新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

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甲州市塩山西広門田⑪西広門田(かわだ)を辿る!22-06

2022-06-01 | 山梨の魅力再発見!

甲州市塩山西広門田(かわだ)を辿ってみる!

山梨県内にも「西広門田」を”カワダ”と読める人は

殆どいない。珍しい旧村名である。

なぜ、「西広門田」が”カワダ”と呼ばれるようにな

ったのか!?興味はつきない!

今号は、甲州市塩山西広門田「かわだ」を紹介しま

す。そして、「熊野神社」の鎮座する「塩山熊野」

も併せて、介します!


甲州市塩山の繁華街の中心は、今、車社会への進化

とともに変遷を伴っている!人口減少と高齢化に

商店街は全国チェーン店と競ってはいるが!?

今はコロナ禍と重なり比較的静かだ・・・!

「西広門田橋」南は、中心地塩山市街地と勝沼町との境に・・・。


西広門田「かわだ」は読める方がほとんどいないほど珍しい地名!

今号の主題は、なぜ「西広門田」と書いて「カワダ」という地名に

なったのか・・・? できることなら、探求したいと思っている。


大日本地名辞典によれば・・・、

塩山市西広門田(かわだ)は、熊野村の西にある。

次は塩山熊野の順番だが、都合で、西広門田(カワダ)を先にした。

塩山市内を流れる重川が南堺を西流し、また村内を川幅三間ほどの

塩川が南流して重川に合している。北西は下塩後村。平坦地で

南北に長い村で、北部に三町ほど隔てて、枝郷の塩川がある。

天正10年(1582)12月12日の徳川家康印判状写(御庫本

書纂(さん))では、「熊野河田」のうちの夫丸一人などが、

志村又右衛門尉(貞盈)宛に行われている。翌11年4月18日の

徳川家康印判状写(土屋文書)では、「広門田」とあり、同所のう

ち、二貫文が熊野社に安堵された。

慶長7年(1602)の休息山立正寺門徒連印状(久遠寺文書)に

見える川田郷も当地と推定され、弥左衛門ら10名の門徒が名を連

ねている。慶長古高帳には西河田(西川田)と記され高五五四石余

、幕府領。他に、天神領三斗余があった。その後、河田(かわだ)

(寛永11年「牛奥山手目録」樋口兼其家文書)広門田(かわだ)

(延宝8年牛奥山入会11ケ村定)などに、記されているが・・・。

享保9年の村明細帳(塩山市役所蔵)によると家数72、人数30

5人とあり、・・・・・・・・・・・・、昔、当地に東西の広門田

があり、重川の水害により、東村が流失。西の村のみが残って、

現在の地名、西広門田(かわだ)となったとの説もある。

これは、北側にある大字熊野に西田の小字があるところから、推論

根拠になったもののようだ。

筆者は大変興味を持ったが、この説は、意外に説得力があるので、

殆ど読めない珍しい地名として、筆者の博学の一部として認知する

ことにした。

現在は、車社会の影響もあり、繁華街がスッカリ変わり、駐車場付

商店やチェーンレストランが増えて、殆ど西広門田まで繋がって

来ている。

しかし、利便性を優先する現代の人々は、西広門田に住む人も増え、

令和2年4月の国勢調査では、世帯数210軒、人口は550人と

増加している。筆者から見ても、表通り商店街には近く、閑静で

利便性が高い住宅地を形成していて、魅力的な住宅地でもある。


西広門田にある「天神社」は、旧村社として存在・・・!


天神社の神殿(祠)は,密かで厳粛であった!


甲斐国誌に「天神宮」の社名で「黒印社領三斗六升社地三拾六坪

熊野村神主兼帯」と記され、県神社庁明細帳には「古老の言い伝

えによれば、その祭神医薬の神なるをもって古来教本の梅樹あり。

氏子は勿論遠近の崇敬者は枝を乞い、各戸の軒先に差し置く時は

病魔に襲われずとし崇敬、特に篤かりしと云う」とある。※山梨県

神社庁※「天神社」は、慶長8年神領三斗余寄進の判物を与えられ、

「法傳寺」も寺地寄進の判物を与えられている。


筆者は、山梨に移住して以来、温故知新の精神で、古文書等を読む

ことが日々の過ごし方になり、古代迄さかのぼることになるも、

神話の話になると、不詳でまとめられた文章記録がいかに多いか

を知った。しかし、「西広門田」の地名は、ある書店の新刊本で

「山梨県でも殆どの方が読めない珍しい地名」もあることを知り

ずっと、気になっていた。

この右に建つ、苔むした石標には「廣門田山法傳寺」と記される。

いかにも、気分が高まる・・・!

甲斐国誌では、広門田山法伝寺西広門田村 日蓮宗休息山立正寺ノ末

黒印百四坪」とのみあるが、自習では、鎌倉時代の創建推定され

されるが、本尊は釈迦十界曼荼羅尊像。(※伝教太師作)

創建は不詳!?(文永11年(1274)・・・!?)

注)慶応四年(1868)で、594年経つと見えるので、創建は

鎌倉時代とみている。※寺屋敷から移転とも記される。

開山は広門法伝(立正寺三世日乗上人の弟子)。

文永11年、山号は「広門田山法伝寺」として開山。

※山号にカワダ、創建より広門田山と見える。

かなり古刹のようだが、ご住職の努力や近隣の檀徒にも恵まれ、

現在も健在である。


明治8年(1875)には、熊野村他、二ケ村と合併して、

奥野田村(おくのた)となっている。※市域の変遷に記載。

古い石漂が導く「廣門田山法傳寺」の参道・・・!

地名には、往時の歴史的由緒が伝えられていることもあって・・・、

興味は尽きない。


「熊野」の地名は、往古「熊野神社」が鎮座した

 こと・・・!


「熊野神社」の鎮座は、今も、周辺の人々の要にある!

境内には、解説版が掲げられ、次のように記されている。

「熊野神社」:神社の創建は明らかではないが、社記によれば、

大同二年(807)に紀州(和歌山県)熊野より勧請され、熊野の

鎮守として成立したが、さらに後白河法皇の勅により、熊野本社の

規矩をとって、社殿を建立したものと伝えられている。

祭神は、伊弉冉尊、早玉之男命、事解男命、天忍穂耳命、事解男命、

天忍穂耳尊の六座を祀り、古来より熊野大権現と呼ばれて尊崇を

うけてきた。

重要文化財の建造物二件、三棟建ち、県指定文化財の絵画四点を

蔵するとともに、武田晴信や柳沢吉保の書状等二点の中世文書と

六点の近世文書、および徳川家の社領覚一通(市指定文化財)が

社宝として保存されている。(甲州市教育委員会)と記される。


現在も「熊野神社」の鎮守の森は、周辺住民の要になっている。


大日本地名辞典によると、現甲州市塩山熊野、往時の「熊野村」

は、「南西流する重川の右岸にあり、対岸は、牛奥村、西之原村、

北は、下於曽村。地名は熊野権現の鎮座によるが、古くは応仁元年

(1467)12月9日の同社棟札銘に見えるように、御座郷横井村

と呼んだという(甲斐国誌)

慶長古高帳では、高892石余、幕府領。他に権現領28石余、

大明神領一石余があった。

享保9年には。家数97、人数384(村明細帳)

令和2年国勢調査では、世帯数503、人口は1190人と増加し

ている。


御座郷:「ござごう」は現熊野周辺に比定される。・・・。

熊野神社は、塩川東岸、熊野地区西部の丘陵地にある。旧村社。

社伝によると、大同二年(807)後白河法皇の勅命により紀伊熊野

社から勧請されたという。・・・、永禄二年(1559)三月二十七

日の武田晴信判物(熊野神社文書)によれば、別当寺神宮寺の前別当

が社領を勝手に売却したため、当社では、若干の買戻しを行いつつ、

晴信(信玄)に訴訟した。改めて晴信から社領を寄進を受け、神主に

祭礼の維持、執行を命じている。・・・、天正十年三月、武田家滅亡

後は、徳川氏によって保護され、天正十一年四月、熊野のうち二十五

貫文、於曽のうち一貫四百文、廣門田(かわだ)のうち二貫文、栗

原のうち250文、熊野総領一貫文が熊野領として安堵されている。

・・・、江戸時代には、熊野村、西広門田村、西之原村、山村の氏神

として崇敬された。・・・。

江戸時代には、隣の西広門田村は”かわだ村”と呼ばれ、幕末を経て、

現在に至っている。


甲州市全体では共通課題になっている少子高齢化の歩みを辿っている

ものの、道路交通網の整備により、商店街の中心に変遷が生じ、

現在は、車社会の利便性が高い熊野地区や西広門田(かわだ)域が

伸びていることは、若い人達は、殆どが”都会化”を望んでいる証か

もしれない。