甲州市塩山下小田原は、往古を辿る探訪ができる!
現在の塩山下小田原はJR 塩山駅から青梅街道を経て、
千野橋を渡り、広々とした塩山北中学校を左に見て、
「青梅街道」沿いに上ると、「下小田原」へ行ける!
今号は、「塩山下小田原」を歩いて、紹介します!
現在の甲州市塩山小田原の様子・・・!
昔のように、もし歩いたら、上り坂だけで約2時間以上はかかる!
塩山駅から青梅街道を上ると、鉄道が開通(明治38年)後、この辺りの
住民は塩山駅まで歩いたと思われるが、道標(大正3年)には塩山駅迄
20町(約21.81km)とある。その辺りから約2km上ると上条集落に着く。
現、甲州市塩山下小田原は、往古は「東山梨郡下小田原村」と言った
時代もあった! その「下小田原」を辿って見る・・・!
大日本地名辞典によると、「上萩原村から重川を挟んで北に位置する。
注)重川(おもがわ)に架かる小田原橋(重川は甲州市の中心を流れる川)が目印。
筆者は米寿を迎える高齢だが、身体が続くかぎり、自転車を漕ぐ・・・。
先ず、転んだり、人に迷惑をかけないようにゆっくりが基本ですが・・・。
勿論、起伏の激しい甲州市内は往きは自転車を押して約2時間歩き、
帰りは一漕ぎもいらないことで頑張れた。
今回は家内も付き合ってくれて、計画的にブログ発信することが出来た。
塩山下小田原は、宝暦6年(1756年)の家数95軒,人数346人。
文化初年(1804~18)は、家数74軒,人数204人。
萩原山入会10ケ村に属し、薪、馬草、刈敷など採取。
令和3年4月現在では、世帯数163、人口327人で、静かで清楚な里である。
下小田原の「金剛山福蔵院」は安田義定の館跡と伝わる・・・!
福蔵院の境内には、甲州市教育委員会名で、新しく立派な解説版がある。
◎金剛山福蔵院:
「福蔵院は、山号を金剛山といい、上条集落の中心から、南に垂下する
舌状台地「金剛山」の南側東面に位置する。真言宗智山派に属し、本尊
は十一面観音像。かつては、「大聖金剛山福蔵院降摩寺」と称した。
福蔵院の創建は定かではないが、平安時代に行基によって開山され、
境内地は、鎌倉時代の初めには甲斐源氏の一人「安田義定の館」だった
とも伝えている。※筆者は、かつて安田義定を辿ったことがあるが、往古、この地域に三枝氏
という豪族が本拠を構えたと言われ、いち早く黒川金山の砂金に着目し、開発を始めたとみている。
後世、その三枝氏の滅亡により、甲斐源氏安田義定(本拠地は現山梨市)は、いち早く黒川金山に
着目し、開発を引き継いだとみている。最近発掘された原の京遺跡の鍛冶跡は、砂金の精錬技術
を行ったのではないかと考察できる。そのために、現福蔵院は、安田義定の館であった可能性は高い
と考察している。
注)残念ながら、歴史家や専門家と称する方は、史実の証しがないと断定しないので、文献もない。
江戸時代には末寺白峰山常聖(昌)寺、塔頭に阿弥陀堂、不動堂、薬師堂
があった。その時の考察論は、「安田義定は、現山梨市に本拠を構え、
遠江守に昇格したりして、鎌倉幕府開府のため、源平合戦の源氏の副将軍
として貢献したこともあり、殆ど山梨にいたことはないようで、そのため何も
残っていないのだと考察できる。
その後、武田信玄の時代に、黒川金山の隆盛に繋がっていくのだが!?
注)筆者は、武田家の中でも、特に「武田信成」公に着目している。
それは、塩山千野に構えた信春公の「千野館」開設に置いて、決断・決定したのは第11代武田家当主
「武田信成公」(※地元の象徴塩山向嶽寺開基、法号は継統院)であるからだ。
武田氏再興のために、千野館は黒川金山の管理に好立地と判断をしたと考察している。
今はお寺も車社会に対応、駐車場がないとお参りさえ難しい時代!
福蔵院の代表的建造物として、本堂、庫裏、仁王門の3棟と石垣、石段、
石造物の9件(工作物)が所在する。
本堂は、桟瓦葺、寄棟造で、大正12~14年(1923~1925)に建て 替えた。
このとき、東側にあった塔頭不動堂を移築し、更に寺の森から木材を切り
出して建てた。注)地元石川工務所のHPに詳しく紹介されている。
正面から見て左側の丸柱と舟肘木を使った三間分が不動堂の建物である。
移築による不動堂への影響は極めて少なく、もとの間取りを踏襲している。
柱の風蝕具合から、建築年代は17世紀末ないし18世紀初期と考えられて
いる。不動堂には、鎌倉時代の不動明王像が伝わっていたが、移築に伴
い福蔵院に安置となった。
また木食白道作の木造百体仏もここに安置される。
何れも市指定文化財(彫刻)である。
◉庫裏
・・・鉄板葺、切妻造、桁行10間、梁間5間半を計り、妻壁に使われている
曲線状の海老紅葉が遠くからも良く目立つ建物である。
2間半の上屋の前後に1間の下屋を付けた構造は、周辺の養蚕民家と同じ
で、建築年代は18世紀末頃と推定される。
※筆者達は、往古の玄関口である仁王門へ歴史漂う石段を下り・・・、
金井加里神社へ向かった!石段も歴史的建造物だが、手すりはない。
今は写真の大駐車場へ駐車し、舗装の道を歩いて本堂や庫裏へ向かう。
恐らく、仁王門から石段を上って本堂へ向かう人は、殆ど少ないかも!?
高齢化社会では、手すりもないし、石段は要注意です・・・!
注)仁王門(17世紀後期)には、今、修理中で覗く人はないのであろうか?
案内看板はなかった。
筆者は覚えていないが、以前、立派な阿吽像があったのではないかと?
慶長8年(1603年)寺地寄進の判物を与えられた(寺記)もあり、広大だ!
上小田原村に設けられていた「萩原口留番所」の番役は月のうち、
15日務め、諸役を免除された。
本堂は、今も「厳かに歴史」を伝える貫禄だ!
石川工務所のHPで拝見すると、「本堂の天井には、画家が見事に描いた「十二支」
の墨絵が嵌められて、一度は拝見したいものです!
石川工務所のHPで拝見すると、本堂の天井には、「大正時代に改修工事の際、
見事に描かれた「十二支」の墨絵が嵌められて、一度は拝見したいもの!」
この地域の鎮守「金井加里神社」は金剛山福蔵院の直ぐ裏山に祀られている!
●金井加里神社
社伝によると、大永3年(1523)に田辺土佐守が社殿を建立し、祭神として
山王白山・金矢大神(金山彦命)・大和尊命を祀り山王権現と称したという。
元治元年(1864)に現社名となった。※上条集落の関わりや安田義定の
時代考証に遡り、考察すると、社伝の大永3年の創建が史実かも!?
現社名の「金井加里(かないかり)」の語源は、定かではない。
一説に、「いかる」とは方言で、「埋まっている」の意であるため、「金が
埋まっている神社」であるという。その金に関しては、これより北の上条
集落の成立について、戦国時代に経営されていた黒川金山(国史跡)
で金の採掘にあたって金山衆の一人、中村弾左衛門尉に結びつけて、
説かれていることや、祭神の金谷大神(金山大神)が鍛冶職だけでなく
鉱山経営者にも崇められているため、金山と何らかの関係があるものと
考えられる。福蔵院仁王門の西側にある石段から参道が始まり、石段を
を登り、緩やかに右へ進むと金剛山の尾根の南端に至る。そこからは、
一直線で神社へ続く参道となり、古くからの風景を色濃く残している。
「金井加里神社」では伝統的建造物として本殿(県指定文化財)、随神門
(市指定文化財)、拝殿の3棟(建築物)及び石垣、石段、石造物の8件が
所在する。
金井加里神社本殿(拝殿)は、ひっそりと厳かに佇む・・・!
山梨県神社庁HPによると・・・、由緒沿革では、勧請不詳と記され、
創建年は不詳とのことだが、寛文8年(1668)5月、社宇再営とある。
慶長8年、徳川家より黒印状を以て社領一反七畝十二歩寄進。
正徳6年2月28日正一位を授かり、旧山王権現と称せしが元治元年
(1864)3月11日金井加里神社と改め、明治7年2月村社に定められる。
●金井加里神社本殿は昭和39年6月25日県文化財指定。
・・・棟札により、寛文8年(1668)に再建されたことがわかる。
入母屋造りの二間社(正面の柱間が二つの社殿のこと)で、前方に向拝
を付け、さらに屋根の正面に千鳥破風を置いた。
一般に見かけない複雑な形式である。
附指定の棟札には、工匠等の関係者の名前が記されている。
「當所大小氏子中、千之庄屋田邊次良右門」
「大工竹内越前 藤原幸宗」
「神主文殊河伊予守 藤原家盛」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
昭和50年(1975)に、修理解体が行われ、・・・・・・・・・・・・・・。
金井加里神社神殿
下小田原の平沢線の市道から見上げる上条集落。
2010年3月、小倉山の座禅草を観て、上条峠へ尾根道コースを登山靴で
歩き、初めて上条集落を見学。歩いて小田原バス停まで戻り、バスで
塩山駅まで戻ったことがある。
懐かしかったが・・・、あれから10年以上も経つと、体力の減少もあるが、
大自然の風景は変わらず維持している。大自然は凄い・・・!
上条集落の観音堂※集落の集会場を兼ねている。
上条集落の観音堂には、一木彫りの一木百観音像が納まる。集落の兼集会場!
上条集落は、現在甲州市の重要伝統的建造物郡の保存地区指定!
写真は2015年に小倉山の座禅草公園をかわぎりに、上条峠から自転車で、
上条集落を経て塩山駅に戻る過程で、初めて訪れて以来、敬意を持って
維持に努める上条集落の方々の取り組みを影ながら心から応援している。
上条集落の風景・・・、現在は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定!
上条集落は、小田原橋から約1Km北上した場所にある。
金剛山と呼ばれる舌状台地から南北方向にはしり、台地北端の付け根
部分に所在する集会場を兼ねた観音堂を馬蹄形に囲むようにひな壇上
の集落が形成されている。
※推定では、16世紀頃、黒川金山の関係で集落が形成されたとも考えられます。ますます安田義定
時代に近づく・・・!
今号、「下小田原編」は以上です。本部ブログの制限内で、済みません。
拙い文章と写真で、素人取材では真の「下小田原」が伝えられたとは
思っていませんが、ご容赦下さい。
できれば、折りをみて直接歩いて観て頂ければ、実感で理解をして
頂けると思います。私も健康が続く限り、生涯学習生を続けています。
「百聞は一見にしかず」に甘んじるつもりはありませんが、ご理解の程。
次号、12月号「上小田原編」も、生涯学習を続けたいと思っています。
宜しくお願いします。