。

筆者は・・・、その中で、いわゆる”素うどん”の”湯もりうどん”を売り物のしている「はなや」が最もお勧め! 明治25年創業以来、今でも、”お店に磨きをかけて続いている”ことが、評判の良さと安心感(寄って外れのない店)を物語るのもだと思います。

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”吉田うどん”の特徴は・・・・?

※ふじよしだ観光振興サービスの”吉田うどん”パンフでは、このように紹介しています。

富士山の湧水を使って打ったコシの硬い麺

②味噌、醤油で素朴な味わい、またはカツオ出しが味噌本来のうまみと風味を引き立てる

③具は、硬い麺と相性の良いキャベツが多く、肉は桜(馬)肉を使うところが多い

④薬味は、ゴマや唐辛子をあえたり、それぞれ競争をしている

⑤値段は、@350円~@400円が中心で、とても大衆的値段。

 ※追加でトッピングが選べる処が多い。

「吉田のうどん」は、筆者の率直な意見で言うと、「うどん」が硬くて太く重いので、いつもツルっと食べる饂飩に比べると食べにくい。しかし、良く噛んで食べると”饂飩の旨さ”が分かります。中高年には、腹持ちも良く、”並み盛り”一杯でも腹ごしらえになりますよ

・全国的に評価の高い、秋田の稲庭うどん(実はソーメンと同じ干麺)、名古屋のキシ麺、四国の讃岐うどん、佐賀神埼の中麺(ソーメンを饂飩風に打ったもの)などのうち、少し太いが、讃岐うどんの特性に似ているのではないかと思います。

注)余談ですが、”うどん”と”ソウメン”は、いずれも小麦粉から作られますが、大きな違いがあるそうです。

①ソウメンは、水分が14%以下の乾麺で、手延べソウメンは全て乾麺で、保存性が抜群です。

うどんは、大体が生麺で、ソウメンより少し太めです。日持ちは短く、打ちたてが一番美味しいと言われています。

※”つけめん”などにすると、ダシを良く吸収します。つまり、うどんの方が味にバリエーションを付けやすいところが受けているのではないかと云われています。※ウイキペディアうどん、そうめん入門

同じ小麦粉を使っても、うどんとソウメンは製法が違うのです

・手延べソウメンは、小麦粉を練り合わせた後、植物油を塗布しながら順次引き延ばして丸棒状の麺にします。グルテンというたんぱく質を作り出し、細いほど、グルテンが抜群に含まれているそうです。けっこう栄養があるのですね!だから、修行ソウ(僧)の考えた”ソウメン”なのかな!?(笑い)

・手打ちうどんは、小麦粉を練り合わせた後、足で踏んで、棒で平らに引き延ばした後、庖丁で細かく切って、麺にします。蕎麦打ちと同じような製法ですネ。

一軒だけ、別の高級店を紹介をしておきます・・・。

スタンプラリー加盟店ではないが、吉田うどんが食べられる唯一高級店がある。09年10月に、地元の高級旅館、富士山温泉「鐘山苑」がオープンした「郷土料理の店 浅間茶屋」北口本宮富士浅間神社の境内東側駐車場のところにあるは、本格的な郷土料理(ほうとう、吉田うどんなど)が楽しめます。良さそうなので・・・HPを紹介しておきます。

但し、ここの「吉田うどん」はうどん定食になっていて@1575円、エビ天うどん@800円といったところです。建物や周辺の風情は、とても良いところで、ドライブ観光客にはランチの立ち寄り処に良いと思います!気取らず・・・、頑張ってほしい店構えです。

・浅間茶屋は http://www.sengenchaya.jp

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吉田うどん”考・・・!?

山梨はどこへ行っても、”ほうとう”なのですが、なぜ、富士吉田は、”吉田のうどん”なの・・・? こんなことに興味をもって、あれこれお話を伺ってみました!

「吉田うどん」は、実際に食べて見ると、”うん・・・何!?”と感じる硬くて太いうどん」で、全国の美味しいうどんを知っている人は、何が美味しいの? と言われるかもしれません・・・!?

・知名度の高い山梨の”ほうとう”も、東京の友達連中に聞くと、食べたことはあるけど、”うまい(美味しい)”とは思わないという人が多いのが正直なところです。”ほうとう”も、うどんそのものが、そんなに旨いと感じるものではないからでしょう!?しかし、いろいろお話を聞いて味わってみると、”腹持ちが良く、カボチャ、野菜や肉など栄養豊かな具だくさんと、素材そのものからの出汁で味を出す工夫などを知ると、何と”味わい深い食なのか!?これが日常食として、白い米飯の代わりに主食として食べる郷土料理の知恵”ホウトウ”なのかもしれないと思えるようになります。

郷土ならではの日常食(料理)だからこそ、地域の人々の知恵が集積され、「郷土料理の特性」が育まれていくのです!

今でも、富士吉田市内では、日常食に”ほうとう”を食べる家が多くありますが、宴会や祝事の時は、必ず”うどん”を食べて終わりにするのが、”うどん好き”の吉田(郷土)の土地柄だそうです

何故、宴会や祝事の時、うどん・・・?その”吉田うどん”について、もっと詳しく調べてみますと・・・、

吉田のうどん」とは!? ウイキペディアによると・・・、

2007年、農林水産省が各地に伝わる”ふるさとの味”の中から選定した「農山漁村の郷土料理百選」に選ばれた一つと紹介されています。

山梨県の粉食料理のうち、幅広の麺を野菜とともに煮込み、味噌で味付けをした「ほうとう」は、麺よりも野菜の量が多い”ケ”の食事として普及してきたそうです。

特に、武田信玄の時代に、戦場のスタミナ食として”ほうとう”が重宝されたと伝わることから、それ以来、甲斐国の伝統日常食として定着し、地元では、現在も家庭で食されています。

小麦粉を多量に食する「うどん」は、外食または”ハレ”の食事として区別されていたといわれています。

注)柳田國男氏によると、日本人の伝統的な習慣の一つで、”ケ”は、日常生活を営むためのエネルギー(食)。”ハレ”は、儀礼や祭事や外食などに非日常(食)と区分けし、ハレの場では、衣食住や振る舞い、言葉遣いなど”ケ”とは格段に区別したと言われている。「”ケ”=俗」「”ハレ”=聖」と区分けしたり・・・、さまざまな説があるようです。

富士北麓に位置する富士吉田周辺は、標高800m前後の高冷地であるため、稲作には不向きであったところで、畑作物のアワ、キビ、ヒエ、トウモロコシなどの雑穀や麦が主産物であったことから、主食にも粉食料理が重宝された歴史があります。※富士吉田歴史民俗博物館資料による。

注)トウモロコシの粉で作ったヤキモチ(オヤキ)は主に朝食で食され、大麦を煮て作るオバク(バクメシともいう)は、前の日に煮込んでおいて、翌日野菜などを入れて再度煮込み、朝食や昼食に食されたそうです。アワ、キビ、ヒエ、トウモロコシなどは、粉に引いて煉ると、今でも、”もち”や”だんご”として食されているが、米が取れない地域では貴重な雑穀であったのです。小麦は、”ほうとう”や”うどん”をつくり、カタクリを合せて”すいとん”も作れて、米に代わって如何に貴重品であったかは周知のとおりです。昔、なつかしい話になったようですね!?

米作などの農業に適していない土壌環境の中で、特に、富士山の湧水を活用した「水掛麦」が開発され、栽培されるようになって、その小麦粉を使って”ほうとう”や”うどん”を打つことで、日常食や外食として普及していったが、江戸時代より、特に、富士講が盛んであった富士吉田や河口湖の御師町では、関東周辺から訪れる参詣客に”うどん”を打ってもてなしたと云われています。しかし、四国八十八ケ所の巡礼と関わる”讃岐うどん”のように門前町に店を構えたわけではなく、一般の民家を昼だけ開放して、うどんを供したといわれ、今でもその名残りで、看板も暖簾も掲げない民家の一階を利用した”吉田のうどん屋”が多く見られます。

特に”吉田のうどん”は、富士講の富士山信仰と関わりも深く、透明な汁に、白い麺が浸った「湯もりうどん」は、神聖な食べ物として扱われ、清楚なイメージのこのうどんは、登山前に食することで、「身体の中から、身を清める」という意味合いが込められていたと伝わっているそうです。

なるほど・・・・、「ハレの食に、御師坊などの来客に”うどん”で”もてなし”。宴会や祝事では”うどん”で閉めるなどの風習から富士吉田は、日常食の”ほうとう”ではなく、もてなしの”吉田のうどん”なのだということが良くわかりました。

だから、それぞれの”うどん屋”は、具だくさんや特徴が違う盛り付けで、競っているのですね!

でも、やはり、食べるなら・・・”うどんは麺を競う”手打ちうどんを選んで食するのが、伝統の吉田うどんを知るのに、良いのではないかと思いますネ!

今は、残念ながら、独特の”水掛麦”は殆どないそうですが、”水掛麦”のこともメモしてみました。

富士吉田市地域(特に上吉田小佐野地区の田園地帯)で普及した水掛麦」は、富士山の水を引いて、水掛畑で作る麦のことで、通常の岡麦に比べて、特に、水掛麦で作った小麦粉は、粘りがあって美味しかったといわれます。

なぜ富士吉田では、一般家庭でうどんを打つようになったのでしょうか・・・!?

・江戸時代から昭和にかけて、郡内地方では、養蚕や機織産業が盛んで、女性は働く人が多かった。一方、耕作地や農業に恵まれない男性はよその土地へ行商に行ったり、家で骨休みをする男性たちは、炊事を受け持ち、昼食として”うどん”打ったことで、吉田のうどんが普及していったようです。さらに、ハレの飽食感を演出するために、コシ、硬さ、太さに特徴をもつ吉田のうどんが育まれたといわれています。

けっこう、”吉田のうどん”も、このように歴史は長く、奥深いので、話はつきません!今回はこの辺で・・・!

とにかく、一度、富士吉田を通りがかる時は、この記事を思い出して、チョットだけ途中下車をして・・・、立ち寄って見て下さい。

昼食は、もちろん、”吉田のうどん”を食べるスケジュールを立てて来て下さい!

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10)富士山とともに歴史を刻む富士吉田と富士山駅!

2011-01-21 | 山梨、秘めた魅力の再発見!

富士山に一番近い町・・・富士吉田!

富士吉田市は、山梨県の南東部、富士山の北麓に位置する海抜650~900mの高原都市。その町の中に「北口本宮浅間神社」があって、そこが本来の北口富士山登山口(吉田口ともいう)になっている。

この神社を中心に、御師坊の街並みが形成され、発展してきたことで、「富士山に最も近いまち」と紹介される富士吉田市。注)このキャッチフレーズは富士吉田市広報記事。

また、富士吉田は、古代から神話や民話に彩られた「富士山とともに歴史を刻んだ町」ともPRされています。歴史好きには、興味津々ですね!

富士吉田市の概況は、http://www.city.fujiyoshida.yamanashi.jp/forms/info/info.aspx?info_id=1167

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富士山は「日本一の山」   ※北口本宮富士浅間神社近くの富士山の景色です。

Photo ※最初に、少々、富士山のことをメモしておきます。

・富士山の標高は3776m

注)最高地点の標高は3776.24m

  剣が峰の二等三角点は3775.63m

  その両方を四捨五入して3776mだそうです。

富士山の生立ち・・・あらまし ※富士山検定公式テキストによる

・富士山は、地殻プレートが4つも重なり合った地点にあって、世界でも珍しいフォサマグマといわれる大地溝帯にあり、数百万年前から、活発な火山活動が起こり、東日本と西日本が合体した地帯にある。参考)この頃、南アルプスや八ケ岳は誕生したと云われています。

・その火山活動の中で、御坂山塊、道志山塊、天子山塊、身延山地、秩父山塊が先に誕生していて、その周囲の山塊を外輪の前衛にして、中央に悠然と誕生した富士山は、あらためて崇高さに感動します!

①約50万年前~10万年前、「小御岳火山(標高約2400m)」誕生参考)愛鷹山や箱根山はこの頃誕生

②約10万年前、「古富士火山(標高約2700m)」誕生 

③約1万1千年~8000年前、「新富士火山」誕生で、標高3776mに達し、現在の姿を形成した。

④そして約5000年の間、火山活動は休止していたが、約2300年前に、御殿場側で大崩壊が起こったり、万葉集に記録される養老年中(720年頃)から、江戸時代宝永4年(1707年)の間に、約25回の噴火を繰り返している記録があるそうです。現在も、富士山は新富士火山の活動期にあると言われて、活き続けています。

・富士山は典型的な成層火山で、しかも、ほぼ同じ場所から噴火を繰り返して円錐形に近い姿を形成してきたことで、世界に類を見ない美しい姿になったのだそうです。

この美しい富士山が、「いつまでも穏やかでありますよう・・・」”浅間大神”に祈るばかりです!

筆者は地質学は分かりませんが、外輪の山塊を活かして、中央に誕生したからこそ、ほとんど同じところに噴火を繰り返すことができて、現在の麗峯になったのかと思うと、富士山を眺める時、外輪の山々をもっと見直して、あらためて”その存在感”を認めたいものです。

お中道・・・剣ケ峰の直下から毎日のように崩れている大沢崩れ」を訪ねると、痛々しいが・・・、”古老”富士が活き続けている姿をまざまざと見ることができます!

昔々、富士講では、頂上へ3度以上登った道者だけが資格を得て、「お中道歩き」を許されたといわれています。実際に「大沢崩れ」に行ってみると、その意味もわかるような気がします。

・また、筆者のように登山をする中高年にとっては、「頂上を極めたベテランは、楽なお中道を歩ける資格を得ることができる」といわれる話もあっても良いと思うのですが・・・。

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富士吉田

富士吉田市は、人口約5万2千人。富士山と富士五湖の美しく雄大な自然観光資源に恵まれていて、首都圏に近接していることもあり、「富士吉田・河口湖・三つ峠」地域には年間約633万人の観光客が訪れているが、富士吉田市内は通過点として、大半の人たちが通り過ぎているように見える。なぜだろうか!?殆どが、河口湖方面と富士スバルラインへ上っているような気配ですネ。※平成21年山梨県観光動態調査、注)富士山人気も急増で平成22年現在、約22万人が登山しています。

富士吉田市の観光インパクトは、西側、河口湖との境に「富士急ハイランド」、東側、忍野、山中湖村の手前に「リフレ富士吉田」があって、富士吉田歴史民俗博物館、富士山レーダードーム館、レストラン&地ビールふじやま、道の駅富士吉田、富士山アリーナ、郷土産品の展示販売、野菜のドライブショップなどがあるが・・・。

詳しくは、ふじよしだ観光振興サービス http://www.fujiyoshida.net/forms/top/top.aspx

その中央部に、「北口本宮富士浅間神社」があり、本来北口富士山登山口がある。また、富士急行線「富士山」駅(※11年7月迄富士吉田駅)から、金鳥居を入り口に、上吉田の参道を上ると、歴史豊かに残る”御師の街並み”があります。

注)現在、人気の富士山5合目アクセスである「富士スバルライン」が河口湖・船津寄りにあるため、富士山5合目の観光客は推測ですが殆ど富士吉田市内を素通りしているのではないかと思われます。

筆者の私見では、富士吉田は、観光資源の豊富な河口湖と、有名な忍野八海、山中湖ルートとの分岐路の役割を果たしているので、通過する観光客が大変たくさんあることは無視できない。チョット途中下車して、街並みを歩いて見てもらえば、結構あらたな旅を提供できると思えるのです!何が途中下車のインパクトになるのでしょう??

何よりお勧めは・・・、マイカー旅ばかりの首都圏の観光客に、せっかくの休日は、高速道路の渋滞と疲れを避けて、エコ活動にもなるし、中央線、富士急行線に乗って、のんびり電車旅をして見たら如何と・・・お勧めたいですね!

注)電車旅をするために、一番心配なのは、現地での”バス等乗継や利便の案内”です。

例えば、河口湖方面への途中下車や忍野八海や山中湖方面への途中下車で、富士吉田の歩く観光が可能なダイヤの点検などされると良いですね!

そして、”歩く人”を考えたディレクション等観光サインの整備がされていると安心です。

ガイドブックが「歩ける観光マップ」になっているかも重要です。その際、マップで情報が欲しいのは、まず”道が詳細な地図”であること。そして、水ボトル補給、コンビニや富士山の展望スポット、歴史スポット、グルメスポット、休憩スポット(トイレ)、郷土産品等おみやげ処、眠っている見処など(ガイドがいない処は解説版)などが総合的に整備されいると、もっと”歩く人”、いえ”歩きたい人”がいるのです。そして、町の人々の笑顔に出会えるなら、旅の喜びは倍増です!

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今回は、富士急行線に乗って、電車で訪れる「富士吉田」を紹介します!

富士急行線の電車は、中央線大月駅~(大月線)富士吉田~(河口湖線)河口湖の2路線で結ばれています。大月駅標高358mから河口湖駅標高857mの標高差約500mを上っています。

まさに登山電車です!急勾配は40°/oo 半径200mほどの急曲線が連続している山岳電車で、現在は、富士登山電車トーマス電車など楽しい電車が走っていて、富士急行は観光振興に頑張っています!特に、車内にアテンダントのホスピタリティがある電車は珍しく、嬉しいことです!

詳しくは、http://www.fujikyu-railway.jp/forms/info/info.aspx?info_id=15509

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11年7月から「富士山」駅  中央 整備された観光サイン   右 町中の三カ国後案内サイン

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「富士山駅」の名前が”ふさわしい町”を歩いてみました。

富士吉田(上吉田エリア)は、シンボル”金鳥居”が最初に迎えてくれます。

Photo_5 この金鳥居は、何と富士山そのものが鳥居の額絵になっているのです。一度、金鳥居から歩いて見る値打ちがありますよ!

注)車の通る交差点にあるので、安全な歩道から見て下さい

・交差点には、今でも江戸時代の「道しるべ」があり、「右ハ江戸ミち、左ハ甲州ミち」と刻まれている。

・また、この交差点は、関東一円からの大勢の信仰登山客が通り、一方の鎌倉街道(往還)を下って来た道と合流する地点です。

金鳥居

鳥居額は、なんと「富士山」となっています・・・!?

この鳥居は浅間神社の鳥居ではないのです。江戸時代は、この上吉田に入る時、俗界と富士山信仰の境界として・・・、神聖な存在であったのだそうです。

主に、関東から訪れる富士講の人々は、甲州街道の大月から富士道を通って、上吉田に至るのが一般的であったそうで、上吉田の入り口に、”金鳥居”と”登山改役所”が設けられ、大きな目印としたばかりではなく、「山役銭」という”入山料”を徴収して、富士信仰者の身を清め、「山行」の装いを整えてもらい、神聖さを保っていたそうです。

甲斐国志によると、不浄祓い料32文、二合目役(えん)の行者賽銭20文、金剛杖14文など、頂上まで登るのに合計122文(うち吉田師職には6文)を山中4ヶ所でそれぞれ納めたそうです。※富士吉田市歴史民族博物館資料

いまなら、幾らの入山料・・・?

余計なことだが、IT日銀FAQを応用して、正確な換算は困難だが、1両、米1俵の相場で換算すると、1両は4千文なので、江戸時代中期から後期の1文は現在の12円くらい、物価高騰の幕末から明治初期には1文は1円くらいに換算されているので、その価値で換算すると約1400円~130円くらいを納めたようです。しかし、貨幣価値は正確に比較するのが困難なため、当時のコメ相場と比較推定してみるが、当時の貨幣価値は約16000倍から24000倍にもなるので、正確には換算できそうにありません。結構、納めたことだけは確かです。

ちなみに、現在の観光入場料相場から見ると、1000円~3000円くらい(ディズニーランドは除く)を想定できるのではないかと思われるが、仮に・・・何とかの皮算用ですが、1人@1000円の入山料(宿泊、飲食他、交通費等別)だとすると年間約20万人を見込むとして、約2億円になる。2000円なら4億円。これで、富士山の保全と浄化が果たして図れるかは・・・わからないが、少なくとも、入山料を払ってまで登山をしようとする人々は、富士山を大切に庇護してくれる人々であろうと思うので、検討の余地はある。但し、あくまで、有料でも登る人が大勢いればの話ですから・・・!?

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金鳥居から参道を上ると”御師の街並み”が、、、

昔の富士山北口本宮浅間神社境内絵図富士吉田歴史民俗博物館資料複写)を見ると今昔の街並みの様子がよくわかります「fujisankitaguchi_hongu_sengenjinja_keidaizenzu.pdf」をダウンロード

・富士講が隆盛した江戸時代、上吉田は「金鳥居」を境にして、表参道に富士登山信仰の道者を迎え、富士山登頂のお世話をする”御師坊(宿坊、道者坊ともいう)”が並んで、街並みが形成された名残りを今でも見ることができます。

・幕末慶応3年(1867年)に横浜に来ていたイギリス人F・ベアトが写した写真(複写)が残っていて、当時のことを写真で見ることもできます。あの坂本龍馬の写真の時代ですよ。

「k.pdf」をダウンロード

注)写真は、富士吉田歴史民俗博物館資料に掲載の横浜開港資料館蔵の写真をコピーしたものですが、この時代の御師の街並みの様子は、旧外川家を訪ねると、もっと詳しくわかります。

・江戸時代の最盛期には、甲斐国志に86軒あったと記されているとのこと。現在も御師は「ふじよしだ歩楽百景」に12軒ほど紹介されているが、民家を兼ねるため、観光客は訪ねることができないようです。

注)西海賢治氏の文献「富士講と御師」には、1805年(文化2年)71軒、1820年(文政3年)82軒、1834年(天保5年)89軒、1855年(安政2年)93軒あって、上吉田が活況を呈したことが記されている。

Photo 御師「旧外川家住宅」山梨県指定有形文化財

現在、御師坊は、参道左側筋(昔の町割りでは東町新屋敷)にある「旧外川家住宅」が、唯一見学ができる19世紀建築の旧御師の家です。

見学案内はhttp://www.fy-museum.jp/forms/info/info.aspx?info_id=5898

旧外川家で、解説をして頂いた外川さん(外川家末裔の奥さま)は、とても、良く勉強しておられ、郷土愛豊かで、わかりやすい説明を頂き久しぶりに感動しました。同じく、渡辺さんにも後日、電話取材で大変お世話になりました。

注)重要文化財を復元展示してある「御師坊」建築は「リフレふじよしだ」の公園内にありますが・・・、時間があれば訪ねたいところです。民家と宿坊を兼ねた住宅設計の知恵がたくさんあります。

御師は、浅間神社の神職を務めながら、富士山へ登る道者の案内や宿泊を賄った人たちのことで、御師の家は、現在の東京、千葉、埼玉、神奈川の関東一円に、多くの檀家を組織して発展し、まさに富士信仰の隆盛(即ち、富士吉田の起源)と大きく関わりをもっています。

注)御師の資料記録によると、年間4カ月は檀家回りをし、6~7月は(現在は7~8月)の登山者の宿泊や祈祷、登山案内などを生業としたようだが、檀家回りの範囲は、江戸市中のみならず、関東、中部のほぼ全域の村々に及んでいたことが、御師宅の檀家帳から見ることができるようです。凄い活動範囲ですね!

今の観光施策でいえば、オフシーズンは、顧客組織(檀家)を開拓、強化するため、訪問セールスを行い、シーズンは、宿坊でもてなし、登山装備を整え、富士登山をガイドするなど、凄いことをやっていたようです。今の観光施策でも基本になる教えがここにありますネ!勉強になります。

・金鳥居から北口本宮富士浅間神社へ詣でる参道は実は、神社の正面筋にないことに気が付きます。一般的には、寺社の正面参道に沿って門前町が形成されることが多いのですが、ここでは、御師の街並みと参道が一本の筋が違っているので疑問がわくのですが、伺ってみると、その昔、神社の正面筋下にある”古吉田”地域にあった町が、富士山からの雪代(融雪の土石流)で、頻繁に被害にあった場所のため、計画的に現在の上吉田に移転したと、甲斐国志にも記されているそうです。

・「上吉田」の御師坊の街並みは、1572年(元亀元年)、「古吉田」から移設して計画的に形成された”戦国時代の都市計画”の歴史の蹟でもあるのです!感慨が深まりますね!

注)この時代の都市計画でいう「町割・屋敷割」は、博物館や旧外川家の資料でも見ることができるが、旧外川家の解説資料によると、上吉田は、金鳥居から「下宿、中宿、上宿」に区分され、御師は、「本御師」と「町御師」の二通りがあって、タツミチの奥に屋敷を構えた御師を「本御師」と言ったそうです。町御師は通りに面した屋敷でタツミチを持たない。これは屋敷割以後に御師になった「町御師」の特徴だそうです。

注②タツミツは、表通りから奥の屋敷までの細長い引き込み路で、本御師の屋敷構えの特徴になっている。神職にあったものは、いざという時は防御も考慮していたと言われています。上吉田の町割りは、浅間神社の東西を流れる「間掘川」と「神田堀川」に挟まれて立地しているが、「屋敷割」には「掘・土居囲」と記されていて、堅固に囲繞(いじょう=囲いめぐる)されていいたらしいと記されている。※富士吉田史の「戦国時代の項、吉田の街並景観とその形成」

注③現在の表通り(国道139)の歩道部分(暗渠)は当時の「表の川」用水が流れている。

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北口本宮富士浅間神社・・・

富士山の噴火を鎮める神を祀る神社で、富士吉田の起源の象徴です!

Photo_2Photo_3左 

国道沿いの神社標識

神社奥両サイドに駐車場あり。

右 

北口本宮富士浅間神社

拝殿

北口本宮富士浅間神社・・・

「北口本宮富士浅間神社」は、第12代景行天皇40年(西暦110年)、日本武尊の東征の帰路、足柄峠より、甲斐国酒折宮へ向かう折、当地、大塚丘に立ち寄って、富士山を遙拝され、大鳥居を建てて、「富士の神山は、北方より登拝せよ」と勅(みことのり)されて、祠を建てたのが始まりとされています。(社記)

・延歴7年(788年)甲斐守紀豊庭(きのとよひろ)が現在の位置に神殿を建て、大塚丘に日本武尊の神霊を祀った。亨保18年(1733年)江戸の富士講村上派を率いた村上光清が、弊伝、拝殿、神楽殿、手水舎、随神門を造営し、現在の本宮があるそうです。

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