甲州・塩山は、古代の歴史が秘かに蘇る町・・・!
「赤尾村」は千野村の南、上於曽、下於曽両区の東に
あり、南流する重川(おもかわ)の西岸に沿う。
北(上)、中、下の三組からなる。(※大日本地名辞典)
地名は「赤埴山(あかはにやま)の尾崎」に因む(※甲斐国志)
と云うが、”東山・恩若の峯”の下の尾崎であったようで、
明治40年と明治43年の重川の大洪水で崩壊したよう。
今や甲州市塩山「赤尾」の地名発祥の由来を知る術
はない。今号は、古代の古郷:旧「赤尾」村を辿ります。
JR 塩山駅へ徒歩約5分位の民家より撮影した「赤尾」の風景はこんな処!
甲斐国志巻之四 村里部第二 山梨郡栗原筋、赤尾村
「北ハ千野・粟生野西ハ於曽東ハ面河ヲ隔てて下荻原、牛奥に界へり
赤埴山ノ尾崎二村居ス故二此名アリ」とある。
JR塩山駅は、現在、何とか「特急あずさ」が停車する駅だが、乗降客数
は年々減少しているようです。この塩山駅構内の東側端に「赤尾」の
踏切がある。駅から歩いて近く、首都圏へ通勤する方もいるようです。
「赤尾」からは、日本百名山が同時に7座も眺められるとは・・・!?
南に富士山、西に南アルプスの白根三山(北岳、間ノ岳、農鳥岳)、
荒川三山、金峯山、大菩薩嶺など日本百名山が7座も見渡せる処は、
全国でも珍しいが、山好きが選んだ移住地の風景は大事にしたい。
「塩山赤尾」には、古道を歩くと、往古の歴史が蘇る!
赤尾を代表する曹洞宗「湧泉寺」は「赤尾の歴史」を伝える古刹!
湧泉寺(ゆせんじ)の三門は鐘楼を兼ねて、寺の伝統と風格を伝える!
現在、第17世橘田住職の代、古刹の(維持など)に苦労を顔に出さず、
現在も本堂、庫裏等伽藍建造物は見事に再建されて、輝いている!
歴代の住職は流石・・・!境内の墓地には、立派に現代の墓石が並んでいる!
甲斐国志3-229に記される往古の名刹である。黒印は1150坪。広い。
永生9年(1512)、甲斐守護武田信重の子、基経が開基。
山梨市にある曹洞宗永昌院の2世菊隠大和尚が開山した古刹である。
本山5世敬翁性尊、武田伊豫守基経(武田信重の子で、八代(奴白)氏を
継いだ基経がこの地を領し、土豪赤尾氏の女を娶って、赤尾氏の屋敷跡
に開創。(旧庵を再興して寺とす)赤尾兵衛守俊公(法号敬樹院万叟斤)
の屋敷跡に開創。天正10年兵火により2世武山頼邑再建造立。末寺2寺。
現存の建物は、宝永元年(1704)、鎮守社は2社あり。
本尊は釈迦如来。慶長8年(1603)湧泉寺は寺記に寺地1105坪と記さる。
安政10年(1781)には、下小田原上条の木造百観音と春日居の長谷寺
観音像を造立している木食百道作の子安地蔵も祀っていて、現在も、
廃仲泉寺境内地に塩山指定文化財として子安地蔵尊を祀るお堂が建つ。
木食百道作の木彫りの仏像は、拝む人を和ませる!
現在もお堂の中には、木食百道作の木造の「子安地蔵」が安置されている。
往古、湧泉寺末として、「十家山仲泉寺」があった処で、除地6畝歩。
甲斐国志3-220記。子安地蔵堂はその境内にあったようだ。
慶応4年の記録に有り。
明治の廃仏毀釈で廃寺になったが、往時の境内地は現在も残されている。
現在は、残念ながら草茫々で、お堂の中を覗くと、仏像は金属の扉の中
に納まっているので公開しづらいが・・・、
「木食百道」は、有名な修行僧で地元の出身とか!?
結構、山梨県内では有名な木造彫刻の仏像です。
現在は、甲州市の指定文化財。残念だが特定の人しか拝観できない!
他にも赤尾に湧泉寺末で廃「円通山長谷寺」があったが、今は忍ぶのみ。
赤尾の「大石神社」は、雄略天皇御代の勧請!
赤尾の「大石神社」は往古は「大石明神」と云い、かなり由緒のある神社です!
所在地は、甲州市塩山赤尾982。JR塩山駅南口から徒歩約~15分の処
にある。周辺は瀟洒な住宅に囲まれ、主に赤尾の住民に守護されている。
大石神社々記
一、祭神は、大山積命(山之神)、可美直手命(うましまでのみこと=軍神物部大神)。
一、由緒
雄略天皇の御代(456~479)、※古代甲斐国が開かれた時代!?
海部直赤尾物部兎代宿禰(アマノアタイアカオモノノベノトヨノスクネ)の
奉勅勧請と伝わる。鎌倉将軍守邦親王(モリクニシンノウ)深く崇敬せり。
江戸時代、寛永19年徳川家光により、社領など4石5斗余寄進された。
元禄2年3月には「正一位」を授かった由緒ある神社であるが、
宝暦13年9月に、社殿が再建されている。明治3牛年社領上地。
明治7年3月、「村社」に指定され、一つに「物部神社」と称す。
明治34年9月従来の祭日9月15日を10月15日に変更す。
一、本殿 行一間半 梁一間
一、渡殿 行二間 梁二間
一、拝殿 行六間 梁三間
一、鳥居 1基 一、境内四〇〇坪
一、境内社 大神神社:山神社、地神社:稲荷大神社、三峯社:道祖神社、
※いずれも石祠!
以上、昭和56年9月吉日大石神社氏子総代の解説版に記される。
※雄略天皇、海部直、赤尾、物部兎代宿禰を祀っているとも云われる。
筆者は、移住して間もなく、温古知新の心もあって、現甲州市の神社、
仏閣を訪ね、エクセルベースの一覧性作成のため、調査を開始して
あの雄略天皇の時代に建立(神社本庁記)されたことに・・・、驚いた!
その頃(弥生時代)から、「赤尾」には集落があったのかと感嘆した!
雄略天皇は、古代甲斐国を開く際、金桜神社を勧請した話は有名だ!
大石神社の拝殿・本殿は、荘厳さが漂う!
本殿:行1間半、梁1間、渡殿:行2間、梁2間、拝殿:行6間、梁3間、
鳥居:1基、境内地:400坪
境内社:大神神社:山神社、地神社:稲荷大神社、三峯社:道祖神社。
※以上、本殿に掲げる「大石神社々記」に記される。厳かな境内である。
山梨県人雨宮敬次郎が故郷に錦を飾った「雨敬橋」!
塩山の「雨敬橋」は、往古、地元出身の成功者雨宮敬次郎が故郷に寄進した!
この「雨敬橋」は、橋の袂に、往時の故三枝市長が建てた石碑があるが、
今は殆ど語られないで、殆どの利用者は、便利に車で素通りする。
石碑には「この雨敬橋は、明治40年、雨宮敬二郎翁が還暦を記念して
私財を投じ、郷里塩山駅より東に新道を開発、これを雨敬新道と称し、
重川に木橋を架け郷人はこれを「雨敬橋」と名付けた。その後、山梨県
の施工により、平成6年3月永久橋として竣工したが、歴史は今も「雨敬
橋」として受け継がれ、翁の徳望は今も賞賛されている。
雨宮敬次郎(通称雨敬)は、弘化3年(1863)塩山市牛奥の名主雨宮
惣右衛門の次男として生まれた。幼少、家塾に学び・・・、14歳にして
商人の道に入りあらゆる商売を手がけ、苦節浮沈の青年期を過ごした。
20歳代に欧米に学び、国際的視野を広めて明治時代の文化国家創造
に偉大な貢献を成した。・・・、雨敬橋と並んで現在のJR中央線は雨敬
の山梨鉄道発企が基となり、国鉄の中央線(現JR)となり、沿線市町村
の今日の繁栄を築いた。・・・、翁逝いて84年、ここに・・・、篤志人徳を
後世に伝えるものである。
今は車社会で、地元の人は便利に素通りしているも、石碑に書いてある
ことは忘れられてはいるものの、「雨敬橋」の名は皆が知っている。
注)筆者も以前に簡単に調査したが、実家(跡)は残っていないとのこと。
甲斐国山梨郡牛奥村(現:甲州市塩山牛奥)に生まれ、少年時代から、
季節商いに従事し、青年になって、一財産を築いたという。
横浜市に転居、1884年(明治17年)東京府に転居して、甲州財閥の一員
になったと云う。県庁には、要人(甲州財閥の一人)として拝見できる展示
があるが、代表する第一人者、若尾逸平「甲信鉄道案」と意見が対立して、
「山梨鉄道案」を起案して、実現を図った。・・・と云う。
現在は「若尾逸平の甲信鉄道案」が基で、新宿~松本間で「特急あずさ」
などが新宿~信州迄運行されている。
注)特急名では山梨をイメージする「かいじ」があるが、「あずさ」のほうが
本数は多く、利用者も多いようだ。
昔、有力者が残した事業の評価は、後世になって時代評価が証かされる
こともあるが、「現在のJR中央線は新宿~甲府間が約2時間半は掛かる。」
新型車両になって約2時間少々に短縮されたものの、現在世論目線では、
「これは雨敬が生まれ故郷に近い塩山駅へ迂回したため」と弊害視され
て、異論もあることも事実である。
実際には、現勝沼ぶどう郷駅周辺の用地買収に地元民が反対したと云う
理由が一般的だが、勝沼ぶどう郷駅~塩山駅に大きく迂回しているのは、
往時の雨宮敬次郎が財力を駆使して故郷(塩山牛奥)に鉄道を敷いたと
伝えられているためだ。※現在も、山梨中央銀行のパネルにはそう残されている。
現在でも、新宿から甲州街道に沿って、勝沼ぶどう郷から甲府まで概ね
直線軌道であったら、特急新車両では約30分短縮できると云う県知事
さえ出たほどであることも事実・・・。しかし、雨宮敬次郎氏が、故郷に
中央線を引いたことにより、往時の塩山市を如何に潤わせたことか!
その時の政治家や有力者の歴史の評価は、世界中でも往時の貢献度
より、後世になって、現在の目線で評価されることが多く、評価の意見が
分かれることがあるのは、やむをえないことか!
上赤尾の日蓮宗「栄久山法連寺」は、静かで、厳かなお寺です!
「栄久山法連寺」 甲斐国志3-229 除地1段6畝4歩。
昔、黒川金山にあり、古府(現甲府市)に遷り、後に現在地に移転された
と云う。このように、日蓮年譜記に記される。
開創は鎌倉時代 正応2年(1289)、山号は「永(栄)久山」。
栄久・法蓮2世開山。日蓮宗「休息山立正寺末」。
慶長8年四奉行の黒印古府内180坪の証文は、今、立正寺に蔵。
※地所は甲府清蓮寺隣にあったと云う。
当山の建立は、文永11年(1274)頃だと云う寺伝もあるが、年歴は不詳!
慶長8年(1603)の記録では、正応2年建立とある。
注)往時、一清迄州6世より580年後36世が相続された記録は文永年間
とは誤差がある。
開けつつある上赤尾の今!現、ウエルシア関東塩山北店付近の様子!
甲州市教育委員会により、ウエルシア関東塩山北店 建設に伴う発掘
調査において、「赤尾堰口堤防」があったことが、分かった。
その報告書抄録の要約欄に次のように記されている。
「甲州市塩山赤尾に所在する堤防。明治40年、42年の水害を契機にして、
赤尾を南流する重川に対して取り付けられた堤防で、店舗建設に伴い、
記録保存のための調査を行った。調査の結果、基底幅約16.75m、
天端幅約3.75m、高さ約3m、長さは調査範囲内で約61mを測る。
堤体内は礫のみで構築され、川に対して裏側の基部から木製の土台
が確認された。・・・「片梯子状」の土台であり、県内では最初の検出例!
・・・文献や古地図から大正後半~昭和初期頃の築造と考えられている。
以上のように、現在は、何かの大規模工事がある場合に限り、工事者
負担と工期の責任範囲で、地域の教育委員会の発掘調査が行われ、
このような発掘報告書が公開されているが、地域民は何が出来るのか?
と、話題と感心が集中し、出店がオープンすると、自分達の生活にメリット
があるか否かに、興味が集まっている。
今は車社会に対応した赤尾(北端)周辺の便利な日常品のショップとして、
親しまれている。
このように、関東に展開される大規模チェーン店の進出により、大きく
町並みが変わっていくが、果たして、里人はどちらが幸いなのか・・・!?
少なくても住民にとっては、便利なショップになっていると思われるが!
開けて(都会化して)いく、「赤尾」の北端の様子を紹介しました。