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山梨市を辿る③山梨の窪八幡神社は往古「八幡庄」の象徴!2022-10

2022-10-01 | 山梨の魅力再発見!

往古の「八幡庄」~山梨県の地名辞典~山梨市編。

現山梨市域の笛吹川沿いに比定される荘園。

現大月市下和田の花井寺が所蔵する大般若経第30

奥書に八幡庄とみえ、延文6年(1361)4月

上旬、当庄不動堂において大般若経を書写してい

る。現甲州市塩山竹森の野尻剣之介氏所蔵の大般若

経巻第235奥書には、応安2年(1369)5月

11に釈比丘衛悦が「山梨群八幡庄安田郷下井尻

延命禅寺」で書写したとある。

今号は「山梨市の中でも、鎌倉時代初期には存在

し、栄えていた「八幡庄」を辿ってみます


先ずは、山梨市内で、気になる「大井俣神社」の貫禄の大鳥居!

この古そうな大鳥居は、なんと、あの武田信虎が寄進したという

「大井俣神社」の大鳥居で、重要文化財に指定されて守られている。

この道路の奥に、窪八幡神社の正門が見える。境内には本殿(拝殿)

①窪八幡神社は、大井俣神社とも云われたが、旧八幡神社がある

地域と新羅三郎が移転・創建したと伝わる現窪八幡神社のある地域

のすみ分けに地元民が、呼び分けたというのが、理由らしい。

注②窪八幡は、現在、山梨市八幡にある。

これは、2019年のブログで紹介した山梨市内の安田館があった

小原西の鎮守の大井俣八幡神社を旧神社とすると、新神社と言う

ところか?!

武田家宗家※初代と云われる新羅三郎移転・創建したことから、

現在”大井俣”と”窪”は、地域区分を分かりやすくするため呼んでい

るという。


「王代記」同七年の条にも当八幡庄にて大乗経を書写したとあるが、

これは「甲斐国志」が普賢寺蔵として記載する応安2年(8月6日)

高倉書写の仏様に相当しよう。

その奥書には、「大八幡庄中葦原昌充庵比丘尼聖春」を大檀那とした

とあるから(甲斐国志)、大八幡庄(おおやはた)とも称したことがわかる。


往時の大八幡「窪八幡神社」を紹介する推定復元された古地図!


まさに往時は、大八幡であったと思われる大きな境内であった証となる。


現在の窪「八幡神社」の(正面玄関に当たる)随神門は往古を語っている!


現在の普賢寺跡(往時の様相は、想像意外にない)・・・、

上之坊「普賢寺」は八幡北村にあった真言寺院で、往時は窪八幡神社の別当寺

あったが、神仏分離の際、廃寺となり、経典も残っていない。

※上記写真が示す現在の様子は、瓦礫のみが残されている様相・・・。


大井俣窪八幡神社の本殿(拝殿)と手前左の神殿は、高良神社!


厳かな、窪八幡の本殿(拝殿)・・・!

※恐縮ですが、写真は2019年1月に、特集取材を発信した時のものです。


往古・・・、経典が書写されたとする不動堂、延命寺、昌充庵も現存せず。

その位置も特定できないが、中世、この地域の仏教文化が盛んであった様子

の一端を伺うことができよう。

また、当庄内には甲斐源氏の安田義定が本拠とする安田郷があるから、

鎌倉時代初期は同氏の支配するところであったのであろう。

・・・庄内地名として下井尻(現甲州市塩山)、塩後などがみえることから

庄域は、窪八幡神社の所在する笛吹川右岸の八幡入り付近から左岸は現甲州

市塩山の西に位置する塩後まで、山梨市北部から甲州市塩山の西端にかけて

地域に展開したとみられる。


今号では、八幡地域に現存する往古の「窪八幡神社」を紹介してきたが、

既に2019年に詳しく詳記しているので省略させて頂くが、現在は

日下部警察署、JA農産物直売所など、広域の住民が訪れる近代の施設も

紹介したいが、また機会があればと言うことで、察して頂きたい。

次号は、安田郷に絞って紹介してみたいと思っています。


 



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