2023年元旦、明けまして、おめでとうございます!
甲州市は、歴史資源が豊富な街だ!新年の初詣は、
「菅田神社」へ詣でた!「菅田神社」も厳かです!
今迄は、甲斐国一宮の「浅間神社」へ自転車で初詣
したが、山梨県では歴史由緒の深い「菅田神社」へ
初詣した!
今号は、「2023年初詣は、菅田神社へ」を紹介!
甲州市塩山の市内中心地にありながら、今でも厳かな境内の雰囲気だ!
菅田天神社の赤鳥居を潜って進むと、正面突当りに新羅宮(国宝盾無鎧所蔵庫)
甲州市塩山上於曽に鎮座。一昨年、改めて学び直した時に、撮影した写真と
記事を再度掲載します。
祭神は、ㇲサノウノミコト及び、五男三女神、相殿に菅原道真を祭祀。
社記によると、承和9年(842)国司藤原伊勢雄が勅を奉じ、甲斐小目飯高
濱成に命じて創立したという。寛弘5年(1004)、菅原道真を相殿で合祀。
これ以来、「菅田天神社」と称した。
新羅三郎義光以来、甲斐源氏の鎮守とされ、社の位置が甲斐・府中の鬼門に
あたるので、武田家累代は、「盾無鎧」をこの宮に預け、於曽氏にその保管を
させ、大事あるごとに、出納を命じたという。
※武田氏拠点館は、石和から甲府(甲斐府中)「躑躅ケ崎」へと移転し、
信虎、信玄の時代となる。
※山梨県神社庁は、勧請当初は「神田明神」と称したと記す。
隋神門から本殿に向かう石段は、厳か・・・!
新羅宮には、現、国宝、武田家宝の「盾無鎧」が昔のまま納められている!
実はこの菅田神社で有名な話が伝わる「楯無鎧」は境内鳥居前の「解説版」
によると・・・、
①「楯無鎧」は、天正10年武田家滅亡の時、塩山向岳寺大杉の下に
埋められ、※筆者も大杉の場所を探したが、埋められた場所は不詳であった。
徳川家康により、掘り出され、再び、当社に奉納された。その後、
盗難に遭って破損し、實政5年(1793)江戸にて修復が行われた
と云われる。(※甲斐国志)
現在も新羅宮に所蔵してあるが、古朽のためか?! 拝観できない。
山梨県立博物館にある全面的に修復されている「楯無鎧」の
「レプリカ」だが、精巧なので、じっくりと鑑賞できる。→お勧め!
第五代当主武田信光は、石和五郎信光とも称し、現石和町市部辺りに
館を構えたと伝わる。武田氏宗家とも云われる武田信義の嫡子で、
第五代当主となる。何故第五代を取り上げるかというと「石和御厨」
は、平安時代に朝廷から認められた「石和御厨」あたりに本拠を構え
たことがあり、神明神社、石和八幡宮のある寺部、窪中島辺りに比定
されている。平安末期~鎌倉初期の武将で、往時、武田家で、唯一、
鎌倉の頼朝の信頼をえて、武田家存続の要になり、承久の乱以後、
安芸守、伊豆守となっている。※武田家累代の五代までは安芸守として、
実質?鎌倉幕府に左遷されたと考察されるが、武田信義などは、武力の脅威
もあり、疎まれたと思われる。
「伊豆入道光蓮」と称した。館跡として、鎌倉名越館、甲府・小瀬の諏訪
神社(甲斐国志)、北杜市須玉町中尾城(須玉町誌)などがあるが、むしろ
鎌倉幕府にて活躍し、甲斐国での足跡は薄いのが特徴である。
墓所は北杜市伝信光寺(位牌)、静岡県韮山町、伝信光寺(五輪塔)がある
が、何故、頼朝に信頼されていたのか・・・?!左遷状態といえども、安芸守
として、数年間忍び、物語になりそうな人物像だと思われるので、
興味を持ち続けたい!