新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

甲斐源氏安田義定ゆかりの「牧荘」を辿る!山梨市牧丘は日本の里100選!18-09

2018-09-01 | 山梨、魅力の里山歩き!

日本の里100選」に選ばれた「牧丘」・・・!

その穏やかな里には、往古の眠れる歴史ロマンがあった!

今号より「山梨市牧丘町」を尋ねて歴史ロマンを辿ってみます。

あの勇将安田義定が所領していた「牧ノ荘」の名残を辿って見る!

往古、牧ノ荘の中心にあった中牧の「安田義定の要害城跡、小田野山」

小田野山の城下に、今に伝わる安田義定開基の荘厳の「妙高山普門寺」!

往古、あの安田義定が山梨市牧丘町西保下「小田野山」に要害城を築いた!

※写真は昭和初期の中牧村郷土史に掲載された「小田野山城下の風景」 


のような写真を見ただけでも・・・、

「牧丘」には、いたる所に歴史ロマンを感じ風景があります。

しかし、それは現在の風景写真だけでは語れない、奥深いもの

を感じますので、いつもながら画像より文章が主になりますが

自習NOTEを積み重ねるつもりで、一部抜粋して紹介します。 

平安時代末期~鎌倉時代初期、あの牛若丸こと源義経とともに、 

”天下の副将軍”を称されて、源平合戦で平家を打倒した強者。

鎌倉幕府開府に貢献した「安田義定」は 「牧ノ荘」の所領を背景

にした勇将であった。しかし、軍力恐れた 源頼朝に疎まれて

無念にも、自刃したこともあり、現在では殆ど忘れられている。

山梨県の地元では、現在、「武田信玄」は英雄として有名だが、

地元への貢献があまり伝えられないのか!?日本国平定の天下

将軍として鎌倉幕府開府に貢献した実力者としては惹かれる。

その「安田義定」が所領した「牧ノ荘」と安田義定のゆかりに焦点

を置いて、「牧ノ荘」の中心、現在の山梨市牧丘町を尋ねます! 

そこで、往古「安田義定」が所領したと云われる「牧ノ荘」

の中核であったと云う名を伝えて現在も活きる「牧丘町」は

”日本の里100選「牧丘町」”として選ばれている!

”その美しい歴史ロマンを尋ね”て、これよりシリーズで

ブログ紹介してみたいと思っています。

また、しばらくは、長編シリーズとして続けることになる

でしょうが、こつこつと辿って見たいと思いますので、

お付き合い下さい。

「牧丘」には随分以前から興味を惹かれ、地元を知り尽くした

方に既に頂戴した基礎資料や「甲斐史」に造形が深く、「安田

義定の菩提寺」と云われる「高橋山放光寺」の清雲俊元先生

書かれた「甲斐源氏安田義定」他諸資料についてもジックリ

予習した上で、改めて教えを乞いと思っています。

これから一歩、一歩、牧丘の里へ踏み出して、古老や古刹など、

物知りの方を訪ねて、自習の範囲ですが「YS記自習NOTE」

として学びまとめてみたいと思っています。寛容にお願いします。

ブログも前号までの「大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の

歴史ロマンを辿る」YS記自習NOTEは、3~4年の踏査・

取材を含めて自習した中でつれづれなるままに要点を抜粋し

ブログ発信をしてきましたが、その抜粋ブログだけでも、

序章~12章、最終章まで1年も続きました。

自習NOTEは、専門家との議論やさらなるご教授は残る

ものの、一応、一段落としました。特に大蔵経寺井上住職

には感謝以外の言葉もなく、大変お世話になりました。


 今年は、異常気象どころではなく、暑すぎてデスクワークが

多くなっています。自由人の過ごし方として「晴耕雨読」と

云う言葉の意味を理解し、自ずと身についてきたところです。

今や健康管理を合わせて「晴耕雨読」の日常に「猛暑中はクー

ラー下でPCワーク」を加えて、”日々是好日”としています。

これから、アクセス不便な山梨の里山を自転車で走るか、一歩、

一歩山登りの如く歩いて、これから取材を始めたいと思います。


もし、「安田義定ゆかりの牧ノ荘を辿る」と題して、その研究テーマに造形が深く、

詳しい方がおれれたら、ぜひご教授下さい。

もし、おしかけYS記NOTE自習生が現地へ勉強に訪れましたら、ご寛容にご教授を!


 牧丘」は、山梨甲州市に移住して以来、もっとも惹かれている里の一つ。

※昨年サーバーを引っ越したため、旧バージョンは見にくい画面だと思いますが、

2013年7月号「47)日本の里100選「牧丘」乙女高原にレンゲツツジが彩る初夏!」

が最初で、この時は通称杣口筋を紹介し、窪平から杣口筋を上り、中牧神社を

経て・・・・、古刹雲峰寺、金桜神社、金桜神社旧蹟、乙女湖、大弛峠から金峯山

を望むところまでを詳しく紹介しました。

2012年3月号「牧丘の竹林に福寿草が咲いた!甲州に春が来た!」

2016年12月号「牧丘に何故「足利尊氏と二階堂道蘊の宝篋印塔が並ぶのか!?」

2017年2月「牧丘城古寺に建つ二階堂道蘊と足利尊氏の宝篋印塔の石塔二基

~続編」

2017年8月号「山梨、戦国の古道「秩父裏街道」と「鈴懸の関」跡」などありますが、

それほど興味深いところでもあるのです。

※もしお時間があればですが、バックナンバーを開いて見て下さい。

特に以前から、あの勇将安田義定が領していた「牧ノ荘」の名を活かして「牧丘町」

が生まれ、合併して「山梨市」になった際も「山梨市牧丘町OO」としてその歴史的

名称を残しているので、とても響きが良く、今も・・・惹かれている。

最初の取材をした時に、暖かい人とのふれあいや想い出があるも杣口(そまぐち)

筋を歩いて上る時に、安田義定ゆかりの地が多い「塩平筋」が気になったままで

あったが、このテーマ課題は史料を収集しながら時間を要するので中断していた。

その間、石和の「大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の歴史ロマンを辿る」ために、

あしかけ3~4年を要してしまい、

ようやく「牧丘」の自習ができることになった次第。とてもワクワクしています。

塩平筋に残る「勇将安田義定の歴史ロマンを始め、牧丘の魅力再発見」のつもり

で、歩いて見たいと思っています。

今号は序章の前の~まえがき~のようになりましたが、これから頑張って見ます

ので、来月号よりまた、気の長いお付き合いを願います。


 

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「古代甲斐国の歴史ロマンは大蔵経寺南麓から始まった!」シリーズ最終章まとめ編18-08

2018-08-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

~5世紀、ヤマト王権は雄略天皇の御代、大連物部目に命じ倭国

東端甲斐国の覇権・統治のために物部氏一族(不詳)を遣わした。

物部氏一族は東海道を経て若彦路を越えて甲斐国へ入り、奈良原

から武居の花鳥山へ立ち寄り、甲斐国(現甲府盆地)を見渡したら、

正面北山筋にヤマトの三輪山を彷彿する松本山(現大蔵経寺山)

臨み、甲斐国統治の拠点は現大蔵経寺辺りが相応しいと見た!

故に「古代甲斐国の歴史ロマンは大蔵経寺山南麓から始まった!」

と見ている。そして8世紀に至り聖武天皇の御代、奈良朝廷は現

春日居に甲斐国府を開府して統治体制を整えたと見ている!

その布石に伝行基開基の古刹寺院が要衝に配置されていた!?

※2018年9月号~「古代甲斐国の歴史ロマンを辿る」シリーズ序章~第4章参照

今号「大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の歴史ロマンを辿る!」

シリーズ第12章は「甲斐国府を中心とした伝行基開基の寺院配置」

に焦点を置いて、”最終章まとめ編”を発信します。

シリーズ序章から振り返って素人の論拠と解析にお付き合い下さい

古代甲斐国の歴史ロマンは大蔵経寺山南麓から始まった!~マトリックス解析~

甲斐国府と補完関係にあったと見る寺本廃寺付近から見る伝行基開基の寺院配置。


古代甲斐国は奈良朝廷の統治体制下に入り、春日居に甲斐

国府を開府。天平年間には国司田辺史広足が派遣されている。

甲斐国府の配置位置から考察すると、聖武天皇が僧行基を招聘

して仏教寺院の建立を推進したが、往時の仏教寺院は仏教思想

普及のための修験と併せて「甲斐国府」の警護も兼ねて要衝の

置に山岳寺院を配置したと見ている。


「甲斐国府」の配置を中枢に、伝行基開基の仏教寺院の配置

をマトリックス解析図を応用して見ると、警護の要衝に適した

にあることも頷ける。

代甲斐国に於ける伝行基開基の寺院配置と「国府」の補完関係解析図

 


 奈良時代741年(天平12年)聖武天皇(奈良朝廷)は僧行基を招聘し、

そのノウハウを活用して仏教思想の普及と仏教寺院の建立を推進を図った。

往時、倭国東端甲斐国にも「国家鎮護」を目的にして、仏教修験の山岳寺院を建立。

養老6年(722)大蔵経寺寺伝では伝行基開基と伝わり、それは行基作弥勒像を安置

して弥勒堂を開基。行基の安置した弥勒像が本尊となって弥勒平に建立された弥勒堂

は⇒弥勒実相院となり⇒青獅子山松本寺(七堂伽藍を構える寺院となり、仏教普及策

の広告塔の役割を果たし)⇒やがて中世、応安3年(1370第11代甲斐守護武田

信成公により室町三代将軍義満に言上して庶子観道上人を迎え、真言宗智山派として

中興開基。現在地に「松本山大蔵経寺」の七堂伽藍が建立して現在に至っている。

注)弥勒平の伽藍跡は現在は山中に平地が残るのみで、寺伝と共に享保6年(1721)

古絵図にのみ記す弥勒堂の礎石跡が証があるが、現在は現地を確かめる術はない。

※詳しくはシリーズ第5章「弥勒平編」~第6章「松本山大蔵経寺編」参照

あの行基上人は、養老年間は、朝廷に疎まれて放浪ができたであろう時期に甲斐国

に来ることができたか否かは比定できないが、殆どは畿内にいて、行基集団形成し、

社会インフラの造営や寺院建立を行い民衆の絶大な支持を得ていたとことが認められる。

天平年間になって聖武天皇の御代、行基は奈良朝廷に招聘されてから、仏教思想を

基軸にした政治体制構築のため、全国に国分寺を配置するための総本山たる東大寺

盧舎那仏の建立で勧進の功績を挙げ、行基は「大僧正」の最高位を得ている。

そのような史実を照らして見ると、天平年間には奈良朝廷にあって仏教思想の普及

寺院建立を管掌する総責任者となっていることから、往時、奈良周辺で多く彫ら

れた弥勒像(木造)を行基作として下賜し、全国的に仏教を広めたと推察される。

それ故に弥勒像安置の伝行基開基寺院が伝わる。古代甲斐国ではその前後に行基作

薬師像を安置する寺院も建立されており、伝行基開山ではなく、伝行基開基となる

古刹寺院があるのは、そのことが由縁であると考察される。 


往時、甲斐国中央部にあった伝行基開基と伝わる古刹を注視!

伝行基開基となる現大蔵経寺山中の弥勒実相院(後に七堂伽藍を構える青獅子山松本寺

=現大蔵経寺の前身)、伝行基開基の末寺菩提山長谷寺(第8章参照)、伝行基ゆかり

の廃瑠璃山鎮目寺跡(第9章参照)、また、里宮にして伝鎮目軍団駐屯地国府警護

も兼ねたと考えられる山梨神社(第7章参照)の遷座・建立。

摂社吾妻屋宮(第10章参照)、そして雄略天皇の時代に配置されたと云う日下部氏

(第11章参照)、そして現甲州市に至るが、東山の要衝に柏尾山大善寺が配置され、

甲斐国防衛のための鬼門に伝行基開基の裂石山雲峰寺、南方の若彦路方面には、行基

の時代より前に創建されている伝無音律師開山の無碍山瑜伽寺と、少し後、南方に、

甲斐国分寺、国分尼寺が建立された配置位置などを総合的に(マトリックス)考察して

見ると、上図のような寺院配置になっているので戦略的配置に疑いはない。

注)鎮目寺跡碑には行基作薬師像三体が大善寺、瑜伽寺に安置された伝承がある

ため、若彦路方面の瑜伽寺を考慮に加えてあるが、瑜伽寺の寺伝には行基のゆかりは

見えない。

しかし、往時は国府を中枢にして寺院、神社が戦略的に配置され、統治体制が整えら

れて行ったと見ることには疑義もなく、読者も上記マトリックス解析図の有様にて

概要は想像してもらえると思います。

このことは私的な考察につき、既に専門的に研究をされた方がおられたら、ぜひ、

ご教授願いたいと思っています。


~「大蔵経寺山南麓から始まる古代甲斐国の歴史ロマンを辿る」~

4世紀、松本山(現大蔵経寺山)の中腹から裾部近くには積石塚等古墳も

多く、現大蔵経寺南側には古墳時代から平安時代にかけて多くの集落跡が

発掘されていて、里人が集まったことが証されている。

注)考古学的には、甲斐銚子塚古墳などの発掘により既に4世紀後半には畿内影響を

受けていた形跡があると云われる。旧高麗郡などの地名など渡来人(主に高麗人)の

残した先端文明も、この辺りには早くから伝えられている。

5世紀、雄略天皇の御代、大連物部目に命じ倭国東端甲斐国覇権統治のため、

物部氏一族を遣わして朝廷が支配する古代甲斐国の統治体制を整えていった。

その足がかりを築く本拠の館を現大蔵経寺境内辺りに構えたと見ているので、

そこから「古代甲斐国の歴史ロマンは、大蔵経寺南麓から始まった!?」と見る。

注)現大蔵経寺境内にある物部神社の旧蹟物部宮が御室山山上にあったことで、

往時の物部氏一族の館があったことを逆説的論拠としている(※第4章参照)

7世紀末創建と推定される寺本廃寺の発掘によって、それを補完機能寺院

見ると、筆者は「甲斐国府」設置を概ね同じ時期ではないかと見ている。

養老6年(722)、山中の弥勒平に伝行基作の弥勒像を安置して弥勒堂を開基。

弥勒実相院として修験道場になり、山岳寺院として七堂伽藍を構えた青獅子山

松本寺へと変遷。奈良朝廷の仏教思想普及の広告塔の役割を大いに果たした

と見ている。

やがて甲斐国は平安時代になって荘園時代を迎え、石禾荘なども中心的な

位置を保ったが、やがて荘園時代は鎌倉、室町時代に至って武家社会に代わる。

応安3年(1370)第10代信武公の守護代として先に甲斐国入りを果たした第11代

甲斐守護武田信成公は甲斐国帰還後、八代の石甲城に館を構え、真正面に

見えた現大蔵経寺南麓を要衝地と見て、甲斐国内平定のための基幹寺院とする

ために、室町三代将軍義満に言上、庶子観道上人を迎え、真言宗智山派松本山

大蔵経寺として中興開基した。

往時、山中の弥勒平にあった伝行基開基の青獅子山松本寺を現在地に移し、

荘厳の七堂伽藍を建立して中興開基としている。

※真言宗に改宗した後の寺歴は、寺記に詳しく記されて継承されている。

本シリーズは現住第37世秀典和尚の監修、教授によって、素人の興味が、

ここまで辿り着いたわけですが、只、只、感謝しかありません。

何分、史実で解かれていない時代のことを、特に伝説や伝承、寺伝を頼りに、

積み重ねて論拠を構成したので、未だ要所はつかめていない処はありますが・・・、

この辺りで、取りあえず一段落とすることにしました。合掌!


あの織田信長が大蔵経寺に御禁制を発して庇護したとは・・・!

天正10年、武田氏滅亡後、織田軍が甲斐国に侵攻した時、恵林寺など特に

武田氏所縁の寺院は悉く焼き尽くしているが、松本山大蔵経寺は信長の御禁制

を発布され庇護されている。注)これは信長も大蔵経寺を甲斐の要衝と見た証し。

信玄公が信成公を高祖として崇め、菩提寺の恵林寺へ快川国師を迎える時、

「継統院」と号す塔頭を千野から恵林寺に移して建立し、兼帯させているほど。

残念ながら恵林寺は織田軍の兵火で継統院も焼失し、現在、墓碑も不明のよう。

武田氏三代と云われる信虎、信玄、勝頼の時代は、特に有名なので省略するが、

信虎時代に、石和に近い川田館から、現甲府市の躑躅ケ崎に武田館を移し、

先進的な城下町を築いた基礎が、県庁所在地にある現在の甲府市になり・・・、

来年は、開府500年を迎え、記念行事の準備が進んでいるようだ。

天正11年(1583)、いちはやく徳川家康は甲斐国に入り、甲府が東西の要衝と考え

甲府城の縄張りをした説もあるが、その甲府城から見て、大蔵経寺は鬼門に当たる

要衝立地と見極め、同4月20日、当時、自ら立ち寄り御朱印状を与えて徳川家祈願

に定め、以後累で庇護される。

徳川時代は全盛期であったと思われるが、その後、明治以降も地元の有力な

旦那衆に支えられて、現在も荘厳の伽藍を立派に継承されている。合掌!

(YS記2018)


春日居「甲斐国府跡」と伝わる現笛吹市春日居字国府(こう)の「甲斐奈神社」

春日居国府跡「甲斐奈神社」神殿裏から望む大蔵経寺山、御室山、菩提山方面 

「甲斐国府」から見ても、現大蔵経寺山(弥勒平、御室山)や菩提山は要衝と

して相応しい位置にあり、諸条件を備える山岳寺院である。また、山側から見ても、

警護上国府周辺を一望できる所にあり、往時の山岳寺院の修験武闘集団(団徒)

に育成されていったことも考察できる。

歴史的に見て往時の山岳寺院は要衝の陣地としたこともあることで、筆者は「往時の

寺院は要衝に戦略的配置」と云う表現をしている。


 

「寺本廃寺跡」も春日居の「甲斐国府」の補完寺院と見れば配置位置が頷ける。

現在、寺本廃寺の発掘跡は、このような農地に変わっているが、その背後には、

要衝の役割を持った伝行基開基の菩提山長谷寺、廃瑠璃山鎮目寺、現大蔵経寺山中

の弥勒平にあった弥勒実相院⇒青獅子山松本寺は全て甲斐国府と寺本廃寺を警護する

に相応しい立地にあったことが分かる。

寺本廃寺跡の掲示版には「往時の大伽藍絵図」が描かれる。往時の伽藍は要塞。


以上から、古代甲斐国の伝行基開基の山岳寺院は春日居の「甲斐国府」を中枢に

して、山岳寺院配置がされていたことが分かる。


  5~8世紀、古代甲斐国はヤマト王権の覇権により、統治下に入り、

飛鳥、奈良時代へと変遷するが、古代より仏教思想に基づく律令国家形成

の目的のために、古墳、宮殿、寺院や飛鳥京、藤原京、平城京などの

大造営事業が続き農民は食べるものにも不自由し、民衆にとっては、飢饉

や疫病の恐怖にさらされていて、厳しい死活問題が続いていたと云われる。

しかし、その基盤づくりは民衆の動員のために仏教の普及こそ一大事業で

あったと考えた奈良朝廷は、仏教本来の思想である困窮する民衆を救うと

云う布教活動を行った僧行基をのノウハウを活用したのではないかと云う。

こうして、奈良朝廷下では甲斐国にも甲斐国府を置き、仏教思想に基づく

律令国家への道が始まったと云えるのである。(YS記自習NOTEより)


 

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古代甲斐国の歴史ロマンを辿る!第11章~雄略天皇の御代、ヤマト王権から物部氏一族と日下部氏一族も派遣されて来た!?18-07

2018-07-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

古代甲斐国の歴史ロマンを辿る!第11章~雄略天皇の御代・・・、

ヤマト王権から物部氏一族と日下部氏一族も派遣されて来た!?~

序章より論拠にしているヤマト王権の雄略天皇期の時代考証のため,

今号は、東山梨郡(現山梨市)に伝わる「日下部氏」の足跡を辿る! 


山梨の日下部氏一族の足跡の一つと考察される「七日子神社」


「日下部の里・・・」 甲州風土記 上野晴朗著によると・・・、

東山梨郡(現山梨市)に、有名な窪八幡神社がある。この神社は東面しているが、

神社の参道から笛吹川を東へ渡って田圃中を抜けると、日下部中学校舎が果樹園

と桑園の向こうに見えて来る。ここに「日下部上代集落遺跡」が発見されたのは、

昭和24年11月であった・・・。

「日下部遺跡」現在は日下部中学の校庭に隣接して石碑があるのみ!

昭和24年発掘当時の日下部の里の様子~日下部町誌掲載写真の複写による。

本写真は撮影者が不明で山梨市の問い合わせの担当部署が不明のまま掲載するが、

本題ではないのでご容赦。あくまで参考にさせて頂くのみ、引き続き本文へ戻る。


この遺跡は、奈良時代から平安時代の初め頃にかけての集落跡だそうである。

この辺りは、正倉院御物の「金青袋白絁(つむぎ)」の墨書きに見える「甲斐国

山梨郡可美里 は可美郷にあたるのではないかと推定され、日下部の地名も、伝説

日下部王が住んだと云う話から、遺跡を通して調庸の白絁を貢献した日下部氏

は、恐らくこの日下部遺跡に結びつく人ではなかったかと想像されるのである。

注)日下部町誌によると、七日子神社記に日本武尊立ち寄り伝説ありと記され、

日下部氏は甲斐国造を祖とする日下部連の一族・・・?山梨市誌にも記される。


YS記自習NOTE:

古代甲斐国の歴史ロマンを辿ると、 5世紀、ヤマト王権は雄略天皇の御代、

倭国東端甲斐国の覇権統治のため、大連物部目に命じて物部氏一族を派遣

したと考えている。物部氏一族は東海道を経て若彦路を超え、甲斐国に

入国した最初の地が、武居のワカタケル封地伝説として残っている因縁で

はないかと考察している。そして武居の花鳥山一本杉から甲斐国の盆地を

見晴らすと、真正面に松本山(現大蔵経寺山)が望め、まるでヤマトの

三輪山を彷彿して感動を覚え、その南麓を本拠の館に定めたのである。

現大蔵経寺境内地辺である。その論拠は逆説的ではあるが、御室山山頂

(現大蔵経寺山中)にあったと云う物部神社社伝に記される旧蹟物部宮の

存在そのもの。物部氏一族がその南麓に本拠の館を構えた証ではないかと

云う論拠になっている。

蹟物部宮は、第4章に記す通り、現在はご神体柱と石祠を祀る。場所は

第5章で述べる「奈良・養老6年に至ってあの行基が大蔵経寺旧蹟の弥勒堂

開基した弥勒平の南方にあたる」ところで、論拠の重要ポイントになる。

本シリーズは論拠の組み立てから始まるが、その物部氏一族が最初に構えた

本拠の館は、石和の松本山(現大蔵経寺山)の南麓の現大蔵経寺境内辺りに

あったのではないかと云う論拠になっている要所です。

本シリーズは、全て古代甲斐国における物部氏一族存在を論拠として始め

いるが、加えてその時代考証のためにも、広域だが山梨市に残る「日下部」

の地名と伝説についても書き添えなければならないと考えます。そこで、

今で云う「広域配置」だが、古代甲斐国の覇権統治のために、都から派遣

されたと考えられる「物部氏一族」を始め「山梨市に伝わる 日下部氏一族」、

「金桜神社に伝わる雄略天皇が甲斐国造塩海宿禰に命じて里宮を建立」伝説

など。注)甲斐国では時代考証は異なるが、豪族三枝氏(祖は守圀)のその

始祖は甲斐国造塩海宿禰説もあり。注)金桜神社は「甲斐国最古の甲府御嶽

「金桜神社」に金のなる木「鬱金の桜」が咲く!17-05で紹介・・・。

https://blog.goo.ne.jp/yssoho/e/5686962631a8969628ebfe286748b967

何れも雄略天皇御代に関わり日本武尊伝説もその雄略天皇ではないかと云う

論拠にも頷けることになる。

以上、古代甲斐国の歴史ロマンを辿る論拠になるので「符節」としています。


注)日下部地区は、往時はそれほど恵まれた農地ではなかったようで、むしろ後世は

桑畑が盛んになったと云うが、七日子遺跡のあった貢明神の別名をもつ「七日子神社」が

鎮座して、往時は朝廷に貢米を献上する折には、往古は此処に貢神社に纏わる古寺が

あって、その寺社の前で儀式が行われたと伝えられているほどに・・・。

七日子遺跡調査報告書に上野晴朗氏は記している。

YS記)従ってこの地域こそ、日下部氏一族が開発した米作の田園があったものと思われる。

現在では想像できないが、往古はかなり良質の米が栽培されたであろうと推測できる。


七日子粥伝説の「七日子神社」は、日下部氏一族が開発した貢米宝庫の証し!?

この辺り一帯は、後に広域に「日下部」支配の地名として残されている。

この一帯に七日子遺跡が発掘されている。日下部氏一族の名残は想像の世界のみ。

「七日子神社の由緒」・・・、「七日子粥」でヤマトの都に轟く!

第29代欽明天皇(540年)の御代、皇后堅塩媛命が御懐妊の時、天皇は勅命をもって

甲斐国に祭神「七日子の神、木花開耶姫命、大山祇命、彦火火出見尊」を祀られ、

御神田による貢米を御粥に炊いて差し上げると、安らかに皇女を御出産された。

これは七日子の米粥を御徳と思召され、御名を「豊御食炊屋媛尊」崇め奉った。

(注)和風諡号(しごう)は(とよみかけしきやひめのみこと)と読み崇めた※日本書紀

この御方が後の第33代推古天皇であると記される。 

 

注)第33代推古天皇元年(593年)、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として

万機を摂行させたことで知られる。


日下部氏の足跡を辿ると、「古代甲斐国と日下部氏の関わり」が想像できる。

塩山市史に要約した分かりやすい項があるので紹介する。

①「古事記」に、開花天皇の孫沙本毘古(さほびこ)王は「日下部連、甲斐国造の祖」。

注)開化天皇は初代神武天皇から見て9代目(紀元前157~98年頃)の上古時代の天皇。

②「ふるさと山梨の歴史」磯貝正義著、甲斐国造の項に・・・、日下部は、雄略天皇

(457~479年)頃、皇后の草香幡被曽皇女(くさかのはたひこひめひこ)の名を付け

全国に置かれたもので、甲斐国にも日下部が設けられた。

また上野晴朗氏も同様に日下部上代集落遺跡調査報告書に、雄略天皇の御代に日下部氏

は全国に配置されたと記している。


このことは、山梨市北部の農民日下部某が、後の律令政治の世に庸か調として献上した

布に書かれた「甲斐国山梨郡可美里日下部□□□絁一疋 和銅七年十月」の文からも知る

ことができる・・・。

名代は、命名された皇族等に属し、従者、兵士等の労役の提供や生産物の貢納に従事

した一群の農民集団であるが、日下部の場合、これを中央で統轄したのが「日下部連」

である。その甲斐国へ配置された地方の管掌者が「日下部直」であったとされる。

従って、「日下部」は甲斐国における最初の名代の設置であったことを暗示している。

YS記)雄略天皇の御代、甲斐国中央に軍事力をもって物部氏一族を先兵として配置し、

続けて米や農産物等の貢納体制を整えるために、甲斐国でも早くから日下部氏が配置

されたものと云える。

③磯貝正義氏の「図説山梨の歴史」においても、異説があると前置きして・・・、

「日下部はワカタケルの時、「妃草香幡梭皇女」の名代として全国各地に配置された

と見るのが正しいであろうと記している。

YS記余談)全国各地の行政の配置の一つにある「日下部」は、甲斐国においては

山梨郡(現山梨市)、於曽郷(現甲州市の一部)等において往時の行政配置が引き継

がれていると思うと感慨深い。

今は「日下部」の名を残す「日下部警察署」などは代表的なものである。

その他に、甲府裁判所日下部出張所、日下部税務署、日下部農事試験場等の諸官衛が

明治時代に相次いで設置されている。

今は他地域に移転して名称も変わったが、中央銀行日下部支店、日下部記念病院、

日下部保健所などもあった。

古代甲斐国の時代には、現笛吹市、山梨市が如何に甲斐国行政の中心にあったかを

物語るだけではなく、同時にヤマト朝廷が東端甲斐国を統治するのに、広範囲の地域

拠点づくりを考慮したかが伺える。


七日子神社拝殿 今は七日子粥より「安産の神」としてお参りする若夫婦が多い。

 

七日子神社神殿、この神殿の裏にあたる畑辺りが七日子遺跡の発掘場所


今号は、石和大蔵経寺山南麓から始まったシリーズにおいて、山梨市に伝わる

「七日子神社」と「日下部」について、考察・自習NOTEを記しました。

「古代甲斐国の歴史ロマンを辿る」シリーズの第11章は「符節号」になります。

毎月号の1頁1章方式でも、全体を理解をして頂くのは困難だと思いますので、

筆者自身の自習NOTEの集大成のためにも、次の8月号では、まとめ符節号として、

マトリックス原図を元に、整理して見たいと思いますので機会があればご覧下さい。

今までのシリーズ課程で、もし論拠に異論がある場合は証をもってぜひご教授下さい。


 

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古代甲斐国の歴史ロマンを辿る~第10章東屋宮(山梨岡神社摂社)編18-06

2018-06-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の歴史ロマンを辿る!

                                  ~第10章東屋宮(あずまやきゅう)編~

5世紀中、ヤマト王権から遣わされた物部氏一族が現大蔵経寺境内辺りに館

を構えた。ここから本シリーズの論拠が始まっている。

ヤマト王権は雄略天皇御代、大連物部目に命じて倭国東端の要衝甲斐国の覇権

統治のため、物部氏一族を派遣し東海道~若彦路を超えて甲斐国に入国した!

若彦路の武居にあるワカタケル封地伝説(※ワカタケル王は雄略天皇に比定)。

雄略天皇が甲斐国造塩海宿禰に命じて「金桜神社里宮」を建立したと云う社伝

が語る古代甲斐国と雄略天皇の時代考証が深く関わっている。

伝説や社伝などを論拠にして始まった”古代甲斐国の歴史ロマンを辿るシリーズ”

も・・・、この第10章で終盤となる予定。

第1章から第8章菩提山長谷寺編、第9章行基ゆかりの廃・鎮目寺跡編を訪ねて見て、

「古代甲斐国の歴史ロマンを辿る道」で、欠かすことのできない「四阿山と東屋宮」。

今号は、第10章(最終章):東屋宮(あずまやきゅう)編を紹介します。

山梨岡神社摂社「東屋宮」!この御神体山「四阿山」の山容中腹に神が宿る!

写真上には赤鳥居は微かに写るが、写真右の幟のある参道を上り、山腹の

参道を左へ進むと赤い鳥居が門構えとなり、その先に「東屋宮」は祀られている!


~東屋宮(あづまやきゅう)~

山梨岡神社(以下本社と記す)の北方約1km、北山の中腹に鎮座し、日本武尊、

弟橘姫命を祀る。社伝によれば、日本武尊が東征の折、当地の山路で休息した

ことに因み、その旧跡を「四阿山権現」と称して尊を祀ったのに創まると云う!

ウイキペディア山梨岡神社摂末社の項

~日本武尊東征伝説も謎解きが残っているが、訪ねて見た~

春の例大祭(毎4月3日~5日)に参道に挙がる吾妻屋宮(東屋宮)の幟!

この大幟を目印に、ここから参道を上る!この目印の石門の幟は史跡

「関の地蔵堂」を見つけると参道入り口は、そのすぐ上にある。


参道の中間で導いてくれる幟は四阿山山腹の「東屋宮」の道標となる。

日頃は、目印の幟もない。参道は雑草が茂って歩き憎いので要注意!

筆者も秋に一度訪ねたが、道が草で荒れているので春祭りまで待って訪ねた。

白いガードレールの左方面は菩提山長谷寺方面へ、四阿山は直進が正参道。

現在は殆どの方が、車で上るので菩提山方面へ行き、手前梵字橋跡付近で

右へ折れる道が付けられていて、軽自動車等でお参りされるが駐車場はない。


荒れ果てた参道を上ると、このような「拾一丁」の石標が残っていた!

東屋宮参道、拾一丁の道標。江戸時代は参拝客も多く、隆盛だったようだ!


古い参道に咲いた一輪のヤマツバキの花!春の慰みとなって目に入る!


東屋宮の貫禄のある赤鳥居が迎える!そのうち新構築されるらしい!

赤鳥居はまだしっかりした門構えである。その奥には”猪ゲート”が見える!


参道を登り切り、最後の石段を登ると、その上に貫禄の拝殿がある。

石段もかなり年期が入っているが、この石段を登ったら御利益を得られると・・・!

東屋宮は社記によると、本社(山梨岡神社)の古社地(日光山高千穂

の峰)であると云う伝えもあり、また、式内社「甲斐奈神社」に比定する

説もある※甲斐国志は一説として掲げるのみ、甲斐叢記は断定している。

天明年間(1781~1789年)に著された加賀美遠清の「向陽随筆」には、

かつて山梨の総社で国に大事・変災が生じると勅使を差遣されたとの伝えを

主張するが、事実であったとしても早い時期に本社の摂社とされたようです。

と釈注が記されている。


東屋宮神殿は、厳かな社を構える!拝礼!

拝殿の右側に回ると厳かな神殿がある。その右崖の洞窟に小祠が祀られる。

天正11年の家康の朱印状で、本社とは別に国衙、鎮目、万力などの諸郷から

1貫300文が「甲州四阿山領」として安堵されている。・・・・。

1989年(平成元年)に火災で全焼したが、1992年(平成4年)に再建された。

ウイキペディアによる記述をもとに歩いて見ると、神殿が新しいはずである! 


立ち枯れしているが春日居町指定天然記念物の”杉”が古社を物語る。

現在は、殆どの人がこの道路を車で上って参拝しているらしい。駐車場はない。

この道路の入り口は菩提山長谷寺の梵字橋跡付近にあり、右へ折れる道が敷かれる。

春日居町の天然記念物に指定されて、地上約5mの枝の分岐点より土中に

根をろした奇形木として植物学上貴重な木であったが、1989年(平成元年)の

火災でご神木の大杉も焼失したと云う。

写真中央に写る焼失して立ち枯れた大杉は栄枯盛衰物語るかのような存在感。

「焼失段階での推定樹齢は約350年」とされる。

筆者が考察するに、古代より伝わる日本武尊東征帰路の立ち寄り伝説は・・・、

ヤマト王権の雄略天皇御代、大連物部目氏の命じて派遣された物部氏一族に

置き換えると物語が解けるというか、繋がってくるので様々な論拠を展開している。

古代甲斐国の覇権・統治のために遣わされた物部氏一族が、現大蔵経寺

境内辺りに館を構えて、甲斐国の統治体制を整えるために、現大蔵経寺山中

と山麓を具に巡察して、将来の甲斐国の統治体制(国造や国司の本拠とする

役所体制と警護体制等)を構想したのではないかと考察している。

従って、推定の論拠であるもこの「四阿山」こそ古代甲斐国「国府」を春日居に

置くことになった立地選定の際の展望の山であったのではないかと考察している。

そうすれば、後に生まれた「甲斐奈神社」説、「四阿山権現」と称す日本武尊伝説、

山梨岡神社の古社説などの伝説が生まれてくる論拠となっている訳も理解できる。


神殿奥の洞窟に祠が祀られる。平成再建時に往古を忍んで祀った祠! ?

筆者は、この洞窟祠こそ創建時の小祠のレプリカではなかったかと想像する。

時代を5世紀とすれば、論拠とした現大蔵経寺山中”御室山山上”の旧蹟物部宮

の小祠と同じような祠であったのではないかと考察できる。

この洞窟が往古の穴か否かは不詳だが、この小祠を祀った方に伺ってみたい。

~大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の歴史ロマンを辿る~シリーズのYS記自習

NOTEによると、「四阿山」は「四阿権現」として「東国」を東征したとする日本武尊

を後世に朝廷が脚色した「日本武尊の東征伝説」に基づく伝記であろうが・・・、

この伝説こそ、雄略天皇の御代、物部氏一族が5世紀に甲斐国に遣わされた時代。

即ち、ヤマト王権が古代甲斐国の統治基盤を築く歴史の始まりではないかと考察

している。注)中世になると武家社会に代わり、甲斐国は武田氏の統治時代に至る。


御神体山に相応しい四阿山に登って下界を見渡すと広がる甲斐国の風景!

※写真は現在の風景。恐らく、往時は殆ど建物も見えない広い原野であったろう!

何のデータも地図もない時代に見た風景は、直感的だが目視録に値する。

往古、物部氏一族がヤマト王権の命で甲斐国松本に拠点を置き、甲斐国の

統治拠点となる地域を具に巡察していくうち、将来、現春日居辺りに拠点

(後世の国府)を置くことが望ましいのではないかと考えたと考察している。

四阿山から見た現春日居町辺りの風景を臨んで、この辺りに”国府”を置くの

望ましいのではないかと朝廷に報告したのかもしれないと想像するのみ。

残念ながら、証となる古文献もなく、特に排仏派の物部氏宗家が滅亡後、

物部氏一族の記録も朝廷において殆ど消滅改竄されたと云われるので、

見方を変えれば・・・、故に”歴史ロマンは膨らむ”と考えることにしている。


四阿山の東屋宮は、まさに往古の東征伝説の因りを伝えるため

日本武尊と妃橘姫命の二神を祀った古山宮と云える!

観光客向きではないが、古代甲斐国の歴史ロマンの香りが漂う!


~甲斐国志~ 巻之二十二 山川部第三 一)四阿山 鎮目村の項

下方に山梨岡・御室山あり 神社の部、古跡の部に記せり。

注)上記写真及び記述の通り、四阿山は見るからに古代御神体山の山容である。

その項に続き・・・、参考に記すが・・・、

○菩提山 四阿山の西に並べり この山道遠く望めば女陰に似たり、因って母胎山

と書す。注)本シリーズバックナンバーの菩提山長谷寺編に詳しく紹介している。

山上に古城、新城、小手城と称するところあり、熢火台の跡なるべし。

注)特に中世になって武田氏の時代にも、山城(烽火台)が県内にはり巡らされ、

大蔵経寺山を始め、菩提山辺りは、要衝の位置にあったと云う証が伝えられる。

笈型(篝火)は御室山の上にあり、仏事の部、古跡部に記せり。

注)閑話休題・・・、

篝火は甲斐国志の頁を具に捲ると甲斐国には五ケ所の送り火が記されるので、

筆者の調べによると、京のように五大送り火があった時代があったと思われるも、

各項毎に調べて見たが、四ケ所が確認できたものみ。五ケ所目の境川地域は

甲斐国志に記すものの、全く不明であった。従って、山梨県などの広報では

恐らく、根拠もなく現在確認されていると云う理由で「四大送り火」と表現している

ので要留意。甲斐国志も集約した記載があれば現在も有名な行事となっている。

○入会山 本村及び松本より入る・・・と記される。 


~甲斐国志~神社の部~「四阿権現」鎮目村の項。

「四阿山権現」鎮目村・・・社地は北方山の中腹にあり、麓より拾丁餘あり。

御朱印領 一石八斗餘、社記相伝えて「日本武尊、妃橘姫命」二神を祀る

「甲斐奈神社」なりと云う。祭礼は6月18日挙国群衆す。平日も登排者多し。

天正十一年発未四月十八日一貫二百文の御朱印及び御代々の御朱印を

相蔵む。神主は中村和泉口十四男七女七。・・・と記される。 


~春日居町誌~

社地は鎮目小字日向3777番地。80坪(旧社地は264㎡)。

東屋宮(山梨岡神社摂社)、吾妻宮(あずまやぐう)、四阿山(あずまやさん)

とも云う。

祭神は、日本武尊、妃橘姫命(おとたちなばひめのみこと)

祭日 4月3日、4日、5日(旧祭日6月18日)、4月3日吾妻宮より山を下り、

山梨岡神社に遷され、祀られて、5日に山宮へ帰られる。

注)吾妻宮の例祭は4月4日のみ。

建物 本殿、梁間二間、桁間二間二尺、こけら葦(江戸時代中期の建物と推定)、

拝殿 梁間二間、桁間三間、鳥居二基、槻の木1基、高二間半、横二間、石鳥居1基

   高6尺、横6尺、但し石鳥居は昭和28年の終戦の月に頂上付近の落石により

   、数個に破壊されている。拝殿前の石段、段急洗鉢がある。

江戸時代には参拝者が多かったようだが、今は静寂の中に厳かな空気だけが漂う。

17年春、例祭前日に参道が整備されている山道を家内に付き合ってもらって、

きつい坂も一部分あったが。歩いて登ってみたら、往古の思いが香る古宮であった!

春日居を見渡せる風景に・・・、登って良かったと思います。


本編の「四阿宮」は今は草ボウボウだが、往古の存在感は考察できるものがある。

また、バックナンバーで紹介した「山梨岡神社は、往古は「御室山」そのものが、

「御神体山」として崇められ、「春日居国府設置計画」は不詳だが、里宮として

遷座され、国府を警護する鎮目軍団を備えるために境内を有す神社として創建

されたのではないかと考察することができるのである。合掌・・・!


 

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大蔵経寺山南麓、古代甲斐国の歴史ロマンを辿る!第9章~行基伝説の廃鎮目寺跡!18-05

2018-05-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

大蔵経寺山南麓に眠る、古代甲斐国の歴史ロマンを辿る!

第9章:名僧行基伝説の~廃・瑠璃山鎮目寺~を紹介します!

第1章~第9章までを辿ると、古代甲斐国の名刹寺院配置は現大蔵経寺山に

現松本山大蔵経寺の旧蹟:彌勒堂~彌勒実相院~青獅子山松本寺と菩提山

長谷寺が伝行基開基として建立されていることが分かる。

伝行基開基の寺院が春日居国府の配置を中心に配置されたと見ると・・・、

甲斐国東山の柏尾山大善寺、鬼門の位置に裂石山雲峰寺が、何れも寺伝だが

伝行基開基で養老~天平年間の建立と伝えられるので改めて論拠が深まる。

畿内に事例もあるようだが、特に山岳寺院の役割は戦略的な立地配置と見る

ことできるので後の天台か真言寺院として戦略的に配置された寺院と考察

して良いと思われるが、その後、中世には転宗・転派している寺院も多い。 


 今号は、行基伝説に所縁のある「廃瑠璃山鎮目寺」を辿る!


廃・瑠璃山鎮目寺跡は「やまなしの歴史文化公園」として遺されている。


春日居鎮目(しずめ)の瑠璃山鎮目寺(ちんもくじ)跡・・・。 

古代甲斐国の構築において、甲斐国の中心拠点となる現大蔵経寺山立地

条件を如何に重視していたかを考察できる。

伝行基開基の寺院は養老6年彌勒堂~彌勒実相院~青獅子山松本寺と、

菩提山長谷寺などだが、何れも甲斐国府の開府計画に基づき戦略的配置

以て建立された名刹であったと云えるのである。

そこに、現大蔵経寺山南麓に沿って「曹洞宗龍沢山保雲寺」が現存するが、

これは室町時代、嘉吉元年(1444)創建にて、テーマとする伝行基時代の

建立ではないので、自習NOTEの記載は省略する

「瑠璃山鎮目寺」は、甲斐国志には「曹洞宗龍沢山本寺末」と記す。

本テーマの鎮目寺の本寺は「曹洞宗龍沢山保雲寺」であるので、ここでは

詳細は省略するが、以下に概要だけを紹介します。 ご容赦下さい!


廃・瑠璃山鎮目寺跡は「やまなしの歴史文化公園」として遺されている。

山梨県春日居町の解説版によると、鎮目寺(ちんもくじ)跡・・・、

曹洞宗で正式名称は「瑠璃山鎮目寺」。明治5年(1874)に廃寺となる。

養老年間(717~724)に僧行基が一本の柏の木から「3躰の薬師如来」像

彫り、そのうち1体を鎮目寺(当地鎮目)に、次の1体を大善寺(勝沼町)に、

次ぎの1体を瑜伽寺(八代町)に納めたと伝えられている。

明治時代まで鎮目寺では「お薬師さん」の祭も行われていた。

鎮目寺に安置れていた仏像等の一部は現在、保雲寺で保管されている。

注)薬師如来像は、保雲寺首座寮に安置されたと記録が残る。本堂は慶長

11年焼失後、その後再建されて、梁間5間、惣門9尺×6尺 、東司一箇所、

黒印寺中150坪。墓石は惟康親王と云われるが、法名年月日は不詳で、

未確認。鎌倉時代に執権北条氏から将軍職を追われた惟康親王が武田家

を頼り、この鎮目寺に暫く滞在したとも伝わる。

また江戸時代に佐渡奉行鎮目惟明(しずめこれあき)はこの地の出身と

云われ、惟明の父、惟真は信玄・勝頼に仕えた武将と云われ、武田家

滅亡で隠居したと云う。その後、惟明は徳川家に仕え、武田遺臣である

大久保長安が務めた佐渡の金山奉行も任されていた。惟明の墓は佐渡に

あるが、父惟真は鎮目寺に葬られたと伝わる。因みに惟真の妻は甘利

虎康の娘と伝わっている。鎮目寺棟札に「虎康」と記されていると云う。


 往古の墓碑であることを伺わせるが、刻字が読めるのは江戸時代の墓石。 


廃・瑠璃山鎮目寺は、本寺の保雲寺に寺伝として伝わるのは、

養老中、行基柏樹一木を以て三尊を刻む。

当寺、大善寺、瑜伽寺に安置とあるので伝行基開基とは云わない

ようだが、伝行基所縁の寺院とするは、間違いではないであろう。

従って本寺保雲寺より古く創建された可能性もあるが解析は不詳。

何故なら、後世になって伝行基開基寺院には薬師如来像や彌勒

菩薩像等を刻んで安置された謂われを以て伝行基開基の名刹を

競った寺院も見えるからである。(YS記)


鎮目寺跡のことを・・・、

甲斐国志」等で調べて見ると・・・、

保雲寺末黒印百五十坪。本尊は薬師如来。伝本州三薬師の一つ。

養老中行基柏樹一木を以て三尊を刻む。柏尾の大善寺、永井の瑜伽寺、

当寺などと云う。勅願あり、今は焼失。武田家の棟札付録に記す。

更に春日居町誌によると・・・、

瑠璃山鎮目寺(明治7年廃寺となる→明治5年太政官布告により無縁無檀

につき廃寺)宗派:曹洞宗、所在(旧域):鎮目小字寺之前、住職:無住、

団信徒:なし、無縁、無檀。

本尊:薬師如来(身丈一尺)、脇立:日光・月光菩薩(御身丈共に7寸)

創建:養老年間(717~723年の間)に創建され、僧行基(後の行基

大菩薩)により、柏の一樹を以て3躰の薬師如来を彫り、1躰を鎮目寺に、

次の1躰を柏尾山大善寺に、次の1躰を永井の瑜伽寺に納めたと伝わる。

注)但し、永井の瑜伽寺寺伝には、行基前になるが、霊亀元年(715)

無音律師創建、本尊は薬師如来、大善寺、長谷寺を三薬師とするとある。

詳しく寺伝を重ねると、各寺院における寺伝と異なるものも見える。

瑜伽寺と長谷寺に薬師如来が納められたと云う点も検証中である。

往古の伝説は寺伝を合わせると一致するものが少ないので難題である。


 養老年間の跡は不詳だが、栄えた江戸時代(文化年間)の墓石は見える!


薬師第一」の刻字年は不詳。      中興貫通和尚の墓石も見える。

 


仏教思想に基づく政治体制の構築を図った聖武天皇御代・・・、

天平年間、僧行基は奈良朝廷に登用され「大僧正」の位を賜る。

奈良時代天平年間、聖武天皇御代、朝廷に登用された僧行基が東大寺大仏

(盧舎那仏)建立に成功したこともあり最高位の「大僧正」を賜り、主要国の

統治体制整備のため、朝廷は日本国の主要国に「国府」を配置し、「国府」

中心として、仏教思想普及のための修験道場等山岳寺院の建立を促し、

国分寺、国分尼寺の建立の詔を発布した天平時代に至る。

朝廷は僧行基の力を利用して朝廷の力とし、特に行基の資金調達ノウハウ

活用して寺院開基を推進したとも云われている。

古代甲斐国にも定かではないが地元豪族などの支援も得て現大蔵経寺山

伝行基開基の養老6年(711)彌勒堂~彌勒実相院~靑獅子山松本寺

(現松本山大蔵経寺)、伝同養老6年開基の菩提山長谷寺などが建立され

のかもしれないが、古文献等の証しが見当たらないので定かではない。

第5章、第6章の大蔵経寺編、第8章菩提山長谷寺編で尋ねてきたが、

何れ春日居に甲斐国府が開かれたこと関連して、伝行基開基の寺院は

戦略的に配置された立地条件にあると考察できるので終章で整理したい。

YS記)往古の国府を警護したと考察する鎮目軍団は山梨岡神社に駐屯した

と伝わるが、筆者は、瑠璃山鎮目寺(注)開基開山は不詳だが、筆者は伝行基

の薬師如来安置が伝わるので、春日居に国府が置かれた頃、行基菩薩の采配

にて菩提山長谷寺の里寺のような戦略的配置で創建された可能性もあり検証

を要す。そして、室町時代、曹洞宗龍沢山保雲寺が創建された時、「鎮目寺」は、

転派して曹洞宗保雲寺末寺となったのではないかと勝手ながら想像している。

この点は、機会を見て再検証する予定だが、もし造詣あらば教えを乞いたい。


「龍沢山保雲寺」は、先に紹介した御室山山麓に位置し、

写真中央の背後には、伝行基開基の菩提山長谷寺がある。

廃鎮目寺も伝行基時代所縁の寺院跡だとすると、もしかしたら、

当初は後の一時代は天台寺院として、山梨岡神社境内に駐屯

したと伝わる鎮目軍団とともに「国府」の補完寺院であったの

かもしれないと想像もしている。古代甲斐国最古の寺院跡と

云われる「寺本廃寺」が「天台寺院」だったと云われる由縁と

同様に解釈をできるものと見ている。

将来は、確かな解明がなされることを期待したい。


「龍沢山保雲寺の参道」往時は如何に広い境内地であったかが想像できる。

この写真で見ると、参道の直線上手前にあたる場所に旧蹟鎮目寺跡の碑がある。


山梨県春日居町の解説版によると・・・、

曹洞宗で正式名称は龍沢山保雲寺。嘉吉元年(1441)に創建されたと云う。

戦国時代、江戸時代に二度の火災にあい、武田家、徳川家より賜った文書類

焼失した。

鎮目寺が廃寺された時に移された木像薬師如来像・木像日光・月光菩薩像等

も安置する。また、墓地内には古墳が一基確認されている。 ・・・と記す。


龍沢山保雲寺の貫録の「山門」。その先に「中門」が見える。 


龍沢山保雲寺の境内は、今も静けさの中に”荘厳な気”が宿る!


 

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