新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

山梨・甲州市を辿る⑩上萩原を超えて「一ノ瀬高橋」へ

2022-05-01 | 山梨の魅力再発見!

山梨県甲州市は、大自然の恵みに形成された地形!

また、暮らしている人には叱られるが、まるで都会

の人が憧れる大自然の中の暮らしが見える長閑な里!

今号は、前号で紹介した甲州市塩山の第①編萩原郷

の源卿「上萩原」に続き、第②編は「一ノ瀬高橋」

紹介します!


「一ノ瀬高橋」は、長閑な”高原”の印象だった!

甲州市塩山の一ノ瀬高橋を始めて訪れた時、まさに”高原”という印象

をもった調べて見ると「一ノ瀬高橋」は令和3年11月現在で人口

は22人16世帯。地元の方は皆さんが車に乗っておられるのだが、

殆ど車とすれ違いのない走りやすい道路で、一ノ瀬高橋~三ノ瀬高橋

の全体を走っても約50分もあれば十分のよう。この時、筆者は家内

とハイキング気分(スタイルは登山装備)で全行程を歩いてみた。

帰路のバスまで、約5時間を歩いて探索した。


一ノ瀬高橋は、こんな雰囲気の”高原歩き”だった!


大日本地名辞典によると・・・、現、甲州市塩山一ノ瀬高橋。

上萩原村・上小田原村から萩原山中を北東へ約3里半の道程にある

二つの集落。(享保9年萩原十ケ村入会山明細帳・古屋信義家文書)

一之瀬は笠取山の南、藤尾山(天狗棚山)の北で、多摩川源流部の

一ノ瀬川上流位置し、高橋は藤尾山の西にあり、東流して一ノ瀬川

に合流する柳沢川の支流高橋川中流域に集落を形成する。

犬切峠で結ばれる両集落は併せて一ノ瀬・高橋両沢と呼ばれた。

一ノ瀬は、市之瀬とも書き、市野瀬も併用された。

黒川金山の衰退により金掘りが離散して行く過程での移住である

ので、17世紀中頃までの成立が推定される。

※黒川金山の隆盛により、享保9年(1724)、人口は139人・

世帯数42あった集落であるが、令和3年11月現在、人口12人、

世帯数16であるので、黒川金山の衰退により、離散した集落で

あることが良く解る。

今は、大自然好きの筆者のような人のみが訪れるようで、夏や秋の

シーズン以外には、人に出会うは殆どない。

黒川金山とは、一之瀬高橋集落の南に含める鶏冠山(とさか山、

黒川山とも)中にある鉱山遺跡。

広くは同集落周辺の山中にある龍喰谷(りゅうばみだに)金山等も

含める。鶏冠山は、標高1710mを測り、山頂には、鶏冠神社の

奥宮が鎮座する。山中には、黒川千軒、寺屋敷、女郎ゴー、裾の

柳沢川沿いには”おいらん淵”等の金山にまつわる地名遺構等が残る。


現地には甲州市(教育委員会)の解説版があり「黒川金山」と「おい

らん淵」伝説を解説。黒川金山のあった鶏冠山は、現在は閉山され、

金掘りはできないので、登山好きの筆者は大菩薩嶺の帰路で分岐路

確認したことがあるが、山頂の鶏冠奥宮へは登拝したことはない。

歴史的に見ると、定かではないが平安時代~鎌倉~室町時代にかけて、

豪族であった三枝氏、頼朝に疎まれた安田義定、武田信虎の時代より

信玄の時代に最盛期を迎えたと云われ、勝頼の時代には、急速に衰退

し、徳川時代になって、大久保長安らも黒川金山に関わったが、

17世紀中頃には、閉山したものと思われる・・・と記されている。


黒川金山には「黒川千軒」と云われた鉱山街の名残りである整地

された平坦面と坑道跡が残されており、一ノ瀬高橋地域には、

竜喰谷(りゅうばだに)金山、牛王院平金山などがあります。

なお、当時金山を経営管理していた集団は「金山衆」と呼ばれ、

産地武士団を形成して、塩山上萩原、下於曽、熊野等に居を構えて

いました。


「おいらん淵」伝説が伝わる一ノ瀬高橋・・・!

現「おいらん淵」は、宴台はもちろん吊り橋もない険しい渓谷!


「おいらん淵」は、地元では「銚子の滝」と呼ばれていますが、

黒川金山にまつわる悲しい伝説が残されています。

戦国時代、金採掘が全盛期を迎えた頃、「黒川千軒」云われた鉱山街

の近くに、金山坑夫慰安の遊女を置いた場所がありました。

注)昔から、千軒、三千軒等は、”沢山”という意味で記されている。

武田家の滅亡により、これ以上経営が出来なくなったため、閉山に

あたり、金山の秘密が漏れることを防ぐため、ここ柳沢川に宴台を

つくり宴席を設けました。遊女達の宴の最中に、宴台を吊っていた

藤づるを切り落とし、宴台もろともに、淵へ沈めて口封じをした

ことから「おいらん淵」と呼ばれるようになりました。甲州市。

注)今でも不思議なことに、山梨県では「すべて武田家、すなわち

”信玄”が繁栄の歴史の要となっているようだ。


一ノ瀬集落の里宮「鶏冠神社」は犬切峠から一ノ瀬高橋に入る峠!

鶏冠神社の「さわら」は甲州市(旧塩山市)指定の文化財・・・!

高橋集落から犬切峠を越えて、一ノ瀬の集落へ向かう林道の入り口に

鎮座する「里宮鶏冠神社の鳥居の左右脇に立つ二本のさわらのうち、

正面左側にある一本である。樹高30,0m、根回り5.1m、

目通りで4.4mを測る。サワラは「さっぱりの意」であると言われ

・・・、現地は明治40年の水害により、多くの家屋が流失・破壊

され、その後、東京都の水源地としてヒノキとカラマツが植林された

ため、さわらは、ほとんど見当たらなくなった。一般には、直径が

1mに達するものであるが・・・、目通り4.4mを測る大樹として

生育しているのが、非常に珍しく、貴重なものである。

平成十三年1月塩山市教育委員会・・・と解説される。


今も、黒川鶏冠神社は山中、厳かに・・・鎮座する!


前号「上萩原」編に記される予定だったが、

残念ながら、容量限界のため②部に記載している。

上萩原の「岩昌寺」は・・・、驚くほど、広々としている寺院!

 

甲斐国志 巻之七十五 仏寺部第三・・・によると、

江林山 岩昌寺上萩原岩波 

臨済宗武州三田領二又尾村海禅寺ノ末、除地七段六畝歩、開山ハ

本寺七世関宗徳光、開基ハ秩父郡浦山村ノ人浅見六右衛門徳光ノ父ナリ

客殿六間半九間、本尊ハ粘華釈迦、庫裏五間十一間、衆寮・山門

備ハレリ塔司二宇。・・・と記され、往古より大きな古刹である。

注)七段六畝は換算によると、約7524㎡(約2276坪)。

写真で見る通り、都会では考えられない広い敷地が岩昌寺に見える。

開山の昔から、大きな敷地を有する古刹であることが伺える。


曹洞宗に相応しい「雲龍山法幢院」の参道は如何にも古刹を感じる!

甲斐国志 巻之七十五 仏寺部第三・・・によると、

上萩原村岩波 曹洞宗落合村永昌院の末。

黒印寺内4百坪山林二町三町、客殿ハ間九間半。本尊は釈迦。

庫裏五間十二間、衆寮・山門、永正元年甲子歳本寺開山神岳通竜禅師

校者曰く永昌院開山一華文英ヲ云フ。ノ弟子南富宗宿草創ス、慶長の四奉行証文同制札

ヲ所蔵ス 末寺一、抱所二・・・と記される古刹。


一ノ瀬高橋」には、無形文化財「春駒」が、現代も続く・・・!

一ノ瀬高橋の春駒は、毎年1月14日の小正月に行われ、芸能系列

から見ると、春駒踊り、いわゆる「駒踊り」であって、伝承場所は、

一ノ瀬(旧村落)として、一ノ瀬、二ノ瀬、三ノ瀬と一ノ瀬から

分村した落合である。一ノ瀬の春駒伝承の資料は全く残されていな

いが、口承では、黒川金山の採金従事者(金堀衆)の間に伝承され

代々受け継がれてきたものとされている。一ノ瀬高橋の春駒は、

1月2日の御紙集めに始まり、同11日のぶちかまし、14日の

本祭り、15日の別当送りをもって終わる。

春駒は、一ノ瀬(本村)で一頭。二ノ瀬、三ノ瀬で一頭が別々に

仕立られ、11日のぶちかましで両村総出で祭りを行うが、14日

は、一ノ瀬と二ノ瀬、三ノ瀬では、それぞれ祭りを行った。

県内でも特出すべきもので、全国的にも貴重な無形文化財である。

昭和42年8月7日県指定 平成14年3月 山梨県教育委員会。

注)筆者はJR塩山駅前の甘草屋敷で「春駒」を拝見したことがある。

  写真はその時に撮ったもので恐縮です。


「二ノ瀬高橋」の長閑な暮らしの風景・・・!

「二ノ瀬高橋の集落風景は長閑そのもの、民家の番犬も野放しで!

 雑踏の中の”都会人”が憧れそうな里・・・!・・寂しすぎるか!?


高橋の中心部にある観光用のロッジ!人っ子一人いない静かなGW!

写真には日時があるが、今回はいつでもバス路線があるところではないため、

五月のGWに訪れたものの人っ子一人も合わず、写真の通りの静けさでした。

往時、筆者の都合で撮った写真を活用しているので、ご容赦ください。

山梨県に移住して里山をつぶさに歩いてみた。さらに焦点を絞って、甲州市

具に紹介するのは初めてです。甲州市は南北に長く、中心地の旧塩山市内

繁華街だけが甲州市ではないことがよくわかった。大自然という表現を

しばしば使ってきたが、考えてみれば、山梨県域の73%が森林や山だと

覚えた通りの里山である。

従って、次回も「甲州市域を辿り、殆どの方が読めない地名と言う

「西広門田=(かわだ)」という地域(塩山中心地の外れ)」を辿ってみる。


 

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甲州・塩山「上萩原」を辿る⑨「上萩原」は、往古「萩原郷」の源境!22-04

2022-04-01 | 山梨、秘めた魅力の再発見!

甲州は「塩山上萩原」。山梨県は往古甲斐国時代、

甲斐国防御の重要な鬼門の位置にあり、寺伝だが、

古代、聖武天皇の御代、行基上人が仏教普及のため

裂石の山中に「裂石山雲峰寺」を開基したと云う。

往時の行基は、奈良朝廷で聖武天皇の招聘により、

”上人”として、仏教思想の普及に努め采配し、古代

甲斐国の鬼門除けの重要拠点として開基したよう。

筆者はそれを行基の戦略的寺院配置と称している。

中世、武田信玄の時代には、番所(関所)が配置

され、「萩原口留番所」と称して甲斐国防御を果

たす重要な拠点とされたことでも知られる。

今号は2編に分けて「上萩原」を辿って紹介します。


筆者が始めて尋ねた時・・・、畑の雑草の中に、キジ鳥を見た!


樋口一葉は往時の郷土の誇り!先祖の旧邸跡が史蹟に・・・!

「たけくらべ」で有名なあの樋口一葉がの地の出身であることを

筆者も移住してから始めて知った。

塩山駅北口前の「甘草屋敷」資料館で、初めて見たのが始めで、

その時は、日本紙幣の肖像画像になっている姿を・・・。

上記写真は、あの樋口一葉の実家の墓が史蹟になっていたので写真

に治めたもの。青梅街道沿いの上萩原の入口にあった!

甲州市塩山出身の有名人としては、東京で生まれ、一度も帰郷した

ことがないようだが、樋口一葉は重要な人物で、有名だからだ!

その後、「たけくらべ」など名著も学ぶことになったが、まさか

生涯学習の糧になろうとは!?


「上萩原」は、裂石の番屋茶屋の辺りで標高950mもあると聞いて

驚いた!首都圏で頻繁に訪れた「高尾ですら標高599mと覚える。

旧塩山市役所の場所が標高410m(石標)であったことで、何と現在

JR塩山駅辺りから、標高約500mは高い処にあることにを知った!


現在、上萩原・裂石の拠点は「番屋茶屋」がポイント・・・!


今は地名のみ残る「番屋」跡に、先祖が開かれた「茶屋」だった。

「番屋」時代の写真はあるが、今号では省略。明治時代になって、

柳沢峠越が通じ、人の流れが変わったのを機会に現地に移転された。

現在は「大菩薩」行のバス終点になり、大菩薩峠に向かう登山客が

集う拠点だ。筆者も何度か、大菩薩峠⇒大菩薩嶺を登山の際に立ち

ったが、上りには、約4時間必要のため間合いがなく、帰路には、

バスの時間が合わず、「大菩薩の湯」に浸かって帰る習慣になって

からご無沙汰である。いつまでもお元気でいて欲しいと願ってます。

筆者は、山好きのこともあり、大菩薩峠の分岐路にあったため、

良くお茶を馳走になった!「岩波さん」という気さくな奥さんで

あった。ご主人は、往時、長年、癌を患っていても、筆者が箕輪山

の石切場から積み出した「御影石」を運んだトロッコ軌道の呼び名は

「神金軌道」を調べていて知り合ったのだが、子供の頃のことを良く

覚えておられて、病を押していろいろと・・・親切に教えて頂いた。

「番屋茶屋」の女将さんはお元気だろうか?

風の便りでは「元気なことは伺っている」が、娘さんには最近偶然に、

筆者の失せ物探しで世話なった。しっかりした娘さんなので、

こちらも見違えたが・・・!「お母さんはお元気ですか?

ご無沙汰ばかりで済みません。宜しく伝えて」と言うのが、精々だった!


伝行基上人開基と伝わる「裂石山雲峰寺」は、厳かな古刹!

「裂石山雲峰寺」境内を訪ねると如何にも古刹を感じる!

古刹「裂石山雲峰寺」は、天正17年(745)伝行基上人開基。

「裂石山雲峰寺」鐘楼の鐘の音は、郷中に轟くかのように!?


大日本地名辞典によると・・・、

「上萩原村」は中萩原村の東にあり、重川 上流左岸沿いの東西に

長い村。対岸は上小田原、下小田原の両村。大菩薩峠の西麓に辺り

東の大菩薩嶺(2056.9m)から南へ高山が連なる北西下りの村落。

村名は「かみはぎわら」と呼ばれる。

天正10年(1582)徳川家印判状写し(古文書選集)に甲州上萩原郷

とみえ、同所25貫文の地と夫丸三人被官等が本給として加藤五郎作

に安堵され・・・慶長古高帳には村名がみえ、高289石余幕府領。

他に裂石(現雲峰寺)領2石余と岩間大明神(現神部神社)領1石余

がある。寛永10年(1633)徳美藩領となって以後、福生(ふくおり)

村と同じ。・・・・・・、また雲峰寺の鎮守金比羅宮の氏子は、

「上萩原村上下、小田原上下四ケ村」と記されるように、天保6年

金比羅祭礼当番につき願い下げ書同文書、上切、下切は独立村落に

等しかった。・・・、用水は重川とその支流の佐野川、文珠川の

三ケ所から引き入れ、耕地の殆どが畑であったので年貢は皆金納で

あった。※萩原煙草の主産地であった他養蚕により年100両ほど

の収入を得ていたことは注目に値する!

文化2年の農間稼方品々書上帳によると、日傭取、縄ない、草履、

木綿織、蚕飼、絹糸引などを基調にしたようだ。

青梅往還の萩原口留番所の番役は、月の下15日、昼夜二人づつ

たので、諸役は免除されていた。・・・・・・、・・・・・・、

元禄11年(1698)の寺社帳には、10ケ寺が記されるが、

曹洞宗全相庵、臨済宗東光庵、庚申齊、広福庵、髄縁庵、浄土真宗

徳成寺、浄土宗畠桜寺は廃絶。※(廃寺)となっている。

古刹の臨済宗妙心寺派雲峰寺のほか、慶長8年(1603)黒印地

400坪を与えられた曹洞宗法幢院(寺記)と同宗岩昌寺がある。

岩間明神の山宮と伝える東の山腹の矢立石、天狗の祠では干魃の際、

に雨乞いが行われた。他に、大神社、神明社、松田山神社がある。


木食白道は当村の生まれ。木食行道の弟子になって、諸国を遍歴、

安永10年(1781)には、郷里を訪れ、法幢院に逗留して地蔵

や観音を刻み、また、痛み愁いの人々を呪いにより救治した。

白道が残した木食仏は数多いが、赤尾仲泉寺の子安地蔵尊(現湧泉寺

所管)下小田原上条にある百躰観音、上小田原福蔵院の百躰観音等が

有名である。


岩間神社「神部神社」は往古「萩原郷」の鎮守!

神部(かんべ)神社:岩間明神とも呼ばれた・・・。

神部神社の参道には、現在も「岩間温泉旅館(写真右)がある。

往古(江戸時代末期まで)は「岩間大明神」とも呼ばれ、文珠川

南岸の神戸(ごうど)にある。

祭神は、神直日神、大直日神、八十柱日神、表津少量命、表筒男命、

中筒男命、底筒男命。旧郷社。江戸時代末期までは、岩間大明神と

称し、湯山明神とも言った。

延喜式神名帳に見える山梨郡「神部神社」を当社に比定する説がある。

(※甲斐国志)かつて上、中、下の萩原村は「萩原郷」で、それ

以前は「神部庄(荘)」と呼ばれていたと言われ、その鎮守であった

推定される。・・・・・・・、

戦国期、萩原郷は、武田家の家臣「土屋右衛門尉昌続」の所領で、

元亀2年(1571)土屋昌続によって社殿の造営が行われ、

その代官で同郷地侍の羽中田新兵衛と神部村氏子中が共同で造営に

当たったことが棟札によって知られる。(※社記)・・・・・・。


神部神社の石鳥居から随身門を潜り、石段を上がると本堂へ・・!


番屋茶屋の直ぐ近く、茶屋の女将に紹介された秘湯「雲峰荘」!


「柳沢峠茶屋」は首都圏東京のライダー仲間では

有名ポイントになっている!

奥多摩を経由、青梅街道で東京・新宿から一本道!


青梅街道は、現在は柳沢峠越で山梨県に通じている!

この写真のように、現在も東京都民の水道源として、水源地

が大自然のまま保持されていることをしみじみと教えられた。


「柳沢峠茶屋」は首都圏のライダー仲間では知らない人はない!


柳沢峠は、「現在、東京新宿で知られているが、その青梅街道を

進むと、江戸時代は大菩薩越えと称して、現大菩薩峠を越えて

青梅街道(甲州裏街道)が山梨に通じていたが、明治時代になって、

柳沢峠の道が開かれ、現在の青梅街道が国道として整備されて、

現在、首都圏の旅好きの人々に、「柳沢峠は明治時代に開通し、

江戸時代には、甲州裏街道として大菩薩越えのルートがあった

ことを、改めて知って欲しいもの・・・。


第2編では、更に、更に奥地の「一ノ瀬高橋」を紹介します。

今は「一ノ瀬高橋」は二ノ瀬、三ノ瀬と奥深く、殆ど尋ねる人は

いないが、物好き夫婦は、新緑の季節になると、柳沢峠を越えて、

落合まで路線バスが運行されるので、その機会に辿って観た。

乞う、ご期待です!


 

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甲州市塩山「中萩原」を辿る⑧「中萩原」は、往古の風景を想い出す!22-03

2022-03-01 | 山梨の魅力再発見!

「中萩原」は、前号の下萩原と上萩原の中心にある!

まさに、慈雲寺の大糸桜など、往古の時代を彷彿する

里山である。瀧本院と慈雲寺を結ぶ古道(現、農道)は、

現在は「塩山桃源郷」と呼ばれ、美しい南アルプスを

背景に甲府盆地を臨む往古の「金の道」に相応しい!

今号は「甲州市塩山中萩原」を訪ねることにします。


塩山桃源郷からの冬の眺望!

甲州市塩山の市街地に、象徴「塩の山」と背景に大蔵経寺山の峰、

その後ろに南アルプス白根三山の北岳・間ノ岳・農鳥岳と望める!


塩山桃源郷から見る滝本院と塩ノ山、大蔵経寺山と南アルプス連峰!


中萩原村=現甲州市塩山中萩原   ※大日本地名辞典参照。

上粟生野(かみあおの)村の東に位置し、南の恩若峰(標高約982m)から、

北西に低くなる暖傾斜の土地(扇状地形)で、西流する重川との間に開ける。

東堺を川幅7間余りの佐野川が北流して重川の支流文殊川に合流する。

名は「なかはぎわら」と呼ばれる。字小山は文安2年(1445)11月15日の

武田信重寺領目録写(甲斐資料集成稿)に、山梨郡萩原郷の内小山と見え、

年貢二貫文の同地は、板垣殿から向嶽寺へ寄進された寺領であった。

・・・と解説される。

今流に言えば、「塩山桃源郷」と呼ばれるような桃の花畑がまぶしい・・・、

甲府盆地の展望が開ける”美しい里山”である。

近年は、里山好きの観光客が大勢訪れている。コロナ渦前ですが・・・。

ただ、山裾の扇状地に開けているため、坂道はきつい。


桃源郷に桃の花が咲いたら・・・こんな風景に・・・!


「荒沢山瀧本院」は、往古、あの武田信玄が度々休んだところと云う!


「荒沢山滝本院」・・・、真言宗醍醐派。

本堂には「不動明王像」が祀られている。

花見のシーズン前、今は本堂の再建中!庫裏はモダンな住戸になった!

創建は明らかではないが、昔、真言の修験僧が開基したと伝えられる。

※一説には、真言宗の普及のため、弘法大師兄姉が訪れて、弟の方が

この地に留まり、布教に務めたと言うのが、この寺の始まりという。

また、この寺の直ぐ上の方に御龍石という大きな石があり、往古、武田

信玄が黒川に行く途中、休んだと云われる。

この寺の奥は”滝ノ沢”と云い,深い山沢である。

奥の瀧には”大蛇の・・・伝説”が伝わる。

応永8年(1401年)千野に武田館を信春公が構えた時、祈願寺として定め、

792坪の寺領地を寄進。武田辰巳不動尊として崇敬したと伝わる。

その後、信玄公の時代、黒川金山の開拓(掘削)にあたり、黒川街道の

道筋にあたり、しばしば立ち寄って休憩したと伝わる。

この地は、風光明媚な寺として伝わり、塩山桃源郷の遊歩道に指定され、

塩山八景にも指定され、年々、訪れる人も多くなっていると云う。


天竜山慈雲寺への野道に、「日向薬師」がある

※以前、春爛漫ノ頃、撮影した写真だが、毎年4月中旬頃になると・・・、

境内は美しい展望の公園にもなる。


桜の満開の季節には、遠望を楽しむ家族ずれが多い!遊具もある公園!

小字向久保組の守護「薬師如来」を祀る! 甲府盆地の展望が美しい!

”お薬師さん”として親しまれ、春は、桜が美しい!

昔、柏尾山大善寺の薬師如来が”日陰の薬師”であり、この日向薬師が

陽向の薬師と呼ばれたことがあった。※地元旧家の萩原さん方にある聖徳4年の版木。

昔は、陽向堂、薬師瑠璃光如来医王などと称し、病む者、悩む者が、

六角堂に列をなして祈願をしたとも伝わる・・・・・。


この「陽向堂」から、慈雲寺へ下るのが、桜の季節の定番ルートだが、

今回は、めったに行けない地図に載る”八天宮神社や稲荷神社”を訪ね

ようと思ったが、残念ながら、道が解らず断念した。地元民に聞いたが、

「子供の頃の想い出はあるのみで、最近は行ったことがない」と言われる

ほど山の中なので、残念ながら、参詣するのを取りやめた。

「今からでも良かったら、車で案内を・・・と親切に言ってく下さる奥様も

おられたが、まだ、何件かの取材もあるので・・・」と・・・、失礼した。

その神社は、駒形社、大原山神社など、山梨県神社庁の資料によると、

由緒不詳で、間口3尺、奥行6尺5寸の記録のみ有り、撮影を中止した。

しかし、「八天宮社」は山中なれど、石鳥居もあり、参詣して見たかった

が・・・、社伝のツマの軒下に菊のご紋があって、神武天皇から八代の

天皇をお祭りしてあると云う。

山梨県神社庁の資料によると・・・、

「八天宮社」の鎮座地:甲州市塩山中萩原3601

祭神:神武天皇、緩靖天皇、安寧天皇、銘徳天皇、考昭天皇、考安天皇、

    考霊天皇、考元天皇。

例祭日:10月15日、宮司名:今澤茂信、境内地:442坪、氏子戸数:250戸

由緒沿革:創建年月日不詳。

天正2年(1574)武田信玄公より2貫500匁寄進。宝永7年(1710)地頭役、

松平甲斐守により、本殿再興され、同年、信徒により、石段100段、尚

その上10段の石段を築き本殿を安置、文政2年、本殿造営、元治元年

(1884)、昭和57年石鳥居、石段、御手水舎、石灯籠が氏子より寄進。

とあるが、山中にあるので地元民も遠ざかっているようだ!


「稲荷神社」は、写真は撮ったが、私邸の勧請神社にて、地図に載るも、

地元慈雲寺住職にも尋ねたが、ご存じなかった・・・、省略した。


天龍山慈雲寺の現在は「大イトザクラの慈雲寺」としても有名・・・!

近年、数度か訪れた時、筆者の撮影した慈雲寺の大糸桜の満開の写真。

桜の満開は、例年4月中旬頃。大勢車で訪れるので、専用の駐車場は、

檀家のボランティアの方が大忙しだ。できるだけ早朝参詣をお薦めです。


「天龍山慈雲寺」の瀟洒な三門から見る本堂と広い境内地・・・!

甲斐国志:巻之七十五 仏寺部第三・・・以下のように記される。

「天竜山慈雲寺」中萩原村

同宗(臨済宗)同末。黒印七段四畝十二歩。本尊十一面観音。夢想の開林と云う。

末庵二、心華庵・獅子庵と云う。共に除地なり。この辺りに夢想手植えの

西湖梅とて、高さ二丈五尺余。囲一丈七尺余なる古樹あり。

慈雲寺所蔵に康燕四十三年書す校者曰く康燕四十三年は清の聖祖の時

にして我が宝永元年なり。補陀羅迦山普齊寺碑記あり。全文付録に載す。


中萩原の北西部にある。 「天龍山」と号し、寺号は「慈雲寺」。

”三門”を潜ると正面に大イトザクラと本堂がある。その裏に墓地。

その右側に庫裏等あり、樋口一葉の文学碑等が並ぶ。

本尊は聖観音。暦王年間(1338年~42年)に夢想国師の開創と伝わる。

創建時は”鎌倉建長寺末であったが、慶長年間(1596~1615)に雲山に

より再興。その時、京都妙心寺派に転派。(寺記)

鎌倉時代作と云われる絹本着色十六善神像図など所蔵。

江戸時代には、黒印寺領7反4畝余りを与えられ、末寺に心華庵、獅子庵

があったと云う。(甲斐国志)※心華庵(跡)は、江戸時代末期頃、甲州に

黃璧宗が広まり、甲府城代も深くこれに帰依し、同州の信行寺(後塩後)

の支配下だったが、後に荒廃し、当地の人々は、その支配を慈雲寺に

願った。当時、心華庵は庚申堂とも云った。

樋口一葉の父大吉も”慈雲寺にあった私塾に学び、明治38年理仁学舎と

として命名された。境内には大正11年(1922)樋口一葉の文学碑を建立。

幸田露伴の撰文、賛助文には、地元有志の他、坪内逍遙、与謝野鉄幹・

晶子、森鴎外、田山花袋などが名を連ねる。また、真下晩松の碑もある。

※中萩原の益田家の出身、文久2年(1862)に江戸に出、幕臣真下家の

家禄を買い、葉書調書調役組頭となり、慶応2年(1866)、陸軍奉行及び

支配に任ぜられたと云う。


重郎原遺跡

甲州市塩山中萩原にあり、国道411号線沿いの中萩原と上粟生の堺

付近、標高551mに位置する縄文時代中期の集落跡。

昭和37年(1962)多量の土器が発見され、発掘調査。住居跡は東西、

2.8m、南北2.8mのほぼ円形をなしており、五角形の石囲炉、柱穴

5基が検出された。付近には、同じ縄文時代中期の北原、柳田、糠

(ぬか)屋敷遺跡、殿林遺跡(※国指定重要文化財大型深鉢が出土)

がある。


神社の殆どが小さく無人、地理も解りにくいので省略。

唯一、「若宮八幡社」を尋ねてみた・・・!

若宮八幡社 中萩原957

「若宮八幡社」※山梨県神社庁

鎮座地:甲州市塩山中萩原957 所属:東山梨支部

御祭神:大鷦鷯尊(オオサザキノミコト=応仁天皇の第四皇子。

      母はナカツヒメノミコト。8世紀後半の倭国の大王。

境内地:352坪 氏子戸数:17戸。


現在の小さな神社所在地を探すのは、難しい!

この”八幡さん”も、中萩原の番地の近くまで来て、尋ねたが分かる人は

なかなか見つからなかった。「子供の頃、はちまんさんという神社へ行っ

たことがあるが、何という神社か解らない。」「その神社の隣の敷地の

居住者の方に辿り着き、ようやく「若松八幡社」は、そこの鎮守の森の

中にある」と教えて頂いて、道も詳しく伺って、辿り着けた次第。


大原山神社ー塩山中萩原1343 国道411号沿い、塩山北中と神部局間。

祭神:大山祗命

由緒沿革は、不詳。境内地152坪。

明治12年の神社明細帳に「本殿間口三尺、奥行六尺五寸」と記載。


駒形社ー塩山中萩原170

祭神:保食神

由緒沿革は不詳。境内地93坪。

いずれも、氏子は20戸余りで勧請。かなり小規模な鎮守神である。


帰路にもう一軒の寺を尋ねるために、元の道へ戻り、旧黒川街道へ

辿り着き、最期の立ち寄りとなった。


昔、二つの寺が合併して、「滝見山法正寺」になった! 珍しいお寺さん!


滝見山法正寺本堂は、現在も立派に輝いている! 筆者は・・・、

もしかしたら、お寺の近代経営のヒントがあるかも知れないと想像した。


「滝見山法正寺」ー甲斐国志 巻之七十五 仏寺部第三によると・・・

浄土真宗西派余間席なり。除地千八十坪。文明中沙門道善という者、

善願寺天台の古刹千野村にあり、福蔵院本村にあり、源誓坊光寂弘法

の寺なり、二寺を合して堂宇を営み、旧号を削り、法正寺と改む。

寺宝に楊州大雲寺の鑑真が持ち来る仏舎利一顆、仏践土二塊、及び

檗本の一切経、武田家の飯椀一具、その他図書等あり、塔中正善寺。

と記される。

即ち、千野にあった善願寺と中萩原にあった福蔵院の二つの寺を合併

して、一つの法正寺という寺を創造した珍しい寺院の経営構造である。


法正寺境内の「庫裏」は、とてもモダンな近代住宅になっている。

恐らく、後継のご子息の意向を汲んで、車や家はモダンになっているの

だと筆者は、勝手に想像して帰路に着いた。

帰路は急勾配の下りなのでブレーキが大事。安全・安心を第一に!


 

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甲州市塩山「下萩原」を辿る⑦下萩原の往古は大自然の中・・・!22-02

2022-02-01 | 山梨、里山の美しい四季!

山梨県甲州市塩山「下萩原」は、大自然に恵まれ、

”人が住みたい立地環境”にある。

2月・今号は、甲州市の東山山麓の扇状地に形成される

下萩原」の昔と今の様子を紹介します。

2021年8月号で紹介しているが、この時は、塩山の中心地

のつもりであったので、少しだけ視点を変えて辿ってみる。

東山の源治郎岳と恩若峰の山麓の扇状地に形成される

集落が「下萩原」であったこと。同時に、往古、豪族三枝氏が

平城(館=現在も字名だが、「御殿」と云う地名が残る)こと。

後柏原天皇と「柏原堰」の伝説と柏原神社。

微笑仏の木食百道の出身地であることなどを紹介している。

もし、興味があれば、本部ブログのバックナンバー2021年

8月号をご覧下さい。


「下萩原」の各住居の窓からは、現塩山市街地を一望できる!

「下萩原」の各住宅から望める素晴らしい遠望・・・!

右端の山は、塩山のシンボル”塩の山”、雲に霞む背景の山並みは石和の

大蔵経寺山~要害山(甲府武田館の守護山城)への山脈。その左奥に

聳えるのが、南アルプスの鳳凰三山と白根三山と櫛形山などが晴れた日

は、何時も望めるので、筆者のお気に入りです。


「下萩原村」、甲州市塩山下萩原は赤尾から重川を隔て

東にある。北は塩山中萩原、南は塩山牛奥。

東の大窪山(山梨市牧丘)から西は南流する重川との間

展開する村である。往古から「しもはぎわら」と呼んだ。

   ~大日本地名辞典、塩山市下萩原の項238P~


用水は「小田原橋近くの下小田原村地内で重川水を引き

入れた「柏原堰」によったと言う。

※もちろん、今は甲州市の上下水道が引かれている。

しかし、下萩原村は流末にあったため、中萩原農民の

畑田成や上萩原村の不法を訴えた訴訟が屡々起こり、

結果は、元の形へのし直しとなっている。

歴史的に、農村は至る所で”用水問題が起こっている”


臨済宗向嶽寺派 法谷山東林寺は、今も本尊を継ぐ・・・!

21年8月号で紹介している法谷山東林寺は、本堂の写真を省略します。

特に、庫裏は若い住職夫婦の今流の現代建築(一般住宅)にて・・・


甲斐国志 巻之75 仏寺部第3によると・・・、

法谷山東林寺は、下萩原村 臨済宗塩山向嶽寺の末、黒印で庶民的!

寺内320坪 除地3段6畝、本尊 十一面観音(行基作と云う)、享禄3年3月

再興、開山天林義壽(永正6年10月28日寂ス)・・・甲斐国志に記される名門。


桂山長昌院・・・廃寺。※推定明治時代だが、大火にあった恵林寺の再建

のため、広大な寺地は売却されたと推定される。

甲斐国志記:臨済宗小屋敷村恵林寺の末、2町4段6畝12歩、本尊は

十一面観音・・・、と記される広大な敷地のお寺は本山の再建で売却か?


下萩原には、「童夢」という特異なサクランボ作りで成功

している葡萄園がある。

童夢のサクランボは熱い!※以下の写真は12年6月5日頃撮影。

「童夢」の経営者「菊嶋氏」に取材。移住後、ブログを始めた往時撮影。

とても感心したのは、訪れる客層のことを考え、身障者が車椅子でも

サクランボ狩りができるように、サクランボの木樹をY字に作る等の工夫

を手間をかけてされていることを情熱的に語られたのをよく覚えています。

とても情熱をもっておられた経営者には、暫くお目にかかっていないが、

お元気のこととは思います・・・した「下萩原」は

「塩山で有名な”雨敬橋”をわたると・・・」

2021年6月号にて紹介した「塩山下萩原」は・・・、

”サクランボの郷”として有名になりつつあると紹介した。

今号は、坂の上には冨士講の有志によって祀られた

「浅間塚公園」の浅間大神と山神大神の石祠が建つ。

その下段の道沿いには「馬頭観音」が祀られている。

里人が、農作業の合間に、ベンチで景色を眺めながら

休めるようにしてある。流石に景色を売り物にする郷だ!

但し、日本国中の課題だが、日本の風景は、電線と電柱

が風景を損ねているので、”もったいない”ことだ。

インフラ整備の費用と技術の手前、やむを得ないのか?

欧州と風景の差(違い)は、この辺りにありそうです。

今、盛んに新幹線の風景から、電柱と電線をなくしようと

しているも、なかなか上手くいかないようです。「下萩原」

この景色と坂と電線を何とか工夫できれば、人口の

増加政策の一策になるのではないかと思われる。


山梨県の人口密度はこの上なく少い。それは扇状地の勾配による坂の

上り下りの多さだと云う。所謂、住みたいところの立地条件に外れている。

そして扇状地の土壌の問題か果物栽培農家が多いことで、一般産業が、

えないと言う人すらいるくらいだ


「下萩原」は、江戸時代、享保9年(1724)の世帯数は70軒・人口243人。

平成28年の国勢調査では、世帯数174軒、人口492人と増加している。


※)これは、現在の甲州市塩山の雨敬橋を渡って、左折して坂を上ると、

甲斐国の東端から、南アルプスの山並みを背景にして、甲府盆地を一望

できる立地条件にあるからだと、筆者は考察している。

筆者も一軒家ならばと調べたことがあるが、急坂が多いのと西陽が入るの

が嫌いな人を除くと、人が住みたい郷の立地条件として、中心地(商店街)

や市役所通りから直線で、車で数分の近距離にあり、更にJR塩山駅に近く、

見晴らしは良く、人々が憧れる立地条件にあると考察できる。

2021年8月号の「下萩原」の今はサクランボと桃栽培で盛ん!と紹介した。

俗に言う”東山”の恩若峯”と源氏ケ岳を背景にして展開されている集落群。

何故に”東山”と云うか!?ここでは省略するが、大菩薩連嶺を併せて一帯

を”萩原山”と云う人々の気持ちや考え方は様々である。

地元民の伝承によると、地名「萩原」の由来となっているように、西暦748年

奈良時代の行基が甲斐国を行脚した時(※筆者の調べでは甲斐国入りの

足跡は見当たらない)雲が立ちこめ、激しい光と共に、十一面観観音菩薩

が現れ、15Mほどの大岩がオノで割ったように裂けて、その間から萩の木

が生じ、行基は萩の木を伐採して、3体の十一面観音菩薩像を彫って、

一体は上萩原の「雲峰寺」に、他の2体は、根古橋の観音堂、長昌院(廃寺)

へ安置したと伝わり、このため一帯を「萩原郷」と呼び、安置された地域が

「上萩原、中萩原、下萩原」の地名の起源になっていると云われるので、

ここでも甲州市塩山下萩原を語るには、甲州市塩山の中でも、特に広域な

「萩原郷」少しだけでも、触れておきたい。


大日本地名辞典によると・・・、

「萩原郷」とは、現上萩原、中萩原、下萩原に比定されている。地名は

「はぎわら」と呼ばれる。

至徳4年(1387)成立の「塩山抜対和尚語録」に「甲州路萩原」の法音

禅尼の名がみえ、同尼の七周忌が修されている。

文安2年(1445)11月15日の武田信重寺領目録写には、萩原郷のうち

小山年貢二貫文とあり、板垣殿寄進と記される。

天文8年(1539)2月20日武田信虎の将両角虎城が灯明銭として向嶽寺

に再寄進され、永禄12年(1569)11月19日には武田信玄により同寺領

を安堵している。※「武田信玄判物写」同文書。

武田氏滅亡後の天正10年(1582)12月6日、萩原のうち500文などが

本給として、徳川氏から萩原市之尉に安堵された。※「徳川家印判状写」武藤文書。

※この萩原家以外にも、首都圏からすれば随分大きな家に居住する方

が多い。そんな中で、地域の住民はこれらの守護神を大事にする性か、

首都圏では、隙間もないくらいの家が犇めいているが、こちらでは、多くの

空き地もある。「道祖神」と呼ぶらしいが、果たしてどちらが倖せなのか!?

高齢者が多く、頑固が多くて、今の山梨県はなかなか成長しないのか!?

あるいは、農地等開墾で所有している高齢者が守っているからか?

よそ者には良く解らない問題のようです。もし何方か、興味があれば、

研究して、もし機会あらば、ご教授頂ければ幸いです。


「下萩原」の往古は、畑で木綿、煙草を栽培し、男は、入会山における薪、

秣(まぐさ)、刈敷(カリシキ=山梨ではカッチキと言い草木を地中に埋めて

堆肥にしたもの)などの採集。女は木綿織と蚕糸を営んだようです。

特に萩原煙草は有名で良く売れたと言う。

首都圏では、概ね知れ渡っていたようです。


拙いブログ「・・・山梨の魅力再発見・・・」も、伝えて行く内に

「若い頃、山が好きで、山梨へ日帰り、山小屋泊まりで屡々来て

良く知っていること。また、風景が気に入っていたことなどが、

大きな理由になると思うが、移住13年目になる今になって、未だ

自らのハンドネイムを”新甲州人”としています。

元々の首都圏(東京)人の老夫婦は「郷に入れば郷に従え」と”甲州人”

になろうと務めたが、いろんな意味で”新甲州人”で良いと思い始めて

いる。次号は、往古から栄えた「中萩原」を尋ねたいと思っています。

「最近は・・・、つれずれなるまま」の日記風になってきましたが、

懲りずに・・・、宜しくネ!


 

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2022年元旦も、甲斐国一宮「浅間神社」へ元気に初詣!

2022-01-01 | 甲斐国山梨の初詣

2022年元旦、恒例の甲斐国一の宮「浅間神社」初詣!

無事、元気に甲州に暮らしています!今年も宜しく!

GOOブログ「新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見」

は今年も毎月号続けるつもりです!見てね・・・!

白根三山「北岳」や「甲斐駒」も夕暮れ前に、悠然と変わらず・・・!


2022年の始まりです!九州の学友から電話があった!

「もう80(歳)だよ!年賀状が出せなかったので電話した!」・・・と懐かし

かった!現役の頃、博多・中州で豪勢に奢って貰ったこともあるお友達!

古い友達も大病を患ったり、訃報が来たりだが、この歳だと一日一日が

勝負だと・・・!今年も「日々是好日!」の精神で・・・過ごそう!


「いつも通り」自転車で片道約40分、甲斐国一の宮「浅間神社」へ初詣!

風速2m程度の風だったが、快晴の下、家内と無事に初詣した!

恒例の「健康第一、家族全員の名前、令和四年元旦」を絵馬に書き祈願!

特にコロナ渦でも家族全員は無事!まだ暫く辛抱がいる一年になりそう!

人並みの「健康祈願だ!」、しかし、いつもの年より、初詣は若者が多く、

恐らく、友達(?)同士がわいわいガヤガヤと集まって、行動する絶好の

機会だと云うので集まっている!人々の気持ちは分かるので、「ここ山梨

には、コロナ渦(特に新型のオムロン株)も襲来しないように、願うのみ」!


甲斐国一の宮「浅間神社」の初詣も人だかりで、コロナ渦も我慢!?


甲斐国一の宮「浅間(あさま)神社」は、厳かな神社である!

拘りの筆者もつい願い事をしてしまう!恒例だが家族の「健康第一」

祈願である。夫婦ともども元気で過ごせるのも、先ずは掛かり付けの

お医者さんと恒例の初詣の絵馬祈願のお陰だと信じて続けています。

恒例の初詣は、一年の元気の証しの報告とお礼参りの参詣です。

初詣は堰(せき)が切れたように、コロナ渦でも人出が増えてきたので、

来年は、今まで通り、早朝に参詣することにした!

今年の元旦は読みが甘く、午後に参詣したので、参詣客が多くなり、

神殿への初詣を止め、裏へ回ると干支の神様巡りがあるので、馬と

猿を選んでお参りした。※そこにもお賽銭箱は厳重に設置してある!

周辺のイベントコースは残念ながら、コロナ渦で中止であったようなの

で、浅間神社の初詣は、ピストン往復にした。夕暮れは早いし・・・!


浅間神社の祭神は「木花開耶姫命(このはなさくやひめ)」!

今から約1157年前、西暦864年に富士山の大噴火がありました。

浅間神社は、もともと約2.5km離れた「山宮神社」に祀られていた。

西暦865年(    )に、浅間神社は建立されたと云う。

祭神の木花咲耶姫命は、桜の花に例えられるほど”美しい女性”でした。

富士山の守護神として有名。安産、子授け、縁結び、農業、酒造りの

様でもあります。※現在も地元民に支えられている一の宮浅間神社!

「浅間神社」初詣案内を参照。

筆者は毎年、元旦毎に「浅間神社」を紹介しています。

筆者達は「家族みんなの健康」と「感謝」の気持ちを込めて祈願しています。

元旦には、名物「夫婦梅」の梅の花が咲き始めますが、今年は寒波も厳しく、

未だ、咲き始めていなかったようです。


花は、12月下旬頃から咲き始め、1月中旬頃には満開になる。

花径2.5cmの紅色の八重咲きで、めしべが2本ある。

果実は、2本のめしべが実を結ぶので、1花で2果を結ぶ珍種である。

収穫量は一定せず、2果結実するのも約1割ほど・・・。

古来、木花咲耶姫命のご心霊による子育ての霊能ありと信じられ、参拝

祈願する人がある。・・・山梨県の夫婦梅の代表的な物として貴重である。

山梨県教育委員会 ・ 一宮町教育委員会の解説版による。


2022年初詣!いよいよ新年が始まる!今年も世界中でコロナ渦が渦巻く。

これから長い戦と同じに、辛抱が必要な長期戦である!

国産のワクチン開発と治療薬ができるのを耐えて待ちたい!

頑張って欲しい、日本の医療業界も”世界一”になって欲しいものです!

近い将来・・・、その上で、自らの健康寿命を決めたいものです!

2月号より、甲州市の下萩原、中萩原、上萩原から柳沢峠、一ノ瀬高橋と

北端へ具に歩いて見ようと考えています。懲りずに宜しく!


 

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