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甲斐源氏安田義定ゆかりの「牧ノ荘」を辿る⑪牧の要害小田野山城と西御所には  戦略的に寺院・神社が配置されていた!19-07

2019-07-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

甲斐源氏安田義定は、あの源平合戦で東軍源義経の副将軍として、

活躍した戦国武将・・・!甲斐国では八幡荘、牧ノ荘、安多荘を中心に

現在の山梨市域、甲州市の一部を領有していたと云う。

特に広大な「牧ノ荘」は、軍馬補充と砂金の開発で、領地より得る豊富

軍資金を糧にして強力な軍事力にもなったと考察している。

往時は、朝廷より、東海道・遠江国の守護として「遠江守」に任ぜられ、

甲斐牧ノ荘の「安田館や西御所」には殆ど不在がちであったと見られる!

今号は、勇将安田義定が領地「牧」に構えた戦略的寺院・神社配置

をした跡を辿ってPDF複写ですが「マトリックス解析図」を紹介します。

併せて、YS記自習NOTEの中間まとめの要点を抜粋して発信します。


安田義定は”牧”を守護する要害小田野山城に守護寺を配置していた! 

往古安田義定は「牧ノ荘」の要にあった「中牧」に戦略的に寺院を配置していた。

注)このマトリックス解析図は、YS記自習NOTEで学習したもので、PDF複写を

さらに複写添付したもので、読みづらいと思いますがご容赦下さい。

要点は、分かりやすく次項①に要約してあります。

れらの伝安田義定開基の守護寺院は本シリーズの③~⑩において個別に

紹介をしていますので、バックナンバーをご覧下さい。


往古、安田義定は、「牧ノ荘」を領有した時、”牧”の軍馬補充と

萩原山(一ノ瀬高橋の鶏冠山辺りの砂金の採集他鉱山等)の

開発を始め、後に安田義定が源平合戦や京(朝廷)で活躍する

軍資金となったことであろうと考察している。

①マトリックス解析図要約・・・:

領有「牧ノ荘」の要にあった”中牧”(※現牧丘)に、要害小田野山城

築城し、西御所を構えて、東城戸に「妙高山普門寺」(※聖武天皇

の御代行基草創伝説の真言寺院「富向山薬師寺」を再建・開基。

西城戸に「旧蹟西源寺」。鬼門除けに「往観山無量院」を開基して

いる。

現在、小田野山城跡や西御所跡は往時の様子を見ることは出来ない。

嘗て、山梨県教育委員会が踏査した報告書の記録では、一専門家が

「中世、武田氏との争いに跡部氏が詰め城として使用したこともあり、

城蹟の土塁等を見ると、中世の山城ではないか」とコメントしている。

筆者は、地元牧丘町誌等の記す安田義定の築城と考察している。

何故なら、小田野山城は安田氏が滅亡した後、甲斐国の覇権を

争って武田氏との戦の時、跡部氏が使用したならば、当然ながら、

様式も中世の山城に改良されていても不思議ではないし、山麓

に伝わる安田義定の創建伝説や、その他幾多の伝承も無になる。

歴史家の記述は一行でも悩ましい。安田義定よ!蘇って教えて!


安田義定は”牧”の要に鎮守の集落を形成のため「神社」を勧請!


 安田義定は、鎮守として守護神を祀り集落形成のために勧請神社を配置していた!

 西御所を中心に、城下の何人にも禅の法を諭す「法喩庵」を開基して、その並びに菅原道眞

(学問の神)を祀る天神社を建立。馬場には若宮八幡社(八幡)を勧請。牧平に若宮八幡社、

西保中に若宮八幡社。鳥谷原に管神社と、小田野山城と西御所を中心に、マトリックス解析図

示す通り、要所に鎮守集落形成のため、集落形成の鎮守として守護神を勧請している。

これらの集落は現在も健在に存続している。次号で詳しく現存の神社と由緒を紹介予定!


参考)武家社会の元祖となる鎌倉幕府開府に貢献した安田義定は、

奈良時代、聖武天皇の御代、朝廷に招聘された僧「行基」が推進した

仏教普及策と寺院建立の戦略的寺院配置は、全国に展開された!

特に、往古、日本国の要にあった北端甲斐国は朝廷にとっても要衝

で、特に地方国を掌握するのに豪族の把握には、寺院開基は最も

効果的な手段であったようだ。

伝行基開基の寺院が各地にあるのはそのためでもある。


「古代甲斐国は大蔵経寺山麓から始まった・・・!」とも云われ、

国府中心に、要衝に守護寺が配置されていると考察できる!


古代甲斐国の春日居国府設置前提にした行基の戦略的寺院配置の事例! 


※行基は、奈良朝廷の仏教普及策の責任者として招聘されて、東大寺大仏殿の勧進

 で成果を上げ、「大僧正」の位を得ているも、地方に行脚する時間はなく、伝行基

 開基の寺院は殆どが奈良で仏像を彫らせて安置したか、朝廷において地位と権力の

 あった「天平年間」において、行脚可能であったと推定できる養老年間に遡って

 伝行基開基の寺院とされている由縁ではないかと考察している。

 通常、僧侶は寺院の開山が殆どであるが、全国各地に伝行基開基の寺院があるのは、

 行基は朝廷に居ながらにして、各国に戦略的に寺院配置を建立するように指示が

 できたと見ている。特に聖武天皇が進めた仏教普及と寺院建立は伝行基開基の寺院

 として、その歴史の跡を印していると見ている。

 同時に、各地の豪族達は僧行基ゆかりの仏像や伝開基の寺院建立を望んだとも云う。


ここで古代甲斐国も行基の伝開基寺院の参考事例としたのは・・・、

奈良時代の特に聖武天皇以来、行基の進めた仏教思想の普及と

寺院建立は戦略的に寺院を配置しているので、その思想を引き

継いで、特に開基となって領地を強化する戦略的配置をしている。

古代甲斐国は、春日居に国府を置く前提で東山(恩若峰から柏尾山)

の要衝に「柏尾山大善寺」、鬼門除に「裂石山雲峰寺」、背後の

大蔵経寺山山中に「青獅子山松本寺」、門徒の拡大に相応しい

「菩提山長谷寺」を開き、山梨岡神社にも国府の鎮目軍団を駐屯

させたと云われているので、往時の寺院や神社は、殆どが中枢

機能(館)守護するために活用されたと見ている。


※詳しくは、「古代甲斐国の歴史ロマンは大蔵経寺山麓から始まった!」

バックナンバー18年8月号を参照下さい。

https://blog.goo.ne.jp/yssoho/e/43a949e134c16458dcd0f4ce96ee8094