新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

「現甲州市「旧於曽鄕」を辿る!@塩山上於曽に「塩山向嶽寺」が開山21-04

2021-04-01 | 山梨の魅力再発見!

「塩山」の地名の発祥・・・、「塩ノ山」でもある!

「塩ノ山」は塩山市街地の中央に位置する孤山。

標高554.7m。旧塩山市教育委員会の解説版は始まる!

甲州に移住して以来、温故知新のため筆者は数々の

古文献や歴史文献を読んだ中で山梨新報社斉藤氏の

「興味深い」文章を見つけた!

それは、古代甲斐國の初代國司”田辺史広足(たなべのふみ

ひろたり)赴任して、巡視に出掛けた時、あまりに

塩山の風景が往時の都の「耳成山(みみなしやま)」に似て

いるので郷愁を感じ、「塩ノ山」南麓に別邸を構

えた。と、云うように書かれていたことを想い出す。

今号は、於曽鄕の象徴「塩ノ山」と南麓に開かれた

「上於曽」を紹介します。


塩山」の名の由来となった「塩ノ山」は古都の風景を彷彿した!?


移住者の新人は、先ず「塩ノ山」へ登り、真面目になって、南麓

に「田辺史広足(たなべのふみひろたり)」の別邸遺跡ないものか探した。

そして、作者(斎藤氏)を訪ね・・・、教えを乞うた!

何と「想像した・・・!」と、有り難く”創作”を教授頂いた!

その時、温古の勉強をするには証しばかりが全てではいことを学び、

移住地(甲州市塩山)の興味の範囲を大幅に広げていった次第!


現在甲州市塩山上於曾にある「塩ノ山」の名前の由来は諸説あるが、

平地にポツリとあるので「四方から見える山~しほうのやま」が、

語源として定説と云われている。

さらに天授6年(1380)抜隊得勝(ばっすいとくしょう)禅師が向嶽寺(庵)

を開山した際、「しほのやま」に「塩山」の字を充てた音読みの

「えんざん」を山号とした。注)往時、南朝は天授6年、北朝は康暦2年。


「古今和歌集」に「志ほの山差出の磯に住む千鳥君が見よをば八千代

とぞなく」と歌がある。そのために宮廷歌人にとっては、塩ノ山と

差出の磯(山梨市)は「桃源郷」のような理想郷の如く扱われ、

多くの歌人が好んで引用した地名となり・・・、全山を覆っていた

赤松は天然のもので、学術上価値が高いものである。

この赤松林をぬってハイキングコースが設けられており、四季折々

の風景を楽しめる場所となっている。※平成13年9月塩山市教育委員会


向嶽寺の山号となっている塩ノ山山頂から臨む甲府盆地と南アルプス方面


塩ノ山の南麓に創建された臨済宗向嶽寺派本山「塩山向嶽寺」!


歴史を語る総門、中門、仏殿、大方丈、庫裏、禅堂等が堂々の全景!

写真左一番手前の「仏殿」は、天明6年(1786)の大火災後・・・、

再建された建造物で、「由緒記」によれば「合棟仏殿開山堂」、

号して「祥雲閣」と記されているよう。

東側に昭和42年(1967)再建の庫裏。

そして、平成9年(1997)方丈、書院の再建。

平成2年(1990)に発掘調査が行われ、ほぼ原型に近い状態で発掘、

修復工事が行われ、平成6年(1994)国の名勝に指定されました。

※嘗ては、石に沿って水が流れていたようです。

※山梨県に残る古庭園の典型として学術資料としても重要視される。

※甲州市発掘調査報告書より、普段、厳粛に修行中の本山にて拝観ができない。

方丈(本尊は京の大仏師江里康慧師作の聖観世音菩薩像が安置されている)庫裏、書院

(平成9年落慶)※筆者は国文祭の時、唯一拝観したのみで、建造物内や古庭園内は紹介不可。

 臨済宗黃檗禅の公式サイトにて明らかなことのみ紹介。


「塩山向嶽寺」:開山の抜隊禅師は、永和4年(1378)に武蔵横山

(現八王子)より甲斐国に入り、竹森(塩山寺平)に草庵を建て、約2年

にわたり庵居していたが、あちこちから道俗が集まり、その中の

昌秀庵主というものが、時の甲斐国主武田刑部大輔信成公に請うて、

塩山の地を寄進され、天授6年(1380)正月20日、竹森から塩山へ

移り開山されたと云う。

「伝匠社=石川工務店」HPによると・・・、

「向嶽寺」は、臨済宗にあって大本山の一つ。・・・、

「向嶽寺」と言う寺名の通り、富士山を真南に仰ぐ、宗教的な立地

にあり、方丈から仏殿、三門、中門に到るまでの建造物と参道は

一直線に富士山へ向かって並んでいます・・・。とあるのは、

近燐随一の宮大工「石川工務店」HPの書出しです。

「近年、その伝匠社により「総門」の復元工事が施行され、風格

蘇った。注)その一番表にある総門だけは、富士山に向かう方向

から僅かに西にずらしてありますが、これは富士山に対する畏怖

の念の建築的な現れでしょうか。この大きくて豪快な仏殿は約200

年前、文政年間に弊社一族石川源三郎により建造された。

火災で重層部分の屋根が焼失したのを大正15年2代前の社長石川

孝重が修復し、今回の大規模修繕を経て、現在に至っています。

屋根の隅が下がって波打っていたのを直し、屋根の軒の照りの強い

禅宗らしい屋根が蘇りました。※臨黄ネット塩山向嶽寺より

http//goo.gl/Oq×Ug


平成12年春に国文祭記念で公開された時の「合棟仏殿開山堂」

このように「向嶽寺」は門前に「伝匠社:石川工務店」の宮大工が

歴代続いてこそ現役を続けて残せているのであろうと考察、感謝!

宮大工は、山梨県内でも競合は僅か!勝ち抜いて欲しい「伝匠社」!


「塩山向嶽寺」の中門、http://www.rinnou.netには、

総門が行く手を遮ります。・・・と記されています。


復元された塩山向嶽寺の「総門」!・・・少しだけ西にぶれている!


向嶽寺は開創以来、幾度も火災に遭遇したが中門」は残った!

室町時代の建造物で、禅宗様四脚門の代表的遺構として「重要文化財」

の指定を受けている。

檜皮葺き(ひわだぶき)で、彩色や装飾要素がなく、入り妻屋根の

簡素な造りです。この門の東西には、漆喰製、瓦屋根の築地塀が配

されています。

由来によれば、この付近の岩塩から「にがり」を作り漆喰に混ぜて

築地を強化してきたと伝えられ「塩築地」とも称されています。

主要建物が南北一直線上に配置されている伽藍の配置上、見透かし

を避けるために設けられたものと考えられ33.5mあります。

・・・、と臨済宗黃檗禅 公式サイト「塩山向嶽寺」の項にある。


近年、整備された室町時代の風格がある「中門」※重要文化財!

注)「中門」は室町時代の四脚門切り妻造り。重要文化財。


最近、「伝匠社石川工務店」によって復元された向嶽寺の「総門」


往古の歴史を語る「塩山温泉郷」

塩山向嶽寺の開山抜隊禅師が開いた「塩山温泉郷」の老舗「廣友館」


塩山向嶽寺開山の抜隊禅師が温泉源を

発掘したと伝わる往古の「塩山温泉郷」


あの有名な武田信玄ですら”高祖”と崇めた時の領主武田信成公の帰依

を得て、天授6年(1380)に抜隊得勝が開山した。

諱号は「慧光大円禅師」。天文6年(1547)武田信玄の上奏により朝廷から賜る。

また山麓に湧出する鉱泉「塩山溫泉」は、抜隊得勝が熊野権現の

霊夢により発見したと伝わる。

今、「塩山温泉郷」は、古く、寂れてきているが・・・、

もともと塩山の南麓に沸き出でた「塩山溫泉」の歴史そのもの!

現在、広報では4軒見えるが、どうやら3軒は存在する。

その主たる旅館は、写真の「廣友館」明治時代に建造された建物。

とても往時の溫泉らしさが残る「湯元」でもある。はす向かいに

ある「宏池荘」は経営者夫婦は高齢、どうやら閉まっているみたい。

筆者の友人が嘗て泊まったことがあるが、その時、「長く続きそう

にない旅館」と聞いていたが、歴史の変遷なのか・・・!?

従って、現在、下記3軒が塩山温泉郷を代表する旅館になるのか!?

①廣友館、②ゆばた、③中村屋旅館(本町商店街筋にあり、江戸末期

に商人宿として礎を築いてきた旅館で180余年の歴史を持つ。最近、

市の指定文化財にしてされた!)※筆者のお薦め旅館の一つ。

往古、最盛期には30軒くらいあったらしいが、移住した10年前は7軒

の旅館が競っていた。全てが古くなり、歴史の宿命を辿ったか!?


「塩山溫泉の基本情報」によると・・・、

「JR塩山駅より徒歩で約15分、小中規模の湯宿が点在するこじんまり

した温泉地。街を見下ろすように構える「塩ノ山」は「古今和歌集」

はその名が登場する宮廷歌人憧れの地・・・と宣伝PRされる。


泉質はとろみがあり、ほんのり硫黄の香りが漂う硫黄泉・・・!

滑らかでしっとりと馴染むような湯さわりであるとPRされている。

是非、立ち寄り湯もOKなので、試してみられたら如何!?

効能は神経痛、疲労、胃腸病、冷え性、皮膚病、貧血などと表示される。

アクセスも良く、散策の起点として理想的な場所にあり、お薦めです。

施設は古くても、”昔ながらのもてなし”を楽しむのも、また一興です。


 

コメント

「於曽屋敷跡」と甲州市塩山を辿る@往古、塩山の中心地は「於曽鄕」!21-03

2021-03-01 | 山梨の魅力再発見!

現「甲州市塩山」の歩みを辿ると・・・、塩山の中心地に

往古、「於曽郷」と云う地名があった・・・

「於曽鄕」は塩川流域の現上於曽、下於曽一帯に比定。

「和名抄」記載の山梨東郡於曽鄕を継承したとみられる。

隠曾、尾曾、小曾とも書く。注)「大日本地名辞典」によるとそのように解説される。

注)現在、甲州市塩山の中心地(旧於曽鄕は、特にバイパス沿線に大規模店舗が

出店して、マイカー時代と共に、近代化が進んでいるが、勢いは感じられない。

人口減少の性もあるのだろうが、中途半端に、歴史遺産や自然遺産を残しながらの

発展も悪くない。だが計画性だけはあった方が良い。

甲州市はそれなりの努力はされている。

今更ながらと思うこともあるが、力ない高齢者はなすことなく、傍観している現状!

大自然が気に入って、適度の都市機能があり、気に入って選んだ移住地であるが、

どうやら、地元の若者達や都会との交流があるビジネスマン達は、更なる都会化

臨んでいることは違いないようだ!何かがすれ違っているのかも知れない。

一方で再開発によって、歴史遺産や自然破壊をしていることも事実で、全国的な

難題でもあるが、更なる工夫と知恵を必要としている!

旧商店街と新開地は写真掲載を省略するが・・・、全国共通の浮沈をしている。

しかし、町並みは施設が作るのではない。住んでいる人々が作るのだと思います。

かつて若い頃、首都圏人を誇り思っていたこともあるが、豪州生活を数年経験して

目覚めたことがある。それは、「町並みの発展は、施設ではなく、人であることだ。」

少しだけ残念だが、首都圏に比べれば、新旧が入り交じり、大自然も美しく残る 

その良さを、老若男女皆で、せめて維持したいものです。

今号から「於曽鄕」を中心に発展した、甲州市塩山の

「塩山上於曾、下於曽」をシリーズに分けて紹介します。


現、甲州市上於曽の象徴、古来から都でも有名だった「塩ノ山」かと思いきや!

この美しい町並み風景は、象徴の上於曽「塩ノ山」の南麓に開けた塩山

上・下於曽!古代豪族三枝氏の系譜を引くと見られる三枝守継が当地に

拠って於曽(隠曾)氏を称した。※「甲斐国志」によると、平安時代末期に

甲斐源氏の一族「加賀美遠光の四男光経がこの地に拠して「於曽氏」を

名乗り、「於曽屋敷跡」はその館跡とされている。※大日本地名辞典「塩山市」の項。


現在の甲州市塩山の中心地は、栄枯盛衰で町並みが変わっている!

「和名抄」によると、古代豪族三枝氏がこの町に拠を開いたと云われる。

その後、平安時代末期、甲斐源氏の一族、加賀美遠光の四男光経が

於曽氏」を名乗って、塩山の町並みが形成されていったと考察される。

本「シリーズ」は、現甲州市塩山の歩みを説くまでには行かないが・・・、

その塩山の歴史の源になったと思われる「於曽鄕」を辿って見たいと

思っています。注)現在は至る所が再開発されて、都会化されている

ので、少し残念なところもあるが、時代の趨勢でやむを得ないか!?

昔の面影を探すのは困難だが、諸文献や諸資料を頼りに、少しでも、

温故知新の精神で、遡って、辿ってみたいと思っています。

そのためには、先ず、歴史の由緒にでてくる地名「於曽鄕」のルーツと

云われる「於曽屋敷跡」を尋ねて見る。


「甲州市」も昭和38年9月9日、山梨県指定文化財(史蹟)として保護された

「於曽屋敷」跡を「於曽公園」として開発整備して、このように整備されて

いるので改めて紹介します。JR塩山駅から約10分の所に「山梨県第一号

で文化財指定されたお陰か!?」 これほど価値ある文化財並びに自然

保護がされたことは「文化財保護法」の有り難みを知らなければなるまい。


最近、「於曽屋敷」跡の一部を甲州市「於曽公園」として

公開!於曽屋敷の土塁跡等歴史の面影を残し、美しく

整然とした公園として公開(地域住民の避難場所にも)

されているが、若者達の憩いの場になると良いが!?

果たして若者達は「於曽公園」がJR塩山駅から僅か徒歩

10分程度の環境にあることを知っているのだろうか!?

都会よりの移住者としては、改めて認めて欲しい処です。


近年、新設整備・公開された甲州市塩山の中心地、於曽屋敷跡の「於曽公園」

「於曽屋敷(於曽公園)」は、一辺が100m程の方形の区画で、二重の土塁

よって囲まれた屋敷跡です。土塁は「内土手」、「外土手」とよばれ、北辺

では外土手が残っており、東、南、西辺では「内土手」が現在も往時の姿を

留めています。しかし、近世以降に内部で大規模な造成が行われたため、

現在の風景は中世以前のものとは少し異なっているようです。

「於曽」という地名は、平安時代(10世紀前半)に成立した『和名抄』に山梨

に10ある郷名の一つとして数えられており、非常に古くからある地名で

あることがわかります。於曽氏の祖は、古代豪族の三枝氏から分かれた

「隠曾之介守継」とされ、後に甲斐源氏である加賀美遠光の子光経

(於曽四郎)、光俊(於曽五郎)がこの地を支配しておりましたが、於曽屋敷

は光経(みつつね)の屋敷として伝えられています。

町~戦国時代には板垣氏が支配しておりましたが、天正10年(1582)

武田家滅亡の際には、織田勢の攻撃を受け、板垣権兵衛がこの地で

自害したと伝わっています。※記現地解説版による。


落ち着いた静かな公園の駐車場とトイレ施設も広々・・・、整然と・・・。


平成28年度に於曽屋敷跡の発掘調査がされ、公園が再整備されたので綺麗!


土塁等もそのままの姿で保存されて、塩山の中心部では貴重な史蹟である!


希少な土塁を公園施設で残して、ぜひ、未来永劫に継承して欲しいもの・・・!?


現広瀬家の門、往古、「於曽屋敷」は1丁四面(約1万平方㍍)の広さを有していた。

「於曽屋敷」は重の土塁をめぐらせ、内土手と外土手の間に川の流れ、

有事の際は「濠」としたものと思われる。

広瀬家の口伝によると、於曽鄕一帯を領有していた「於曽氏」も、うち続く

戦乱により、館を焼き、一時、萩原山に潜んでいたが、徳川幕府の甲斐

の国に対する懐柔政策に安心し、再び当屋敷に戻ったのであるが、旧姓

「於曽氏」を名乗ることは遠慮し、母方の姓である「廣瀬」を名乗り、百姓

なった。以後、屋敷内には武士たる祖先を祀り、・・・今日に到った。


「於曽屋敷」

当屋敷の西北端に、始祖於曽四郎経光の墓がある。

当屋敷の東北隅に於曽氏を祀る社堂・・・。

当屋敷東南50mの所に於曽・・・家臣板垣権兵衛の腹切り石がある。

尚、昭和49年21代当主廣瀬久忠氏により、屋敷の2分の1余りが塩山市

寄贈され、現在「於曽公園」として公開されている。※廣瀬家門解説版。


現在はJR塩山駅になっている「於曽五郎の屋敷跡注)甲斐国志は三郎屋敷。

現在の地名は塩山上於曽になるが「於曽五郎光俊屋敷」は、現JR塩山駅

の場所にあったようだ。明治時代国鉄塩山駅が開設される時、広い敷地

が活かされて文献も何も残されることなく消去してしまって今は石碑もない。

地元の人も殆ど知らない。注)そう思うと、各役所の文化財保護に努める

方々の有り難みがわかるような気がする。

「甲斐国志」にも記載があるようで、「於曽三郎屋敷(跡)」となっているが、

実際には、「於曽五郎光俊の屋敷(跡)」として「四郎、五郎」兄姉で於曽を

領有していたようだ。「甲斐国志」には「於曽三郎屋敷」と記されるので、

誰も証さない(否定しない)ので、「!?」が多いが・・・!

実際には「五男・於曽五郎光俊」の屋敷として置かれたことを知る人は知る。


「於曽屋敷」跡「於曽公園」の歩みを遡るだけで現甲州市塩山の旧「於曽鄕」

を辿れるとは思えないが・・・、知らない強み(?)を活かして、先ず第一歩を

踏み出すことにした。次号から、この地域をシリーズにして、由緒ある処の

歩みを辿って紹介する予定です。


 

コメント

甲州市の北端:塩山「平沢」の郷を辿る!21-02

2021-02-01 | 山梨、里山の美しい四季!

初めて、甲州市塩山「平沢」を訪ねた!

昨一年間、ブログ発信した~旧「松里」を辿る~シリーズで、

「滑沢」を訪ねた時、そこで「坂脇峠」1190mが在あることを

知り、そのを越える「平沢」村に繋がることを知った!

その時は「滑沢」の取材だけにし、「平沢」歩きは延期した

昨年秋に取材し・・・、塩山「平沢」は、気になっていた!

「滑沢」集落は江戸時代に”鈴庫山等の鉱脈を探していた

山稼の人達が築いたのではないかと考察されたが・・・、

この「平沢」集落も、古くは同じように築かれたのでは!?

と・・・、一度、探訪して見ることにした

家内も同行すると言うので、運動を兼ねて自転車で往復!

もちろん、上りはキツい坂を歩いて、下りは楽々だった!

今号は甲州市に移住して以来、今も尚続く山梨の探訪!

”新甲州人”が初めて探訪した「塩山・平沢」を紹介します!


塩山玉宮の「平沢村」も甲州市域!自然のままの長閑な里であった!

甲州市(264.11k㎡)塩山玉宮平沢の長閑な里は、今も自然豊かな里!

この山の先に竹森山(=別名水晶山)がある。現塩山竹森1425番地に

現在、雨宮慎一氏所有の通称「水晶山」は、葡萄畑の中に「立入り禁止」

の標識と竹森水晶産地の概要を記す看板が表示されていると云う。

ここでは、歴史記録や伝承が残っている話だけを学ぶことにした。

標識には「特に明治5年(1872)、藤村紫郎知事の就任により開発が

進み、先代故雨宮大吉氏の代に盛んになり、「滑沢」と同じく・・・、

江戸時代には先陣の山稼が集まって、集落を形成したと考察できる!

特に明治5年以降、水晶山の開発許可が出て以来、平沢集落は盛ん

なったようだ!

何度も尋ねた福生里の北奥に位置~玉宮の「ザゼンソウ公園」の直ぐ、

上だったのに、今回、初めて尋ねることになった里山です!


この地に小倉山(954.8m)があり、山麓に「ザゼンソウ公園」がある。

園内の解説によると、名前の由来は「毎年2月頃、ザゼンソウは咲き、

その名の通り、仏炎包という大きな覆いの中小さな花が密集して咲く

姿が”僧が座禅をしているように見える”ことからです。また幸福を呼ぶ

縁起の良い花とも云われている。開花する時、発熱し自ら周囲の積雪

解かすため、早春にいち早く見ることができる。」※甲州市解説版記。

花好きの家内と運動を兼ねて何度も自転車(上り約3時間、下り1時間)

を漕いだことがある。JR塩山駅から路線バス「玉宮」行が運行されてる。

バス停から歩いて5分くらいなので、一度はバスで行ったこともあるが、

登山スタイルで行った時は、小倉山々頂の展望台に登ったこともある!

小倉山とザゼンソウと小倉山の大展望は、古いバックナンバーだが・・・、

「43)春一番、割って開花する甲州・玉宮のザゼン草!」2013年3月号、

同号「15)小倉山と玉宮ザゼン草群生地の里山ハイク」でも紹介している。

冠雪の南アルプスと富士山が一望の素晴らしい展望台を紹介しています!

写真もバチバチ撮った!自転車でも数回行った!往路は上り坂で約3時間、

帰路は殆ど下り坂!車も少ない・・・、自転車も1時間の快適サイクリング!


元気な家内と竹森へ!今、竹森は、”蛍の再生”を目指している!

背景にある「玉諸神社の旧鳥居」は、塩山竹森の中心地に至る目印です!

竹森の「玉諸神社」は、現「玉宮小学校」、「JA」等、玉宮の中心地にある。

朝、往路、その玉宮小学校の元気な登校途上の子供達にも出会いました!


地名「玉宮」の語源と云う現在の「玉諸神社」本殿・・・!

この「玉諸神社」は、古代より石器として用いられた水晶(六角柱状結晶)

を祭神とする神社で、上竹森と下竹森の境近くにあり、玉宮村の象徴で

もあった。江戸時代末期までは「玉宮神明神」と呼ばれ、神体が水晶の

玉石であることで知られている。室町時代中期の第14代甲斐守護武田

信重が「神垣にかかやく玉の光をそ身の行くすえにかけて頼まん」「跡垂

れし神の恵みも世にしるく玉の光の数そそひゆく」と、社記に伝えている。

当社、奥宮のご神体も水晶の結晶であった。勧請の寺記は不詳だが、

新羅三郎義光によって社殿が造営され、文安年間(1444~49)に、

第14代甲斐守護武田信重によって再建されたと云う。※伝社記。

江戸時代は、竹森、福生里(ふくおり)二村の鎮守。社中は1200坪。

東の竹森山(水晶山)の中腹に奥宮があった※記甲斐国志

※奥宮は、現在、雨宮氏により私有されているので、立入り禁止域。

考察すると、社記にある新羅三郎創建となれば、平安時代後期には

創建されていた由緒ある「玉宮明神」、現在の「玉諸神社」である!


玉宮の「高森院」、塩山「向嶽寺」の伝開山抜隊禅師が庵を開いた?

この「高森院」は、”抜隊禅師”が結んだ”庵”とは異なるが・・・、以下の項に

往時の庵跡は、現在は地名「寺平」のみで、平らな雑木林が残ると解説。

臨済宗向嶽寺派開祖とされる”抜隊得勝”は、俗世は「藤原氏とされる。

天平13年(1358)、出雲・雲樹寺の弧峯覚明(三光国師)に印可を受る。

塩山竹森に庵(向嶽庵)高森の草庵には不便もあり、弟子の周旋で・・・、

第11代甲斐守護武田信成の寄進を得て、旧蹟庵から移転し、康暦2年

1380)「塩山向嶽寺」を開き、臨済宗向嶽寺派の祖と位置づけられる。


塩山平沢の長閑な里の風景!中央に見える赤い屋根が「法泉禅寺」!

「平沢」は、この写真のように・・・、長閑な風景の郷である!

写真中央部に見える赤い屋根の建が、臨済宗向嶽寺派「法泉寺」

注)塩山向嶽寺の開祖と崇める抜隊得勝(ばっすいとくしょう)

禅師は、平沢地区域の現ざぜん草公園に至る道の途中手前に、

「①乞食岩、②休息石、③達磨石、④富士見石、⑤寺平「旧蹟

”庵”の跡は、平らな雑木林。現在の所有者は広瀬博氏」と・・・、

昭和52年4月玉宮の高森院檀徒一同の調査記録が掲示されている。


平沢集落民の菩提寺とされた臨済宗「法泉禅寺」の現在の様子・・・!

現在は無住のようで、建物の一部が児童図書館に使用されていた。

塩山平沢655は、「玉宮」終点のバス停から82m、徒歩1分

の位置に有り、「平沢」の中心拠点に相応しいと思った。


船宮神社の鳥居と本殿の全景!

甲州市塩山平沢113にある。随分、寂しいところに祀られていた。

御祭神は、瀬織津姫命。境内地816坪。氏子34戸。

明治12年の神社明細帳によると「勧請不詳、正徳卯年松平甲斐守検地

の時、免畑八畝二六歩寄附、享保元申年社宇再建。明治3年社領上地、

同7戌年3月、村社に定められる。また神社名は船宮神社」と記載される。

今は、あまり里人も訪ねないようだ・・・!?


船宮神社の本殿!

甲州市塩山平沢113の「船宮神社」は、以前「玉宮ざぜん公園」に行った時、

平沢地区の散策図に見たので、初めての山道を散策する感じで歩いて見

たが、わかり憎く、寂しい処にあった感じが印象に残っている。

この境内地に、「山梨県天然記念物指定の大ヒノキ」がある。


現在は殆ど使われることがないと言う、平沢村「公民館」・・・!

近所の方に伺うと「今は平沢公民館は使うことがない」と云う話であった。

有効利用できそうな建物に見えたが・・・!?どうやら、明治時代以降、

平沢地区が栄えて、塩山市に合併された頃、備えられ、昭和時代にも

立て替えられたようだが、今は時代を経て、集会は殆どなくなったよう!


「平沢」集落には、道祖神が3箇所ある。①「湯原」の二段縁石丸石3個

棒状石1個、②「板屋・上手組」二段縁石内丸石1個、③「清水」切妻唐

破風付石祠内丸石1個が、現在も年初に祀られ、里人に守られている。


「塩山・玉宮」は、古くから、石英の産出地で、「和名抄」でも「玉井郷」と

記載が見える処。石英、水晶等の職人がいち早く住み着いた処で

ないかと言われる。「玉諸神社」は「玉宮明神」と言い、ご神体に高さ

7尺、周り6尺8寸程の巨大水晶を祀ったことから名を「玉宮明神」、

後に「玉諸神社」としたと云う。奥宮は竹森山(水晶山)の中腹に鎮座。

今は、その山麓は、私有の葡萄畑になっていて立ち入り禁止地域だ!


大日本地名辞典では、「平沢村」は塩山市平沢、現甲州市塩山平沢。

福生里(ふくうり)の北、重川の支流、竹森川の上流域に位置し、市域

北端にあたる。元禄六年(1693)には「竹森村之内平沢」※枝郷

として年貢が割り付けられていて、同16年には「平沢村」と記される

ので、元禄11年幕府領になってから、一村として独立したと推定され

ている。

宝永2年(1705)甲府藩領、享保9年以降、幕府領になって家数33軒、

寺1,宝暦10年(1760)には、家数37軒、人数(人口)141人とされ、

山稼は、平沢、福生里、竹森、千野の四ヶ村入会の鈴庫山により、

用水は沢の水に依存したとある。山稼の他、煙草と養蚕があった。

文化年間(1804~1838)には、家数:41軒あり、江戸時代末期には

慶応4年(1868)、家数38軒と減少している。明治8年福生里と合併、

玉宮村となり、その後、変遷を経て、現在は甲州市塩山平沢になる。


※平沢の古老に伺うと、恐らく明治~大正期に大量の水晶を算出した

竹森水晶山の南麓で竹森川東岸の丘陵地にある縄文時代中期の集落

跡「乙木田遺跡」があるように、竹森山(水晶山)とも近く、大量の算出を

した時期もあるので、先祖の時代にはこの地に住み着いたのは山稼が

目当てだったのではないかと伺った。縄文時代中期の水晶加工として

石器工房の跡のようなものが見つかっているので、古代から里人が住

始めたのかも知れない。人類が住み始めた歴史のロマンは奥深い!

その謎は、永久に続くのだろう・・・!


 

コメント

今年も元気です!甲州から明けましておめでとうございます!2021年元旦

2021-01-02 | 甲斐国山梨の初詣

2021年も無事、甲州に暮らしています!よろしく・・・!

甲州に移住以来、甲斐国一宮「浅間神社」へ恒例の初詣!

移住11周年「記念」の今号は、「浅間神社」の初詣風景です!

コロナ渦の最中で、お互いに初詣も気遣いをしながら・・・、

初詣して来ました!甲州へ移住以来、続いています!

甲斐国の一宮「浅間神社」が最も”お気に入り”です!


2021年の始まりです!筆者は「喜寿」を迎えます!

2021年・・・、甲斐国一宮「浅間神社」の鳥居から入り、参道から拝殿へ!

「いつも通り」、自転車で片道約40分、甲斐国一宮「浅間神社」へ初詣した!

風速4m程度の風が少しあったが、快晴の下、家内と自転車で初詣できた!

2021年も「いつも通り」に初詣・・・、来年も「また元気で来たい」と願いました。

筆者は、「甲斐国一宮浅間神社」の初詣が”お気に入り”です。

2021年元旦は、コロナ渦も治まらず、不安定な年明けであるが・・・、

「いつも通り」初詣へお参り・・・、新年を迎えることにした。


2021年元旦は、いつもより初詣客が少ないよう!?

2021年、恒例の元旦初詣!甲斐国一宮「浅間神社」の「随身門」を潜る!

家族全員の健康祈願を第一目標に・・・!

私、妻、息子、嫁、孫2人、娘と婿さん全員の名前を書いて絵馬を奉納した!

2021年元旦は、コロナ渦が治まらないで、まだ増え続けているので、

神社もコロナ渦対策をしていても、例年に比べ、初詣客は1/3程度に見えた。

それでも、皆、マスクをしていて、温和しいが・・・!

神社は感染症対策はしているが、初詣客はどうしても気が緩む・・・!?

特に、あ友達と来た若者達は、つい話が弾んでしまうようだ・・・!


浅間神社の「拝殿」は厳かに!祭神は木花開耶姫命!

2021年元旦、「拝殿」にて健康祈願!コロナ渦の中、参拝客も少ない!?

古来より、崇敬される一宮の「浅間神社」は、厳かな神社である!

拘りの筆者も、つい願い事がしたくなるが・・・!?

夫婦共々元気におられるのも、先ずはお医者さんと、初詣の健康祈願の

お陰だと思って続けています。

恒例の初詣は、その元気の報告とお礼を兼ねてのお参りというのが本音!

今から1156年前、西暦864年に富士山の大噴火がありました。

その噴火を鎮めようと建てられたと伺う!そろそろ噴火が起こるかも・・・!?

浅間神社は、もともと約2.5km離れた「山宮神社」に祀られていました。

西暦865年に浅間神社は建てられました。

祭神の”木花開耶姫命”は、桜に例えられるほど”美しい女性の神様です。

富士山の守護神として有名、安産、子授け、縁結び、農業、お酒造りの

神様でもあります。※地元民に支えられています。

2021年初詣用、甲斐国一宮「浅間(あさま)神社」子供用ご案内を参照!

筆者は元旦毎に紹介していますが、「健康祈願」と「感謝」をしています!


一宮「浅間神社」の”夫婦梅”が咲き始めました!

夫婦梅は「食べると赤ちゃんが授かる」と。見事に、咲き始めていた!

元旦に、はや、梅ノ花が咲き初めている!”開花”はイイですね・・・!

この浅間神社の梅は「夫婦梅」と称し、「山梨県指定文化財」に指定。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、

花は、12月下旬から咲き始め、1月中旬頃、満開になる。

花径2.5cmの紅色の八重咲きで、めしべが2本ある。

果実は二本のめしべが実を結ぶので、一花で二果を結ぶ珍種である。

収穫量は一定せず、二果結実するのも全体の7割ほど・・・。

古来、祭神「木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」の御神徳による

子授けの霊能ありと信じられ、参拝祈願する人がある。・・・と謙虚に!?

花も果実も珍しく、学術上も非常に価値があり、しかも、本県の夫婦梅の

中でも代表的なものとして貴重である。・・・と解説版が掲げてある

山梨県教育委員会 一宮町教育委員会


 

コメント

甲州・旧「松里」を辿る⑪総集編(里山歩きを振り返る)20-12

2020-12-01 | 山梨、里山の美しい四季!

甲州・旧「松里」をつぶさに歩いて良かった・・・!!

不詳が故に謎も残って、生涯学習の宿題になったもの!

移住11周年で初めて訪ねた処や学んだものもあった!

何よりも・・・、新たに真摯な里人との出会いがあった!

2020年は甲州・「松里」をつぶさに歩いてみたことで・・・、

まさに「”人”が暮らす郷里の生活」の”心境”を学んだ!

今号は甲州・旧「松里」を歩いて見た総集編を紹介します。

代表的なものは、やはり「松里」の名を唯一伝える「松里

枯露柿」だとも痛感した!

旧「松里」の中心は、現地名も伝える「塩山三日市場」、

「塩山小屋敷」、「塩山藤木」辺りだと思われた・・・!

筆者に、不詳のため生涯学習課題として残されたもの、

特に、感じたものなどを要約・抜粋して紹介します。


「小屋敷」から”長閑な里”と尖鋭の「乾徳山」を臨む!

この尖鋭の「乾徳山」こそ、名刹「乾徳山恵林寺」の山号となっている!


この「乾徳山」は、名僧夢想国師が若い頃、岩窟修行をしたと伝わる!

「小屋敷」は、写真の右に見える恵林寺山から尾根続きに現在も「滑沢」

まで「塩山小屋敷字滑沢」と広範囲に小屋敷であることに驚いた・・・!


お茶処「一休庵」は”京都大好き”の筆者にとっての憩いのお茶所!

一休庵の創業者は、関西で修行て、”良い味”を楽しませてくれた・・・!

お茶(コーヒー)も美味しい!お茶一杯でも・・・、もてなしてくれる!

山梨県内で唯一・・・!あの京都の寺巡りで味わえる唯一の”お茶処”です!

経営者の八木さん夫婦と星河さんには、とにかくコロナ渦を乗り越えて、

頑張り続けて!・・・と、恵林寺(仏)の御利益を祈るのみ・・・!


長閑な「松里」から臨む「冠雪の富士」は癒やしの風景である・・・!

富士山は、国民の祈りの山、癒やしの山・・・、崇高な山・・・!

筆者は若い頃から登山が好きで、この風景を何度眺めたことか・・・!?

この風景が気に入っていたせいか、今は、朝ベッドで目覚めると・・・、

部屋から、真正面に、富士山を眺めている処に暮らしている!

それだけではない、恐らく、日本で唯一、部屋から「日本百名山が七坐」

も望める処に移住して11周年・・・!ヒッソリ(黙々)と暮らしています!


現甲州市には、「松里」と云う地名は・・・、今は”ない”。

注)本ブログでは、甲州・旧「松里」と称している。

「松里」・・・、地名の起点は「明治時代に『松里村』があったこと」による。

※塩山市史によると、平安時代「和名抄」の「於曽鄕」にもあったようだ。

この於曽鄕の範囲は、旧塩山町、松里、日下部、玉宮、神金、大藤、奥野田

の諸村で、笛吹川以東で重川以北の一帯であると記される。

その後、平安末期から、荘園の発達に伴い、この地域は「牧荘」に含まれた。

・・・と記されるも・・・、随分、昔から「松里」の名は馴染みがあったようだ!

明治8年2月3日、現塩山・上井尻、三日市場、小屋敷、藤木の各村が合併

して「松里村」が誕生。明治23年に下藤木村が合併した。

そして明治41年、旧柚木村の一部であった「滑沢」が加わった。

この時の「松里村」が、今は地名がないものの現在に引き継がれているよう!

村名は、氏神の「松尾神社」からとったもので、残念ながら、昭和29年(1954)、

塩山町(塩山市⇒後に現甲州市)合併したことで、消滅したと言う。

今は、往時の地元農家が、銘品「松里の枯露柿」として、唯一「松里」の名を

継承している。銘品「松里の枯露柿」は、今もブランド品として継がれている。

何故、響きの良い「松里」という地名が消え去ったのか・・・!?忍ぶしかない。


2020年の柿畑(甲州百目柿)は、豊作ではないようだが・・・!

嘗て、「夢想国師の乾徳山岩窟修行の伝説」を学習したことがあるが・・・、

~夢想国師が乾徳山修行で”命の糧”にした乾し柿は”アマンドウ”だった!

”アマンドウ”と云う小柿はいったいどんな柿か?徹底的に調べて見ると、

山梨地方の”方言”であった。標準語は「豆柿」。山梨の歴史書「甲斐国志」

に「信州の小柿は干して食す」と記されているのに、山梨県の地元では

見逃したのであろうと考察している。現在まで気づかないできたようだ。

その結果、解ったことは、松里の殆どの柿農家で「枯露柿」を栽培するのに、

今も「甲州百匁柿」なる柿の木の台木が殆ど自生原種の”アマンドウ”で、

あったので、何故、松里の枯露柿が銘品(美味、滋味)なのか解ってきた。

※山梨県(往時は甲斐国)の殆どが武田信玄推奨の蜂屋柿を移入して改良

されたと云われるが、筆者は「徳和山吉祥寺略記」の「夢想国師と毘沙門天」

に伝わる恵林寺を開山した夢想国師が若い頃(19歳頃)、乾徳山で岩窟修行

した。修行中に出会って、初の弟子にした「道満」が運んだ滋味「乾し柿伝説」

があったので、その乾し柿を辿って見ると、筆者は「松里の銘品枯露柿」の

滋味は恵林寺を開山した夢想国師の導きであったと考察したのだ。

従って、松里の民に奨励したのは、恵林寺開基の二階堂道蘊となり、1330年

以前となると考察している。


この「甲州百匁柿」は、とにかく大きく、「枯露柿」にすると超ウマい・・・!

枯露柿の作り方は、移住して直ぐ、地元の方に教えて頂き、今でも、

我が家の好物になっている!最近は首都圏に住んでい娘家族の処でも

吊るし干しして作っている。家内が教えて作っているが、娘夫婦とも気に

入ってくれているようで、もう数年間、暮れの定番好物になっている。

干してから約40日間を要するが、面白いのは、吊している時のもみほぐし

と、平置きにして、形を整えながら、「コロコロ」と裏返すことだ。

この「コロコロ」から『枯露柿』と言う名前になったと言う話もあるようだ。


銘品「松里の枯露柿」になる収穫の柿の山・・・!小屋敷の町田家にて!

この「甲州百匁柿」は、近年になって品種改良されたようだが、渋柿でも

形は良く、大きい。豊臣時代、甲府藩主であった浅野公が、現在の広島

(安芸藩)へ転封(転勤)される時、この柿を気に入って広島へ移入して、

現在は「西条柿」として、重宝されていると云う。


本場「松里の枯露柿」の生産中のあんぽ柿・・・!

吊るし初めて、約20日間くらい経つと「あんぽ柿」状態になる。

この「あんぽ柿」も、とても柔らかく甘くて美味しい。少量だとすぐなくなる。

農家の方は、食べるのを我慢して、「平干しにして、コロコロと形を整え、

『枯露柿』にして、約40日後に出荷する。」大変な仕事だが・・・。美味しい!

もし、首都圏に住む方で興味がわけば、コロナ渦が治まるまで待って、

JR塩山駅の北口前にある甲州市重要文化財「甘草屋敷」にて、11月頃、

「枯露柿」の作り方を教えて貰えるので、参加して見たら如何ですか?

※参加費は以前は500円程度(干し柿4個付)でしたが、希望の方は、

甲州市役所のネット情報を直接、確かめて下さい。


「甲州百匁柿」で「松里の枯露柿」生産で有名な柿農家「岩波農園」!

この枯露柿農家「岩波農園」は、今は甲州市の観光には欠かせないコース

なっています。

□恵林寺拝観後、最寄りにあり、そして花の放光寺を巡るのお薦めです。


具体的には、旧「松里を辿る」バックナンバーを読んで頂くしかないが・・・、

①恵林寺には、嘗て塔頭が13軒もあったらしいが、今は、廃寺の処が

多い。特に甲斐国で尊敬に値する「武田信成」※あの信玄が高祖と崇敬

し、恵林寺を菩提寺にした時、信成公と信縄公を供養する特別の塔頭を

建立したのに・・・、今はすっかり忘れられていて旧蹟の場所さえ知られない。

特に「信成公を祀る『継統院』が史蹟も残されていない」など、気になる処

もあったが残念と云うのみ・・・!注)「塩山向嶽寺」も武田信成公の開基

と言うに・・・!往古、「継統院」は、千野郷より武田信玄が恵林寺に遷し、

快川国師に兼帯させたのに・・・と思うと忍びないが・・・。

②恵林寺の塔頭は、往時、寺領地であった現塩山三日市場にも二箇所

「精神庵」、「獅子吼庵」があったが、何れも廃寺になっている・・・。

残念ながら、今は・・・、庵跡を訪ねる事も叶わない。

特に「三日市場」には、甲斐国志に「廃桂林寺」があったと記されるも・・・、

地元の物知りに伺っても「名前すら、わからない」とのことで、古文献等を

博学にて学ぶ筆者には、生涯学習の課題になるものと考えている。

③甲州市に移住して11周年を過ぎたが、初めて「滑沢」を訪ねて見た。

 甲州市の最北端でありながら、今は里人は住まず、まるで山間地の別荘

 地帯の様相。とても不便な山間地にあるが、何故、甲州市に含まれたか

 が関心あって調べて見ると、何と「住居表示」も「甲州市塩山小屋敷滑沢」

 であることは、時代考証再検討の余地があり、小屋敷に含まれたのは、

 中世、武田時代、武田信実に治領地として守護させた名残ではないかと

 見ている。その先(現川浦溫泉周辺)は、武田二四将の一人「山県昌景」

 を配置して、統治させている。以上から、武田時代の名残とみている。

④「松里」の地名であるが、塩山市史(※編纂は昭和時代)によると・・・、

  平安時代、「和名抄」で既に「於曽鄕」の中に入っていると記される。

  旧塩山町、松里、日下部、玉宮、神金、大藤、奥野田の諸村で、笛吹川

  以東の重川一帯である。・・・と記されるも時代考証は一考を要する。

  注)必ずしも、明治8年の諸村合併による「松里村」が起点か・・・?

  再考察を要する。何故なら、枯露柿は必ずしも武田信玄の時代が起源

  ではなく、恵林寺開山の夢想国師を迎えるために、二階堂道蘊が奨励

  した可能性もあるからだ・・・!

⑤「下井尻」だが、古文献によると、「下の諏訪」と呼ばれた「鈴木明神」は、

  現在、地元で訪ねるも、誰も知らないと云われた。現在はないらしいが、

  せめて、跡地やら、伝説くらいは探せると良いので、課題として残す!

  等々、書き切れないので、この程度にしておく。・・・生涯学習は続きます。


清々しい旅、楽しい旅・・・、散策とは、”ひたすらに尋ね歩く”ことなり・・・!

歩いたからこそ・・・、初めて出会う人、初めて巡り会えるものもあり・・・!

筆者は、予め、文献で調べて歩くが、誰に尋ねても解らないものもあるが

・・・、それは、里人に長い年月が経って忘れられたもの! もったいない

もあるが、里人に感心が薄れた結果であろうと思うことにしている!


「松里を辿る」シリーズバックナンバーは:

①明治時代、現甲州市には「松里」と名付けられた豊かな郷があった!

  2020年2月号:新シリーズは、松里の語源、「松尾神社」を紹介。

②3月号:「小屋敷」の「乾徳山恵林寺」

③4月号:「〃」「桜の恵林寺」とお茶と食事処「一休庵」

④5月号:「藤木」の里と花の「放光寺」

⑤6月号:北西端の里「下柚木」

⑥7月号:北西端の山里「滑沢」

⑦8月号:「三日市場」

⑧9月号:「三日市場②」

⑨10月号:「三日市場③武士原」を歩く。

⑩11月号:「下井尻」

⑪12月号:「総集編」⇒最終章。次は2022年新年号。初詣に行けそうです。

・・・紹介していますので、恐縮ですが、詳しくはバックナンバーでご覧下さい。

~Blog  goo~「新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見」の検索は・・・、

アドレス:http://blog.goo.ne.jp/yssoho

検索は・・・、「新甲州人」または「山梨の魅力再発見」でも見つかると思います。

バックナンバーは、ブログ右枠欄の下段に⑪、⑩、⑨・・・と並び、

更に>>もっと見るクリックして頂くと、松里シリーズの最上段に①が、

ご覧頂けます。


 

コメント