新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

山梨市山根を辿る⑧山梨市山根は往古平等村だったこともある!23-0601

2023-06-01 | 山梨、秘めた魅力の再発見!

山梨市山根は、江戸時代に繁栄した村だった!

今はとても風景が開ける傾斜地の住宅地である!

落合村の西、笛吹川の支流”平等川”の上流に位置す

る。元は落合、正徳寺、山根三村を一村で構成され

、慶長6年(1601)分村したという(甲斐国

志)。慶長古高帳では、落合村に含まれ、幕府領。

今6月号は、筆者も初めての”山根”を辿ってみる!


吉国山永安寺は”古”を感じる寺だ・・・!

まさに、古刹を思わせる風情だが・・・、

もともと、曹洞宗は、甲斐国で普及するために、先に紹介の永昌院に

続き、武田時代から、江戸時代、曹洞宗寺院として隆盛したようだ!


「山根」は、元禄郷帳には、落合村枝郷と注記される。

領主の変遷に正徳寺村と同じ。貞享元年(1684)の検地帳(県立図書館

蔵)によると高221石余。反別は、田14町1反余・畑3町9反余、うち屋敷

1町3反余。宝暦6年(1756)、三郡村高帳によると、山之根村とみえ、

高222石余、うち前々改出・新田高役引12石余。文化(1804~18)

初年、家数76、人数352,馬4(甲斐国志)。明治8年(1975)落合

村など4ケ村と合併、平等村となる。鳳凰神社、曹洞宗宗禅寺、永安寺がある

鳳凰神社は6月28日に”天狗祭”礼が行われた(地誌稿)。現在、維持健闘!

永安寺の庭園は、山梨市指定名勝!


 龍華山永安寺も、江戸時代は、曹洞宗寺院として、隆盛!

永安寺は、人影もなく、とても静寂だった・・・!※人影もなく、写真借用。

裏の庭園は、指定名勝になっているので,関心は高いが、人影もなくば、

 やむを得ず、山梨県指定名勝の写真を拝借して掲載した。

しばらく庭園として眺めていると、名勝に指定されただけのことは

あると思った!山梨市のオフィシャルガイドによると、具体的に

解説があるが、特に山系を思わせる石組みに特徴がある。

当時の石職人は、凄いと思わされた。


鳳凰神社は、地元の人影もなく、静寂そのものだった!

現在は、八嶽山神社の中に、鳳凰神社の石祠がある!

鳳凰神社は。祭礼”天狗際にて、再現されている。


まるで登山のごとく、元気がいるところだ!

現在の様子では、なかなか体力がいるよう!

山梨県は、73%が山や緑と覚えるので、一見、元都会人としては憧れるが

その頃は現役の世界。70歳記念で、富士山(3776m)、北岳(3193

m)へ登れた程度ではダメなよう!今や、登山が続けられる体力がないよう

で、85歳にしてエベレストへ登山記録を持つ、三浦雄一郎氏(90歳)の凄

さを尊敬します。日頃の鍛錬が違いました。今更遅いが、慎重に考える時期

なのかもしれない。 新型コロナにすっかり運動不足になり、身近な支援者が

SIXパッドを用意してくれるも、30数年の鍛えた登山歴などは、何てことな

く崩れ、元に戻すべく努めるも、なかなか、筋力を取り戻すには、何倍かの

時間が掛かるもののようだ❕ブログは続けたいし、試案のしどころだ!


 


山梨市を辿る②昔、和名抄では「山梨子郷」と呼んだこともある!22.09

2022-09-01 | 山梨、秘めた魅力の再発見!

「和妙抄」の山梨郡「山梨郷」の郷名を継承する

中世の郷。~山梨県の地名辞典より~山梨市~

延文2年(1357)6月10日、隆「甲斐国

山梨子郷立河常住院」において瑜紙経拾古抄上の

書写を終えた(「瑜祇経拾古上奥書」常陸六蔵寺蔵」)。

常住院は現存しない。現笛吹市春日居立川には平安時代

後期の作とされる丈六の木造不動如来坐像が残り、

通称立川不動と呼ばれるが、かつて寺名などは伝

られていない。あるいは関連するか・・・等。

今号は、筆者も初めて知るが、現「山梨市」を知る

前に、「山梨子郷」の紹介します。


現「山梨市駅前」の街並みは、外観デザインを揃えて素晴らしい!

山梨市駅前の山梨市観光案内所(写真の正面)もお洒落・・・!

山梨市駅前商店街は、欧州の街並みを彷彿!今はコロナ禍で静か!

山梨市営駐輪場も、この奥に・・・!

一人の建築デザイナーに依頼して、外観を揃えているのが山梨市駅前!

日本でも珍しく、特に、欧州の街並みを彷彿する風景が印象に残る。

どちらかと言うと「日本は”自由”ということを自ら勝ち取ったわけで

はないので、特に景観は、私有地に個々が好き勝手に作り不揃いだ!

昔、世界中(先進国)を歩いた経験のある筆者は、この山梨市も気に

入っている。しかし、市中ではなく、せめて山梨市駅前の地域だけでも、

外観を揃えたことは、素晴らしいと思います!

往時の市長さんの勇断は素晴らしいが、今の通りはヒッソリしている。

東京だったら、優れた街づくりの作品だと評価されたかもしれない。


続いて、地名辞典によれば・・・、

なお、年不詳の親鸞門侶交名注文(茨木県光明寺旧蔵文書)に「甲州

山ナシ住」として、源誓およびその弟子七名が書き上げられている。

「山ナシ」が当郷を指すとすれば、源誓は、現勝沼等々力の万福寺

開山、弟子の一人光寂は、当寺の三世に記される(甲斐国志)から、

当郷は現勝沼まで含んでいたことになる。しかし地域的には不自然

で、ここでは郡名単位の広域呼称として、使用された可能性が高い。

・・・と記される。山梨市は、現在も、先に紹介した甲州市よりも

若干行政規模も予算規模も大きく、令和4年度で、山梨市2億

9617(千)円。甲州市2億6240(千)円とほぼ規模的に同等。

人口も山梨市33,725人、甲州市30、222人と均衡している。

さらに、市域の面積も山梨市は289.80平方Km、甲州市264.

11平方Kmと概要は似ている。

地域面積も均衡ですが、山梨市には、三富温泉、乙女高原、西沢渓谷

大垂水峠~金峰山等の名勝もあり、甲州市には、大菩薩峠、連嶺等の

名勝もあり、大和、勝沼等の景勝の他、特に鎌倉時代、夢想国師に

より創建された恵林寺や安田義定が創建したと云われる放光寺等の

古刹もあり「甲州の鎌倉」とも呼ばれて有名である。


「八幡の庄」の象徴「大井俣窪八幡神社」は、現存している。

大井俣神社は、新羅三郎が、八幡に八幡神社を創建する前の元宮!

今はヒッソリとしているが、安田義定が全盛の頃は守護神であった!

「安田郷」ー山梨郡八幡の庄内の郷名。現塩山竹森の野尻剣之助氏所蔵の応安

2年(1369)5月11日の大般若経巻235奥書に「山梨郡八幡庄安田郷

下井尻村延命禅寺」とある。これまで安田郷の存在は知られていなかったが、

平成5年(1993)、この大般若経の発見により、初めて確認された。

安田義定の本拠とみられる。義定は、源義清の四男で、平家討伐の際に甲斐

源氏武田信義と並んで活躍、遠江守護、遠江守になるなど勢力を誇ったが、

建久5年(1194)、源頼朝により謀殺された。義定は広域の「牧ノ庄」

を本拠とし、現小原西にあった妙音寺跡が館跡と伝わる(甲斐国志)が、

義定の安田姓が、当郷でその勢力が八幡庄全域に及んでいたとすれば、現

山梨市以北、笛吹川流域が勢力圏であったことになり、強力な勢力をもった

一端を知ることができる。

延命禅寺は現存しないが、同地の寿仏庵跡に、安田義定及び子義資と義季の墓

と云われる五輪塔が残る。寿仏庵は延命禅寺と関係するか?と記している。


「小原庄」・・・、

現小原西交差点と妙音寺跡(甲斐国志によると、安田義定館があったとされる)

現小原西・小原東村付近に「安田義定館」があったとされる荘園。

建治元年(1275)10月以前に出された関東評定事書(陽明文庫

本式目追加)に甲斐国小原庄が諸入越訴停止を命令した際の事例とし

掲げられている。小原西の妙音寺跡は、「安田義定」の館跡と伝え

安田氏の名字の地と云われる安田郷は(野尻剣之助氏所蔵大般若経奥書)

八幡庄域内であるが、当庄と八幡庄の関係は判然としない。

往古、安田館のあった妙音寺跡は、今は幼稚園と空地(写真左下)

写真正面の鎮守の森が「大井俣八幡宮」!

2019年甲斐源氏安田義定ゆかりを辿る⑬のブログに撮影した写真。

少し前は元気だったのだ!貪欲に学んだ記録でもある。


今回は、現山梨市の中心地になる山梨市駅前~小原西~大井俣神社

のあたりの写真を紹介したが、如何ですか・・・!?


甲斐源氏安田義定は、長承3年(1134)甲斐源氏安田冠者刑部

三郎武田義清の四男として若神子(現須玉町)に生まれ、元服(推

定久安9年(1156)の後、在庁官人の三枝氏を抑えて、山梨郡に

入り、加納、牧庄の二庄を始め、加納庄(現小原西)に安田館を構え

「牧庄」の中牧に西御所を構え、小田野山に要害城を築き、現・峡東

地域を統治したことは、既に周知の通りです・・・。

本項のテーマである「安田義定が本拠に構えた小原西の安田館は、

大井俣八幡神社の前、特に牧ノ庄の”牧”(現牧丘西保下)と一ノ瀬

高橋周辺の”砂金脈”の管掌に、広域を具に分析すると、頗る良い立地

環境として考えられる。YS記では、この安田館の立地こそ、後世に

”牧”に通じる道「後世、秩父往還(雁坂道)」となり、”砂金脈”に

通じる道「萩原口」(後の青梅街道)への起点分岐になったのではな

いかと見ている。・・・と「小原西」については、2019年9月号

にて、題名「甲斐源氏安田義定ゆかりの「牧の庄」を辿る⑬義定が小

原西に安田館を構えた小原西の立地」・・・について紹介している。

安田義定について、興味があればバックナンバー①~ご覧下さい。

現山梨市小原西の安田館跡(廃妙音寺跡)は、正面に大井俣大神社

「安田館」を構えた時期は不詳だが、武田義清の一族として、本拠を

構えたものと考察できる。


そして、時代の流れから何度か笛吹川が氾濫し、「大俣大神社」は、幾度も

水害に遭うこともあり、新羅三郎の代になって、現在の八幡に八幡宮を勧請し、

遷宮されたたことは、周知のことである。以後は、武田家累代の庇護により、

八幡の神社が有名になり、現在に至っていることは、知る人ぞ知るである。


「大井俣大神社」は、現在はヒッソリとしていて、場所はそのままに、後世の

ために復元されて維持されている様相は、貴重な資源であるので紹介したが、

山梨市は、甲州市を一巡紹介して、隣の街とは言え、歴史的な資源に富んだ街

として、山梨市地名辞典に沿って、シリーズとして、毎月号、順次紹介したい。


 


やまなしの花が咲く山梨市を辿る①山梨駅前の街づくりは美しい!2022-08

2022-08-01 | 山梨、秘めた魅力の再発見!

山梨市駅前には、全国でも珍しく、統一された建築

デザインが美しい!そして純白の”やまなし”の花が

咲く・・・!今号は、先に紹介した甲州市の西隣に

位置する美しい街並みの山梨市を紹介します。

山梨市駅前、”西沢渓谷”行きのバス停に、春”やまなし”の花が迎えてくれる。


山梨市は山梨県のほぼ中央部、甲府盆地の北東に位置し、北は東山梨

郡牧丘町、東は塩山市(現甲州市塩山)東山梨郡勝沼町、西から北西

にかけては、東山梨郡春日居町と甲府市、南は笛吹川の支流日川を挟

で東八代郡一宮町。中央部を笛吹川・重川が北東から南西へ流れる。

この三川が合流して笛吹川本流となり、甲府盆地を南西流する。

南北8.5km、東西10.8kmで、標高差は1123m。

笛吹川とほぼ並行して国道140号線(通称:雁坂道)、山梨市南端

を国道140号線がかすめる。東西にJR中央本線が通り、山梨市内に、

東山梨駅、山梨市駅が設けられている。市名は昭和29年(1954)、

三町、五ケ村が合併した際、古代以来の郡名を採用した。


モダン建築デザインの「山梨市役所」庁舎。

元民間の上場会社のモダンな建築ビルを買収。現山梨市役所に利用。

山梨市役所広報より写真を使用。


山梨県の地名辞典:山梨市編によると・・・、

山梨市は、歴史資源こそ古いが、モダンで美しい街並みである!

【原始・古代】は、昭和36年であるが、江曽原字ヤナ崎の兄川の

河床からナウマンゾウの化石が発見されている。

放射性同位炭素によると3万~4万年前とも測定され、大型獣を

追う人々が生活した可能性が指摘されている。

縄文時代の遺跡は、20ケ所を数える。

遺跡は七日市場、下石森、および兄川、窪川(弟川)流域に集中し

おり、中期に属するものが多い。

【奈良・平安時代】遺跡は60ケ所を越え、ほぼ全域に集落が拡散

した状況(小原東、八日市場の日下部遺跡)を呈している。

【律令時代】山梨郡に属し、「和妙抄」は、山梨村を東西に分け、

諸説あるも、山梨市は、山梨西郡に属したとみられる。

【中世】平安末期に、東郡一帯に勢力を伸ばしたのは、牧の庄を

拠点とした安田義定(昔、源義経のファンであった筆者)である。

※バックナンバーになるが、2018.09.01①~2019

「安田義定ゆかりの甲斐国「牧の庄」を辿る」と云うタイトルの

①~⑯、シリーズで深堀紹介しているので、ご笑覧ください。

下井尻の「雲光寺」には、安田一族の墓とされる五輪塔がある。

※鎌倉時代、牧の庄の領主は二階堂道蘊の招きにより、夢想国師

が、現甲州市塩山に乾徳山恵林寺を(1330)開山したと云う。

西後屋敷の清白寺も夢想国師開山としている。

【近世】山梨市域は東山梨郡に属した。

山梨の村は、落合、岩手、下石森、笛吹川を境に、西は万力筋、

東は栗原筋に所属、慶長古高帳では25ケ村。宝暦6年(1756)

版の三村高帳では、万力筋14ケ村、栗原筋16ケ村の計30ケ村

で構成された。・・・。

享保9年(1724)、柳沢吉保、吉里親子が、大和郡山に国替え

を命じられ、甲斐国一国は幕府領となり、石和代官支配となった。

延享3年(1746)、三卿の田安家領3万石が山梨県、八代郡に

設定され、市域の村からは、落合、岩手、下石森、上石森、中、

歌田、一丁田中、大野、上神内川、小原西分、小原東分、西後屋敷、

東後屋敷、上栗原の15ケ村八千200石余りが編入された。

一丁田中に、田安家の陣屋が置かれた。

宝暦12年には、三卿の清水家領が設定され、上岩下、正徳寺、

山根、上万力、八幡南、八幡北、市川、江曽原、大工、堀内、

七日市場の11ケ村六千石余りが編入された。


享保9年~宝暦3年まで在籍した甲府勤番野沢成方は、「裏見寒話」

のなかで、この地方の名産として、八幡の藺畳表、東都の枝柿、

栗原、勝沼の葡萄、切差の牛蒡、笛吹川の鮎などをあげている。

【近現代】明治2年甲府県となった。明治4年山梨県に統合された。

明治5年大切小切税法廃止法案反対を要求して、万力筋、栗原筋から約6千人

が立ち上がるという大小切騒動が起きている。明治7年、石森村、後屋敷村

が成立。明治8年1月八幡村、平等(ひらしな)村、神内川(かのがわ)村、

明治8年2月日下部(くさかべ)村、明治8年6月日川(ひかわ)村が成立。

明治8年7月には、神内川村、石森村、大野村が合併し、加納岩村となる。

明治11年郡区町村編成法により山梨郡は東西に分割され、現市域の村は、

東山梨郡に属した。郡役所は、平等村に置かれた。

明治22年平等村、上万力村、八幡村、岩手村が組合村を結成している。

昭和7年7月加納岩村、明治7年12月日下部村が、それぞれ町制を施行。

昭和16年平等村、上万力村が合併し、山梨村となる。

昭和29年加納岩町、日下部町、山梨村、岩手村、八幡村、後屋敷村、日川村

が合併し、「山梨市」が成立した。

明治9年1月市域の戸数は2984戸、人口は1万4518人。往時は、7割

~9割が農家で、生糸、繭などを作っていた。特に平等村の場合、その95%

、370戸で養蚕業を営んでいた。・・・。

明治36年、国鉄(現JR)中央本線甲府~八王子間が開通。日下部駅が設置さる。

その駅名が、昭和37年に改称された現在の「山梨市駅」である。

東山梨郡誌によると、大正2年の年間乗降客数は、239498人であった。

また、昭和32年には、現東山梨駅が開業している。

明治40年8月には大水害があり、主に日川が被害にあっている。

明治43年には集中豪雨があり、被害が重なっている。

市域の農業の中核をなす養蚕業は、昭和初期に最も発展を遂げたが、第二次

世界大戦中に一時衰退した。昭和26年頃からようやく立ち直ったが、

その頃から化学繊維の普及などにより、代わって葡萄、桃、李等の果物栽培

が昭和35年頃から盛んになる。

平成3年~9年、笛吹川フルーツ公園プロジェクトに取り組み完成している。

筆者も訪ねたことがあるが、甲府盆地の南に、御坂山塊と富士山が望め、

富士屋ホテルもあり、日帰り温泉を楽しみ、笛吹川フルーツパークは、一日

楽しめる公園だと思うので、一度は、訪ねてほしい山梨の魅力です・・・!


 


甲州・塩山「上萩原」を辿る⑨「上萩原」は、往古「萩原郷」の源境!22-04

2022-04-01 | 山梨、秘めた魅力の再発見!

甲州は「塩山上萩原」。山梨県は往古甲斐国時代、

甲斐国防御の重要な鬼門の位置にあり、寺伝だが、

古代、聖武天皇の御代、行基上人が仏教普及のため

裂石の山中に「裂石山雲峰寺」を開基したと云う。

往時の行基は、奈良朝廷で聖武天皇の招聘により、

”上人”として、仏教思想の普及に努め采配し、古代

甲斐国の鬼門除けの重要拠点として開基したよう。

筆者はそれを行基の戦略的寺院配置と称している。

中世、武田信玄の時代には、番所(関所)が配置

され、「萩原口留番所」と称して甲斐国防御を果

たす重要な拠点とされたことでも知られる。

今号は2編に分けて「上萩原」を辿って紹介します。


筆者が始めて尋ねた時・・・、畑の雑草の中に、キジ鳥を見た!


樋口一葉は往時の郷土の誇り!先祖の旧邸跡が史蹟に・・・!

「たけくらべ」で有名なあの樋口一葉がの地の出身であることを

筆者も移住してから始めて知った。

塩山駅北口前の「甘草屋敷」資料館で、初めて見たのが始めで、

その時は、日本紙幣の肖像画像になっている姿を・・・。

上記写真は、あの樋口一葉の実家の墓が史蹟になっていたので写真

に治めたもの。青梅街道沿いの上萩原の入口にあった!

甲州市塩山出身の有名人としては、東京で生まれ、一度も帰郷した

ことがないようだが、樋口一葉は重要な人物で、有名だからだ!

その後、「たけくらべ」など名著も学ぶことになったが、まさか

生涯学習の糧になろうとは!?


「上萩原」は、裂石の番屋茶屋の辺りで標高950mもあると聞いて

驚いた!首都圏で頻繁に訪れた「高尾ですら標高599mと覚える。

旧塩山市役所の場所が標高410m(石標)であったことで、何と現在

JR塩山駅辺りから、標高約500mは高い処にあることにを知った!


現在、上萩原・裂石の拠点は「番屋茶屋」がポイント・・・!


今は地名のみ残る「番屋」跡に、先祖が開かれた「茶屋」だった。

「番屋」時代の写真はあるが、今号では省略。明治時代になって、

柳沢峠越が通じ、人の流れが変わったのを機会に現地に移転された。

現在は「大菩薩」行のバス終点になり、大菩薩峠に向かう登山客が

集う拠点だ。筆者も何度か、大菩薩峠⇒大菩薩嶺を登山の際に立ち

ったが、上りには、約4時間必要のため間合いがなく、帰路には、

バスの時間が合わず、「大菩薩の湯」に浸かって帰る習慣になって

からご無沙汰である。いつまでもお元気でいて欲しいと願ってます。

筆者は、山好きのこともあり、大菩薩峠の分岐路にあったため、

良くお茶を馳走になった!「岩波さん」という気さくな奥さんで

あった。ご主人は、往時、長年、癌を患っていても、筆者が箕輪山

の石切場から積み出した「御影石」を運んだトロッコ軌道の呼び名は

「神金軌道」を調べていて知り合ったのだが、子供の頃のことを良く

覚えておられて、病を押していろいろと・・・親切に教えて頂いた。

「番屋茶屋」の女将さんはお元気だろうか?

風の便りでは「元気なことは伺っている」が、娘さんには最近偶然に、

筆者の失せ物探しで世話なった。しっかりした娘さんなので、

こちらも見違えたが・・・!「お母さんはお元気ですか?

ご無沙汰ばかりで済みません。宜しく伝えて」と言うのが、精々だった!


伝行基上人開基と伝わる「裂石山雲峰寺」は、厳かな古刹!

「裂石山雲峰寺」境内を訪ねると如何にも古刹を感じる!

古刹「裂石山雲峰寺」は、天正17年(745)伝行基上人開基。

「裂石山雲峰寺」鐘楼の鐘の音は、郷中に轟くかのように!?


大日本地名辞典によると・・・、

「上萩原村」は中萩原村の東にあり、重川 上流左岸沿いの東西に

長い村。対岸は上小田原、下小田原の両村。大菩薩峠の西麓に辺り

東の大菩薩嶺(2056.9m)から南へ高山が連なる北西下りの村落。

村名は「かみはぎわら」と呼ばれる。

天正10年(1582)徳川家印判状写し(古文書選集)に甲州上萩原郷

とみえ、同所25貫文の地と夫丸三人被官等が本給として加藤五郎作

に安堵され・・・慶長古高帳には村名がみえ、高289石余幕府領。

他に裂石(現雲峰寺)領2石余と岩間大明神(現神部神社)領1石余

がある。寛永10年(1633)徳美藩領となって以後、福生(ふくおり)

村と同じ。・・・・・・、また雲峰寺の鎮守金比羅宮の氏子は、

「上萩原村上下、小田原上下四ケ村」と記されるように、天保6年

金比羅祭礼当番につき願い下げ書同文書、上切、下切は独立村落に

等しかった。・・・、用水は重川とその支流の佐野川、文珠川の

三ケ所から引き入れ、耕地の殆どが畑であったので年貢は皆金納で

あった。※萩原煙草の主産地であった他養蚕により年100両ほど

の収入を得ていたことは注目に値する!

文化2年の農間稼方品々書上帳によると、日傭取、縄ない、草履、

木綿織、蚕飼、絹糸引などを基調にしたようだ。

青梅往還の萩原口留番所の番役は、月の下15日、昼夜二人づつ

たので、諸役は免除されていた。・・・・・・、・・・・・・、

元禄11年(1698)の寺社帳には、10ケ寺が記されるが、

曹洞宗全相庵、臨済宗東光庵、庚申齊、広福庵、髄縁庵、浄土真宗

徳成寺、浄土宗畠桜寺は廃絶。※(廃寺)となっている。

古刹の臨済宗妙心寺派雲峰寺のほか、慶長8年(1603)黒印地

400坪を与えられた曹洞宗法幢院(寺記)と同宗岩昌寺がある。

岩間明神の山宮と伝える東の山腹の矢立石、天狗の祠では干魃の際、

に雨乞いが行われた。他に、大神社、神明社、松田山神社がある。


木食白道は当村の生まれ。木食行道の弟子になって、諸国を遍歴、

安永10年(1781)には、郷里を訪れ、法幢院に逗留して地蔵

や観音を刻み、また、痛み愁いの人々を呪いにより救治した。

白道が残した木食仏は数多いが、赤尾仲泉寺の子安地蔵尊(現湧泉寺

所管)下小田原上条にある百躰観音、上小田原福蔵院の百躰観音等が

有名である。


岩間神社「神部神社」は往古「萩原郷」の鎮守!

神部(かんべ)神社:岩間明神とも呼ばれた・・・。

神部神社の参道には、現在も「岩間温泉旅館(写真右)がある。

往古(江戸時代末期まで)は「岩間大明神」とも呼ばれ、文珠川

南岸の神戸(ごうど)にある。

祭神は、神直日神、大直日神、八十柱日神、表津少量命、表筒男命、

中筒男命、底筒男命。旧郷社。江戸時代末期までは、岩間大明神と

称し、湯山明神とも言った。

延喜式神名帳に見える山梨郡「神部神社」を当社に比定する説がある。

(※甲斐国志)かつて上、中、下の萩原村は「萩原郷」で、それ

以前は「神部庄(荘)」と呼ばれていたと言われ、その鎮守であった

推定される。・・・・・・・、

戦国期、萩原郷は、武田家の家臣「土屋右衛門尉昌続」の所領で、

元亀2年(1571)土屋昌続によって社殿の造営が行われ、

その代官で同郷地侍の羽中田新兵衛と神部村氏子中が共同で造営に

当たったことが棟札によって知られる。(※社記)・・・・・・。


神部神社の石鳥居から随身門を潜り、石段を上がると本堂へ・・!


番屋茶屋の直ぐ近く、茶屋の女将に紹介された秘湯「雲峰荘」!


「柳沢峠茶屋」は首都圏東京のライダー仲間では

有名ポイントになっている!

奥多摩を経由、青梅街道で東京・新宿から一本道!


青梅街道は、現在は柳沢峠越で山梨県に通じている!

この写真のように、現在も東京都民の水道源として、水源地

が大自然のまま保持されていることをしみじみと教えられた。


「柳沢峠茶屋」は首都圏のライダー仲間では知らない人はない!


柳沢峠は、「現在、東京新宿で知られているが、その青梅街道を

進むと、江戸時代は大菩薩越えと称して、現大菩薩峠を越えて

青梅街道(甲州裏街道)が山梨に通じていたが、明治時代になって、

柳沢峠の道が開かれ、現在の青梅街道が国道として整備されて、

現在、首都圏の旅好きの人々に、「柳沢峠は明治時代に開通し、

江戸時代には、甲州裏街道として大菩薩越えのルートがあった

ことを、改めて知って欲しいもの・・・。


第2編では、更に、更に奥地の「一ノ瀬高橋」を紹介します。

今は「一ノ瀬高橋」は二ノ瀬、三ノ瀬と奥深く、殆ど尋ねる人は

いないが、物好き夫婦は、新緑の季節になると、柳沢峠を越えて、

落合まで路線バスが運行されるので、その機会に辿って観た。

乞う、ご期待です!


 


勝沼ぶどう郷、"中世の勝沼"を歩いて見るのも楽しい!16-08

2016-08-02 | 山梨、秘めた魅力の再発見!

勝沼ぶどう郷は、盛夏の今頃・・・、ぶどうの収穫が始まる!

9~10月が旬!2016年は10月1日(土)に”勝沼ぶどうまつり”予定!

もし、「勝沼」を訪れるなら、”中世の勝沼”を歩いて見るのも面白い!

勝沼のある朝、”朝の月”がこんなに美しかった! あの感動は忘れられない!

最近、甲府盆地の東端にある勝沼は、時々”猛暑日本一”を記録することがある。

しかし、その地形・土質と環境こそ、”ぶどうの勝沼”が育まれた由縁でもある!

その勝沼と塩山、大和が合併した「甲州市」は”猛暑甲州”で有名になりつつあるが、

日中気温と朝夕の寒暖差が大きく、水はけの良い扇状地にあるため、ぶどう栽培に

適していることから、早くから葡萄栽培が盛んで、甲州種を醸造した甲州ワインは

今や世界ブランドになりつつある。


 注)「新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見」バックナンバーもご覧下さい。

24)「恒例の勝沼ぶどうまつりはリピーターが多い」 2011-10-11

23)「甲州・勝沼の魅力は葡萄とワインだけではない」2011-09-16

を発信しましたが、勝沼も奥深いのでその続編として”中世の勝沼”を訪ねます!

注)14年11月OCNの都合で「ブログ人」が廃止になったため、その原をGOOブログへ引越しました。

  デザイン変更等一部画面の削減があったため、一部見苦しい部分もあるかと思いますがご容赦下さい。


久し振りに・・・、”中世の勝沼”を歩いて見ました・・・!

ブログ8月号は、「中世の勝沼」をテーマに紹介します!

史跡「勝沼氏舘跡」、この地に居舘を構えた武田五郎信友が「勝沼氏」を名のった!


「勝沼氏舘」は中世の連郭式平城。遺構は土塁、掘等原形が復元されている。

中世、武田信虎の弟、五郎信友が勝沼を本拠にして「勝沼氏」を称した。

昭和48年(1973)に環境整備事業により発掘調査が行われ、

甲州市教育委員会「甲州市文化財調査報告書第8集」によると・・・、

「勝沼氏舘」は15世紀には既に舘が築かれていたことが分かっている。

勝沼五郎信友は永正17年(1520)の岩殿七社権現・棟札の筆頭に、

武田左衛門大輔信友と記され、大永6年(1526)の境川村石橋八幡

棟札にも武田信虎と並んで名が見え、その勢力の大きさが伺われている。

勝沼信友は天文4年(1535)8月22日北条氏綱との戦いで都留郡

で戦死している。注)信友の後は五郎(丹波守)信元が嗣ぎ、信虎の代、

天文11年(1542)信濃大門峠戦、天文15年(1546)上信国境笛吹峠戦、

天文16年(1547)信濃海野平戦、天文19年(1550)信濃深志城戦、

天文22年(1553)信濃桔梗原で小笠原長時との合戦などに参じている。

このように信濃侵攻に名を馳せているが、信濃平定はならず・・・、

信玄の時代まで持ち越している。注)信玄は信虎追放等甲斐国内を粛正。

永禄3年(1560)11月、嫡子勝沼信元の代に、逆心を企てたとして・・・、

武田信玄に誅殺され、勝沼氏は断絶している。尚、雨宮家に嫁いでいた妹

は離縁され、柏尾山大善寺に入り「理慶尼」と号している。


 勝沼氏館跡と勝沼周辺のこと・・・その概要!

1)立地:甲府盆地の東辺、日川扇状地の扇頂部にある。勝沼舘の主要郭は、

  日川が形成した高さ20mの右岸段丘崖に沿って配置されている。

2)地名:現在の甲州市勝沼町勝沼の小字名は、正徳5年(1712)頃の

  検地記録以降、変化していないようで、昔のままの町名が残っている。

  夏秋(なつやけ)、西埜、上ノ山、東、工屋、加賀屋敷、向原、筋違

 (すじかい)などの他、一部の地名は慶長6年(1601)の検地の折、

  若干改められたところもあるが・・・、慶長検地以前、勝沼氏館跡の

  一帯の字名は「西埜」で、”原地”となっていたと推定されている。

3)街路:旧勝沼村の道は、甲州街道が舘の北郭の北辺掘に沿い東西に通過

  したことにより、街道の一帯は大きく変化したが、これ以外の「勝沼村

  一筆下絵図」に記される道は、中世以来の道が存在していると云われる。

4)「勝沼氏館」発掘調査において、ピットに焼土が充満した小鍛治施設を

  伴う工房遺構も見つかっている。既にここで黒川金山から運ばれた金鉱

  を「金」に精練していた遺跡が発掘されている。

  注)黒川金山からどの道を通って金鉱を運んだのであろうか?その道が萩原道~小佐手小路だと云う!

5)他、出土遺物では、煤の付着から灯明用と考えられている土師質土器や、

  瀬戸美濃産灰釉皿、天目茶碗、中国産の青磁や白磁などの陶磁器類を始め、

  鉄砲玉や刀装具などの武具類、金箸や金槌、毛抜き、茶臼、金属製農具や

  硯などの日用品、六器台皿などの宗教用具など幅広く出土している。

6)舘跡周辺には、加賀屋敷、奥屋敷などの地名も残っていたが、舘跡の発掘

  調査により、周辺の街路や町割など旧蹟の実態も明らかになったと云う。


中世勝沼氏舘時代の名残がある「小佐手小路」を歩いて見る! 

小佐手小路(古道の面影)は、勝沼氏館大手門から鍵の手を曲がり北へ!

小佐手小路(おさでこうじ)は、勝沼氏館の大手門から、城門の前の道を

指す、真っ直ぐ北へ延びる道であったことから、御先手小路(おさきてこうじ)

と呼ばれていた。後世、これが転じて小佐手小路になったと云われます。

注)往古、黒川金山から武田家が金鉱石を運び出す道として、「金の道」の呼

ばれる数本の古道があったが、この道も萩原道から繋がる勝沼への「金の道」

であったのか!?注)源次郎岳を越え、棚横手を経て柏尾山へ通じる山道も、

隠し金の道と云う説もあるが、金鉱を運び出す道は秘密裏の道なので謎が多い!?

一説には、勝沼氏が小路の先にある小佐手郷に出向くとき通った道であった

ことから名がついたとも云われます。注)小佐手郷の小佐手氏は武田家の親類だが不仲説もある。

勝沼氏は武田家の筆頭御親類衆であり、郡内地方や相模国、武蔵野国の目付

として重要な役割を果たしました。小路の両側には家臣団の屋敷が建ち並ん

でいたと云われます。


 小佐手小路」の鍵の手になる「祐徳山泉勝院」は勝沼氏の菩提寺!

小佐手小路のつきあたりに、勝沼氏の菩提寺と云われる「泉勝院」!


甲斐国志によると、祐徳山泉勝院は、曹洞宗小佐手村東林院の末、

黒印600坪、境内二町一町半 本堂9間5間半、本尊釈迦とあり、

開基は勝沼氏の局勝月院誓庵理奥鳳大姉なり。弘治3年2月10日逝す。

福正院光山輝公禅定門、長遠寺快翁道俊大禅定門の牌子ありと称す。

勝沼氏と称す崇正院華岳妙永大姉を後の開基と云う。古の開山は分明らず。

今は本寺の三世を勧請せり。寺宝に勝沼氏の遺器とて饌具(せんぐ)、

行厨、食箱、偏提等に三階菱或いは圏内に花菱を亀甲の上に重ね付けたる。

・・・と記される。

ご夫人によると、勝沼古事記に由来のことが書かれているが、「武田信虎

と勝沼信友兄弟の父は武田信縄、母華岳妙栄は遠い中山廣厳院を菩提寺と

していたため、小佐手村の東林院を代参寺にしてもらえることになったが、

勝沼氏は、小佐手の領主と境の橋で口論となり、勝沼郷の横手に無住の寺

があったらこれを遷し、菩提寺とすることに決め、泉勝院を建立した。

江戸時代末期までは、泉勝院には勝沼氏一族と母華岳妙栄の位牌ともに、

勝沼氏が治めた品物などが伝えられていたそうですが、今は拝見出来ない。

泉勝院(本堂)は緑に囲まれて厳かな環境の寺!

注)ご夫人に勝沼フットパス資料を頂く。


泉勝院の鍵の手を左に曲がると、風情ある「原茂ワイン」がある!

「原茂園」は、ワインとカフェレストランが、勝沼の人気スポット!


「原茂ワイン」は、中世の勝沼を歩くには、絶好の休憩ポイントでもある。

「原茂ワイン」の「カフェ カーサ・ダ・ノーマ」は、4~11月の季節営業。

特に中高年には、地元産の「おぼろ豆腐」380円は盛夏でも慰みになる。

エスプレッソ500円、カプチーノ648円、紅茶(ポット)500円、

ぶどうジュース500円、ランチもカリー1525円、ブランチ1755円、

など気軽なカフェレストランである。注)但しメニューは2015年の案内。

詳しくは、http://www.haramo.com


「原茂園」から、北へ伸びる道は、地元勝沼では「萩原道」と呼び・・・、

西野原を経て、下萩原、中萩原、上萩原・裂石と結び、往古の黒川金山への

道と繋がる。

注)この萩原道を通り金鉱石を運び、勝沼氏館でつぶ金・碁石金鋳造したと云う。


萩原口へ北へまっすぐ進むと「水辺公園」その東側の上に「勝沼ぶどうの丘」がある!

小佐手水辺公園の風景、ここは小佐手の灌漑用水池。ここから東林院が見える。


小佐手信俊開基と云われる「曹洞宗祐月山東林院」(小佐手村)


 甲斐国志によると、曹洞宗塚原村恵運院の末、御朱印6石8斗。境内方2町。

山林二町半十二町年首7年目拝賀す。寺記に云う文安4年(1447)、

小佐手信俊開基す。人物部に委ねし。開山は笑宗英、文明4年示寂。

本堂十間半九間半、正観音、禅堂五間四間半、薬師を安置す。衆寮、庫裏、

鐘楼、総門等あり。又護寺神日記宮は小佐手氏の舘より遷し祀ると云う。

末寺8箇。注)今は6年前に住職が他界後ご夫人が寺守、本寺兼帯とのこと。

「宝永元年3月17日、剣鋒浄俊禅定門(小佐手右京太夫)の位牌を伝えている

と云うが、確かめる術はない。


 「小佐手氏館跡」・・・今は、東雲保育園駐車場とぶどう畑になっていた!

現東雲保育園駐車場の角が屋敷址の南限。


 小佐手氏館跡(室町時代の築城)・・・勝沼町教育委員会の現地標識版によると、

小佐手氏は15世紀前半の甲斐守護武田信重の子永信を祖とし、系図に因れば、

5代にわたり続き、16世紀初頭武田信虎によって滅ぼされたと云う。

小佐手の東林院は菩提所、伏木神社は鬼門鎮護、林昌寺は祈願所、自福院は小佐手

氏の守り本尊を伝える寺、日宮は小佐手舘より遷されたなど、小佐手氏との関係を

伝える社寺がある。

舘の所在地については、小佐手絵図に描かれた小屋敷、城門くね、御所之前、馬場

などの地名から小佐手字中村の一帯と考えられ、平成元年に行われた御所之前発掘

調査により、現在の東雲保育園敷地北端で舘の南限を画すと思われる溝が発見され

ている。

注①小佐手永重は、武田信重の子九郎永重。武田信虎に滅ぼされて以来天正10年

(1582)の武田家滅亡後に小佐手信家、信次兄弟が徳川家康に召し出され、子孫は

幕臣として仕えたと云う。(注)一連寺過去帳には、永禄年間にオサテ殿が見える。

また寛政重修諸家譜」に、武田家滅亡後、薩垂峠で戦死した信広の子信房が徳川

家康に仕えたとある。以降、子孫は徳川旗本家として続いたと云う。

注②於佐手とも書く。甲斐国山梨郡に見える小佐手の地は、長手とも書き、地名の

由来は、この地が東境の東林山々すそから、この地の中央部にかけて細長い媺高地

が続くので「長手」と呼び、「小佐手」となったとも言う。

注)は武家家伝ー小佐手氏より参照。


 葡萄のメッカ「岩崎」には、中世の伝「岩崎氏館」があったと言う・・・!

勝沼氏館のから明治時代にワインの醸造で隆盛した頃の「祝橋」を渡ると「下岩崎」

と言う地域がある。ここは勝沼でも伝統のあるぶどう生産地であるが・・・、

ここにも、中世には、伝「岩崎氏館」があったと言う。

岩崎氏は武田信光の子信隆が岩崎氏を名のったのに始まる。武田系譜でも古い家系。


伝岩崎舘跡は、勝沼バイパス沿い・・・今は葡萄畑になっていて標識はある!

 

伝「岩崎氏館」は、甲府盆地の東端、山梨県東山梨郡勝沼町大字下岩崎にあった。

この甲府盆地の東端は、大和朝廷の時代から、日本国の東端の要衝として捉えられ、

甲斐国においても、笹子峠を越えた先の郡内(現都留郡)を治めた小山田氏に対峙

するために配置された武田家直系の布陣であったと言われる。

この「伝岩崎氏館」は、昭和50年、勝沼バイパスの建設工事に伴って行われた岩崎

氏舘跡発掘調査報告書にも記されているように、結局のところ確たる証しは得られ

なかったようだ。また、確かな文献がないために、13世紀中頃から15世紀中頃に

かけて、岩崎氏6代が居館したところと伝えられるのみである。

舘跡付近の標高400mくらいのところで、京戸川扇状地の末端部に位置している。

舘跡の規模は判然としないが、中核部と思われる周囲の北側崖の部分を除き、濠状の

凹部になっていて、その中核部は地元民から、岩崎氏の舘跡(立広砦とも言う)と

伝わっている。このあたりの小字名は、中核部の内立広を始め、外立広、坂下、坂上、

唐竹、上駒井。下駒井、山田、深田、雁屋敷、御所畑などの地名が残っている。

注)勝沼フットパスWEB情報によると、三菱創業者の岩崎弥太郎の祖先、岩崎氏は

甲斐源氏の武田棟梁職を現す御旗、楯無鎧を8代にわたり相伝し、岩崎直信の時、守護

武田信重に伝えたと云う。その岩崎氏の末裔と云われる。


明治10年(1877)、この岩崎の地に、日本葡萄酒株式会社が設立され、

地元の高野正誠と土屋龍憲の青年二人が、当時最先端のワイン醸造技術を

学びにフランスへ派遣されたことはワイン史上でも有名なことである。

このように、勝沼は特に古代、中世、近現代の文化が入り交じって面白い。


 バックナンバーでも記しているが・・・、

代、大和朝廷時代に、いち早く聖徳太子の命で勝沼入りをしたと伝わる・・・秦河勝、

調子丸仙光、調子麿(史実不詳なれど、更に命を受けたその代理ではないかと云う)等

が創建した伝わる古刹「三光寺」、「仙光寺」、「万福寺」は、何れもこの勝沼にある。

仏教の教えに基づく国造りのために、甲斐国の東端の要衝として仏教修行道場を創建する

ために来たといういう伝説などはとても興味深い・・・。注)筆者は伝説も重視している。

史実が証せたら、日本で2番目の古刹となる甲府盆地東山の菱山「菱溪山上宮院三光寺」

は、旧蹟三岳寺が寺伝とは云え西暦595年創建伝の古刹で、何と日本最古の仏教寺院

「四天王寺」が593年創建と言われるので、大変興味深い勝沼の未知の世界ではないか?

勝沼等々力には、598年調子丸仙光開山と伝わる「諏訪山仙光寺」、604年調子麿開山と

伝わる「等々力山万福寺」があるが、まさに聖徳太子伝説の世界でもある。

そして町域には古代三豪族枝氏の氏寺である「柏尾山大善寺」を始め幾多の古刹がある。

中世には、甲斐国武田氏の国内平定の要衝として、勝沼は重要な位置にあり、

上述の岩崎氏、小佐手氏、勝沼氏舘(小山田氏服従の後、目付として築城された)が

配置されていた。

近世には、江戸時代に成立した九筋二領により、日川を境に、北部が山梨郡栗原筋に、

南部が八代郡石和筋に属した。領主は幕府直轄領となり、石和代官所支配となった。

勝沼村には、甲州街道の宿場である勝沼宿が設置され、

等々力村の万福寺では甲斐国で初の富くじ興業が行われている。

勝沼、上岩崎、下岩崎、菱山村の四ケ村では甲州葡萄の栽培がいち早く行われ、甲州ハ

珍果の一つとして盛んになり、今や葡萄とワインの勝沼と云われるくらいになっている。

慶応4年(1868)、大善寺付近において旧幕府軍(近藤勇)の甲陽鎮撫隊が新政府板垣

退助率いる征東軍に敗れている。※甲州勝沼の戦いがあったところでも有名。

明治36年(1903)、中央線が甲府まで開通するが、町域には駅がなく、東山梨郡の

交通・経済の中心は、隣の塩山に移った。大正2年(1913)、菱山に勝沼駅が開設され

現在に至っている。

まだまだ、勝沼の魅力は、語り尽くせないが・・・、続きはまたの機会に・・・!