日本一の桃源郷”笛吹市一宮”は、甲斐国古代史の里!※古代は”峡(カイ)”の国
笛吹市は、特に”一宮”には、”甲斐国一宮浅間神社”、”甲斐国分寺”、”国分尼寺”など、往古は、甲斐国の中心であった”証し”となる数多くの古代文化遺産がある!
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「甲斐国一宮浅間神社」(かいこく いちのみや あさまじんじゃ)
2000年以上も前、第11代垂仁天皇8年(紀元前20年)正月、八代郡の神山の麓に祀られた山宮神社(現・摂社)に始まる式内社(名神大社)!
地元の皆さんには、「一宮さん」と呼ばれて、庶民の守り神さん!
何と!?第11代垂仁天皇は、紀元前29年~後70年在位。”倭国”の時代の話なのです!
注)倭国は、紀元前2世紀頃から、中国など周辺諸国から、当時の日本国家を指して、「なよなかな女性や人に委ねる」という語義から「倭」を用いた国の呼称と云われる。7世紀後半から対外的な国号は「日本」に改められた。※ウイキペディア
甲斐国(現山梨県)笛吹市一宮町、特に往古の八代郡は、旧石器時代~縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良時代、平安時代、中世にわたって、里人が活動した集落、墓地、田畑、資源の採掘場など古墳や遺跡は現笛吹市内で733遺跡が登録されており、現在も発掘が続けられています。甲斐古代文化の伝承遺産が数多い”古代ロマン”の郷”です!
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閑話休題ですが・・・、
現在の”一宮”は、”日本一の桃源郷”として有名なところ!
山梨県は”桃の出荷量日本一”を誇る地域です。
桃の収穫量は、4万7,900tで、全国の35%を占めています。第2位福島県21%、長野県12%です。平成22年山梨県農政事務所統計。
山梨県内の桃生産では、ここ”一宮”を中心に笛吹市が出荷量1番を誇っています!
特に”一宮の桃””春日居の桃”は、山梨県内の四大桃源郷を代表して、ブランド化が進んでいます。
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「甲斐国一宮浅間神社」の社伝では・・・、
現、摂社「山宮神社」が、旧社地で、本宮であった。
垂仁天皇8年(紀元前20年)正月、神山(富士山)の麓・・・、現現在の「一宮浅間神社」本社から東南2kmの清流山宮川の水源神山の麓にあり、千古の老杉二本が神木として連立している。現在は、一宮浅間神社の摂社「山宮神社」として、大山祇神(おおやまつみ=山の神で木花開耶姫命は娘)と天孫瓊々杵命(ににぎ=天照大神の孫)が鎮座して、静かに一宮桃源郷の里山を守っている!
※参考 http://asamajinja.jp/yamamiya.html
往古の神社の歴史は、景行天皇の御代、日本武尊の時代、全国に神社がより多く誕生した時代と云われるが、山宮神社(現摂社)の鎮座は、それより昔の話、倭国と云われた紀元前の話だと云われるので・・・、驚きです!
現在の「一宮浅間神社」は、今から1146年前、第56代清和天皇御代貞観7年(864年)に富士山の大噴火があり、翌年(865年12月9日)、本宮「山宮神社」より、御祭神”木花開耶姫命”を現在地に遷祀されたもので、朝廷が重要視した「延喜式神名帳」に記載された式内社(名神大社)。平安時代末期より、「甲斐国一宮」とされた。
※明治4年5月14日、国幣中社に列格。戦後は、別表となった神社。
注)他にも浅間神社は、西八代郡(市川三郷町高田)の現村社”市川一宮浅間神社”や”河口浅間神社”、そして”富士山北口本宮浅間神社”などがあるが、甲斐国一宮は、諸説あるらしいが、この笛吹市一宮の浅間神社だとされている。
※一宮(いちのみや)とは、平安時代、国司が任国赴任の際、最初に拝礼(国司神拝)した神社。
※ちなみに”二宮”は美和神社(笛吹市御坂二之宮)、三宮は玉諸神社(甲府市酒折)とされている。
甲斐国一宮浅間神社”一ノ鳥居”は、甲州街道の旧甲斐国の中心地を象徴するかの如くそびえる!
隋神門※由緒ある神社と皆が知っているので、初詣はこんな行列!
・垂仁天皇8年(紀元前20年)山宮の地(現摂社山宮神宮)に鎮座。
・富士山を御神体として仰ぐ。
・駿河国一宮富士宮市の浅間大社に次ぐ古社、甲斐国一宮である。
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・御祭神は、木花開耶姫命(このはなさくやひめ)
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木花開耶姫命は、秀麗な富士山の神。大山祇神(おおやまつみ)の御女(娘)で、また御名を吾田鹿葦津姫命(あだかあしつひめのみこと)、また、桜大刀自命(さくらおおとじのみこと)とも呼ばれる。
天孫瓊々杵命のお妃として、皇室の始祖大御母と仰ぎ奉る大神である。大神は、木の花(桜花)の咲き映える如く艶麗優美の容姿で、しかも考順、謙譲の美徳をもって天孫にお仕えして、貞節、至順、国土経営に尽くされた内助の功も極めて大きく、今日の日本の基礎を築かれた功徳は永く日本女性の規範と仰がれている!
甲斐国一宮浅間神社境内図 「ichimiya_asama_jinja_map.pdf」をダウンロード
初詣!周辺の里人はもちろん、観光バスの初詣ツアーも人気のようで・・・穴場初詣のはずが・・・、こんな里山まで・・・、少々ビックリです!
日頃は静かな果物の里が・・・、まるで、”天孫降臨”のような賑わい!
拝殿への参詣は6列の長い行列。それでも約20分・・・穴場です!東京の明治神宮に比べれば、木花開耶姫命には、優しいホスピタリティもある!この拝殿の奥に弊殿と本殿がある。
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”一宮浅間神社”には・・・、参拝者思いの優しさがある!
境内には、”夫婦梅”が子宝と安産の恵み、”祓門”をくぐると厄払いの”十二支石像”、平穏を祈る”富士石”、そして”成就石”から本殿の木花開耶姫命と富士山に向いて拝むと、より安堵のご利益に恵まれると・・・、優しい気配りがある。・・・結構、こんな気配りが今の神社にも必要かも・・・!?
夫婦梅と十二支石像の”辰”
夫婦梅は、花が12月下旬から咲き始め、2月中旬頃満開になる。花徑は2.5cmの紅色の八重咲きで、雌しべが2本あり、果実は1本の雌しべが実を結ぶので、一花で二果を結ぶ珍種。二つの小房がピッタリくっついたまま結実するので、夫婦梅と云われて縁起が良いのだそうだ。
安産祈願や子授祈願に参詣する若夫婦も多い。優しさを代表するこの”夫婦梅”・・・!
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甲斐国分寺、甲斐国分尼寺跡は・・・、大正11年国史跡指定!
741年聖武天皇が発した「国分寺建立の詔」により建設された国営寺院!
甲斐国分寺(かいこくぶんじ)の正式名称は金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、甲斐国分尼寺(かいこくぶんにじ)は、法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)と云われる。
甲斐国分寺跡は、一宮町国分に、甲斐国分尼寺は、一宮町東原に、約500m離れて位置している。二寺とも御坂山塊の谷間から北西に流れる金川の右岸扇状地にあり、西に甲府盆地中央部を望む緩傾斜地の上にある。※国分寺の解説は笛吹市教育委員会資料による
◆国分寺跡 南北330m、東西255mの遺構跡 国分寺・国分尼寺跡の現地標示
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再興された”護国山国分寺”は、現役の臨済宗妙心寺派!
この再興された寺院建築は、美しい寺院建築だ!一見の価値あり!
741年に聖武天皇の勅命で建立された国分寺の一つ。
”行基上人”による開山。
「政事要略」に938年(天慶元年)に堂舎破損の記述。鎌倉時代建長7年(1255年)には諸堂兵火にあい、その後修理されたが、室町時代に衰退。
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武田信玄が臨済宗の寺として再興した。勝頼も寺領を寄進し、快岳周悦(勝頼の叔父)を中興の祖とする。天正10年、快岳周悦は勝頼の自害首がさらされた京都から歯髪を持ち帰って供養している。
境内には、江戸中期の薬師堂、本堂、鐘楼門、江戸末期の庫裏があり、下部に天平期の伽藍跡を留めていたが、史跡整備に伴い2005年より、建物を解体し、南方300mほど離れたところに移転、再建されたものです。
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甲斐国分尼寺(かいこくぶんにじ)※昭和24年国史跡指定
国分寺は、男性僧のための寺だが、国分尼寺は、聖武天皇の「国分寺建立の詔」において、女性のための尼寺を建てるように勅命されたもので、歴史的に、倭国大和~奈良、平安時代、女性も重要視された証が国分尼寺だ・・・!?
・僧寺跡北500mのところにあり、南北に並ぶ、金堂跡と講堂跡の礎石と基壇が残っている。
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平成元年に、遺構は約180m平方と確認され、平成2年の調査で、金堂跡中軸線から西約57m離れた地点に南北に遺構が発見、平成6年には講堂跡北80m地点で東西に築地塀跡が発見、平成13年、中門周りの土地を除き、全地域が追加指定されています。笛吹市教育委員会資料
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つづきは・・・、四方山話(よもやまばなし)・・・
国分寺・国分尼寺とは・・・?
ブログ公開の”国分寺、国分尼寺の世界”では、続日本記巻第十四の内容が紹介されている・・・。
「前略・・・天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしひらきとよさくらひこのすめらみこと=聖武天皇)が詔(みことのり)した・・・」と云う。
「・・・この頃は、田畑の稔も豊かではなく、疫病も多い。・・・そこで、広く人民のため、大きな福があるようにしたい・・・」と。
・・・仏教寺院の普及伝播を通じて、窮地を乗り切ろうと・・・!?
天平13年(741年)3月、聖武天皇より「国分寺造営の詔」が公布された。
詔(勅命)では・・・、
①全国に七重の塔を造営、併せて金光明最勝王経と妙法蓮華経を書経させること
②必ず良い場所を選んで、真に永久たらんとすべし
③僧寺には、封戸50戸、水田十町を施し、僧20人を住まわせ、寺名は金光明四天王護国之寺とする。尼寺には水田十町を施し、尼10人とし、寺名は法華滅罪之寺とするように指示している。
実際、一度の詔(勅命)では、財政的に疲弊した地方国司を動かすことはできず、天平16年、19年、天平勝宝8年(756年)の聖武天皇一周忌になるまで、督促や催促がされていたらしく、天平宝字3年(759年)には、国分寺・国分尼寺図面まで配布をされている。それほど、建立は順調に進まなかったらしい。
どうやら・・・、地方の出先といえる国営寺院の配置ができるまで、約20年の歳月を要したようだ!?
しかし、律令体制が衰退し、官による財政支持がなくなると、国分寺体制は大きく廃壊して行ったようだ。民衆の支援が得られなかったのは、護国の寺であったことと課税と労役を庶民に課したことが最も大きな原因らしい。一方、その頃から普及し始めた中世仏教は、庶民に対して食物や住む処を与え、灌漑用水を造り、川には橋を掛けることなど支援して、庶民に親しまれ、庶民個人の安堵(幸せ)を探究する仏教寺院が普及することで、人々の心は大きくシフトしていったようだ。
注)中世以後も、相当数の国分寺は、当初の国分寺と異なる宗派、あるいは性格をもった寺院として存続し続けたことが明らかになっており、国分尼寺は再興されなかったが、後世に法華宗などで再興されるなど、現在まで維持している寺院もある。
武田信玄により再興された”一宮の臨済宗妙心寺派護国山国分寺”は、中世再興の一例!
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”甲斐国分寺・国分尼寺が、甲斐”国府”の近くで環境の良いところが選ばれたとしたら、”国府”は、何処にあったのだろうか!?
往時の甲斐国府は・・・?
甲斐国府は、未だに遺構が発見されていないので、特定されていない!
「和名抄」には、「甲斐国府在八代郡」とあるらしく、現在、笛吹市御坂町国衙として地名として残る旧東八代郡御坂の「国衙」地区にあったとされる説が最も有力らしい。
そうすれば、現在、発掘確認されている国分寺跡も、御坂道筋に国府があったと推定される国衙に近い位置、国府の近くに選ばれた国分寺の適地として選ばれたとしても不思議ではない。※筆者独断
一方、笛吹市春日居町国府説もあるが、こちらは、旧山梨郡であるので説得力に欠ける。しかし、春日居町史によると、「和名抄」に、「国府は八代郡に在り」と見られる国府は御坂町国衙であったとして・・・、その移転前に甲斐国府が置かれていたところは春日居だと考えている。何故なら国府関係施設跡や条理制の地割も確認されているとしているからだが、確定的な官衙施設の遺構は未発見なのだそうだ。
「甲斐国府」はどこにあったのか?興味はつきないが・・・!?
春日居国府の隣、寺本には、発掘調査で明らかになった甲斐国最古の仏教寺院とされる「寺本廃寺」と云う遺跡があるし、往古は官庁の役割をしていたと推定されている。
注)「寺本廃寺」は、発掘調査で確認されている甲斐国最古の寺院と云われるが、山号寺号、由緒不明。勝沼レポートで紹介した甲斐国社記・寺記にも載るもっと古い寺があるが、筆者は、専門家や学芸員ではないので省略する。
隣の山梨市には”日下部”と云う国の機構を示す地名も残っており、春日居地域が甲斐国の中心的官庁所在地であった可能性も高い。専門家の発掘調査で、何時の日か解明してもらえるだろうが・・・!?
※現在も旧東山梨郡エリアを所管する警察は、”日下部警察署”であり、ここ甲州市塩山警察署も、日下部警察署塩山分庁舎であって、往古の名残りであろう。
現在の笛吹市から山梨市のあたりは、最も古代甲斐国の歴史の中心であったことには違いないようです。この調子では、なかなか”北杜”や”河内”まで行けそうにないですね!まだまだ、つづきます!ご期待下さい。
いつも云うように「解明されない謎や伝説も旅のロマンなので、謎のままも良いではありませんか!?伝説に係わる地域の里人が信じて暮らすことにも夢があります!
今回は、また歴史の話になったが、山梨は、美しい自然の景色を求めて歩くと、必ずや古代から中世の歴史に出会います。やはり、甲斐国の歴史への興味は欠かせない往古の里山なのです。
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