新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

山梨、戦国の古道・「秩父裏街道」と「鍵懸の関」址!2017-08

2017-08-01 | 山梨、魅力の歴史資源!

山梨の魅力は奥深い!未だ、未だ知らないところが多い!

「にほんの里100選」に選ばれている山梨市の「牧丘」に

未だ静かに眠っている”里山の歴史ロマン”があった!

「牧丘」の赤芝、切差、戸市、太良ケ峠は、甲府・積翠寺に

に接する奥深い里山だが、そこには歴史ロマン漂う魅力の

美しい里山風景がある!

あの武田信玄が開いた古道「秩父裏街道」は、武田氏秘密

軍用道とも云われ、甲府躑躅ケ崎舘の詰城「要害城」の対

北国防備として戸市之関(址)と切差城址(のろし台!?)

古峠を挟んで、赤芝に鍵懸之関(址)が置かれた戦略上重要

な”関所”址や”城山”と呼ぶ城址が牧丘の里山深くに見られる!

今号は山梨の里山に遺る”旧秩父裏街道(ちちぶうらかいどう)”

と復元されている”鍵懸之関(かぎかけのせき)”を訪ねる!

鍵懸之関址 昭和51年3月30日山梨市指定文化財(牧平区)

 

秩父裏街道(武田秘密軍用道)の要所とされた関所(址)です。

雁坂峠を(現雁坂トンネル)越え秩父栃本に通じる「秩父街道」に対して、

山梨市牧丘の「赤芝」より「古峠」、「切差(きっさす)」、「戸市」、

「太良ケ峠」を越え、詰城の要害城(址)から古府中(現甲府市)躑躅ケ崎の

武田舘を結ぶ「軍事上の秘密道路」と云われ、秩父裏街道」と呼んでいる。

武田信玄、勝頼の時代には、軍事上の秘密道路とされたために、この地に関所

が置かれたと云われている。

また江戸時代にも、西保一帯が用材の宝庫であったため、幕府の御用林保護

のためにも重要な意味を持っていたと伝わる。※旧牧丘町教育委員会資料参考。

※旧牧丘町教育委員会(現山梨市)により調査研究して復元した関所址。


牧丘の里に、古道「秩父裏街道」が遺っていた!

甲府から雁坂峠を越え、秩父へと繋がる「秩父往還」(概ね現国道140号沿)

は古来より秩父と甲府を結ぶ”交易路”として、また武田舘の背後を固める”軍用

路”として使われた重要な街道であった。

「秩父裏街道」はその「秩父往還の間道」として中世、武田氏が開いたと云われ、

武田信玄・勝頼の時代には、躑躅ケ崎舘の詰め城「要害城」の背後を固めるため、

太良ケ峠を下り「戸市の関」が置かれ、切差には城山と呼ばれる「切差城址=

武田のろし台!?」や「古峠」を挟んで赤芝「鍵懸の関」が二重・三重にも

置かれるなど、武田氏の本拠地である古府中躑躅ケ崎舘(現武田神社)の

防禦の要所として築かれたところであった。

武田氏滅亡後も、牧丘町西保地域と甲府を結ぶ交易路として使われたが、

昭和以降は周辺交通網が整備されて、山越えを要する赤芝から切差の間

は街道の役割を終え秩父裏街道の名前事態も忘れられた存在となっていった。

注)YS記 山梨市教育委員会「秩父裏街道の歴史」の解説文を参考。

平成18年頃、切差(きっさす)集落から古峠(鍵懸峠)

を経て鍵懸之関(かぎかけのせき)へ至る旧秩父裏街道

(武田氏秘密軍用道)をはじめ、金光山(1090m)、

八幡山、仏沢、友沢などに登山道が整備され、里山登山が

楽しめるようになったが、交通の不便も重なって、今は、

かつて整備された登山道はあまり使用されていないようだ。

注)今度行く時は、バス便は少ないがJR山梨市駅から切差公会堂前まで山梨市營バス

が運行されているらしいので、切差から古峠越えで鍵懸の関址まで歩き、さらに膝立

まで下って山梨市營バスで牧丘窪平まで戻るコースを検討して見たいと思っている。

筆者は移住して後、古道があることを知ってロード自転車

で訪ねて見た。

切差バス停近くの登山道入口(旧秩父裏街道)が下記写真

如く、難道に見えたことから、歩くのは止めて、今回は、

切差から太良ケ峠に向けて約3km上り、東山中部林道を

走り、古峠(鍵懸峠)を経て赤芝の「鍵懸之関」に至った。

注)今号は、その時のスポット写真を掲載しています。


鍵懸之関は、古峠(切差峠)越えの”赤芝”に置かれた!

 

注)この鳥瞰図は以前現山梨市温井一郎氏が画かれて切差(きっさつ)

公会堂前バス停脇に掲げられている案内地図ですが、切差地域の古道と古峠、

赤芝の範囲の鳥瞰図を画面都合のため、案内図写真を抜粋複写したものです。


以前、同じ山梨市德和に属する「乾徳山と夢窓国師のゆかり」を調査している

時に知り合った旧牧丘町出身(現山梨市)の温井一郎氏が画かれたものでした。

縁あって知り合って以来、特に牧丘町地域や今や山梨市域の里山の魅力とその

情報については”造詣が深い”方だし、並の地域情報ではなく活きた資料情報を

頂いているので、敬意を表し、感謝をしています。

今年、春から観光開発担当(山岳観光開発)に重任されたようなので有り難い。

特に、里山大好きの筆者のような自由人は貴重な生涯学習教材を頂き感謝です。

筆者は、首都圏からの移住組だが、お陰様で高齢になっても健康維持をして

おり、現役で生涯学習を楽しむことができています!里山にも感謝・・・!


切差、古道「秩父裏街道」の登山口と「古峠」の標識

温井氏の手書き案内図を見ると鳥瞰図なので山の様子も想像がつき易い。

この登山口から山道だが古道「旧秩父裏街道」の昔道が遺っている!

写真左標識の登山口入口を入り「若宮八幡」の脇を進むと古道登山道

至る。そこから、約40分登ると「古峠」に至るようだ。

危険度は低山も同じで慎重を要するが、体力度は★★程度で登れそうだ!

ここなら、筆者のような高齢者も歩いて古峠の尾根を越えられそうだ!

 

また、一方、その脇の車道にそって進むと右に「卍法輪寺」があり、

その脇から登ると約20分程度で「城山(切差城址)」に至る。

注)城山は武田時代の”のろし台址”とも云われる。

さらに城山から約15分登ると清八峠方面への分岐に至るルートもある。

その道をさらに登ると約20分で障子岩と首岩を結ぶ尾根に出る。

尾根分岐は左へ首岩~金光山(1090m)を経て「古峠」に至る。

 

この登山道は単なる散策路やハイキングコースではない。

少し荒れているが、戦国時代に遺された軍用古道そのものの登山道を

歩くのだと思うと・・・、それもまた楽しだ!

予め予習をして、歴史ロマンの想像の世界を楽しむつもりで歩いて

見るのも良いだろう。事前準備をしっかりとされることはお薦めだ。

この鳥瞰図は分かりやすい。観光MAPより分かりやすいので参考に。

参考までに、①古道コース(切差~若宮八幡~古道~古峠~鍵懸之

関址~赤芝集落~膝立バス停)を考えて見たいと思うが、その他に、

尾根コース(古峠~金光山~首岩~清八峠~八幡山)

③城山~膝立コース(切差~城山~首岩~膝立)もある。

今度は、①を山梨市市営バスを使って行く登山計画を検討して見たい!


鍵懸之関址 ※現山梨市牧丘赤芝に所在

 


現地解説版には、次のように掲げてある。

牧丘町指定文化財(昭和51年3月30日指定)

旧秩父裏街道の赤芝地内にあり、鍵懸の関という。戦国期武田信玄、勝頼の

時代には、雁坂口の北国防備上要所の関所とされた。

甲府の躑躅ケ崎武田舘から、積翠寺、太良賀峠を越え、切差を経て、古峠を

越すとこの関所に出る。

山峡の間道で、信玄の軍事上の秘密道路とも云われた。

礎石4箇は往時のものである。平成3年3月史蹟として復元した。

平成3年3月31日 牧丘町教育委員会。


 鍵懸之関址碑 現在は「鍵懸の関址」と云う!

(写真右)石標「鍵懸之関址」(写真左)赤芝川の橋を渡ると関所址! 


古道「秩父裏街道」は「鍵懸之関」を経て「赤芝」に至る!

 


写真左は、鍵懸の関址を見て赤芝川溪流沿いに細い道を歩くが・・・、

これが昔ながらの古道だと思うと歩くのも楽しみが倍増する!

また、写真右の車道の分岐にある赤芝の標識には、左⇖「鍵懸の関址」

へ至るとある。この車道の右側には、赤芝集落が和伽に見える!

車で牧丘から膝立を経て赤芝へ入る場合には、この標識を目印に車道

を進み、駐車スペースはないので、この分岐標識の約100mくらい

上に「赤芝集会所」がある。そこに駐車させてもらうと徒歩数分の処。

※以前、マイカーで訪ねた人が、SNSに記していたので参考になる。 


 旧秩父裏街道(牧平)に「膝立の天王ザクラ」が遺る!

膝立の天王ザクラは、石段上の「津島神社」が地元で「お天王さん」とも

呼ばれることから名前がついたと云われ、開花時期には大勢の観光客が見える。

エドヒガンの巨樹で県下有数な桜であるため、県指定天然記念物とされている。

山梨県によると樹齢は約400年以上と云われ、花は1花序ないし、3ないし

4花をつけ、花色は淡紅色、花径は18mm。花柄はがくともに毛をもち花柱

に著しい密毛を持っている美しい桜花が咲きます。

県の推定通り樹齢約400年以上とすると戦国時代末期から江戸時代初期に植え

らてたことになるが、武田氏終焉の前、信玄公が植えた桜としたいところだが、

武田氏終焉の際、いち早く甲斐国入りを果たした徳川家康が、一時、古府中

「躑躅ケ崎舘」を本拠にして、甲斐国再建構想を練ったと云う話があることから、

特に武田信玄の施策には一目置いていたことも伺うので、中牧城の再構築を始め、

秩父裏街道もそのまま尊重したのではないかと思われ・・・、

恐らく2代秀忠の時代までに、牧平など地域の用材などを古府中へ運び入れる

間道として、「秩父裏街道」の沿道、即ち、赤芝、牧平、倉科を結び「領民安堵」

の目的で家康の命により津島神社を祀り桜が植えられたのではないだろうか!?

※津島神社の創建と由緒について、再度、学び直してみたい。

注)現在の桜が、その時のまま活き継がれているのか否かも不詳だが・・・。

毎年の開花情報などは、牧丘タクシーHP http://www.makiokataxi.com/

が筆者のお薦めです!

本ページは牧丘の情報を知り尽くす牧丘タクシーの社長自らが取材されるHPです。

また、山梨市の里山をお訪ねの場合は、山梨市内はもちろん、甲州市、笛吹市内

など近郊や山間部を知り尽くした牧丘タクシーなら安心です。

筆者もいつもお世話になっています。


「秩父裏街道」と「鍵懸之関」の位置は鳥瞰図の赤線部分!

 


本鳥瞰図は、温井氏より頂戴した秩父裏街道の全体がイメージできる唯一

分かりやすい鳥瞰図なので、温井氏の了解を得て掲載させて頂きました。

この鳥瞰図には、太良ケ峠までの現山梨市内の範囲までが画かれていて

左下の「至る甲府・積翠寺」の部分を加えて見ると、前述の通り、古府中

(現甲府市)の躑躅ケ崎武田舘(現武田神社)までを繋ぐと・・・、

古府中(現甲府市)の躑躅ケ崎武田舘を起点にして、背面の詰城として

築かれた要害城(現甲府市積翠寺)を結んで、さらに対北国の要衝として

防備されたのが、本テーマの「秩父裏街道」と太良ケ峠を経て「戸市の関址」、

、切差城(のろし台!?)、古峠を経て「鍵懸の関」の二重・三重の防備を

敷いて、さらに赤芝~牧平を経て鼓川沿いに西保~倉科(中牧城を備え)~

窪平で秩父往還と合流して、雁坂口雁坂峠を経て秩父方面へ至る。

このルートを「秩父裏街道」と呼んだと言うが、裏街道と呼んだ由来がわかる。

甲州街道に対して、青梅街道を「甲州裏街道」と呼んだように、裏街道は

往時の戦略的軍用道としても、多いに重要な街道であったと思われます。

牧丘倉科に遺る「琵琶城址」「中牧城址」は高台に、さらにその昔、安田義定

が築いたと云われる安田舘の詰め城「小田野城址」などは、後に武田信玄が整備

したと云うこの「秩父裏街道」沿いにあって、牧丘の地は平安末期~鎌倉時代

の安田義定の時代から「牧の荘」の「牧」の役割(軍馬の牧場)と用材を担った

重要な地であったのかも知れない。

中世の牧丘には、往時の甲斐国の重要な要衝とされていた、いろいろな歴史上の

遺産があったのだが・・・、

今は、里山100選に選ばれた「美しい里山」で「葡萄」、特に「巨峰の牧丘」

と云われるほど名前も売れている!※対信州もあるが・・・。

牧平ではリンゴの栽培なども行われ、果物栽培が盛んな美しい里山になっている。

さらに山梨市域になる雁坂道の三富・川浦に復元された武田信玄が置いたと云う

「川浦口留番所址」などがある「川浦温泉」などは武田信玄の直轄で武田24将に

名を連ねる「山県三郎右兵衛尉昌景」に特命して、信玄自らが菩提寺と決めた

「乾徳山恵林寺」の寺領とし、”信玄の隠し湯”の一つとして開発させたと云う

「重要な戦略的温泉地」と口留番所(関所)」であったことが伺える。

旧ブログ「新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見」バックナンバーで

「7)歴史好きにたまらない川浦温泉と清水渓谷健康ウオーク」で紹介したが、

時間があればご覧下さい。

さらに、今は、観光客やハイカーに大人気の「西沢渓谷」もバックナンバーで

で紹介していますが、何度でも歩いて見たい、訪れて見たい素晴らしい渓谷美で

興味が尽きない山梨市域であるが、歴史観光資源を山岳や里山に求めて・・・、

列記するには今号では時間やスペースも足りないのでこの辺にしておきます。

「秩父裏街道」で結ぶ沿道も、今は所々しか古道の面影はないが、かつて、

太良ケ峠、要害城址を訪ねて、信玄が誕生した処と云われる積翠寺を見て、

現武田神社のある躑躅ケ崎武田舘址を結んで訪ねて見ると・・・、

漸く、往時の武田氏の国造りや防衛戦略などを学ぶに至り、何故、信虎の時代に

石和川田舘を甲府躑躅ケ崎へ遷したのかなど、立地戦略や地域開発のメリット

なども理解できる気がする。


鳥瞰図を掲載させて頂いた山梨市の温井一郎氏に感謝・・!

ようやく懸案の「②山梨市牧丘塩平線と安田義定をテーマにした牧丘の魅力」

(仮題)の自習NOTEをまとめたいと思いきや、その前に資料収集にあたって、

牧丘に、中世、武田時代の「秩父裏街道」と「鍵懸の関址」が遺されていること

を知ったので、その時のスポット写真を数点抜粋して本ブログで速報しました。

テーマは、美しい里山に遺る「牧丘の旧秩父裏街道と赤芝の鍵懸の関址」です。

現在、山梨市観光課山岳観光担当企画官を重任されている温井一郎氏には、

以前、「秩父裏街道」に関する貴重な資料や鳥瞰図を頂戴してあったことで、

今号のブログ記事を発信ができた次第です。この場を借りてお礼を申します。

また旧牧丘町の故大村和雄氏に遺して頂いた「旧牧丘町時代の調査研究文献や資料」

も併合して、必ずや牧丘のことをもっと足を運んで、学びたいと思っています。

2013年3月号で「①牧丘杣口筋と大弛峠、金峰山」を学びブログ発信しました。

注)①の牧丘杣口筋と、バックナンバー47)「にほんの里100選「牧丘」

乙女高原にレンゲツツジが彩る初夏」を2013年7月号で既に発信している。

注)その後、旧来のOCNブログ人がNTTのリストラに遭って現在のGOOブログ

へ一昨年末に引越したものですが、記事は保存してあるものの以前より容量不足

で、記事内容により若干削減されたり、サーバーの構成デザインが異なるために

画面が崩れたりしているところもあり・・・、

バックナンバーも、ご覧になれますが、今のところはご容赦下さい!

そして、ようやくこれから新たに長年の懸案だった「②牧丘塩平線と安田義定」

をテーマにして自習NOTEのまとめを始めるつもりです。

時間がかかるでしょうが・・・、

造詣の深い温井さんには、これからも教えを乞いたいので宜しくお願いします。

本ブログは、「新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見」と云う題で、仕事では

できない自由なテーマで学習したものを自習NOTEするものですが・・・、

今号の「秩父裏街道と鍵懸の関址」については、山梨市の温井さんに頂戴した

貴重な資料がなければ到底及ばなかったことです。

記事面の末尾ですが、改めてお礼を申し上げます。YS記。


 


41)武田三代の「躑躅ケ崎館」は今は「武田神社」として甲州人の守護神!

2013-01-10 | 山梨、魅力の歴史資源!

41)新春は、武田三代の”躑躅ケ崎館”跡に建つ「武田神社」へ初詣!

祭神”武田信玄”は、今も”甲州人の守護神”として崇敬をされています!

新春のブログは、「武田神社」の初詣で始まります。

武田神社への参道                       001_042001_052武田神社(躑躅ケ崎館址)の境内図 

 

 

 

 

 

 

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武田神社

所在は、山梨県甲府市古府中町2661

往古の地名は、”躑躅ケ崎(つつじがさき)”と呼ばれた。

武田神社は、1519年(永正16年)、信玄の父”武田信虎”が、石禾(いさわ)館(笛吹市石和の川田館)から甲斐国守護職武田家の本拠地を移した”躑躅ケ崎館跡”に建立された神社。

武田神社の創建は、1919年(大正8年)。旧社格は県社。

あの”武田信玄”を祭神として祀っている。例祭は、信玄公の命日4月12日。

・「躑躅ケ崎館」と呼ばれた館跡は、今でも、東、中、西曲輪の遺構や土塁を残し、明確に館跡の様相が伺える貴重な歴史遺産でもあります。

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「武田神社」

あの”武田信玄”が祭神・・・、今も、甲州人の崇敬を集める!

武田信玄は、戦国時代1541年(天文10年)21才の時甲斐国主となって、国の騒乱を治め、甲斐国の安泰と拡大を図り、天下の平定を目指した武勇の人で、甲州人の英雄!

武田信玄の”国づくりの理念”は・・・、

「人は城、人は石垣、人は濠、情けは味方、あだは敵なり」

人の和こそ山河の嶮しさに匹敵すると信じて”国づくり”をしたことと、生涯、敵に一歩たりとも甲斐の地を踏ませることはなかったことで、まさに守護神に相応しい名将として崇敬されている!また、孫子の兵法「風林火山」の戦略を軍旗を掲げ、鉄壁の布陣を敷いたことで、後世に名を残す勇将である。

武田神社は、躑躅ケ崎館の跡地(信虎、信玄、勝頼の武田氏3代の居館跡)に建てられていて、甲斐国の名将”武田信玄”を祭神としていることもあって、初詣だけではなく、日頃より甲府市民、いや山梨県民に特に崇拝されている神社で、いつも、大勢の観光客や参詣の人々が訪れています。

武田神社へのアクセスは、甲府駅北口から路線バスが運行されています。

山梨交通バス時刻表を確認して下さい。

注)元旦の武田神社へは初詣バスが10分~15分おきに運行されているのでとても便利です。

甲府北口には、甲府市観光協会の「レンタサイクル甲府」が営業しています。

 ?055-254-6300 お洒落で楽々の電動自転車もあるので、お勧めです。

   9:00AM~17:00PM営業  注)年末年始のみ休業

徒歩でも約30分で行けます。ルートは甲府駅北口から武田通りを歩いて一本道。武田24将の屋敷が配置された往古の町並みを偲びながら歩くのも一興です。

武田神社正門 

002

武田神社は、戦国時代に武田城下町の中枢にあった”武田氏館跡”に、武田信玄を祭神として、1919年(大正8年)に建立された神社で、「古城」、「御屋形跡」と呼称される武田氏を偲ぶ由緒正しき歴史資源そのものである。

・武田家滅亡後、一条小山へ甲府城が築城されると、甲府城下町は、現在の中心部へ移ってしまったが、明治期に史蹟保存運動が起こり、1880年(明治13年)明治天皇が巡幸に際して社寺保存のため保存金を下賜されたことを契機に、信玄霊社建設運動が起こる。当時の県令藤村紫朗は古城地の公有化を進めた。

1915年(大正4年)大正天皇の即位記念に武田信玄が従三位に追贈されたのを機に「武田神社奉献会」が設立され、1919年(大正8年)に社殿が竣工した。

武田信玄の命日にあたる4月12日に初の例祭が行われたとある。※社記による

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元旦の初詣は、約5万人・・・! ※毎日新聞1月3日より

武田神社初詣の行列風景             武田神社本殿(奥に神殿) 003 004

 

 

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躑躅ケ崎館の井戸は2ケ所確認されている!

その一つが、当主の日常居住屋敷と思われる中曲輪跡の”水源井戸”。

武田神社の神殿005006                  躑躅ケ崎館の井戸跡       

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大手門の周辺発掘跡の解説版          大手門(躑躅ケ崎館正門)の石塁跡 

008_2

007_2

 

 

 

 

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躑躅ケ崎館は、外濠、内濠、空濠の三重構造であった!

躑躅ケ崎館の内濠跡                009010躑躅ケ崎館の空濠跡

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躑躅ケ崎館には、2箇所の井戸が存在する・・・、もう一つ!

水琴窟の処にある名水「姫の井戸」は、信玄の子息誕生の産湯に使用されたと云う。

能舞台「甲陽武能殿」                 011 012水琴窟の名水「姫の井戸」 

 

 

 

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・「甲陽武能殿」は、平成18年5月18日竣工で、武田神社崇敬会によって奉献されたもの。

注)武田神社崇敬会は、武田信玄公のご神威を拝戴し、ご神徳の宣揚と祭祀の厳習を以って、武田神社を奉賛することを目的として、平成9年10月に発足した。

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 武田神社宝物殿                            

013

・大正8年の神社創建以来、全国武田家関係者等よりゆかりの遺宝の奉納を受け昭和47年に開館。

・金小実(こざね)南蛮胴具足(武田家相伝)、信玄公軍扇、吉岡一文字(重要文化財)、武田二十四将図(江戸中期)、信玄公画像土佐光貞作(江戸時代)など、武田信玄公にまつわる数々の遺品が展示されています。

・その他、後奈良天皇綸旨、北条氏政書状、足利義昭御内書、一色義棟書状他、武田信玄の書状などが収蔵されているので、歴史好きには興味深々です。

詳しくは武田神社のHPをご覧ください。

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帰路は、躑躅ケ崎館を中心に配置されている武田24将の屋敷跡と町並みの形成や甲府五山の一つ円光院(三条夫人の墓所)や岩窪の”信玄公墓所”(旧土屋右衛門昌次邸内址で信玄公が3年間埋葬されていた処)、大泉寺(信玄の父、信虎の墓所)などを経て、甲府駅まで歩いて見ると、また新しい発見があるのではないでしょうか!?

次号で”甲府五山”を紹介する予定ですが・・・、ここで”甲府北山野道の小松の里&板垣の里”と”甲府五山”の魅力散策を詳しく紹介します。

円光院、信玄公の墓、大泉寺などの話は、次号をお楽しみに!

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躑躅ケ崎館”のあれこれ・・・!?

ウイキペディア、武田神社資料などより抜粋

「躑躅ケ崎館」:

武田家居館は、躑躅ケ崎の地に建立されたことで、「躑躅ケ崎館」と呼ばれた。

江戸時代以後は、甲府城が一条小山(一蓮寺跡)に築かれて、城下町が南へ移ったことで、躑躅ケ崎館址は、「古城」、「御屋形」跡と呼ばれて偲ばれている。

躑躅ケ崎館は、甲斐国守護時代の武田家の本拠地として、居館と家臣団屋敷や城下町が一体に形成されていて、まさに”府中”(現在の地名は古府中)として機能し、後に広域城下町としての甲府や、近代の甲府の原形になっている。

山梨県中部、甲府盆地の北端、南流する相川扇状地に位置する。

東西を藤川と相川に囲まれ、背後に詰城である「要害山城(標高770m)」を配置した構造になっていて、自然を最大限活かした防衛機能と府中を開くのに相応しい地形を兼ね備えた立地でもあった。

しかも北山の信玄公誕生の地と言われる要害山城の麓には、往時より兵士の湯治に適う積翠寺温泉もあって、戦に備える信虎の戦略が伺える地形だ。

南は、甲府盆地を一望し、御坂山塊に富士山を垣間見て、白根三山、鳳凰山を望め、相模の北条、駿河の今川軍の侵略をいち早く察知して備えられる立地であったと思われる。

武田信虎(信玄の父)は、将軍足利義晴と通じ、甲府の都市計画も京都の条坊を基本にしていることが指摘されるが、発掘調査によると、当初の館は、将軍邸である花の御所(室町第)と同様の方形居館であり、建物配置や名称にも将軍邸の影響が見られる。

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構造・遺構:

広さは周囲を含めて東西約200m南北約190m、面積は約1.4万坪(約4.6万㎡)と推定されている。

外濠、内濠、空濠の三重構造で中世の武家館であるが、東曲輪(くるわ)、中曲輪からなる規格的な主郭部と西曲輪、味噌曲輪、御隠居曲輪、梅翁曲輪(うち、後半三曲輪は武田氏滅亡後の豊臣時代に造られている)等から構成されて、甲斐武田氏の城郭の特徴が良く現れた西曲輪虎口や空濠、馬出しなどの防御施設を配した構造になっている。特に三日月濠は武田氏の築城の特徴と云われ、籠城しやすく攻められにくい構造で、信玄の時代に山本勘介の築城術で造営されたとも云う。

内郭は石積みで仕切られており、東曲輪で政務が行われ、中曲輪は当主の日常的な居住館、西曲輪は家族の住居があったと考えられています。

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武田城下町:

武田城下町は、居館を機軸に二町間隔で5本の南北基幹街路が設定され、京の町並みを意識していたことが指摘されている。

居館の建設と並行して城下町建設や新たな寺社創建、市場開設など府中の機能整備が行われて、城下町の北面には、家臣団屋敷(24将を中心に)が配置され、南面には、商人、職人町が整備されている。

城下町南端の一条小山(後に甲府城が築城)には鎌倉期に創建された一蓮寺の門前町があり、愛宕山を隔てた北原扇状地にも戦国期に信濃から移転された甲斐善光寺の門前町が発達している。また、東西の出入口武には、三日市場や八日市場などの市場が開設され、城下町と外部の境界にあたる上木戸には、刑場があり、蓮台場には共同墓地、少し離れた境町には牢屋もあったと云われる。

外縁には、詰城として城砦群が発達して、館の北部には要害山城(積翠寺城)や湯村山城、南の一条小山にも山城が築かれ、居館と詰城、支城による府中防衛体制も整えられた町づくりが行われている。※ウイキペディア躑躅ケ崎館より

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積翠寺温泉: ”信玄のかくし湯”として現存する 

標高540~700mの地域に、要害温泉、古湯坊温泉の2つの源泉がある。

泉質は塩化物泉(低張性弱アルカリ性温泉)

PH値平均 7.8

源泉温度 平均25.6℃

湧出量  毎分84.7?

※臨済宗妙心寺派に属する積翠寺には、信玄の産湯と伝わる井戸が残っている。

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要害山城:標高770mの丸山中腹の傾斜地を中心に築かれていた。

「高白斉記」によれば、築城は武田信虎時代、永正17年(1520年)6月であると云う。注)武田氏が居館を石禾川田館から躑躅ケ崎に移転した年の翌年。

駒井政武の領地であった積翠寺郷の丸ケ城として取り立てられ、館の詰城として砦や狼煙台が築かれたと云う。

遺構:本丸に至る通路や枡形、曲輪、濠切り、見張台等の遺構の他、要所を固める石垣もよく残っていて、戦国時代の城郭として、中世豪族の居館形態を示す貴重な史跡となっている。

永正17年には、今川軍の福島正成が駿州往還(河内路)を甲斐国へ侵攻し、甲府へ迫って来た時、信虎は、正室の大井夫人を避難させ、福島勢を駆逐しているが、夫人はその最中に城中で、嫡男(勝千代、後の信玄)を出産したと云われる。

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武田24将の屋敷跡:

南北に幾筋もの大通り(小路)、東西にも街路が設けられ、家臣の屋敷、寺院、商人や職人の居住地が定められていた。

甲府略志の「古府之図」をもとに、武田24将の屋敷跡が明らかになっていて、各屋敷跡には、24将を紹介する案内版が設置されている。但し、原美濃守虎胤(とらつぐ)の屋敷跡は不明。

※詳しくは、信玄公のまち 古府を歩く|武田24将の屋敷跡を訪ねる!

 http://www.city.kofu.yamanashi.jp/shingenkou-no-machi/residence.html

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4)幽玄に歴史を伝える「裂石山雲峰寺」を訪ねる!

2010-11-09 | 山梨、魅力の歴史資源!

Photo 紅葉が美しい季節の「裂石山雲峰寺」を訪れた。大和奈良の古刹を思わせる雰囲気がここにはあります。

「裂石山雲峰寺」は、甲州市塩山裂石の大菩薩峠登山口にあって、昔むかし、”東山梨郡萩原郷裂石”というところの萩原山々麓、山頭飛雲嶺にある。苔むした仁王門へ登る石段は、幽玄の世界へタイムスリップするかのような感動がありました。※石段の先に車道があり、車で入れますが・・・。

745年(天平17年)行基上人が十一面観音を刻んで一庵に奉祀し、開創したとされたとされる古刹です。伽藍は室町時代に焼失したが、武田信虎と信玄が再建して、武田家の祈願所となった由緒あるお寺です。仁王門や本堂、書院、庫裡などは昔のまま保存されていて、国の重要文化財に指定されています。特に、普段は拝観できないが、書院は大変美しい。

Photo_2 また、武田家終焉の将となった武田勝頼は、織田・徳川連合軍に追い詰められて、甲斐大和の田野で自刃した際、七人の家来が大菩薩山中の上日川峠を越えこの雲峰寺に逃げのびて、武田家伝来の家宝”日の丸”(日本最古の旗)や風林火山で有名な軍旗”孫子の旗”などをこの雲峰寺へ奉納し、隠し守ったと伝えられています。今でも当時の古びた軍旗が宝物殿に保存されています。

※その家臣は生き延びて、御旗を守るため武田家臣の名前を隠して、裂石の里に隠れ棲んだという話もあり、その子孫は現在も存続しておられるという話を聞いています。

Photo_3最近、この寺の庫裏を守るため、若奥さんが後継されたようで、この日も広い境内の落ち葉掃除をしておられたところを訪ねましたが、とても明るく、優しい案内は、この地域のお寺を訪ねた中では、特に、素晴らしい印象が残 っています。※若奥さんの写真は、はずかしいとおっしゃるので割愛をしました。

雲峰寺の若奥さんの”素晴らしい”案内に誘われて、初めて、寺の山頭にある「象頭山金毘羅宮」を訪ねてみました。その祠へ向う参道の途中で、”雲峰寺の全容”を上から眺めることができました。

Photo_4 「象頭山金毘羅宮」は、約470年前、武田家本拠を石和郷川田館から甲府つつじケ崎館へ移転した時、鬼門除けのこの地に甲斐国鎮護、軍中守護神として勘遷した。

参道の古びた石段は緩やかだが224段あって、甲州市の散策路に指定されている。しかし、役所の誰かが安易に命名したのであろうが、何と”納涼コース”と標識名で、歩いた雰囲気と場違いも甚だしい命名だと思いました。YS