新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

「於曽屋敷跡」と甲州市塩山を辿る@往古、塩山の中心地は「於曽鄕」!21-03

2021-03-01 | 山梨の魅力再発見!

現「甲州市塩山」の歩みを辿ると・・・、塩山の中心地に

往古、「於曽郷」と云う地名があった・・・

「於曽鄕」は塩川流域の現上於曽、下於曽一帯に比定。

「和名抄」記載の山梨東郡於曽鄕を継承したとみられる。

隠曾、尾曾、小曾とも書く。注)「大日本地名辞典」によるとそのように解説される。

注)現在、甲州市塩山の中心地(旧於曽鄕は、特にバイパス沿線に大規模店舗が

出店して、マイカー時代と共に、近代化が進んでいるが、勢いは感じられない。

人口減少の性もあるのだろうが、中途半端に、歴史遺産や自然遺産を残しながらの

発展も悪くない。だが計画性だけはあった方が良い。

甲州市はそれなりの努力はされている。

今更ながらと思うこともあるが、力ない高齢者はなすことなく、傍観している現状!

大自然が気に入って、適度の都市機能があり、気に入って選んだ移住地であるが、

どうやら、地元の若者達や都会との交流があるビジネスマン達は、更なる都会化

臨んでいることは違いないようだ!何かがすれ違っているのかも知れない。

一方で再開発によって、歴史遺産や自然破壊をしていることも事実で、全国的な

難題でもあるが、更なる工夫と知恵を必要としている!

旧商店街と新開地は写真掲載を省略するが・・・、全国共通の浮沈をしている。

しかし、町並みは施設が作るのではない。住んでいる人々が作るのだと思います。

かつて若い頃、首都圏人を誇り思っていたこともあるが、豪州生活を数年経験して

目覚めたことがある。それは、「町並みの発展は、施設ではなく、人であることだ。」

少しだけ残念だが、首都圏に比べれば、新旧が入り交じり、大自然も美しく残る 

その良さを、老若男女皆で、せめて維持したいものです。

今号から「於曽鄕」を中心に発展した、甲州市塩山の

「塩山上於曾、下於曽」をシリーズに分けて紹介します。


現、甲州市上於曽の象徴、古来から都でも有名だった「塩ノ山」かと思いきや!

この美しい町並み風景は、象徴の上於曽「塩ノ山」の南麓に開けた塩山

上・下於曽!古代豪族三枝氏の系譜を引くと見られる三枝守継が当地に

拠って於曽(隠曾)氏を称した。※「甲斐国志」によると、平安時代末期に

甲斐源氏の一族「加賀美遠光の四男光経がこの地に拠して「於曽氏」を

名乗り、「於曽屋敷跡」はその館跡とされている。※大日本地名辞典「塩山市」の項。


現在の甲州市塩山の中心地は、栄枯盛衰で町並みが変わっている!

「和名抄」によると、古代豪族三枝氏がこの町に拠を開いたと云われる。

その後、平安時代末期、甲斐源氏の一族、加賀美遠光の四男光経が

於曽氏」を名乗って、塩山の町並みが形成されていったと考察される。

本「シリーズ」は、現甲州市塩山の歩みを説くまでには行かないが・・・、

その塩山の歴史の源になったと思われる「於曽鄕」を辿って見たいと

思っています。注)現在は至る所が再開発されて、都会化されている

ので、少し残念なところもあるが、時代の趨勢でやむを得ないか!?

昔の面影を探すのは困難だが、諸文献や諸資料を頼りに、少しでも、

温故知新の精神で、遡って、辿ってみたいと思っています。

そのためには、先ず、歴史の由緒にでてくる地名「於曽鄕」のルーツと

云われる「於曽屋敷跡」を尋ねて見る。


「甲州市」も昭和38年9月9日、山梨県指定文化財(史蹟)として保護された

「於曽屋敷」跡を「於曽公園」として開発整備して、このように整備されて

いるので改めて紹介します。JR塩山駅から約10分の所に「山梨県第一号

で文化財指定されたお陰か!?」 これほど価値ある文化財並びに自然

保護がされたことは「文化財保護法」の有り難みを知らなければなるまい。


最近、「於曽屋敷」跡の一部を甲州市「於曽公園」として

公開!於曽屋敷の土塁跡等歴史の面影を残し、美しく

整然とした公園として公開(地域住民の避難場所にも)

されているが、若者達の憩いの場になると良いが!?

果たして若者達は「於曽公園」がJR塩山駅から僅か徒歩

10分程度の環境にあることを知っているのだろうか!?

都会よりの移住者としては、改めて認めて欲しい処です。


近年、新設整備・公開された甲州市塩山の中心地、於曽屋敷跡の「於曽公園」

「於曽屋敷(於曽公園)」は、一辺が100m程の方形の区画で、二重の土塁

よって囲まれた屋敷跡です。土塁は「内土手」、「外土手」とよばれ、北辺

では外土手が残っており、東、南、西辺では「内土手」が現在も往時の姿を

留めています。しかし、近世以降に内部で大規模な造成が行われたため、

現在の風景は中世以前のものとは少し異なっているようです。

「於曽」という地名は、平安時代(10世紀前半)に成立した『和名抄』に山梨

に10ある郷名の一つとして数えられており、非常に古くからある地名で

あることがわかります。於曽氏の祖は、古代豪族の三枝氏から分かれた

「隠曾之介守継」とされ、後に甲斐源氏である加賀美遠光の子光経

(於曽四郎)、光俊(於曽五郎)がこの地を支配しておりましたが、於曽屋敷

は光経(みつつね)の屋敷として伝えられています。

町~戦国時代には板垣氏が支配しておりましたが、天正10年(1582)

武田家滅亡の際には、織田勢の攻撃を受け、板垣権兵衛がこの地で

自害したと伝わっています。※記現地解説版による。


落ち着いた静かな公園の駐車場とトイレ施設も広々・・・、整然と・・・。


平成28年度に於曽屋敷跡の発掘調査がされ、公園が再整備されたので綺麗!


土塁等もそのままの姿で保存されて、塩山の中心部では貴重な史蹟である!


希少な土塁を公園施設で残して、ぜひ、未来永劫に継承して欲しいもの・・・!?


現広瀬家の門、往古、「於曽屋敷」は1丁四面(約1万平方㍍)の広さを有していた。

「於曽屋敷」は重の土塁をめぐらせ、内土手と外土手の間に川の流れ、

有事の際は「濠」としたものと思われる。

広瀬家の口伝によると、於曽鄕一帯を領有していた「於曽氏」も、うち続く

戦乱により、館を焼き、一時、萩原山に潜んでいたが、徳川幕府の甲斐

の国に対する懐柔政策に安心し、再び当屋敷に戻ったのであるが、旧姓

「於曽氏」を名乗ることは遠慮し、母方の姓である「廣瀬」を名乗り、百姓

なった。以後、屋敷内には武士たる祖先を祀り、・・・今日に到った。


「於曽屋敷」

当屋敷の西北端に、始祖於曽四郎経光の墓がある。

当屋敷の東北隅に於曽氏を祀る社堂・・・。

当屋敷東南50mの所に於曽・・・家臣板垣権兵衛の腹切り石がある。

尚、昭和49年21代当主廣瀬久忠氏により、屋敷の2分の1余りが塩山市

寄贈され、現在「於曽公園」として公開されている。※廣瀬家門解説版。


現在はJR塩山駅になっている「於曽五郎の屋敷跡注)甲斐国志は三郎屋敷。

現在の地名は塩山上於曽になるが「於曽五郎光俊屋敷」は、現JR塩山駅

の場所にあったようだ。明治時代国鉄塩山駅が開設される時、広い敷地

が活かされて文献も何も残されることなく消去してしまって今は石碑もない。

地元の人も殆ど知らない。注)そう思うと、各役所の文化財保護に努める

方々の有り難みがわかるような気がする。

「甲斐国志」にも記載があるようで、「於曽三郎屋敷(跡)」となっているが、

実際には、「於曽五郎光俊の屋敷(跡)」として「四郎、五郎」兄姉で於曽を

領有していたようだ。「甲斐国志」には「於曽三郎屋敷」と記されるので、

誰も証さない(否定しない)ので、「!?」が多いが・・・!

実際には「五男・於曽五郎光俊」の屋敷として置かれたことを知る人は知る。


「於曽屋敷」跡「於曽公園」の歩みを遡るだけで現甲州市塩山の旧「於曽鄕」

を辿れるとは思えないが・・・、知らない強み(?)を活かして、先ず第一歩を

踏み出すことにした。次号から、この地域をシリーズにして、由緒ある処の

歩みを辿って紹介する予定です。