新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

安田義定ゆかりの甲斐国「牧ノ荘」を辿る!①山梨市牧丘は日本の里100選!18-09

2018-09-01 | 山梨、魅力の里山歩き!

日本の里100選」に選ばれた「牧丘」・・・!

その穏やかな里には、往古の眠れる歴史ロマンがあった!

今号より「山梨市牧丘町」を尋ねて歴史ロマンを辿ってみます。

あの勇将安田義定が所領していた「牧ノ荘」の名残を辿って見る!

往古、牧ノ荘の中心にあった中牧の「安田義定の要害城跡、小田野山」

小田野山の城下に、今に伝わる安田義定開基の荘厳の「妙高山普門寺」!

往古、あの安田義定が山梨市牧丘町西保下「小田野山」に要害城を築いた!

※写真は昭和初期の中牧村郷土史に掲載された「小田野山城下の風景」 


のような写真を見ただけでも・・・、

「牧丘」には、いたる所に歴史ロマンを感じ風景があります。

しかし、それは現在の風景写真だけでは語れない、奥深いもの

を感じますので、いつもながら画像より文章が主になりますが

自習NOTEを積み重ねるつもりで、一部抜粋して紹介します。 

平安時代末期~鎌倉時代初期、あの牛若丸こと源義経とともに、 

”天下の副将軍”を称されて、源平合戦で平家を打倒した強者。

鎌倉幕府開府に貢献した「安田義定」は 「牧ノ荘」の所領を背景

にした勇将であった。しかし、軍力恐れた 源頼朝に疎まれて

無念にも、自刃したこともあり、現在では殆ど忘れられている。

山梨県の地元では、現在、「武田信玄」は英雄として有名だが、

地元への貢献があまり伝えられないのか!?日本国平定の天下

将軍として鎌倉幕府開府に貢献した実力者としては惹かれる。

その「安田義定」が所領した「牧ノ荘」と安田義定のゆかりに焦点

を置いて、「牧ノ荘」の中心、現在の山梨市牧丘町を尋ねます! 

そこで、往古「安田義定」が所領したと云われる「牧ノ荘」

の中核であったと云う名を伝えて現在も活きる「牧丘町」は

”日本の里100選「牧丘町」”として選ばれている!

”その美しい歴史ロマンを尋ね”て、これよりシリーズで

ブログ紹介してみたいと思っています。

また、しばらくは、長編シリーズとして続けることになる

でしょうが、こつこつと辿って見たいと思いますので、

お付き合い下さい。

「牧丘」には随分以前から興味を惹かれ、地元を知り尽くした

方に既に頂戴した基礎資料や「甲斐史」に造形が深く、「安田

義定の菩提寺」と云われる「高橋山放光寺」の清雲俊元先生

書かれた「甲斐源氏安田義定」他諸資料についてもジックリ

予習した上で、改めて教えを乞いと思っています。

これから一歩、一歩、牧丘の里へ踏み出して、古老や古刹など、

物知りの方を訪ねて、自習の範囲ですが「YS記自習NOTE」

として学びまとめてみたいと思っています。寛容にお願いします。

ブログも前号までの「大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の

歴史ロマンを辿る」YS記自習NOTEは、3~4年の踏査・

取材を含めて自習した中でつれづれなるままに要点を抜粋し

ブログ発信をしてきましたが、その抜粋ブログだけでも、

序章~12章、最終章まで1年も続きました。

自習NOTEは、専門家との議論やさらなるご教授は残る

ものの、一応、一段落としました。特に大蔵経寺井上住職

には感謝以外の言葉もなく、大変お世話になりました。


 今年は、異常気象どころではなく、暑すぎてデスクワークが

多くなっています。自由人の過ごし方として「晴耕雨読」と

云う言葉の意味を理解し、自ずと身についてきたところです。

今や健康管理を合わせて「晴耕雨読」の日常に「猛暑中はクー

ラー下でPCワーク」を加えて、”日々是好日”としています。

これから、アクセス不便な山梨の里山を自転車で走るか、一歩、

一歩山登りの如く歩いて、これから取材を始めたいと思います。


もし、「安田義定ゆかりの牧ノ荘を辿る」と題して、その研究テーマに造形が深く、

詳しい方がおれれたら、ぜひご教授下さい。

もし、おしかけYS記NOTE自習生が現地へ勉強に訪れましたら、ご寛容にご教授を!


 牧丘」は、山梨甲州市に移住して以来、もっとも惹かれている里の一つ。

※昨年サーバーを引っ越したため、旧バージョンは見にくい画面だと思いますが、

2013年7月号「47)日本の里100選「牧丘」乙女高原にレンゲツツジが彩る初夏!」

が最初で、この時は通称杣口筋を紹介し、窪平から杣口筋を上り、中牧神社を

経て・・・・、古刹雲峰寺、金桜神社、金桜神社旧蹟、乙女湖、大弛峠から金峯山

を望むところまでを詳しく紹介しました。

2012年3月号「牧丘の竹林に福寿草が咲いた!甲州に春が来た!」

2016年12月号「牧丘に何故「足利尊氏と二階堂道蘊の宝篋印塔が並ぶのか!?」

2017年2月「牧丘城古寺に建つ二階堂道蘊と足利尊氏の宝篋印塔の石塔二基

~続編」

2017年8月号「山梨、戦国の古道「秩父裏街道」と「鈴懸の関」跡」などありますが、

それほど興味深いところでもあるのです。

※もしお時間があればですが、バックナンバーを開いて見て下さい。

特に以前から、あの勇将安田義定が領していた「牧ノ荘」の名を活かして「牧丘町」

が生まれ、合併して「山梨市」になった際も「山梨市牧丘町OO」としてその歴史的

名称を残しているので、とても響きが良く、今も・・・惹かれている。

最初の取材をした時に、暖かい人とのふれあいや想い出があるも杣口(そまぐち)

筋を歩いて上る時に、安田義定ゆかりの地が多い「塩平筋」が気になったままで

あったが、このテーマ課題は史料を収集しながら時間を要するので中断していた。

その間、石和の「大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の歴史ロマンを辿る」ために、

あしかけ3~4年を要してしまい、

ようやく「牧丘」の自習ができることになった次第。とてもワクワクしています。

塩平筋に残る「勇将安田義定の歴史ロマンを始め、牧丘の魅力再発見」のつもり

で、歩いて見たいと思っています。

今号は序章の前の~まえがき~のようになりましたが、これから頑張って見ます

ので、来月号よりまた、気の長いお付き合いを願います。


                                                                                   


梅の花が咲く!酒折、不老園と甲斐善光寺を歩く!17-03

2017-03-01 | 山梨、魅力の里山歩き!

梅の花が咲く・・・!北山野道、不老園と甲斐善光寺の散策!

甲斐路の春は、2月、酒折「不老園」から、梅の花が咲き、春を告げる・・・!

甲斐(山梨県)の北山野道は、JR中央本線の沿線「酒折」下車徒歩9分。

そこに「不老園」がある。そこにも北山野道の魅力がある・・・!

今号は、その魅力の北山野道に梅の花が咲いたので、梅の名所「不老園」

と甲斐善光寺、そして「かいてらす」を紹介します。


不老園を尋ねたら、その足で「甲斐善光寺」を訪ねる・・・!

甲斐善光寺の境内にも梅の花がヒッソリと咲いていた! 

威風堂々の甲斐善光寺・金堂の東側に咲く梅の花!


梅の名所「不老園」は、2月下旬、梅の花が満開を迎えていた!

不老園の満開の梅の花 靑空に映える梅の花・・・!


 不老園の梅」は、一番早い黄色の蝋梅から始まり約20数種が咲き乱れる!


梅の花もこんなに多彩に咲くと、鮮やかな花見の気分・・・、春を迎える!

見頃は、2月~3月下旬・・・開園は9:00~17:00。注)雨天閉園


 「不老園」は、明治30年、甲府市内に住む呉服商の七代目奥村正右衛門が

別荘として開園したもので、北海道を除く全国を行脚して、特に北九州から紅梅、

小梅、夫婦梅、ブンゴ梅などを持ち帰っては、この園に植え付けたと云う。

山を切り崩し、谷を活かし、池を造り、その周辺に梅と桜、牡丹、南天、赤松、

ツツジなどを彩植して、庭造りの専念することおよそ30数年。

晩年は自然を友として送り、大正13年に86才で生涯を閉じた。

その後、園は、5人の子息によって受け継がれたが、恒久的な維持を図るために、

昭和40年に財団法人「奥村不老園」となった。※公式パンフレット不老園のおいたちより。 


詳しくは・・・、一般財団法人「奥村不老園」   http://www.furouen.jp/


甲斐「定額山浄智院善光寺」は・・・、

あの武田信玄が、川中島合戦に備えて信濃より甲斐に遷した歴史的遺産! 

 武田信玄が開基した「甲斐善光寺」は、今も往時の豪壮な七堂伽藍の様相を伝える!


甲斐善光寺 「定額山浄智院善光寺」 

JR酒折駅から徒歩15分。※梅の名所「不老園」より徒歩で約7分。

開基武田信玄が川中島の合戦の折、信濃善光寺の焼失を恐れ、永禄元年(1558)

ご本尊善光寺如来像をはじめ、諸物寺宝類を奉遷したことに始まります。

板垣の郷は、善光寺建立の大檀那本田善光公埋葬の地と伝えられ、善光寺如来因縁

の故地に開山大本願鏡空上人以下、一山ことごとくお迎えいたしました。

その後、武田氏滅亡により、ご本尊は織田・徳川・豊臣氏を転々といたしましたが、

慶長3年(1598)信濃に帰座なさいました。

甲府では、新たに前立仏をご本尊と定め、現在に至っております。

江戸時代には、本坊3院15庵を有する大寺院として浄土宗甲州触頭(ふれかしら)

を勤め、徳川家位牌所にもなっておりました。

詳しくは、公式HP 甲斐善光寺 http://www.kai-zenkoji.or.jp/


 豪壮な七堂伽藍は、一度焼失いたしましたが、再建され、東日本最大級の伽藍として

広く知られております。

重要文化財5件、県指定文化財4件、市指定文化材8件をはじめとする文化材の宝庫

として著名で、その一部は宝物館で公開されている。※甲斐善光寺公式パンフより


 甲斐善光寺金堂:寛政八年(1796年)再建。右写真奥宝物館。

 


甲斐善光寺は、山梨県甲府市善光寺にある浄土宗の寺院。山号は定額山。

正式名称は、定額山浄智院善光寺と称する。長野県長野市にある善光寺と区分

するため甲斐善光寺と呼ばれることが多く、甲州善光寺、甲府善光寺とも呼ぶ。

甲斐百八霊場の1番にある。

注)善光寺は、信州善光寺、甲斐善光寺、関善光寺、元善光寺、善光寺東海別院、

  岐阜善光寺の六名刹がある。七年に一度のご開帳は、平成21年春に行われ、

  筆者は訪れているが、六善光寺が同時ご開帳をする習わしは有名!

・文化財は、本堂、山門、銅像阿弥陀三尊像他(重要文化財)、

・絹本著色浄土曼荼羅図(県指定文化財)など見どころあり。

詳しくは、ウイキペディア(Wikipedia)フリー百科事典「甲斐善光寺」を検索!

おすすめの「Wikipedia・甲斐善光寺」は、以下のカテゴリーで解説されています。

①立地と地理的・歴史的景観

②甲斐善光寺の創建と展開 第三次川中島の戦いと信濃善光寺

③甲斐善光寺の創建

 上杉景虎は第3次川中島の戦い終結後、信濃善光寺・大御堂本尊の善光寺如来や

 寺宝を越後へ持ち帰り、永禄初年頃には直江津(新潟県上越市)に如来堂を建設。

 これにより、直江津は信濃から居住者が移転し、町場として発展している。

 尚、本尊像は旭山城へ籠城した栗田氏により非難されていたとも考えられている。

 これに対し、武田信玄は弘治3年2月15日、信濃善光寺本尊の阿弥陀如来像や

 寺宝を甲斐国甲府へ移転させ、善光寺別当栗田氏らも甲府へ転居した。

 武田信玄(晴信)は信濃善光寺本尊を善光寺如来を信濃佐久郡弥津に遷すと、

 三年後の永禄元年に甲斐へ持ち帰っている。「塩山向嶽庵小年代記」永禄元年

 (1558年)条によれば、永禄元年(1558年)9月15日に善光寺如来は

 甲斐に到着し、甲斐領民は狂喜したと云う。「王代記」では、同年9月25日に

 到着したとし、同年10月3日から板垣郷で普請が開始されたことを記している。

 永禄元年の甲斐善光寺創建には、信濃善光寺の三七世住職・鏡空上人が本願主と

 なっている。同年には栗田永寿も甲斐板垣郷に移住し、大下条(甲斐市大下条)に

 在国領を与えられ永禄8年までに死去している。その後も元亀元年に至るまで、

 造営は続いたと云う。・・・このように具体的に解説が記されている。

④近世の甲斐善光寺

 天正10年(1582)3月には織田・徳川連合軍による甲斐・武田征伐が

 行われ、武田勝頼は滅亡する。・・・

「甲陽軍艦」等によれば、甲斐善光寺では勝頼従兄弟の葛山信貞、郡内領主・

 小山田信茂(織田・徳川連合軍の甲斐征伐により追い詰められた武田勝頼一族は

 郡内・大月の岩殿城(城主小山田信茂)へ避難を目指していたが、甲斐大和にて、

 小山田信茂の裏切りを知り、甲斐大和の田野に逃避をして自刃している。

 注)甲斐大和田野には、後に徳川家康が武田勝頼の菩提を手厚く葬り、「景徳院」を建立されている。

 武田氏滅亡後、その小山田信茂は、信長の嫡男織田信忠により、甲斐善光寺にて

 処刑されている。注)小山田信茂の墓は、甲斐善光寺には供養されず、往時の

 寺領地ではあるが、現在、甲斐善光寺北側のバイパスを越え、道なりに奥くまった

 葡萄畑の中にあり、民家の敷地内にあるため、事前に詳しく調べて行かないと

 見つけることはできない。注)インターネット検索では、写真も掲載している人

 もいるので、筆者は省略します。

 小山田信茂は、郡内地方では名領主であるが、甲斐では武田氏の伝承評価が主流

 であるので、特に裏切り者扱いと云うことであろうか。歴史のわびしさを感じる。

 注)小山田信茂の詰城「岩殿城址」を取材したブログバックナンバー

 「33)山梨・大月、桜満開の岩殿城址と名勝猿橋のドラマ探訪!」

  http://blog.goo.ne.jp/yssoho/e/727c0be5566c2c4a770e37bf5ab7b3f2


⑤善光寺町の形成 

⑥伽藍

⑦文化財 重要文化財 山梨県指定有形文化財 甲府市指定文化財

⑧燈籠仏

⑨美術における甲斐善光寺

⑩交通アクセス など知りたいことが、より詳しく解説されている。

事前に、この程度の予備知識を持って甲斐善光寺を訪ねると楽しみは尽きない。

更に、事前のお尋ねは、TEL055-233-7570 

E-mail: staff@kai-zenkoji.or.jp


  甲斐善光寺の境内は広く、荘厳! 善光寺木造阿弥陀三尊像(重要文化財)  

 


阿弥陀三尊像:保存庫左右(木造阿弥陀如来及び両脇侍像)

重要文化財=明治39年9月6日指定。保存庫内左右に対置された二組六体。

いずれもうち刳のある檜材寄せ木造りの漆箔像で、藤原中・末期の造顕と推定。

平安時代の半𠀋六阿弥陀三尊像二組が重要文化財に指定されているが、そのうち

一組は宝物館で公開している。木造は典型的な藤原仏の構造を有し、定期様式

の秀作として著名なものです。※甲斐善光寺公式ガイドより。


 善光寺銅鐘 (山梨県有形文化財)工芸)

本銅鐘は、正和2年(1313)に補鋳されたことが銘によってわかる。

治承3年(1179)、文永4年(1267)の善光寺火災により、その都度

修復されている。鐘の周囲に、八葉複弁(蓮の花)を刻んだ撞座があり、

鐘乳は総計100個つくられている。

・・・鎌倉時代の風格を表しており、美術的価値も高い。

尚、本鐘は、武田信玄により信濃善光寺より、本尊その他と共に移されたもの。

総高200cm。口径135.2cm。

山梨県・甲府市教育委員会 境内掲示解説による。


「かいてらす」山梨県地域産業センターは、甲斐善光寺のすぐ隣り!

「かいてらす」:2月24~26日は「春の山梨県地場産業まつり 」 

場所は、山梨県甲府市東光寺3-13-25 善光寺から徒歩1分。

詳しくは、http://www.kaiterasu.jp 

Email: info@kaiterasu.jp


 酒折に・・・、北山野道に梅が咲く頃、2月24日~26日・・・、

「かいてらす」では、山梨県地場産業まつりと称する物産フェアを開いている。

山梨の地場物産が多彩に展示され、土産物や珍しい特産品が安く買える。

注)但し、多少の食べ物は調達できるが、昼食は、事前に近隣のレストラン情報

を調べて行った方がベターです。


酒折に来たら、北山野道散策が面白い!

北山野道には、中世甲斐国「武田氏時代の足跡」があちこちに残り、

特に、武田信虎、信玄の代で築いた甲府五山は、時間があったら、

ぜひ、歩いて見て下さい。

ブログバックナンバー42)2013年2月号、「甲府五山は、

自然と歴史文化を偲ぶ「北山野道」に!」で紹介しています。

注)一部、OCNからGooブログへ引越のため容量不足で削除されて

いますがご容赦下さい。

http://blog.goo.ne.jp/yssoho/e/b152193b1c5d1d9ab9c361c5f0266d6f


 


”武田の里”韮崎、美しい風景と往古の歴史16-01

2016-01-10 | 山梨、魅力の里山歩き!

 "武田の里”韮崎には・・・、美しい風景と往古の歴史がある!

武田郷は武田信玄の先祖、甲斐守護、武田信義公が開いた里・・・!

韮崎市役所前から武田橋と武田の里方面を臨むと冠雪の南アルプス鳳凰三山が覗く!

 

韮崎は、長く伸びる七里ケ岩がニラ(韮)の葉に似た形状でその先端部

(崎)に、宿場町が位置していることが地名の由来となったという。

韮崎の市名は近世の韮崎宿に由来している。※ウイキペディア韮崎市より

山梨県北西部に位置し、甲府盆地北西部に属する。

先史・古代よりの古墳があちこちに分布していて、古代律令制度下には、

穂坂牧と云う荘園が存在していた。

平安時代後期には宝荘厳院領甘利荘が成立していた歴史がある。

平安後期に、常陸の国武田郷から配流された源義清・清光親子が甲斐国

入りして、その子孫が甲斐源氏となり・・・、「武田冠者」と呼ばれた。

市域の神山町武田は中世の「武田郷」に比定され、清光の子、信義が、

当地に武田舘を構えて「武田氏」を名乗った初代と云われる。

市域神山町(旧武田郷)には、信義公が元服したと伝わる武田八幡宮や、

害の白山城跡、山麓には、為朝神社、白山神社(大権現)が囲む。

信義公舘跡周辺には、信義公菩提寺「鳳凰山願成寺」などの史跡が分布。

新年号は・・・、

往古の伝説と武田氏ゆかりが色濃く残される「武田の里」を紹介します。

この里は、今、ノーベル賞授賞大村智博士の生誕地で有名になって・・・、

大村博士が授賞インタビューに応えて「ふるさとには美しい景色がある」

と語られる言葉の通り、本当に美しい風景があるので一部紹介します。


武田の里の主な見どころを紹介します! 注)解説文は書ける範囲ですが・・・、

 武田八幡宮 ※ウイキペディア及び山梨県教育委員会標識より

武田八幡宮二の鳥居と(山梨県指定有形文化財)荘厳の武田八幡宮(重要文化財)

注)甲府の武田神社に比べて、武田の里の武田八幡神社は、”知る人ぞ知る”のみの厳かな初詣が叶う!

武田八幡神社は、往古は、武田八幡宮と呼ばれた。社記によれば・・・、

往古この地に”武田王”(武田武大神)を祀る宮社があったところへ、

弘仁13年(822)2月、嵯峨天皇の勅命により、豊前国宇佐神宮を

勧請して王の宮社に合祀し、地名の二字を冠として”武田八幡宮”と称した

のが草創とされる。

貞観年間(859~876)に京都岩清水八幡宮を社中に勧請合祀している。

新羅三郎義光以来甲斐源氏の尊崇が厚かったが、義光の曽尊信義(清光の子)

は武田八幡宮で元服し、武田郷に居館を定めて武田の太郎と名乗り、当社を

氏神と崇めて崇敬した。

二の鳥居は、武田太郎信義没後、承久(1220)に信義の弟加々美次郎遠光

が「本社・末社123の鳥居迄造営」と修理整備したと社記に残る。

後に300余年を経て天文10年(1541)、武田晴信(信玄)が甲斐守護

になると、当本殿の造営に着手し、12月23日に落成している。

神々しい本殿への石段、本殿は拝殿の奥。注)左奥へ廻ると見える。

石段を登ると拝殿があり、その奥に信玄公が造営されたという本殿がある。

武田八幡宮の背後に為朝神社、白山神社、白山城跡(信義の要害城跡)などがある。

但し、獣除けの金網の柵(入口)に”熊”注意の標識があり、筆者はお詣りしていない。

詳しくは、韮崎市観光協会 白山城跡⇒http://www.nirasaki-kankou.jp/?page_id=107

為朝神社⇒https://www.city.nirasaki.lg.jp/docs/2013021610682/


 武田信義公舘跡・・・菩提寺は後述の「鳳凰山願成寺」

武田信義舘跡・・・今は武田氏の歴史を知る人ぞのみ、始祖信義公を偲んでいる。

武田の里は甲斐源氏総領武田氏発祥の地である。

武田の里を開いた武田信義は、甲斐源氏(甲斐守護)4代目当主である。

平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で武田氏を名乗った初代当主(始祖)となる。

大治3年(1128)8月15日、源清光の次男として生まれる。※逸見光長は二子の兄となる。

13才で武田八幡宮にて元服し、武田太郎信義と名を改める。

治承4年(1180)4月、以仁王の令旨により、甲斐源氏を石和に集結して挙兵し、

甲斐国の実権を握る(山槐記)。この時、信義は53才。ついで信濃の諏訪に侵攻。

その後、駿河国で平家到着以前に駿河を占拠し、平家本軍が近づくと、弟の安田義定

一条忠頼らを引き連れ、源平富士川の戦いで奇襲により平維盛の軍勢を退却させた

戦功は有名。その後も甲斐源氏武田軍は、源頼朝に協調し、源範頼、義経と共に、

義仲の追討、一谷の合戦、平家追討壇ノ浦の戦いに参戦して、功績を挙げている。

吾妻鏡によると、文治2年(1186)3月9日、享年59才で病没とあるが・・・、

文治2年以降も信義が生存している可能性があるという指摘もある。

家督は五男信光が継いで石和舘と開いている。その子孫に有名な武田信玄がいる。

武田館跡の周辺には、御湟、御庭、的場、金精水、御旗部屋、御酒部屋等の地名

残されている。


 鳳凰山願成寺(ほうおうざん がんじょうじ)※武田信義公墓所  

鳳凰山願成寺 山門                   願成寺本堂

創建は宝亀2年(771)、開山は権大僧都心休了愚法印。

延長6年(928)、仏刹を建立して地蔵菩薩を安置し願成寺と号す。

武田信義(1128~1186)武田の荘に舘を営み、この寺を祈願寺として中興。

後白河法皇に山号「鳳凰山」を奉請、「鳳凰山願成寺」と号す。

武田信義公の墓 ※中央搭が信義公、左が夫人、右は乳母姫(13代信昌の息女)の墓搭と伝わる。

世には、巨摩郡武田郷、近世、九筋二領では北山筋鍋山村、現在は神山町鍋山

位置する。中世末戦国時代、武田信虎の甥俊虎和尚の時、臨済宗に改宗、諸堂を整え

寺運興隆す。天正10年(1582)、織田信長の兵火に伽藍焼失。復興途上にあった

慶長12年(1607)、寺より出火、衰退に瀕したるも幸い寺宝「阿弥陀三尊」が

焼亡免れて、寛永15年(1683)然室応廊和尚を迎え、曹洞宗に改め、復興緒に

つく。万治元年(1658)赫山和尚が継ぐや再興を成し、一山の面目を保つ。

本寺の由緒書きに、このように記されている。

武田家累代の仏殿

武田氏系図(抄)においては、清和天皇ー頼長ー義光(初代)ー2代義清(見氏)

ー3代清光(見氏)ーーー4代信義(武田氏)ーーー信光(武田氏)ーーーと続くが、

注)当寺の解説では、武田氏を名乗る武田信義公を始祖初代としているため・・・、

武田信玄は武田氏16代(当主)と記す。

現在の通説では、甲斐源氏の祖新羅三郎義光を初代甲斐守護で、信義公は4代甲斐守護

となる。従って、あの武田信玄は19代甲斐守護となっている。

注)武田氏累代の数え方は複数あるので留意。現在は①甲斐守護職累代で、甲斐源氏の祖新羅三郎義光を初代とするのが通説である。

  参考までに、①甲斐源氏(甲斐守護)累代 ②武田氏累代 ③射礼(じゃらい)、御旗、楯無鎧相伝などがある。


 諏訪神社 ※広乃神社、広神社とも云う

諏訪神社 祭神は建御名方命、武田武大神

山梨県神社庁によると、諏訪神社の由緒は次のように紹介している。

往時、日本武尊の御子武田武王を祀り「広乃神社」と号す。

その後、後奈良天皇の天文11年、信濃国諏訪大明神を勧請合祀されてからは、

諏訪神社と称された。

山梨県神社庁⇒http://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/6044


 「わに塚の桜」、山梨の名木、推定樹齢300年のエドヒガン桜は見事!

わに塚のさくら・・・背景は日本百名山著者深田久弥終焉の山として有名な「茅ヶ岳」

写真右側に豊かな大木が見えるのが「わに塚の桜」

茅ヶ岳は「にせ八つ」とも云呼ばれ、北西に臨む八ケ岳とそっくりの美しい山!

「わに塚の桜」は、日本武尊の王子武田の王の墓、前方後円墳、王仁族の居住跡。

また、古くこの地を治めた日本武尊の王子武田王が埋葬された「王仁塚」と呼ぶ。

また、塚の形が鰐口に似ているので「鰐塚」というなど・・・、諸説ある。

詳しくは、富士の国やまなし観光ネット 「わに塚の桜」に紹介されています。

富士の国やまなし観光ネット「わに塚の桜」⇒

http://www.yamanashi-kankou.jp/kankou/spot/p1_4881.html


 ノーベル賞を育んだ美しい原風景がここにあった!※韮崎市公示

大村智博士ノーベル賞授賞を記念して少年時代の通学の道を「幸福の小径」と名付く!

 

この甘利川沢に沿って歩くと韮崎市役所がある。

幸の小径(こみち)は大村智博士の生家(白山温泉、大村美術館、そば処上小路)から、

茅ヶ岳、八ッ岳を臨みながら北へ下り、甘利沢川沿いに、富士山を見て武田橋を渡る道筋!

詳しくは韮崎市役所ホームページ解説とMAP⇒往路から地図を頼りに歩いて見ると良い!

http://www.city.nirasaki.lg.jp/docs/2015120900015/files/koufuku.pdf 

または、韮崎MOVEの武田の里ウオーキングMAPをお薦めしますが、これには幸の小径は

書いてありません。一部は道標がないので事前にMAPを調べて歩かれることをお薦めします。

韮崎駅~大村美術館は3.2km 徒歩50分です。願成寺~韮崎駅は2km 約30分です。

茅ヶ岳は「深田久弥の終焉の山」として名高く、美しい山容!

幸の小径から西北に臨む冠雪の八ヶ岳、

八ヶ岳と茅ヶ岳の山容はそっくりです!山好きが「ニセ八つ」と呼ぶはずだ。

甘利沢川沿道にと武田橋からは「霊峰富士」が大きく臨める!


 あとがき

昔、高村光太郎が”智恵子抄”で「智恵子は東京には空がないと言う・・・、

安達太良山には本当の空があると言う・・・」と有名な一文を思い出す。

東京も今は綺麗な空になってきているものの、山梨の空には叶わない!

筆者も晩年、東京から山梨に移住してより元気になったような気がする。

”武田の里”を歩くのは3度目だが、歩いて見るといろいろと空想が湧いてくる。

恐らく、大村智博士も少年の頃、いろんな将来の夢を見ながら歩かれたのでは

ないかと想像している。もちろん足下にも及ばないが・・・。筆者

以前、バックナンバー9)山梨の魅力山行特集NO5「茅ヶ岳(1703.6m)

注)旧ブログの引越につき画面が少し崩れているのでご容赦下さい。

山行後、白山温泉を訪ね、茅ヶ岳と武田の里を紹介した記録が残っているます。

時間があればご覧下さい。この画面からバックナンバー9)まで遡って下さい。

http://blog.goo.ne.jp/yssoho/e/7d37afc7eeb0a6423f589389df20c


 


61)甲斐大和「笹子峠」を越えると本陣「駒飼宿」があった!

2014-09-01 | 山梨、魅力の里山歩き!

旧甲州街道は江戸城~甲府城への甲州表街道であった!?

旧甲州街道最大の難所”笹子峠”(1096m)を越えると

・・・、甲斐大和に、本陣「駒飼宿」があった!

今回は”甲斐大和”に残る旧甲州街道の「駒飼宿」跡を訪ねます! 

旧甲州街道「駒飼宿」図              現在も残る旧甲州街道の古民家PhotoPhoto_3

 

 

 

 

 

※2011年9月筆者撮影

★写真はクリックで拡大可

「駒飼宿」図は甲州市大和教育委員会案内図

「甲州道中」は江戸幕府により整備された五街道の一筋!

「甲州道中」は、江戸日本橋を起点に5番目に整備された街道!

しかし、単なる五街道の一筋ではなかった!

それは江戸城と甲府城を結ぶ軍用戦略道であった!?

江戸(日本橋)~内藤新宿~八王子~小仏峠~笹子峠~甲府を経て

信濃国の下諏訪宿で中仙道に合流する53里24町の街道。

38の宿場が置かれた。

注)53里24町≒210km 宿村大概帳による。経路は後記。

「笹子峠」は「甲州道中」を利用して江戸~甲府へ入る道筋で

最大の難所と云われた険しい峠であった。

一方大阪(上方)に備えた防御の要衝となった甲州道中「笹子峠越」。

実は、笹子峠は江戸城を拠点にした戦略上の重要な峠道として位置

づけられていたとも云われる。

注)東海道には天下の険と呼ばれる「箱根十国峠」と「箱根の関」

があり、青梅街道には「大菩薩越」萩原口を通る甲州裏街道として

江戸城の秘策があった!

江戸城の外郭として東京湾と北関東以外は陸路での西への備えは天然

の要塞のようであったが戊辰戦争ではその笹子峠も越されてしまった!

「甲州海道笹子峠」越で最初の宿「甲斐大和日影の駒飼宿!

笹子峠越最初の宿場「駒飼宿」に、本陣・脇本陣が置かれた。

慶長2年(秀吉死去の1年前)、家康の戦略配置と思われる

「国宝山養真寺」が創建されていた!※笹子の砦になる位置。

駒飼宿(こまかいじゅく)

駒飼宿は、馬に水と飼い葉をやり休息できる宿場であった!

駒飼宿は、険しい笹子峠越の馬を馬蹄石で休息し水場と飼葉を提供

する宿場であったことが名称の起源らしい!?

Photo_23

 

 

 

 


 

笹子峠山中から湧く流水は「笹子沢川」となって清々と流れている!

笹子峠下り笹子沢天狗橋に至ると「駒飼石」があった。

ここに「津島大明神」が祀られて、笹子沢を見守る!

笹子峠を越え、甲斐大和へ下ると守り神「津島大明神」と笹子沢川!Photo_2 Photo

 

 

 

 

 

 駒飼宿入口には何故か芭蕉句碑     駒飼宿跡は現日影上バス停が起点Photo_32

 

 

 

 

 


 

松尾芭蕉の句碑は、駒飼宿の往古のイメージを詠う!

「秣(まぐさ)負う 人を栞(しおり)の 夏野哉(なつのかな)」

注)秣(まぐさ)は牛馬の飼い葉のこと。

栞(しおり)は奥山で通った道の目印に木の枝などを折っておくと云う意味。

駒(馬)飼いの飼い葉(枯れ草の餌)を背負う人が目印となる夏の野中で

ある情景を詠っているものと想像される。

往時の駒飼宿の情景に相応しい句碑が掲げられているものと思われる。

※那須にも同句碑があると云う。

ネット検索情報の「句碑・歌碑」によると、地元の歴史研究家の小冊子に、

天和2年の江戸の大火で深川の芭蕉庵を焼け出された際に、落ち着き先の

甲州で詠んだものとしているが、地元大和村誌では「駒飼宿の話」の中で、

那須高原にもこの句碑があり・・・、

ここで芭蕉が詠んだものかどうか分からないと述べている。

家康は慶長の役には、既に甲斐国の実質支配を固めていた。

甲州海道の要衝となる位置に寺院配置も進めていたと云われる!?

脇本陣 国宝山養真寺参道甲州海道を下る駒飼宿に家康が戦略寺院を建立!?Photo_44

 

 

 

 

 


 

江戸の徳川家康が万一の時、甲州海道で甲府城へ避難する際、

防御砦となる要衝寺院として海道沿いに建立された一つと推察。 

既に、家康は甲斐統治の備えを始めていたことから・・・、

慶長2年に、国宝山が建立されているのか!?

注)慶長3年豊臣秀吉死去・・・、慶長5年関ヶ原の戦い・・・、

慶長8年征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府開府の時代である。

脇本陣跡は、現在は敷地のみ残るが、時代の変遷跡を偲ばせる。

古絵図によると、駒飼宿脇本陣は「冨屋」と号していた。

脇本陣とは、江戸時代の宿場に設けられた本陣の予備的施設で、

大きな藩で本陣だけでは泊まり切れない場合や、他藩と鉢合わせに

なった場合などに格式の低い藩(大名)の宿として利用されるなど

本陣の予備施設として利用されたが・・・、

それ以外の時は一般旅客も宿泊利用した。

規模は本陣より小さいが、諸式は全て本陣に順じ上段の間などもあり、

本陣と同じく宿場の有力者が務めた。

※ウイキペディアによる

甲斐大和日影の「国宝山養真寺」は・・・、

慶長年間、甲斐国支配を固めていた家康が配置した戦略寺院!

浄土宗園福寺末(山梨市下石原)。本尊は阿弥陀如来。

由緒:東山梨郡誌に、「本尊は阿弥陀如来仏。境内除地2反余り。

慶長2丁酉年(1597年)4月創立。

開山は臺譽(台譽=たいよ)浄本上人。享保9年8月洪水にて流失。

同12丁末年現地に移せり」とある。

甲斐国志には・・・、

浄土宗石森園福寺末境内除地貳反14歩、本尊子安地蔵」とある。

鎮守:日月神神社(除地4畝歩)、子の聖権現小社(除地14歩)

この旧甲州海道沿いで笹子峠越に、慶長2年に建立されたのは、

江戸城を拠点にした徳川家康の甲斐国支配と甲府城の詰め城戦略による

後の旧甲州海道沿いの寺院建立の一つである。

※解説は後述 あれこれMEMO

国宝山の山号扁額                         国宝山本堂 右は庫裏4_2 5

 

 

 

  

 


 駒飼宿本陣は、参勤交代で信濃高遠藩、高島藩、飯田藩

が利用した他は、甲府藩、徳川家御用役人、甲府勤番の

利用が盛んな宿場であったようだ!

それ以外の藩は、中仙道を利用して、江戸は板橋に入った。

後述するが、江戸幕府(徳川家康)は甲州海道を戦略上の軍用道

として、あまり推奨しなかったと思われる節があるようだ。

駒飼本陣跡        明治天皇山梨御巡幸御小休所跡碑(明治13年)7            Img_7102

 

 

 

 

 

笹子峠の頂上には・・・、「明治天皇御野立所跡」の碑がある。

本陣とは

江戸時代以降の宿場で大名、旗本、幕府役人、勅使、宮家、門跡等

が使用した宿舎の名称で、一般客は利用出来なかった格式の高い宿。

本陣には、宿泊者から謝礼が支払われたが、それは対価ではなく・・・、

あくまでも謝礼であったので、十分なものとは言えなかったようだ。

そのため本陣の主人には、名字帯刀、門や玄関、上段の間を設ける等特権が

認められた。

寛永11年(1634年)三代将軍家光が上洛の際、宿泊予定の邸宅の主人

を本陣役、本陣職に任命したのが起源とされ、翌年の参勤交代の制度化と

ともに街道の要衝に配置された。


甲斐大和駒飼宿跡は、今も・・・峠の里の風情が残る!

駒飼宿中心「日影バス停付近」 駒飼宿の甲州切妻式古民家!Photo_6 Photo_7

 

 

 

 

 

甲斐大和日影には、築270年の古民家を再生した、

癒やしの「大黒屋・サンガムCAFE]がある!

東京でレストランを経営されていたご夫婦が、勝沼などのイベント

参加活動を通じて知り合った人々の縁で、甲斐大和に移住したと云う

人生の浪漫が聞ける気さくで安らぐCafeです!

詳しくは古民家「大黒屋・サンガム Cafe」お店のミカタをご覧下さい。

http://daikokuya-sangam.on.omisenomikata.jp


 


57)クマガイソウが山梨西桂町の倉見山々麓に戻った!

2014-05-23 | 山梨、魅力の里山歩き!

絶滅危惧種、あの”クマガイソウ”が・・・、

山梨は富士山が映える西桂町の倉見山々麓に、見事に再生されている!

山梨は、今も県土の78%が、山と森林で守られている!

今号は、自然が崩壊されて益々都会化していく関東地域において、今も貴重な大自然が保全されている山梨の里、”西桂町の倉見山々麓”「クマガイソウ群生地」を紹介する!

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5月中旬、見事にクマガイソウが咲いた!堂尾山富士見台から臨む霊峰”富士”

Img_0475Img_0539

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クマガイソウは、”絶滅危惧種二類”になっている!

「クマガイソウ」は、今は、あまり馴染みのない山野草の名前になってしまったが、ウイキペディアによると、北海道南部から九州にかけて全国に分布するラン科アツモリソウ属。

クマガイソウ(熊谷草)は、源平の一ノ谷の合戦(1184年)における平敦盛(あつもり)の最後の話にちなんで命名されたと伝わる。

膨らんだ形の唇弁を昔の武士が、後ろからの矢を防ぐために、背中に背負った母衣(ほろ)に似て、がっしりした方を熊谷直実(くまがいなおざね)、優しそうな方を平敦盛(たいらのあつもり)に見立て、白っぽい熊谷草は源氏の白旗、赤っぽいアツモリソウは平家の赤旗に見立てて命名されたと伝わる。

しかし、環境省レッドデータブックでは、絶滅危惧種二類に指定されている。自生地は乱獲や盗掘などによって絶滅に瀕しているが、それだけ人気がある山野草の類である証拠でもある。大切にしたい山野草である!

低山の森林内、特に竹林、杉林などに生育し、大きな群生を形成する。

草丈は約40cmくらいまで伸びる。葉は対正して2枚付き、それぞれ扇形の特徴的な形をしている。花はその間から伸びた茎の先につき、横を向く。

花弁は細い楕円形で緑色を帯び、唇弁は大きく膨らんだ袋状で、白く、紫褐色の模様がある。

唇弁の口は左右から膨らんで狭まっていると特徴の解説がある。

※いかにもラン科の花のような艶やかさがあるようで、地味な”和”の荘厳な雰囲気をもつ!

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クマガイソウの群生地は、5年をかけてここまで再生している!

クマガイソウの群生は、熱心な人達によって見事に再生されてきた!

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クマガイソウ群生地は、昔は、全国分布と云われて、どこの里山にも見られた山野の花であったが、今は、関東では埼玉・所沢、東北では福島・松川水原などが知られているくらいで、関東でも忘れられている山野の花である。ここ西桂のクマガイソウ群生地は、そのうち日本一の群生地の名声を挽回するのが期待できるところである。

西桂町のクマガイソウ群生地は、昔から倉見山の山麓に自生の群生があったそうだが、いつの間にか心得のない人達によって、乱獲、盗掘されたばかりではなく、それを取り扱う業者なども現れて、自生地が損失してしまったらしい。地元の方の話によると・・・、1970年頃、池田さんと云う夫婦が、数株から再生を始めて、何年もかけて、繁殖を続け育ててきたそうで、最盛期は全国一を誇る3万株のクマガイソウ群生地になったそうです。

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見事に再生したクマガイソウ群生地!

最盛期のクマガイソウの群生の写真(現場に掲示)と現在の様子! Img_0449 Img_0477

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・Img_0491 Img_0493

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長年の間、クマガイソウの保護に尽くした池田さん夫婦はご主人が亡くなり夫人も老齢になられて、管理が無理になったことから、

西桂町の役場が池田さんの所有地(山)を引き受け、数年前より再び保護育成を始めたそうだ。

その結果、現在は写真のように見事に復活して来訪する人々を喜ばせている!

現在は乱獲・盗掘を避けるためもあって、保護網など再生のための工夫がされているが、開花の季節には開錠され、園内には休憩用の椅子まで用意されて年配者への配慮もしてある。

注)但し、群生地は山林内で、公園ではないためトイレはない。

現地には熱心に保護再生のために働いている係員が2人おられたが、ほんとうに植物を愛し、懸命さが伝わる人であった。この様子だと、あと5年~10年もすれば、昔の写真のようにクマガイソウもいっぱいに広がりそうだと夢を語ってくれました。楽しみにしています!頑張って下さい。

検索「西桂町のクマガイソウ開花情報」で、5月16日「クマガイソウは見頃を過ぎていますが、まだまだきれいに咲いております」とネット広報を見て訪ねて見た。

写真のようにまだ見事に咲いていたので、予定を先送りして5月号で紹介することにした。

西桂町は、5月18日、20日にも開花情報を更新していて、担当者も一所懸命だと思うが、筆者が、取材直前に諸関連情報を調べて見た時、西桂町役場のベースにあるHPの中身はいただけない!特に観光案内のページにある登山ハイキング情報などは、2006年4月以来、情報を更新していないものがあり、2011年4月に一部更新しただけである。

多分、変わったことがないからそのままだと思うのだが、ハイキングコースも登山道の場合は、せめて毎年、安全確認くらいはしてもらって、安心して歩けるようにしてもらえると、情報の価値がある。

実際に歩いて見ると、道標は分かりやすいので、山歩きに慣れた人には問題はない。しかし、所々細い登山道の土留めが崩れそうになっているところもあり、町の管理の大変さも察しながら・・・、チェックして広報をしてもらえると有り難い。もし、注意を事前に促してあれば、登山者はそれなりに注意して歩きますから!?

注)もし、西桂町の役場の方でこのコメントを見つけた人がおられたら、ぜひ訪れる観光客のために再確認をお願いします。

2014年5月22日現在※検索「西桂町役場 観光案内」にて。

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再生は、”クマガイソウ”だけではない!

エビネラン、アマドコロ、ヤマユリなど、倉見山周辺に咲く大切な山野草を見つけては、保護再生を始めている!

ジエビネランも数株に!     アマドコロも増えている!

Img_0500Img_0507この試みも将来が楽しみ!

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西桂町は三つ峠があるところで有名!

クマガイソウ群生地は、富士急「三つ峠駅」下車が便利!

富士急行線はJR大月~都留市~三つ峠駅~富士山駅(富士吉田市)~河口湖駅間を運行。

2013年、富士山世界文化遺産登録で活気づいています!

富士急行線は大月駅で乗換      三つ峠駅下車 Img_0403_2  Img_0404_2

富士急行線は、電車・各駅とも富士山世界文化遺産登録でリニューアルが進んでいます。

電車も通勤電車型の6000形が導入され、ソフトな車内デザインで良い

乗り心地になりました。

※「フジサン特急」も、観光客には人気です!

注)「フジサン特急」はバックナンバー「富士山とともに歴史を刻む富士吉田と富士山駅」でリンク紹介しています!

http://blog.goo.ne.jp/yssoho/d/20110121

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三つ峠駅に下車すると、いきなり富士山の勇姿が歓迎Img_0407 してくれる!Img_0409

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歩く人には優しい富士五湖案内  三つ峠登山道と倉見山登山道案内 Img_0411   Img_0413  

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