新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

32)山梨の里山にも、”水芭蕉(ミズバショウ)”が咲いている!

2012-04-13 | 山梨、里山の美しい四季!

甲州の春!境川町の”藤垈(ふじぬた)の滝に、”水芭蕉の花”!

何と、山梨に・・・”ミズバショウ”の群生!?知らなかった!

山歩き”を楽しむ人達は、”ミズバショウ”と云えば「夏の想い出」に歌われる”尾瀬”を思い浮かべる人が多いと思うが、咲くのは雪解けの5月末頃・・・。ここ笛吹市境川の大窪字滝上にある「藤垈の滝」のミズバショウは4月上旬に見頃を迎えた!

桃の花と桜の花の開花が遅れているが、例年なら、”桃の花”と”ミズバショウの花”と”桜の花”の満開が重なって、首都圏では見られない「桃の花まつり」が楽しめるはずだが・・・!?楽しみにした”ミズバショウの花”は丁度、見頃で、”満足”としましょう!

境川の里(特に坊ケ峯展望台、智光寺高台)からは、甲府盆地と南アルプスや八ケ岳方面、奥秩父山塊方面の大パノラマが展望でき、”美しい遠望が堪能できます。

2012年4月7日(土)、境川桃の花まつり実行委員会の主催で「桃の花まつり 藤垈の滝水芭蕉&彫刻観賞会」が開催され、JR石和温泉駅前から無料シャトルバスが運行されるというので、訪ねて見ました。今年の”桃の花”は開花遅れで間に合わず残念でしたが、楽しみの”ミズバショウ”は丁度見頃を迎えていました!今年の”水芭蕉”は 3月中旬から咲き始めたようで・・・、4月中旬頃まで楽しめます! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    Photo

境川大窪「藤垈の滝」に咲く・・・、

”ミズバショウ”の花!

Photo_2

和名:水芭蕉

(ミズバショウ)

別名:”仏炎苞”(ぶつえんほう)

葉が変形して純白の花に見える清らかな想い出を作る植物!

”仏炎苞”の中央にある円柱状の部分が小さな花が集まった花序(かじょ)と呼ばれる花。開花時期は低地で4月~5月、高地では融雪後の5月~7月。葉は花の後に出る。根出状に立ちあがり、長さは80cm~30cmに達する。

学名:Lysichiton camtschatcense Schott 植物分類:サトイモ科ミズバショウ属

和名の「バショウ」は、芭蕉布の材料に利用されているイトバショウ(Musaliukiuensis Makino)の葉に似ていることに由来する。(ウイキペディア)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

山梨の”ミズバショウ”は、”清泉”の里山に育まれていました!

”水芭蕉”の咲く”藤垈の滝”・・・、”山梨県笛吹市境川町大窪字滝上”・・・

古代は、大宝律令によって”八代郡は五郷に分けられ、”甲斐国八代郡長江郷という地名であったらしい。(注:一部は白井郷に含まれたかもしれないが、古地図がないので詳細は不明。また江戸時代の大窪村の芹沢不動縁起には”甲陽長井の荘”大窪村と見えるが、長井は長江が正しいか、白井と合せた地元の呼び名であったか不詳で、長井という荘園名は見当たらない。)

注)『和名抄』による解釈を山梨県史によると4説掲げるが、白井郷は旧境川村西部から中道町にかけてみなすのが妥当であるとの記述もあるので、推定するに白井郷かもしれない。

1903年五成村、圭林村、藤垈村、寺尾村が合併、境川村となり、2004年10月12日、東八代郡石和町、一宮町、御坂町、八代町、境川村、東山梨郡春日居町が合併、笛吹市となる。古代には在庁官人三枝氏の八代荘の領域にあったらしく、八代の地名はこの頃からか?『拾芥抄』では「山代郡」とあり、”山代”がなまって”八代”になったという説もあるらしい(ウイキペディア)。

※江戸時代の芹沢不動之縁起に”甲陽長井の荘”と見えるが、筆者は分からない。どなたかご存知の方がおられたら教えて下さい。

笛吹市”境川町は風景の美しい長閑な里山”・・・!

Photo_4 Photo_3

笛吹市境川町(旧さかいがわむら)は、山梨県南東部に位置。この地域の扇状地には旧石器時代から人々が住み始めた遺跡があちこち見られるが、村域の中には、”一の沢遺跡”や”京原遺跡”など貴重な遺跡が発掘されている。弥生時代の遺跡は見られないそうだが、弥生末期から、古墳前期には住居跡や遺跡が多く発掘されており、奈良、平安時代には、既に集落が形成されていたと云う”往古が今に蘇る歴史の里山”でもある。

背後の山隗、鶯宿峠の山腹を源流として”境川”の清流が始まり、伏流を繰り返して”藤垈の滝”のところに湧き出ている。添付写真は鮮明ではないが、向って左から山梨百名山”春日山”1235m、”黒坂峠”、”名所山”1236m、低いところが”鶯宿峠”、そして右に”滝戸山”1120.8m、”貉山”(むじなやま)981.2mがあり、河口湖大石ー新道峠ー芦川ー鶯宿峠を越えて境川筋に入る”間道”であった時代もあるらしい。

大窪村の向昌院から藤垈村の智光寺を経て常泉寺を下る道は、昔道の面影が残っている。常楽寺のところで分岐して、古代は主に石和筋(道)へ、中世以後は中道往還を経て甲府筋(道)への間道であったようだ。背後の山向こうにある芦川村の歴史によると、芦川の女性が”炭”や”山の恵み”を担いで、甲府まで行商に出かけていた話を聞いている。芦川の行商(女性)の人達がこの境川の道を超えたのだと思うと、往古の逞しい里人を偲ぶ感慨もある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

”藤垈の滝”は、清泉の湧水を筧に懸けた八条の飛瀑!

Photo_5

Photo”藤垈の滝 ”は山麓の伏流水が湧き出る清泉の滝・・・!

年間平均水温は12℃を保ち、特に夏はマイナスイオンがいっぱいで、涼が楽しめる・・・!井伏鱒二は「真夏のエアースポット」と評したそうだ。

しかし、ここは、”タダ”の滝や自然公園ではなかった!

この里山には、数々の”伝説や興味深いご利益”がある話もありそうだ!

Photo_2 藤垈の滝と芹沢不動尊

甲陽長井の荘大窪村「芹沢(糶沢)不動明王と石打毘沙門天王の縁起(江戸時代寛延2年9代将軍家重の時代に書かれたと見る大窪村の解説文)によると・・・、

行基上人が巡行され、尊像を刻んだという伝説がある!?

44代元正天皇の御代養老2年(718年)頃、行基上人が巡行され、知恵満虚空蔵と不動明王毘沙門天を刻み、伽藍を建立したと伝えられる。則一刀三札の尊像で、智光寺本堂本尊、並びに不動毘沙門の両尊がこの里に安置されたと伝わる。この不動毘沙門が”芹沢の明王、石割毘沙門”(芹沢不動尊)だと云われている。この御堂は、再興されたもので、行基上人の刻んだ尊像は確認するすべがない。

別名:”瀬立の滝”とも云う。

淳和天皇の御代天長10年(832年)頃、中郡が満水で困っていたところ、明王の連繋によって瀬を立水(堰き止め)により、万民が安穏になったことで、”瀬立の不動”と言われるようになったらしい。

新羅三郎義光の芹沢不動堂の開基伝説

(※義光が甲斐国に入国したかどうかの議論は、さておいておこう・・・!)

その後、清和天皇の子孫、甲斐源氏武田氏の始祖新羅三郎義光公が奥州征伐の後、甲州に戻った際、”楯無の鎧”(以来武田家の家宝=現物は国宝として甲州市塩山の菅田神社に納まる)を賜った頃であるが、甲州藤木の陣場にて、東方より敵軍に攻られ、かけちらされて一夜にして数十余里引退したところが、大窪村の高山(村上の山=滝上)であったらしい。

義光公は、陣を明王堂(芹沢不動堂)の前に、石を並べ立てた(石立)陣を構え、虚空蔵、不動明王毘沙門天両尊を観念すると明王が威光を現して、矢が雨の如く敵陣に当り、毘沙門天は石を打ち給いて、両尊の庇護により、13度戦った敵陣を、見事に打ち破ったとある。

義光伝説の旧蹟!?「芹沢不動明王」などの・・・、伝説が面白い!

その言い伝えから、勝の木(名所山にあり)、芹沢、立石、石打場(御堂右下滝のあたり)が、旧蹟として今に伝わる。

義光公は戦勝の後、この不動明王の前で、軍兵とともに休息し歌を詠んだと云う。

その不動明王が祀られる清泉の滝水は”名水”で、義光公は滝に向って、「よき滝水の流れかな」と給うに、軍兵は「もののふの つかれをすすぐ 滝の水 さてもすずしき せり沢の里」と詠ったとある。

答えて、義光公は不動明王の霊厳を感じ「人ごとの 薬となれや芹沢の なを行く末に 残る滝水」と詠じ、そこに、御堂を創建したと伝わる。以来、この滝水に頭を打たせると生涯頭痛を患うことはないと云われ、その後、頭痛を患った人も滝水治療に訪れたと云う。但し、”霊水は冷水”につき要注意・・・!

江戸時代に大窪村の人々が明王の滝水の由来を記し、信心労の助力を乞い、御堂を造営して明王尊天の威光を増し、”薬水”の方便で尚繁盛を願った文書が掲げてある。(読みにくいが現御堂の複写文掲示版による)

注)筆者は、この江戸時代の解説文書を正確に解読できているかどうか分からないが、筆者流に解釈したものです。もし、里人の信心に失礼があれば御容赦下さい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

藤垈の滝水”の流れに、”ミズバショウ”の群生!

平成10年~平成14年に自然共生型地域事業として、約25000㎡の複合自然公園が整備され、この由緒ある霊験あらたかな”藤垈の滝水と不動明王のある「歴史文化ゾーン」、ミズバショウのある「清流ゾーン」、遊具などある「ふれあい交流ゾーン」、散策路が整備された「癒やしの森ゾーン」などを複合して「複合自然公園 大窪いやしの杜公園」が完成している。

この記念事業に、境川村が友好関係にあった新潟県中条町(現胎内市)からミズバショウ700株を譲り受け、平成14年に完成した公園の滝の水を活かして水路に植栽したものが、現在では約3000株に成長している。まだ、ミズバショウを増殖できる環境があるようなので将来が楽しみです!

当日、会場のイベント全般に気を配っておられた境川町観光協会の大久保さんには、とても親切に会場案内をして頂きました。ありがとうございました。

また、匿名で恐縮ですが、お祭り会場で巡回観光バスの手配を頂いた女性スタッフの方、境川巡回観光バスの(奥様)ガイドさんには、明るく、気遣いのもてなしをありがとうございました。

※ちなみに、旧境川村は新潟県中条町と有効関係にあったらしいが、この中条も、同じような扇状地形で、扇央部で伏流水が湧き出ることで知られ、”胎内川”は湧水が豊富で「どっこん水」とも呼ばれることで有名な処です。

Photo_5Photo_4Photo_3

参考:日本の主なミズバショウの群生地

①北海道網走湖畔、②雨竜沼湿原(雨竜町)、③尾瀬沼 ④奥裾花(長野市)、⑤大嵐山・取立平(両白山地)、⑥籾糠山(もみぬかやま)-天生湿原、⑦蛭ケ野高原(岐阜県=斑入りミズバショウ)などを比較すると、そのエリアが如何に美しい清流と自然環境に恵まれた立地にあるかわかります。境川はそんな自然環境の清流に引けを取らない恵まれた環境だという証明がされているのと同じです。”ミズバショウ”の観賞ができる公園を見ると”箱根湿生花苑””や”小岩井農場”のように、自然保護のレベルが高い公園に限られています。

兵庫県では絶滅危惧種、栃木県、石川県は準絶滅危惧種、福井県、静岡県では要注目種に指定され、上信越国立公園、中部山岳国立公園、白山国立公園などで、自然公園指定植物となっている。この山梨の境川に育つミズバショウも、将来的には、とても貴重な保護植物になることでしょう!大切にしたいものです!

その他、”市の花”、”町の花”、”村の花”として守られている市町村は現在全国で20ケ所あるが、如何に清水に恵まれて空気が綺麗な町にしか育たないかということが良く分かる象徴的でかつ貴重な自然の花かということが良く分かる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

境川の観光資源は”自然との共生を育む里山の魅力”!

堺川の里をのんびり歩くと、”のどかな里山”の風景に、何だか懐かしい古里の香りが感じられます!

Photo 境川町散策マップ (笛吹市境川町観光協会)※写真をクリックすると拡大できます。 

大窪いやしの杜公園

  藤垈の滝とミズバショウ

②名産”大王柿” 

※甲州百匁柿を渋抜きした”富士”に負けない逸品

③俳人飯田蛇笏、竜太の生家

※俳誌『雲母』の拠点『山蘆(さんろ)』

④甲府盆地の展望台『坊ケ峰』

※坊ケ峰(標高394.9m)の高台は、一見”古墳”かと思わせる丘陵で、電波塔がたくさんあると。

観光客を迎える配慮は一切ない(トイレも廃壊)が、その高台に展望台が施設されていて、展望して見ると甲府盆地を見下ろすというより、西方に、南アルプス白根三山、鳳凰三山、甲斐駒ヶ岳、西北方面に、八ケ岳連峰、茅ケ岳、北~東北方面に、奥秩父山塊、金峰山、乾徳山、大菩薩嶺など日本百名山や山梨百名山を大パノラマで展望できてる。

山好きの人にとっては、一点からこれだけの山梨の名山が一望できるところは、数少ない絶景ビューポイントです。

⑤境川農産物直売所 

※ご存知の地元農産物の直売所です。貴重な冬桃や大王柿が季節販売されます。手作りおやきも名物です。

などが紹介されています。

詳しくは、「ふえふき旬感ネット」をご覧ください。 

http://www.fuefuki-syunkan.net/guide_sakaigawa.html

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

”藤垈”の里には、由緒ある古刹がありました!

曹洞宗”萬亀山向昌院”は、往古は真言宗朝霧山長慶寺と云われ平安時代の創建と云われています!

自然豊かな禅寺 曹洞宗”萬亀山向昌院”は、室町時代(1520年)に開山された古刹!

Photo_2 Photo_3 Photo_4

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

往古は、真言宗”朝霧山長慶寺”で、平安時代・天喜年間(1053~58年)の開山と伝わる。その後、妙亀山広厳寺4世 俊屋圭彦和尚を開祖として、永正17年(1520年)に禅宗寺院(曹洞宗)に改宗して現在に至っているという。※向昌院HPより

「夜も脆く明行く空や不登喜須(ほととぎす)」藤垈の俳人北野道等(みちら1791~1863年)の句碑がある。俳師辻嵐外が書いた芭蕉の句碑もある。

※旧境川村は俳人飯田蛇笏、竜太の出身地でもあり、”俳句の里”として訪ねて来る人も多いと聞く。俳句の句碑は、向昌院の他、智光寺の桑原家の墓所、春日山黒坂峠、山蘆の裏山に山口素堂(蛇笏謹書)、坊ケ峰頂上などにあって、俳句が趣味の人は、また格別の里山歩きが楽しめそうです。

向昌院の庭園は、豊かな自然そのままに裏山を活かして築庭されている。一見の価値ありそう!※筆者は残念ながら時間がなく、拝見していません。次回は必見!ご住職、”よろしく”

隣接する藤垈の滝と自然林は、今は解放されて自然公園になっているが、昔は向昌院の境台地であったらしい!?

向昌院が、まだ長慶寺であった頃、”禊(みそぎ)の場”であったとも言われている。

注)禊(みそぎ)とは、神道用語で二つの意味がある。(ウイキペディア)

①重大な神事などの際、自分自身の身を氷水、滝、川や海で洗い清めること。

②禊祓(みそぎはらえ)の略。俳句や短歌などでは、夏の季語。

※”禊場として打たせ滝”が利用されたことが多く、現在の藤垈の滝の”八筋の打たせ滝”は、その名残りではなかろうかと思われる。※なぜ、八条(八筋)なのかは不明。

往古から、何かあると”身を清める””水に打たれる”ことは、”信心”でも行われて来た!

いつの時代にも人々は生きるために清泉を大切にして来た。何と言っても、清泉の飲み水は命の糧である。旧石器時代からこの地に里人が住み始めた理由が想像できる。ある時は、禅僧の禊修行に使われたこともあるようだし、またある時は、里人が頭痛などの病に、頭を冷やして頭痛を冷ましたらしい。また里人は、この冷たくて美味しい水を健康の泉として飲んで身体を労わったそうだ。もちろん、今でいえば、マイナスイオン効果、チトンフィッドと森林浴、真夏の清涼に・・・、憩いの自然公園に解放されているのです。元々、”清泉は神仏の恵み”と崇める貴重な自然の恵みなのだ!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

曹洞宗 ”松尾山 智光寺”

Photo_5 Photo_6左:智光寺には、樹齢300年以上と推定される”カヤ”の大樹がある!(県指定天然記念物)

右:境台地の上段からは、甲府盆地が一望できる絶景!

開山は向昌院7世名国誉和尚で向昌院と縁が深いようだ。

・開基は智光寺殿雪山金公居士。

・寛政元年(1460年)の創建とされる。

・木像:虚空蔵菩薩像(県指定文化財)は『甲斐国志』にある甲州の福智能三虚空蔵の一つ。

・”智恵満虚空蔵”と称される。

※この木像:智恵満虚空蔵は、先に紹介した藤垈の滝に掲げる「大窪村伝説の行基上人の刻んだという智恵満虚空蔵に何らかの因念があるのかもしれないが、虚空蔵菩薩は記憶力の増幅を願う『求聞特法』として信仰されたと云う。特に木像は像内の墨書から求聞特法の応化身である明星天子菩薩として、建長6年(1254年)の作と考えられているそうで、行基上人作ではないらしい。行基巡行は未だ謎の伝説のままだが、謎のままが良いのかもしれない。

記憶力が増進すれば頭が良くなることは請け合い。筆者ももっと若い頃に知っていれば、もう少し頭が良かったかもしれないと・・・、ともかく、ボケ防止にはご利益がありそうな尊像のようです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



コメントを投稿