新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

甲州・旧「松里」村を辿る⑤北西端の里「下柚木」を歩く!

2020-06-01 | 山梨、里山の美しい四季!

旧「松里」村、北西端域「下柚木」は長閑な里山!

前号④で紹介した「藤木」の北、笛吹川左岸にあり、

東側に恵林寺山(扇山)が迫り、西は笛吹川を隔て、

室伏村、成沢村(何れも現山梨市牧丘町)がある。

は上柚木(現三富村)と一体で、恵林寺領検地日記

「柚之木」の名請人百姓名見える。

地名は「湯木」とも記されるところから、現在の窪の一部

から温泉が湧き出てその湯に因んで「湯乃木」と称した

という説と、主として食料を供給し、産地からはそれを

煮炊きする燃料(薪炭)として、すなわち湯之元をなす木

”湯の木”の地名になったという説もある。

明治の初め頃は、柚木村と称して、馬込、寺井、塩原、

相模、上平、窪と6部落からなっていた。

地域で得た燃料を恵林寺へ納めたことに由来すると

云われる。※塩山市誌より

※甲斐国志によると「慶長検地により上・下が分存して成立した」と云う

その「下柚木」には美しい里山の原風景があるが・・・、

殆ど、山麓の段々の果樹畑である!

その長閑な里山に、「恵林寺」の開山夢想国師が37歳

の時、禅修行をしたと云う龍山庵跡「現天龍山栖雲寺」

静か伝わる。今号は、・・・「下柚木」を訪ねて見る!


「上柚木」の中心に古刹「栖雲寺」と里山風景!※此の裏山に龍山庵跡が!?

臨済宗妙心寺派「天龍山栖雲寺」は、応長元年(1311)、夢想礎石が

37歳の時、この辺りに「龍山庵」を建て隠棲したと云う。

里人はその「龍山庵」を移して「天龍山栖雲寺」と改名し、夢想国師開山

と伝えられる古刹である。

正和2年(1313)、龍山庵を留守にして、浄居寺(現牧丘町)に仮住まい

しながら、どこか隠居に適したところはないかと思案が続いたと云われる。

筆者はその「龍山庵」の名は春屋妙葩の「夢想国師年譜」の原本で覚えた

が、「幽僻にして人煙を遠く隔たること30里」となっているので、この地から

に奥地の三富村から西沢渓谷の辺りまで入るため、場所は不詳(謎!)

されていることも周知している。

今は殆ど忘れられているが、古くから「天龍山栖雲寺」の歴代住職により

「裏山の岩場を禅修行の場として石碑を建てて伝えられているので記すが、

筆者も昔、夢想国師の足跡を辿っている時に訪ねてみたが、若い現住が、

昼寝の最中で、場所を伺ったが、簡単には分かりそうでないので諦めた。

今号では人様のブログ公開写真をお借りして、石碑は後述で紹介します。


赤いバラの花と緑の中に生える赤い屋根が「天龍山栖雲寺の本堂」!

赤い屋根の本堂の隣には庫裡(住職の住居)があるが、この古刹には、

鎌倉時代末期作と云う木造「御本尊阿弥陀如来と両脇侍(勢至、観音)」

が祀られ、甲州市指定文化財として指定されている。


天龍山栖雲禅寺」の石標(※本堂・庫裏へはここから入る)

この古刹の由来には、『栖雲寺は臨済宗妙心寺派、開山を夢想国師、

鎌倉時代末期における創建で670年(※2020年現在では709年)

歴史を有する古刹である。注)夢想国師「乾徳山恵林寺」開山は1330年。

応長元年春、夢想国師、四方偏参の途次当寺域内の「僧悟屋敷」という

ところに一草庵を結んで閑居しようとした。注)応長元年は1311年。

これが「龍山庵」で国師禅学修業の道場跡なり、後に里人この「龍山庵」

下柚木郷に移し、天龍山栖雲寺と改めたのが当山である』と記す。


夢窓疎石が応長元年37歳の時、「座禅修行」をしたと云う「龍山庵跡」と伝わる!

HP「龍山庵跡」(夢想国師ゆかりの地) 栖雲寺(せいうんじ)の裏側:

http://www.musokokushi.com/teienn-ryuuzannann.htmを参照:

※この方は筆者以上の勉強家でかつ熱心に研究され、2005年4月に

龍山庵跡を探して訪ねておられるので、上記写真だけを使用させて頂い

たものです。※YS記自習NOTEのため、恐縮ですが、ご容赦!

「龍山庵跡」の位置は今でも不詳・・・で、解明されていない謎の地である!

「松里のむかし話」によると・・・、

㉚龍山庵跡 塩山市(現甲州市)下柚木天龍山栖雲寺の後ろの山の中に、

夢窓疎石(後の国師)龍山庵跡と云い伝えられているところがある。

夢想国師の詠草に「甲州川浦と言う処に山こもりして、はなしける庵の庭雪、

むら消えて人の踏みたるに似たりける」をご覧じて・・・、

『我が庵をとうとしもなき春のきて 庭に跡ある雪のむら消』と詠んだ。

現在は栖雲寺住職宇田鴻基氏(前住?→歴代と記)が管理している。

夢想国師年譜(直弟子春屋妙葩著)には、「国師37才(1311)709年前)、

正和元年(1312)迄、龍山庵に隠棲した」と記されている。

この「龍山庵」のことを現地の人々は「僧悟屋敷」と普通呼んでいる。

※しかし、現住職には以前訊ねた時には、残念だが詳しく教えを乞えなかった!

筆者も数年前に春屋妙葩著の「夢想国師年譜」を読んだことがあるが、

文中に記す甲州川浦と言う処は、現下柚木より、更に一里二十町余り

の現川浦温泉川浦番所跡から、西沢渓谷辺りと言う人もあり。依然として

ここの場所が真の龍山庵か否かは不明だが、この石碑を建立した往時

住職は賢人であったと思う。現在、龍山庵跡を語る石碑は此処だけ!

他にはない。石碑の存在意義は大きいが、今は忘れられている・・・!?

「龍山庵跡」であったか否かは、現在でも謎になっている・・・が!?

注)筆者は、移住10周年、屡々、山梨の歴史の謎にぶつかるが、一つだけ

学んだことは、昔の優れた人には、必ずや謎があるが、いずれもそのことで、

かえって大人物と云えるだけのことはあるのは確かなようである。

それは恐らく後世にわたって、里人が尾びれをつけて伝承を膨らましたことが

要因であろうと理解しているが、それは現世でも同じであると承知をしている。

※YS記自習NOTE


今は「山梨県企業局柚ノ木発電所」が「柚木」の里の中心に目立つ!

この急勾配(落差)のある水路式(水圧鉄管)は、山梨県内では最大の

発電能力をもつと云われる。素人目に不思議なのは、山腹から水が永劫

に湧き出しているのか? 往時の関係者の方々の偉いところで、笛吹川

上流の天科発電所で使用した残留水や柚木取水、雷沢取水、滑沢取水

を加えて、広瀬発電所、天科発電所とともに、通常はピーク運転をして

いると広報されている。※発電所の標高は511m。

なるほど・・・、素人の筆者にも理解できそうです。


藤木調整池の沿岸の一番大きな建屋が発電所です。

注)左に見える建物が、「山梨県企業局柚木発電所」の管理事務所であり、

目の前の溜池は「藤木調整池」と称し、「柚木発電所の残留放流水は手前の

「藤木調整池」に放水され溜められて、その下の「藤木発電所」で活用されている。

注)ここでは、先に大正15年4月より発電している「藤木発電所」は省略するも、

この柚木発電所は昭和50年5月発電開始とか!しかも、当初は広域の灌漑用水

として考案されたものだそうで、昭和46年(1971)土地改良事業と電気事業実施

伴い古来より笛吹川沿岸に散在する既得権利用、21堰は一致協力して事態の

打開に努力せり。雨来本日まで8ケ年の長期にわたり関係機関と協議を行い・・・、

各種の水利協定及び確認書等の締結を実施し、永久不変のものとせり・・・・と。

昭和54年の笛吹川沿岸堰連合会建立の石碑に記されているが、これがなければ、

後世には正しく伝えられなかったであろうと、数十年もたつと現世の役に立つことも

あるのだとつくづく教えられる。

素人の筆者は、実は3度柚木へ伺ってようやく理解できるところまできたが、往時、

考案した人は、凄いことを考えたものだと感心するばかりである。

実際に現場を運用する方の苦労は聞かないことにしたらの話であるが・・・!

このような歴史の変遷があって、塩山藤木と塩山上柚木が入り組んでいるわけだ!?


往時は、北端の鎮守であった柚木の氏神「日吉山王神社」!


山梨県神社庁によると・・・、甲州市塩山下柚木1244にある旧村社。

祭神は大山昨命、大物主命。例祭日は4月12日、境内地は129坪、氏子73戸。

甲斐国志によると・・・、

創立年月は不詳であるが、甲斐国志に「上下(柚木)二村の産土神也、

黒印社領壱石七斗弐升、社地100坪、大野村神主兼帯」と記載がある。

甲斐国志には「日吉神社」(現日吉山王神社)として記載されている。


笛吹川の向こうに、長閑な「上柚木」の村が見える・・・!


移住10周年の新甲州人はこの辺りから「上柚木」であると考えていたので、

先号の「藤木」の項で紹介しそびれてしまった。今号であえて後追記したい。

以下は、前号「藤木」の項の「山の神」なので、追記をご容赦!


藤木の北西端境には、往古から、氏神「山神宮」があった!

松里昔話によると・・・「藤木石神地区」鳥居扁額の「山神宮」ではなく、親しみを

もって「山の神」と呼ばれているようだ。

江戸時代は御料林滑沢山の入相関係村住民の薪炭、落葉、下草等採集するため、

日々百人前後の人達が入山する時代なので、山の神様「山神宮」を共同で合祀。

創建年は不詳だが、数百年前と考えられる。

社殿は腐朽大破しているが、石の鳥居は高さ4m余りの堂々たるもので、境内に

は赤松が生い茂っていたと伝わる。

筆者は、現在の道路整備の際、現在地に縮小して再建されたものと推定している。

現在は写真の如く往古の鳥居を残し石祠が祀られるが、新しい道路際で気になる

「山の神」→山神宮であった。

往時は、秩父往還の脇道で大嶽山への参詣者も多く、広々した山神宮前の芝生は、

人々の往来の人々の憩いの場所として茶店などあり、大変賑やかなところであった。

・・・と記されている。


 

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甲州市、旧「松里」村を辿る④美しい”藤木”の里と花の放光寺散策! 20-05

2020-05-01 | 山梨、里山の美しい四季!

「松里」は、現甲州市塩山小屋敷の「松尾神社」が「松里」の語源になって

いるようだと紹介しましたが、「松里」の中枢としてあの夢想国師が開山した

「乾徳山恵林寺」が、今に栄えて「松里」の名を守っている・・・!

その地続きに塩山藤木地域があり、そこにあの甲斐源氏安田義定が菩提寺

として開基した「高橋山放光寺」があるが、ブログバックナンバー「安田義定

ゆかりの””牧ノ庄”を辿る」で紹介をしているので、詳しくは省略します。

今号5月号④は、美しい花の里「藤木」をテーマにして紹介してみます!


恵林寺の裏道から放光寺への路は、まるで「京の哲学の道」のような長閑な道だ!

まさに「花の放光寺」に相応しい「高橋山放光寺」への道沿いの溝の流れには・・・、

まるで飲めそうな清流が豊富に流れている!車も殆どなく、考えながら歩ける道!


放光寺鐘楼堂の上から覗くと、”花の放光寺”と呼ばれる由縁がわかる!


橋山放光寺」は、毎春、花桃と山吹が満開の頃、多くの観光客が訪れる!


毎年、爛漫に咲く花桃と山吹の共演は、鐘楼堂に惹かれて荘厳の古刹へ誘う!


真言宗智山派「高橋山放光寺」の「総門」から「仁王門」迄の参道は美しい!

放光寺略縁起には、次のように解説されている!

平安時代末期元暦元年(1184)、甲斐源氏新羅三郎の孫、安田遠江守義定創立。

開山は賀賢上人である。初めは大菩薩峠の山麓一ノ瀬高橋に建立されたが、義定

この地に移し、安田一門の菩提寺とした。安田一門の悲劇を産んで以来、武田氏

護持を受け、特に武田信玄は祈願所に定め寺領を寄進した。

天正10年(1582)織田勢の兵火を被って一山悉く無に帰したが、徳川氏の保護を

受け寛文年間義定の直子孫保田若狭守宗雪が中興開基となり現在の基礎をなした。

往古は、塔頭12坊、末派多数を有し、真言宗の甲斐国談林七ケ寺に数えられ、

、また修験道の根本道場であった。

延宝年間山城国醍醐寺報恩院末になり、明治27年に現在の真言宗智山派総本山

智積院末となる。当山には、義定が京洛より将来した平安時代の仏像大日如来像、

天弓愛染明王像、不動明王像、鎌倉時代の金剛力士像など什宝を伝える。

平成10年12月吉日 高橋山放光寺 32世俊元謹書を参照して紹介した!


恵林寺山(別名、扇山)の山麓を通る”フルーツライン”は、風景を楽しめる道!

最近であるが、誰か専門家の発見で、この恵林寺山の頂上に武田家の砦があった

ではないかと話題になったが、何も残されていないと云うか、人々に忘れられた。

しかし、ありえる話だ!扇山(恵林寺山)は、面積は280町歩とか言われている。

南側から眺めた山の形が扇型をしているので「扇山」と言うのか、明治時代は、

松、杉、檜等の大樹が鬱蒼と茂っていて、この付近では富んだ美林の山であった。

明治38年2月11日、恵林寺の不慮の火災で、本堂、庫裏、仏殿等悉く焼失した際、

再建された現在の恵林寺の大伽藍の建築用材は全て扇山から切り出したものである。

・・・と「松里のむかしばなし」にも書かれている。機会あれば読んで見られるとベター。


八坂神社、(牛頭天王、通称お天王さん)は、恵林寺山の山麓に祀られる!

甲州市塩山藤木の恵林寺山山麓に八坂神社(牛頭天王、通称お天王さん)がある。

毎年、7月23日に祭典がある。※日の丸のある写真は、その祭典前の写真です。

※注)祭典は、平成5年より直前の日曜日に実施されていると云う。

神社のある藤木から、小屋敷を経て三日市場の天王宿まで神輿の渡御をした。

昔は三日市場上にあった真言宗放光寺末寺天王山竜海寺で休息した上、天王宿

まで渡御したものだが、竜海寺は火災で焼失したものだから、寺跡にある道祖神を

休息所にしている。

昔、ある夏、炎天が続き、疫病が流行し、死者も続出、農作物も被害を受けて、

難儀をしている時白衣の行者が竜海寺に住職を訪ねて、疫病のこと、農作物の

被害のことを聞き「それは、その山にいる疫病神の仕業に違いないと・・・」、一心

祈祷を始めるやすぐさま、疫病神は恵林寺山の麓に消えたと伝わる。

不思議にも、その異変が納まって間もなく、あれほど流行した疫病は治まり、

そして、農作物も蘇ったと云う。

「これは、あの行者さまのお陰」と村人達は、恵林寺山の麓に龍神さまを祀った。

これが”お天王さん”であると云う。

八坂神社の境内には、樹齢三百有余年以上の古木の”江戸彼岸桜”がある。

甲州市指定天然記念物となっていると云う。※参照「松里のむかしばなし」等。


国登録有形文化財「旧武藤酒造 母屋米蔵」、旧松里時代には全盛期!?

安政4年(1857)建築。

江戸後期から昭和16年まで酒造りを営む。中庭を囲むように「ロ」の字型に

並んでいた酒蔵や米蔵の多くは今は失われているが、現存する建物は当時の

面影をよく伝えている。桁行十二間半、梁行五間、大土間に一辺58cmの大黒柱

が大屋根の棟まで届く。平成16年文化庁の登録有形文化財に指定。

笛吹川芸術文庫と、解説はよく分かるように木版に手書き文字で書かれている。


恵林寺裏道から放光寺へ向かう散策路沿いに、現役の「西藤木の水車小屋」!

この「西藤木の水車」小屋は現役で今も”藤木”の里人が米の精米等に使っている!

とても・・・、絵になる”風情ある風景”である!


放光寺への道ばたに咲く”花ダイコン”!

この散策路には花ダイコンや野花が、農家の庭先や畑には、一杯咲いている!

花ダイコンは、諸葛采(しょかっさい)、紫花菜(むらさきはなな)、大紫羅欄花

(おおあらせいとう)とも言い、油菜(アブラナ)科、中国原産、江戸時代に渡来。

この風景は人工的な都会の町並みでは見ることができない癒やしの風景である!


何気なく、畑の隅に植えられたチューリップも開きぎみだが、余りに美しい色だ!


オシロイバナ」も、藤木の散策では畑のあちこちで楽しめる綺麗な雑草だ!

オシロイバナ(白粉花、白粧花、学名Mirabilis jalapa )とは、オシロイバナ科の

多年草または一年草である。南アメリカ産で江戸時代の始めに渡来と言われる。

都会では観賞用の野花でもあるが、ここ「松里」には広く野生化もしている。

農家によっては畑に生える雑草で、面倒な雑草かも知れないが綺麗ですね!


彼岸花」もあちこちに、美しく咲く「藤木の里」!

開花時期は異なるも・・・、この「彼岸花」も遊歩に飽きない松里「藤木の里」を歩くと、

あちこちに見られる!※藤木をカメラを持って歩いた時の写真の一枚を載せました。


藤木の里では、畑にこんな小さな花が咲いていた!何と、小豆の花だった!?

小豆(あずき)の花なんて筆者は初めて見た。可愛いですね!大好きな餡のもと

になる豆の花とは驚きです!豆腐を作る大豆(だいず)は、花が淡い紫色だと云う

ことも知りました。「松里」藤木の里を歩くと、春も秋の花もいろいろ教えてくれます!


松里」は銘品「枯露柿」の産地として有名だが、渋柿群の中で甘柿が育った!

果実は10年前になるが、この柿は、恵林寺・一休庵の女将が由縁の藤木の柿畑

なった突然変異の甘柿である!「名前はまだない」が、とても見事な柿実で・・・、

とても甘く、奈良の柿に詳しい機関にも調べてもらったが分からなかった。

新しい銘品の種果であると思われる・・・!?

②③で紹介した恵林寺・一休庵の女将由縁の畑でできた見事な柿は、枯露柿の

ために作られている甲州百目柿(渋柿)の畑の中にある柿樹の一本だけが、何らか

の突然変異でできた柿の品種と考えられ、多くの渋柿の中で唯一一本だけが・・・、

とても甘い柿”に育っている。また食べて見たいものです・・・!

実名は農家のベテランでも未知。筆者は運良く収穫された年に試食させてもらったが、

現在、改良の甘柿や有名な富有柿と比べても、形や味も劣らず、数個しか出来ない

年もあり、残念ながらまだ商品化には及ばない。

※秋には、恵林寺の一休庵で@300円~で、1個だけでも試食できるかもしれない!


「まだ名前の無い甘柿」は、一休庵の女将由縁の藤木の畑に突然変異で育った実!

大きさは、岐阜の富有柿に似ているが、形がいかにも「武田花菱」に似ているので

筆者は因縁を感じている。筆者は仮称「武田花菱」と呼んでいるが命名して欲しい

と願っています。もし専門家で造詣が深い方がおられたら、教えて下さい。

※この柿は、「恵林寺・一休庵」の女将由縁の藤木の畑で育ったものです。


藤木の町田家の「枯露柿」づくりの風景!農家の柿棚造りの特徴はあるが・・・、

注)この枯露柿造りの棚は、同じ藤木ですが別の町田某家の庭先で撮影したもの!

晩秋(11月中旬)になると松里の銘品「枯露柿」造りの風景があちこちで見られる!


藤木の里」の散策は柿畑の向こうに恵林寺の山号になった乾徳山が聳える!

恵林寺の駐車場裏側や、放光寺鐘楼堂の道を牧丘方面に下った道沿いには、

松里の誇る柿畑を前景に、尖鋭の乾徳山が背景に望める風景があった!


藤木の散策の途中で、こんな風景も楽しんだ!

今放映中のNHK朝ドラの「キリン」に、冠雪の富士山が乗っているような姿を想像!


美味しそうなもの、美しい花もの・・・、”探す楽しみ”のある「松里」の散策である。

新型コロナ問題が落ち着いたら、ぜひ歩く時間を取って”散策”を楽しんで見て下さい。


 

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甲州、旧「松里」を辿る③「桜の恵林寺」とお茶と食事処の「一休庵」(2)20-04

2020-04-01 | 山梨、里山の美しい四季!

「乾徳山恵林寺」は旧「松里」村の”中枢”にあった!

旧「松里」村の小屋敷にある「乾徳山恵林寺」は、今も訪れる人が多く、荘厳さを保つ!

1330年(元徳2年)、時の領主二階堂道蘊が屋敷を提供して、あの夢想国師を開山

に迎えて創建されて以来、天正年間以来、幾多の運命の変遷があったが・・・、

その都度、京の妙心寺派より名僧を迎えて見事に「恵林寺」は再構築されている!

現在の「恵林寺」も、臨済宗妙心寺派の関東の主要な”名刹”です!

因みに、現在の住職は開山夢想国師以来第57世となり、妙心寺派第22世となる!


恵林寺の三門は歴史的な変遷を伝え、今春も庭園の桜は満開です!

2020年3月23日、既に恵林寺の桜は満開になっています!現住がFACEBOOKにて3/24に発信済!

注)掲載写真は、このような時期なので・・・、筆者が以前撮影したものでご容赦・・・!

恵林寺、三門の桜は、江戸時代には”恵林寺十勝”として見事な「両袖桜」と呼ばれた!


現在の「乾徳山恵林寺」の本堂!右側に建つ「大庫裏」が拝観の受け付です!※前号と重複掲載!

注)注目は、受付台の処にある「大庫裏」の黒光りする”大黒柱”です!太く、頼れるのが大黒柱!

昭和24年7月、第二次世界大戦の敗戦後、人々も恵林寺も疲弊して頂点にあった時代・・・、

現在の大庫裏と本堂等伽藍は、妙心寺派第20代会元文堂(三光亭 加藤会元)住持の入山により、

見事に再興されて、現在に至ると云う!

恵林寺略史によると、現開山堂の移転改築、三重塔の建立、四脚門の解体復元、名勝庭園の整備

本堂回廊の全面改修、方正池の整備、信玄公宝物館の建設等を矢継ぎ早に成し遂げられたと云う。

その再構築の手法については、今の企業経営者も見習うべき手法があると・・・教えの一つです。

その時、招聘されて一緒に来られたのが、現一休庵の主(あるじ=社長)だと云う話です。筆者も納得!

だから「一休庵」は、まるで京都の古刹を訪ねるような、”味覚ともてなし”があるのだ・・・!

恵林寺拝観の際は、ぜひ「一休庵」で、ひと休みをお勧めです!心地よくお茶やお食事も頂けます!

何より一休庵の女将さんの”おもてなし”は、筆者(元ホスピタリティ産業のプロ)がお勧めできるお店です!

筆者は50年前、京都で結婚式を挙げたほど京都大好きで、本ブログではグルメは殆ど紹介しないが・・・、

今春、桜の花が満開の恵林寺境内散策にかこつけて、お茶と食事処「一休庵」を紹介します!

今春は、不運にも世界的な新型コロナ問題があるので、桜見物の人出は殆ど見られなく静かですが・・・!

客足も減る中でも、法事など恵林寺と同じ心構えで、皆さんは頑張っておられます・・・!

レストランやグルメ情報はネット情報でご覧になれますので・・・、筆者は別の視点で紹介します!


2016年の恵林寺空撮から見ると、境内の現状が良く分かる!下段の注釈は必読です!


昭和55年、開創650年記念(南条大学住持の時)で発刊された「恵林寺略史」を参照すると・・・、

「乾徳山恵林寺」は、1330年(元徳2年)時の領主二階堂道蘊が屋敷を提供して、あの夢想国師

を開山に迎えて創建された名刹です。

あの有名は快川紹喜国師が第36世住持、妙心寺派第1世として再任以来、妙心寺派の代表的な寺院!

天正10年(1582)3月11日、織田信長の甲州討伐軍の焼き討ちにあい、快川国師他門下約百名が

山門で焼死された話は無残であるが、現在も三門を潜る人は多く、「安禅必ずしも山水を須いず、

心頭滅却すれば、火も自ずから涼し」と、今も、人々はこの口上を心に刻んでいる!前号で解説!

快川国師他門下僧の方々の墓が三門の左手前にあるも、今は殆どの人が気づかず通り過ぎている!

天正10年7月、織田信長が本能寺の変で戦死した後、いち早く甲斐国へ入国した徳川家康は、

甲斐国の武田信玄に一目置いていたこともあり、大和に武田勝頼を弔う「景徳院」を開基し、

その足で、天正十年7月25日恵林寺の焼け跡へ立ち寄り、現存の塔頭「岩松院」に守られていた

開山夢想国師の像と武田不動尊が焼失を免れたことを喜んで恵林寺の復興を約束して行かれた!

その時、家康は恵林寺の住職が決まるまで、寺領二十五石、寺域三万六千四百坪、山林一里四方

を寄進し、※YS記自習NOTEにより追記すると、その時、家康は恵林寺を再建するために、

東代官と西代官を任命して配置しされたと考察している。

その東・西代官の子孫は現在も、地元では「表土屋家、裏土屋家」と呼ばれて存続している。

注)近所の方は表・裏土屋家と呼んでいるが、筆者は元東代官、元西代官としてご先祖を偲ぶ。

注)両家を訪ねて江戸時代の恵林寺境内古絵図を拝見したことはあるが、その頃の恵林寺は、

甲斐国志に記されるように塔頭十三を構えていて、更に大きな伽藍であったことがよく分かる!

その後、明治初頭の廃仏毀釈の危機を乗り越えた笛川元魯(篴川=てきせん、無孔笛)住持が、

明治11年妙心寺本山より第17世として入山され、不運にも明治38年、伽藍の大火にあったが見事

再興されている。そこで前号でも紹介したように、今で言う大リストラを行い、江戸末期まで

あった塔頭や境内地を一部売却され、見事に現在の伽藍や庭園「偕楽園」等を再興されたとある

注)筆者の学んだこの時、武田信玄が高祖に選んだ「継統院」と「長興院(後の長光院)」は

再興されていない。深く学習すると「継統院」の武田信成公は甲斐国の実質上の再興者であり、

石和の「大蔵経寺」の再興、峡東では、臨済宗「塩山向嶽寺」の開基、また「千野」の「信春館」

も「継統院」即ち武田信成公あっての”館”であったのに、千野にも武田信成公の名は残らない。

武田信玄が「継統院」を「恵林寺」へ遷したこともあるのか!?地元でも「信成公」が忘れられ

ていることは大変残念であるが、流石に、武田信玄が選んだ高祖二人は筆者にも納得出来る!

江戸時代の古絵図が残されていたので拝見したら、家康は武田信玄公を尊敬していたこともあり、

境内の塔頭は概ね信玄時代のように元通りに復元されているようだが、以前、武田家歴代当主

(即ち累代の甲斐守護)を学んだことがあるが・・・、

今もPCエクセルに入れてある「武田家累代当主略史」を辿って見ると、武田信玄が恵林寺

菩提寺に定めた時、また快川国師を三顧の礼で招聘する時、高祖(尊敬する先祖)は2名だけ

に絞られて、同じ甲州市内にあって、臨済宗向嶽寺派の本山としての「塩山向嶽寺」を開基した

武田信成公と信玄の(信虎の父)祖父にあたる武田信縄公のみ奉って本堂に近い位置に塔頭

として建立し、恵林寺の塔頭として「継統院」及び「長興院」を建立し、信玄は快川国師に

兼帯(兼務)を要請していることが記されている。筆者は救われた気がした。

しかし、残念ながら塔頭「長興院」は信玄を後継した武田勝頼によって「長光院」に変え、

祖父信虎を崇めたと云う。しかし「長光院」の名残と石碑は今もヒッソリと残されている。

残念ながら「継統院」のことは、今は「一休庵」の裏の畑になっていることもあるが、完全に

忘れられている。※筆者は何故、武田信玄は二人の高祖だけを選んだのかを解析したが、一部だけ信玄を覗いた気分!

注)YS記で調べたが謎であった「長興院」は「正徳寺」に位牌を還されていることが分かった。

笛川元魯住持は、その偉業の後、大正4年4月本山妙心寺管長として栄転されていることを知る。

凄い住職がおられたものだと感心するばかりである。達筆の住持日記を今に残され、熟読した。

仏教界も一流企業最前線と変わりないと思ったが、心ある僧により仏教界もより栄えるであろう

と思う次第! 一般企業的には「顧客ニーズの変化に対応しなければならない」と・・・。

その笛川(篴川)元魯住職を気にとめて見ると、大庫裏の前にある風呂場にも"讃"が掲げてあり、

臨済宗妙心寺派管長に出世されても、偉大な業績は忘れず、笛川(篴川)元魯住職の名を覚えて

おきたいと思った。※妙心寺管長に栄進された笛川(篴川)元魯住職のことは前号でも紹介している。

但し命名された「偕楽園」は分かりやすい呼び名であるが、先に水戸の「偕楽園」があったので、

呼ばれなかったか否かはわからないが!?

少なくとも、今は「桜の恵林寺庭園」として庶民が楽しんでいることだけは事実です!

往時、笛川住職が庶民に開放して楽しんでもらいたいと云う「桜の恵林寺のベース」を築いて

頂いたのは笛川元魯住持であったことは忘れないでいたい!特に、桜の季節だけは・・・!

筆者は移住後に恵林寺に興味が深まり、興味目線が広く深くなっていることもあるが・・・、

今でも「恵林寺」は境内への参詣の楽しみと、境内の「一休庵」の憩いを楽しんでいます!


「恵林寺の桜見物」の時は、「一休庵」で一休み!

「一休庵」は、やはりあの有名な「一休さん」の印に”もてなしの心”がある!

3月号でも早々と恵林寺の桜として紹介した「偕楽園」の東ノ池の桜とその向こうに見える一休庵!

「恵林寺」境内の「偕楽園」の桜を愛でる散策は最高です・・・!

「一休庵」は何時でも暖かく迎えてもらえるので、京都で50年前に結婚式を挙げた

ほど京都大好きの筆者も家内も、時々ですが、お茶などを頂きに伺っています!

京のような”味覚ともてなし”と”笑顔”を頂きに・・・! 筆者お勧めのお店です!


「一休庵」での休息は、まるで京都の名刹を訪ねる”もてなし”がある!

流石、ご主人(社長さん)は、昭和の恵林寺再興に貢献された第56世

妙心寺派20代会元文堂住持(加藤会元住持)に招かれて来県され、

今も”京の味”を提供して貰えるので・・・嬉しい!

筆者は、京風出しの味を楽しむため、時々”素うどん”特別にお願い

して食べさせて頂いています。本当に美味しい京風の味が楽しめる!

ご主人(社長)は板場で包丁を裁き、女将さんは表のサービスを

仕切る名コンビで夫唱婦随で見事に「一休庵」を経営されている!

こんな外出自粛の時代にも、法事の宴会があるので休まず頑張って

おられます。今年の桜の写真は、間に合えば後で差し替えますが、

お店のメニューは、お茶類の他、うどん、そば、山梨名物ほうとう

はもちろん、精進料理をベースにして、色々楽しませて貰えます。


「偕楽園」東の池の前にある一休庵の全景!茶店のように気さくです!南に大宴会場棟がある!

江戸時代まではここに「栖松軒」と言う塔頭があったらしい、笛川住持の時に、大宴会場を有したこと

で、恵林寺の行事が盛んに行われるようになったと、笛川元魯の住持日記にされている。

戦後、昭和24年加藤会元入山によって、大規模再構築が行われ、その時、家康が再興で招聘した

末宗禅師の塔頭「望月庵」を現一休庵の大宴会場南側に遷し、現在も表札を見ることができる。

現在の「一休庵」は、何度か新装・改築され、現在に至っている。現役の食事処である!


一休庵の玄関」にはいつも暖簾が掛かる!の暖簾はあの有名な一休和尚の”もてなし”の印!

季節により暖簾は変わるが、如何にも、そば処、お食事処などの”幟”が気さくに迎えてくれる。

表玄関にメニュースタンドはないが、お茶も、コーヒー400円より~、ランチも1000円程度で提供される!

お勧めは精進料理の信玄弁当(1200円)です!筆者も気まぐれに立ち寄り、気軽に頂いています!

”うどん”や”ソバ”も関西風味付けで大好きです!都会からの客も「一休庵」があるので癒やされます!

施設、料理、サービスの三拍子揃った、且つ気軽なお勧め「和風カフェ・レストラン」です!

本格的な精進料理がベースで、気さくに”もてなし”て貰えます。宴会も3~5000円前後の予算で相談可!


桜の開花の季節には、どこの席に座るか迷うほど・・・!一休庵の中庭の咲くしだれ桜は見事!

女将さんは、花や植物を愛しているので、玄関や店内では、生け花も楽しませて貰える!

それも都会から訪ねると珍しい野花が多いので、筆者はお茶を飲みに伺い物知りの女将さんに

色々と教えて貰いました!玄関の大きな花瓶も季節の野花で迎えてくれます!


春、桜の花が咲き、天気がイイと中庭も賑わう! 京の寺巡りのように縁台も心地イイですよ!

注)お客さんがいっぱい座ってお茶を頂いている様子を想像して下さい。お客様の写った写真は遠慮しています。


一休庵の中庭から見た、通称「能舞台」の小上がりにはこのように垂れ桜が垂れる!

赤いモーセンではないが、いつも綺麗にして迎えて貰えますよ!

能舞台風の小上がりには、垂れ桜が満開になると、まるで桜が覆い被さってくるような雰囲気になる!

もちろん、天気が良く、暖かい日は、中庭の垂れ桜の下で、お茶を頂けたら・・・、最高です!


江戸時代は、まだ甲斐国牧ノ庄と言われた「乾徳山恵林寺」のことを伝える古絵図が今も伝わる。

この掛け軸は、徳川家康の甲斐国入りに際して、恵林寺再建を指示された時に、西代官に任命されて、

恵林寺の再興に貢献されたと言う現在の土屋家(通称裏土屋)に所蔵されるものです。

筆者は以前、拝見した時、恵林寺全図を描かれている古絵図を撮影させて頂いものですが・・・、

古絵図全体は掲載を省略し、江戸時代の恵林寺境内の様子は要点のみ文章で解説するのみです。

その時の目的は、武田信成公の「塔頭 継統院」の所在場所を検証するためでしたが、全て古絵図

のお陰判明しました。※古絵図は、江戸時代末期(作図年代不詳)の私物なので公開されていない。

しかし、この土屋家には、名僧笛川元魯住持が、大正天皇の即位式に土屋家の先祖を招いて出席され

いる証し(直筆の掛軸)が残されており、流石、京の妙心寺本山の管長に昇格されただけの方である

ことを知りました。注)ここでは紹介の目的が異なるので、表題文字が見える一部だけ割愛して紹介しますが・・・

残念ながら、本部ブログにも文字制限があり、特に画像を加えると、殆どフルなので簡単に紹介した次第。


 

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甲州、旧「松里」を辿る②乾徳山恵林寺20-03

2020-03-01 | 山梨、里山の美しい四季!

「松里」村・・・「まつさと」・・・、何と響きのイイ地名であったろう! 

しかし・・・、今は、その地名はどこにもない!

その「松里」は、初刊①(2020年2月号)で紹介したあの「松尾神社」の縁りで誕生。

しかし、その名はブランド化した銘品「松里の枯露柿」の中に、現在も活きている!

その旧「松里」地域を訪ねると、何と言っても中心は2月号で紹介した「松尾神社」

武田信玄の菩提寺「乾徳山恵林寺」であったであろうこと、皆周知の通りです。

今号は、その「松里」の中枢にあった名刹「乾徳山恵林寺」を訪ねる!

桜の季節には少々早いが、昔訪ねた時の写真を以て「桜の恵林寺」を紹介する。

※「恵林寺のみどころ」公式HPは信玄公が蘇る「明王殿」公で紹介しています。


乾徳山」は鋭い岩峰の山! 恵林寺の山号になった「乾徳山」です!※この写真は冬の乾徳山。

この乾徳山頂直下の岩窟で夢想国師が19才の頃、禅修行をしたと伝えられている。

その乾徳山登山口(徳和)の古刹「吉祥寺」に、「名僧夢想国師が19才の頃、岩窟

修行した」と言う寺伝が今も伝わる!


「乾徳山恵林寺」はマイカーで訪れる人が多く・・・、今は、この「黒門」から入る人は少ない!

この黒門よりの参道では、毎年4月頃に縁日が開かれているので、その日の古い

写真ですが・・・、雰囲気をご覧下さい。

扁額の「雑華世界=ざかせかい」とは、この門より外は「複雑世界」と言う境目・・・。

この黒門を入ると「複雑な世界」から「静寂世界」に足を踏み入れると言う意味と

心得たい!


長い参道を上がると今は移設されて此処に「下馬石」があり、その先に「四脚門」別名「赤門」がある!

「黒門」から長い参道を歩く人にこそ見えて来る「四脚門=俗称、赤門」である。

徳川家康が再建と伝えられ国の重要文化財。扁額には山号の「乾徳山」を掲げる。

その手前に・・・、往古は、どんな位の人も馬を下りた言う「下馬石」がある。

※この「下馬石」は近年に移設されたらしく、元は黒門の前で下馬したらしい。


赤門こと「四脚門」を入ると、第52世「笛川元魯」住持が再興で築いた美しい「偕楽園」が迎える!

あまり知る人はいないようだが・・・、明治38年の大火災で焼失した伽藍を再興した笛川元魯住持が

再興のために、今で云う大リストラを行い、江戸時代の塔頭等をかなり廃止・売却して再編し、その資金

を活用して・・・、四脚門と三門の間に、庶民が憩える「桜の美しい庭園」を築いている!

「庭園」は第52世(妙心寺派17世)笛川元魯住持により「偕楽園」と名付けられたが、今は呼ばれない!

この「偕楽園」の中の桜は、現在は満開になると見事で、恐らく、これが「桜の恵林寺」と呼ばれる由縁

であったろう!既に、往時は名勝となった山門前の「両袖桜」は朽ちていて見分けがつかないが・・・!?

現代版で新たに「恵林寺十勝」を選ぶと、もっと感心が高まるのではないかと思うくらい見事な庭園!

本山から派遣された第53世笛川元魯住持は、恵林寺第52世(妙心寺派第17世)住持で、道号は笛川

(てきせん=篴川とも書く)、諱号(いごう)は元魯。恵林寺住持は明治11年10月~大正4年4月4日。

注)略歴は省略。筆者は笛川元魯住持が赴任中に「几帳面に日記を残され、筆者にも読めるよう

習字手本のような達筆の日記の中で、庶民の楽しめる「偕楽園」と命名されたことを学んだことがある。


そして拝観客は必ず訪れる「山門」!ご存じ快川国師が織田軍に焼き討ちされた「山門」に至る!

この三門にて信長の焼き討ちに遭った快川紹喜国師は門下とともに「安禅必ずしも山水を須いず、

心頭滅却すれば、火も自ずから涼し」と言う「碧巌録」第43則の偈を発して、燃えさかる三門の上で

火定したといわれる。異説はあるも・・・、快川国師の遺偈に相応しいと思う。


徳川家康が復興した時に残された復興前の「山門」の「礎石」。気に止める人は今は殆どいないが!

天正10年に信長軍の焼き討ちに遭い恵林寺は悉く焼失している。特にこの「山門」は焼失後、いち早く

甲斐国へ入国した徳川家康によって再建されたと伝わる。本堂、庫裏、伽藍の最重要部で、その再建

の際、痛ましい山門の焼き討ち事件を彷彿するような礎石が残されているが・・・、

山門」を上がって直ぐ左側にあるので、ご覧になると・・・、更に「山門」の感慨が湧く・・・!


その「山門」左手前に「天正亡諸大和尚諸位禅師安骨場」があり「快川国師他僧侶」が弔らわれる!

この山門にて信長軍に焼き討ちされた快川国師他門下の僧約百余名を供養するために・・・、

「天正亡諸大和尚諸位禅師安骨場」としての墓場がある。※見逃しがちな地味な供養塔!


明治38年の大火後、笛川元魯住持が復興の時、庶民憩いの「偕楽園」と言う名園を築いた!

この「東ノ池」には可愛い鴨が住んでいたが、老いた鴨は、今はどうしているだろうか・・・?

目の前の「一休庵」で、お茶でも頂きながら、女将さんに話を聞いてみたいもの・・・!

※写真は筆者が移住直後の昔ですが「桜の恵林寺」を訪れた時に感動した風景の一片です。


昭和年代になり、第55世妙心寺派第20世会元文堂(三光亭加藤会元)住持により再興された!

この恵林寺の庫裏は「拝観受付」にもなっていて、誰でも拝観できます。

受付の直ぐ前にある「大黒柱」は再建にあたり寄進されたと言う見事な支柱・・・!

一見の価値ありです!だから、今でもこんなに堂々としているのだと思います。


再興された本堂(=仏殿=方丈、往古は「拈華宝殿(ねんげほうでん)」とも呼ばれたようです)

仏殿は「拈華宝殿」とも言われ、天正10年の焼き討ち以後、明治38年にも焼失

していて、甲斐国志によると、「仏殿なり、方十間一尺の層楼なり・・・」とあり・・・、

徳川家康による復興の時も武田氏時代のまま堂々とした本堂を再興したと言われる。

元徳2年(1330)創建、臨済宗妙心寺派の古刹で、開基は時の甲斐守護であった

二階堂道蘊(出羽守藤原貞藤)、開山は夢想国師とされる。

開山堂には、①名僧夢想「礎石」国師、②信長焼き討ちで「心頭滅却すれば・・・」

と唱えながら火定した快川紹喜国師、③徳川家康が呼び戻して再興した末宗瑞葛

和尚の三像が安置されている。いずれも名僧である。

注)この開山堂は、往古は現在の墓地内にあった旧蹟(塔頭真空院は廃寺)から、往古の建物を

現状のまま、現在地に移設されたものと伺う。


武田信玄公廟所(墓所)は、「武田不動尊」の真裏にあたる位置にある。ひときわ、立派な墓所である!

甲斐国志によると、往古は慧林寺と書く。※甲斐国志巻ノ七十五、仏寺部第三によると・・・、

「藤木、小屋敷、三日市場村の界にあり、古時、牧ノ庄の内なり 臨済宗関山派京都妙心寺の末・・・、

樹木屋敷と言うこの辺りは二階堂入道道蘊の封邑なり。 出羽守藤原貞藤は元応2年剃髪当寺の

牌に真空院・・・。※「真空院」とは「二階堂道蘊の法号」と言われる。

元徳二年(1330)夢想国師を請じて当寺を創立し、開山第一祖となす。師始めて徳和の乾徳山に入り、

一夏面壁せし事あり、因って乾徳を以て山号と為すと言う・・・」とある。当寺の領主二階堂道蘊(藤原

貞藤)の邸宅を禅院に改めたのが始まりと言う。恵林寺の八右衛門座敷「更衣の間」にも、「開山夢想

国師徳和乾徳山に入りて一夏面壁されし事あり・・・、」と記されている。

注)一夏面壁とは、吉祥寺略記に一夏九旬石上に座禅す乾し柿(九十数)とあることと同義で、

面壁とは、俗世を離れ岩窟禅をすること。※その岩窟禅修行したと言う場所は、近年になって、

山梨市の山岳に詳しい温井一郎氏によって発見(※公式の比定はないが)され、現古川住職が入山式

時、法衣で参拝している姿が数年前にNHKで紹介されている。


明王殿玄関は、この奥に武田信玄自ら仏師に彫らせて寄進したと言われる不動明王像が納まる!

この明王殿に、武田信玄が戦勝祈願に寄進した「不動明王像」が祀られている。

「甲陽軍艦」、「甲斐国志」巻七十五によれば、「武田不動尊像」は、信玄が京から仏師康清を招聘し、

信玄と対面して彫刻させ、信玄自ら頭髪を焼いて彩色をさせたものであると言う。

未確認ながら像内の空洞に、像内納入品を納めてある可能性もあると考えられていると言う。

中尊の不動明王像は像高92.9cm。胸前の状帛(じょうはく)には金泥で武田家

家紋の「花菱文」が描かれている。

注)武田不動尊は、左手に策、右手に剱を持つ造形で、ブログでは写真掲載は遠慮したので、

公式「恵林寺見どころ」・・・、https://erinji.jp/highlightsにリンクしてご覧あれ!

写真⑧で、武田信玄の彫らせた「不動明王像」が公開されています!


武田勝頼公が、信玄の遺言を守り建造した不動明王殿の北に武田信玄公墓所がある!

現在でも、殆どの山梨県人の方は武田信玄は甲斐国の英雄として尊敬している。

拝観する観光客も、この「武田信玄の墓」だけは見逃さないようです!


YS記自習NOTEのMEMO:

特に、あの武田信玄が恵林寺を菩提寺に定めた時、快川国師を招聘して、多大な

寄進の上、恵林寺を拡充したことは周知のことであるが、快川国師を招聘した際、

同時に、武田家当主累代の中で高祖として二人だけを選んで、快川国師に塔頭を

兼帯させがあり、次号ブログでは「恵林寺②」としてその辺りを紹介したいと

思っています。


 

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甲州市、旧「松里」村を辿る①明治時代、現甲州市に「松里」と云う豊かな郷があった!20-02

2020-02-01 | 山梨、里山の美しい四季!

明治時代、甲州市塩山に「松里」と言う評判の地名があった!

「松里」を有名にしたのは、中世武田信玄以来、徳川時代に至って、

嘗て、江戸城で献上の銘品となった「枯露柿」が、明治時代に「松里

村ができて「松里の枯露柿」が銘品と云われるようになって、

ブランド化して、現在に至っていると聞いている・・・

「松里(まつさと)の枯露柿」は移住10周年の筆者にとっても、

お気に入りで、今では知りあいの柿農家から、毎年、大きな「甲州

百目柿」を頂いて、「枯露柿製法」で乾柿を作るほどになっている。

今は”あんぽ柿”の方が食べやすなっていますが、筆者の嗜好品でも

あります。「枯露柿」のことは、もし機会があれば、閑話休題に!

首都圏に住む娘夫婦にも大好物になっているので、暮れには家内の

お土産に、必ず、催促される人気ものになっています。

「松里」は、とてもロマンを感じる響きの良い地名での一つであるが、

今は地図にも地名は見えないが、流石に、銘品「松里のころ柿」の

ブランドの中には活きているので、「松里」について拘ってみた。

2020年のブログネタは、昨年まで「安田義定ゆかりの牧ノ荘を辿る」

@シリーーズで、数点の謎解きに時間が掛かったため、昨年末には

終わりにしましたが、一点だけは謎解きが出来ないままにしました。

今号から「甲州・松里を辿る」と仮題にして、YS記自習NOTEの編纂

をします。そのYS記自習NOTEより、自己意見も書くこともあるので、

要所を抜粋して毎月号、シリーズでブログ発信したいと思います。

しかも、史実や歴史家では解けない面白い「松里の昔ばなし」を

基調に、相変わらず、昔ばなし(伝説や伝承)も尊重して・・・、

一片ずつですが、ブログ毎月号で発信したいと思っています。

「松里の昔ばなし」を辿ると、武田信玄の菩提寺「恵林寺」がある

「小屋敷」辺りが中心になったであろうと、明治時代に「松里村」

の名付けの由来になったと云う、中世以降は恵林寺の鎮守となった

と云う「松尾神社」辺りから訪ねて見ることにしました!


春の桜が彩る「松尾神社」の赤い鳥居は、貫禄がある!


「松里(まつさと)」の地名の由来:

編集者、松里公民館、井尻公民館有志49名と編集委員清雲俊元氏他14名により、

参考図書、甲斐国志、東山梨郡誌、甲斐伝説集、甲山峡水、甲州方言、甲斐方言

教本を参考図書に、塩山市教育委員会の協力で、昭和54年3月に発行した

「松里の昔ばなし」によると・・・、


明治8年2月3日、上井尻、三日市場、小屋敷、藤木の各村々が合併して、

「松里村」となった。さらに、明治23年に下柚木村が合併した。

村名は氏神の「松尾神社」からとったものである。戦後・・・、1954年

(昭和29年)3月31日塩山町(現甲州市)に合併したことでその名称は消えた。

ある意味では、「松里」と言う響きの良い地名が消えたのは残念だが・・・、

特に、旧松里村の銘品「枯露柿」生産農家の方は、「松里」産と云うブランド

に拘って、今に活かしている。

この松里村に至るまでの名称の変遷を辿って見ると・・・、

平安時代は和名抄から見ると「於曽鄕」の中に入っている。

この於曽鄕の範囲は、旧塩山町、松里、日下部、玉宮、神金、大藤、奥野田

諸村で、笛吹川の以東で重川以北の一帯である。

その後、平安末期から、荘園の発達に伴い、この地域は「牧庄」に含まれた。

・・・と記される。

「松里」は、希少な田園地帯にあり、比較的平坦な農地が広がっている。


松尾神社の旧社地は「六所明神」と言って、現甲州市「ふれあいの森総合公園」の中にあった!


松尾神社旧社地は、「ふれあいの森総合公園」の芝生広場の中に、

石祠が建てられている。その解説版によると・・・、

「松尾神社旧社地について・・・、「この金比羅権現の社地は、

甲斐国志並びに神社の由緒書によると「延喜式内社松尾神社の

旧社地と伝える。康平7年(1064)に神社を現在地に移転し、

跡地を九社明神又は明神屋敷と言って金比羅大権現の社殿があった。

現在の石祠は明治12年に建立された。

九社明神とは、松尾神社との関わりのある社のことである。

松尾神社には、六神が合祀されていることから「六所明神」という。

別にこの金毘羅大権現、松尾の松尾大神、新宿の熊野権現を加えて

「九社明神」と言った。

往古にあって松尾神社がいかに大社であったかを物語っている。

平成18年2月 清雲俊元著 ※現高橋山放光寺前住職(現老師)。

2010年1月に初めて訪ねた時には、読めた解説版も今は読めない。

そこで、改めて解説版を本ブログでは復元しておいたものです。

この辺りは、昔、松尾神社が祭られていたところの言い伝えから

「松尾」と言う地名が名付けられたと云われる。

小字名「松尾」は消えているが、地元民には未だ活き続けている。

目の前を通る地元の人々も、何も気づかないで前を素通りされているが!


古より松尾神社が如何に大きな境内地であったかを示す鳥居が今もJA松里の前にぽつんと立つ 


現在の松尾神社の鳥居は、朱色の鳥居。往古の大社の貫禄を今に伝える!


現在の松尾神社本殿は大社の貫禄だが、日頃は非公開のようだが、本殿の中は新しいようだ!

松尾神社は「六所明神」とも云い、祭神は大山咋命、天照皇大神、

足仲彦尊、誉田別尊、気長足姫尊、大己貴命を合祀したのもで、

旧社地は、甲州市塩山小屋敷小字上松尾に鎮座。

延喜式内の神社で、小屋敷、藤木、三日市場の氏神さんである。

甲斐国志に、二階堂出羽守入道道蘊が神社に高さ一丈六尺金仏を

寄付したとあるが、明治維新の折、拝仏思想(廃仏毀釈)のため

破壊されたと言う。

慶応四年の記録を見ると、境内神社は現存する弁天社を始め16社を

数えたと言う。

恵林寺所蔵の検地帳に、六所宮に、9年に一度の「大つくえのまつり」

と言う行事があり、往古は大祭であったようであるが、絶えてしまい

その内容も伝わらない。

・・・と記され、今は、忘れられそうな時代になったかも知れないが、

現在も松尾神社は、地元の有力者により立派に守られていた。


松尾神社境内にある石碑「褥塚(しとねづか)」には、あの日本武尊伝説が伝わる!

「松尾神社」には、日本武尊の「褥塚と褥桜」伝説がある。

現在、小屋敷地区に郷社松尾神社があり、境内に「褥塚伝説」が

伝わる。

日本武尊が時の天子のご命令で東国平定に向かわれ、雁阪を越えて

酒折に行く途中、この地で一夜お休みになられた所と云われている。

これを「褥塚」、この塚の上の桜を「褥桜」と呼んでいる。

この塚は、元神社の東方にあったが、松里中学校建設の際、運動場

拡張のため、神社の東南方に移し、現在は境内に塚石が建つのみ。

即ち、現在の境内にあるのは、褥塚の石碑であって、元は現在の

松里中学校校庭にあったようです。

流石に広大な境内を持つ大社であったことが良くわかる。


往古、松尾神社は恵林寺の鎮守であったこともあり、神社裏の土手が恵林寺の裏まで続いていた!

今は、現松尾神社境内の裏に、このように土塁が一部残されている。

この土塁は、後に恵林寺の鎮守として、恵林寺の裏まで繋がって

いたという。

今は、近代化で民家になっていて、往古の壮大な松尾神社の境内地はJA松里支所の前にある

鳥居から長い参道で繋がり、現境内の赤鳥居へ至って、ようやく本殿で参拝できたようです。

往時は、現ふれあいの森(松尾)の旧社地から、西は「熊野天神の御箸杉」、現在地の松里

中学校庭にあった「褥塚」を繋ぎ、想像できる範囲だけでも、広大な境内の松尾神社であった

ことは確かである。

特に松尾神社の勧請は景行天皇41年(紀元771年)6月13日であるので、その頃は旧社地であった

と思うが、旧来の境内地は定かではないが、大社であったことを伺える面影は今でも感じられる

ので、概要を紹介してみました。注)但し、ご自身で時代考証しながら、見て下さい。

筆者は、かつて甲州市の神社や寺院の私的な自習NOTE作成のために調査を行ったことがあるが、

一番、判明が難しかったのが、この熊野天神であった。意外に近所の方も知らないので要注意!


現小屋敷郵便局の前にある小さな赤い鳥居が「熊野天神」への参道!(鳥居にも社名はない)


現在小屋敷郵便局の前に「熊野天神」という社があり、そこに日本武尊の御箸杉伝説碑がある!

小屋敷に「日本武尊御箸杉」という大きな杉の木があった。

熊野権現の祠の左り後ろに立っていた。

この場所は「松尾神社」の西端で、往時は境内の一部であった。

昔、日本武尊が東征の際、昼食の箸をお立てになられた。

これから根が出、枝が茂って次第に成長したものであると言い伝えられている。

この日本武尊東征伝説は、山梨県内には東征の帰路ルートが伝わるが、

雁阪の方から酒折に向かったとあるのは、東征に行く前である。

自習した「日本武尊東征伝説」の帰路ルートと逆の往ルートで伝わっているのは珍しい。

伝説と云えども、往ルートなので、日本武尊の東征伝説は甲斐国内は往復とも同じ道を

通って往復したことを考察したことが裏付けになる

但し、日本武尊が古代甲斐国を訪ねたか否かは不詳のままですが・・・、

往古のやまと王朝にとって、古代甲斐国は倭国の北端にあって要衝であったことは、

YS記自習NOTEで学習している。

同時に、筆者は日本武尊の伝説を雄略天皇に置き換えてみたこともある・・・。

そうすると、かなりの伝説は解けてくるも、証しがないものはやむを得ず推論・考察で

解かざるをえないこともあるので、考察を含めて学んだことをYS記自習NOTEでまとめ、

要点抜粋をシリーズ発信した「古代甲斐国の歴史ロマンは大蔵経寺山山麓に眠る」

取り上げていますので、機会があればご覧下さい。本ブログでは、ご容赦を・・・!

今はリニア実験線の展望地になっている「武居の一本杉」にある東征帰路の日本武尊

伝説と似ているが・・・、往路伝説だが「松尾神社」の御箸杉伝説も、日本武尊が一休

み後、杉箸を指して、その箸が大杉になったと云う同じような伝説があるので、

とても身近になったが、日本武尊伝説もまた一つ甲斐国内での往復ルートが繋がる。


何故、枯露柿は松里が有名なのか、松里の枯露柿が何故銘品なのか!?


嘗て「夢想国師の乾徳山岩窟禅修行の伝説」を学習したことがある。

~夢想国師が乾徳山修行で”命の糧にした乾柿は”アマンドウ”だった!?

”アマンドウ”と言う小柿とはいったいどんな柿なのか、徹底的に調べて

見ると、何と「アマンドウ」は、山梨県内のみの呼び名であったため、

「アマンドウ」のことは知っている人がいても、標準語は「豆柿」で、

甲斐国志に「信州の小柿は乾して食す」記されているのに、山梨県人

では「アマンドウ」と同じとは、気ずく人が殆ど居なかったようだ。

また気づいていても話せる人が居なかったのではないかと思われる。

その結果、解ったことは、松里地域の殆どの柿農家で「枯露柿」を

栽培するのに、今も「甲州百匁柿」なる柿の木の台木が殆ど、自生

原種「アマンドウ」であったのが、「甲州百目柿」の美味(滋味)

の要素となっていることがわかった。

大きく形の良い渋柿「甲州百目柿」を乾したら益々美味になる優柿!

武田信玄の時代には、多くの記録が残っているが、一番、柿作りと

乾し柿を奨励したのは武田信玄のようです・・・。

往時は岐阜から移入した”蜂谷柿”が主流と記されている・・・、

実はそれ以前から「徳和山吉祥寺略記」に伝わる「夢想国師と毘沙

門天」に伝わる恵林寺を開山の夢想国師が若い頃、乾徳山で岩窟修行

した際、修行中に出会って初の弟子にした道満が運んだ乾柿伝説が

あったので、その乾柿伝説とルーツを辿ってみると・・・、

筆者は、何と「松里の銘品枯露柿」の滋味は、恵林寺を開山した

夢想国師の導きであったことに辿り着いています

そのことは、偉い学者の先生が文献に書き残していないために、

筆者の創作と嘲笑される方もいるだろうが、頷ける乾柿伝説でもある!

柿の台木は自分で接いだ人しか品種は分からないが、アマンドウの

台木に接いで甲州百目柿を育てて作った「枯露柿」は流石に美味しい。

筆者が、具に松里の主な柿農家を取材で訪ねて見て、間違いなく

「アマンドウを台木にして甲州百目柿」を栽培、枯露柿生産に取り

組んでいる農家が殆どであったこともその証しになっています。

そのYS記自習NOTEの詳細は、本ブログに文字制限があるために

省略するが・・・、その伝説を辿って深く読みすると「夢想国師が

乾徳山岩窟禅修行で、命の糧にした乾柿は、何と、アマンドウの

乾柿だった!?」ことに、辿り着いたのです。

「~枯露柿伝説検証行脚のあらまし~」は、こんな物語である。

~夢想国師が乾徳山で岩窟修行した時、命の糧とした乾柿はアマン

ドウだった!?~

~この乾柿は、往時里山にあった自生のアマンドウの乾柿で・・・、

甲斐国志に「信州坂城の小柿は皮共に乾して食す」と記されたもの。

~「アマンドウ(信州では小柿)は、標準語では「豆柿」と呼ぶ。

特にビタミンC,Aが豊富で、血管の透過性を高め動脈硬化の予防に

有効で、小さいが現代で云うサプリメント効果が高いものだった。

~後に、恵林寺を開基するため、自らの屋敷を提供した二階堂道蘊

が、高僧夢想国師を開山に迎えるため、夢想国師が若い頃に乾徳山

岩窟修行した偉業を聞いていて、恵林寺開山のため夢想国師を招く

当たり、一層滋味豊かな乾柿でもてなそうと領民により高品質の

乾柿作りを奨励したのが始まりと考察されることが解っている!?

当初は領民の食菓子対策として、次に保存食としても奨励している。

往時の領主の思想は、武田信玄にも継承されて、特に戦場に行く

兵隊の携行食に用いられたことは、甲斐の古文献等で周知のこと。

従って、夢想国師の恵林寺開山の縁で二階堂道蘊が領主の時代より、

柿樹や乾柿製法の改良が始まり、後に武田信玄に継承されて、本格

的に奨励が進み、美濃の蜂谷柿の移入や甲州丸の改良で、江戸時代

には「甲州百目柿」と言う優れた品種が出来たことに繋がってる。

今も甲州百目柿を接ぐ台木には恵林寺を開山した夢想国師が乾徳山

の岩窟修行で命の糧にしたアマンドウが最も適しているとされ、

今も「アマンドウ」が、殆どの「松里の甲州百目柿」の台木となって、

相承されている!

故に「松里の銘品枯露柿の滋味のルーツは、夢想国師の導きだった!」

云う話になったと言うNOTEでした。

以上、シリーズ初刊号ですが、松里よもやま話として伝えておきます。


広い「松里」なので、追って”探訪スケジュール”を発信する予定です!


 

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