新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

37)”富士山の山仕舞い”と”吉田の火祭り”2012

2012-09-05 | 山梨、往古の歴史と伝説!

”富士山の山仕舞い”は、”吉田の火祭り”

2012年は、8月25日(日)・26日(月)、富士山の夏山

登拝は、今年も無事、”山仕舞い”となりました。

今夏、山開き7月1日~山仕舞い8月27日迄、吉田口登山道より

登った富士山登山者数は、24万6166人(過去3番目)の記録

となりました。

夏、富士山登拝の”山仕舞い”を意味する「吉田の火祭り」が賑やかに

行われました!!

「吉田の火祭り」、昔、「富士山北口鎮火大祭」とも呼ばれて

いたそうです。

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現在の”吉田の火祭り”もこの古絵図の如く、参道の松明が灯されて、

古式ゆかしく継承されています。

さすが、”国指定重要無形民族文化財”のお祭りです!

昔は「富士山北口鎮火大祭」と呼んだようです。

古絵図のみならず、現在も”祭り半纏”などに折り込まれて、

伝統が正当に引き継がれている。

注)左:古絵図は(財)富士吉田市観光振興サービスの「吉田の火祭りガイド」に掲載

されているものを複写掲載させて頂いたものです。

ブログ掲載写真も雰囲気は伝わると思いますが、”吉田の火祭り”が「国指定重要

無形民族文化財」になっている意味は・・・、「このような古絵図」を見てもらわない

と想像できないと思います。

よりいっそう歴史的価値を感じてもらえると思いコピー掲載しました。

詳しくは、http://www.mfi.or.jp/himatsuri/history.html

写真もこのページの方が優れています。

筆者のブログは富士山へ感謝を込めて、W記載した程度で恐縮です。


北口本宮富士浅間神社「大鳥居」の扁額は「三国第一山」!

富士山は浅間神社の扁額に掲げてあるように、「三国第一山」として

崇められている!

北口本宮富士浅間神社は”富士山信仰”の御神体が祀られる神社である!

注)額字は、上野寛永寺門跡、曼珠宮ニ品良怒親王。三国とは、大和

(日本)、支那(中国)、天竺(インド)を表す。

※昔は、日本一より、三国一と評した。

木造の鳥居は高さ約10m、明(柱と柱の間)約7mで、国内最大。

60年毎に建て替えている。

いつの世も、富士山の平穏と鎮火を願う祈願の心が、この祭りには

込められていると思う!


”吉田の火祭り”は”国土安泰と富士山鎮火”を祈る祭り!

富士信仰の講社でも「火祭り」までには、登拝を済ませる習わしに

なっているそうです。

安全に登拝できる夏の平穏な富士山に感謝の気持ちが籠っています!

筆者も、今夏は、家内と富士山へ登頂したので(ブログ8月号NO37掲載)、

”山仕舞いの祭り”に詣でたわけです。

今号は、その「吉田の火祭り」の情景を紹介します。

金鳥居から参道に灯る松明!    参道の松明の灯りに浮かぶ富士山のシルエット

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「吉田の火祭り」は、”富士山を崇める歴史のドラマ”!

少し早めに着いて、先ず「富士山駅」から、上吉田に入る時、俗界と富士信仰の境界

となる「金鳥居」が起点。

現在も左右に御師18軒が並ぶ参道を上宿交差点まで歩き、左へ曲がって、

「富士山本宮北口浅間神社」へ参詣し、”火祭り会場”の様子を事前に下見。

昼過ぎには、既に本殿祭、諏訪神社祭の会場へ。既に場所取りで一杯になっていました。

見物客には、都会の若い女性や外国人が多いのにびっくりです。

富士登山ブームの縁で、火祭りを知ったのであろうか・・・!?

注)吉田の御師は、「甲斐国志」によると江戸時代の最盛期には86軒あったと記されて

いるが、現在は火祭り会場案内図に示される御師は民家を兼ねる家を含めて18軒存続

しているらしい。

詳しくは、http://yssoho.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/01/

今回は、(財)ふじよしだ観光振興サービスのオフィシャルサイト

で公開の”国指定無形文化財「日本三奇祭 吉田の火祭り2012」

で概要を事前に予習して行った。

http://www.mfi.or.jp/himatsuri/history.html 

会場案内、歴史解説、祭典世話人、写真・動画、アクセスと、「吉田の火祭り」のこと

を分かり易く解説してくれている。

上記サイトで「火祭り」の歴史解説やスケジュールなど必要情報は調査済であったが、

もう少し地元の話に興味があって、先ず「駅前観光案内所」を訪ねるも資料はなし、

案内係も詳しく知らない。

街中に最近できた「富士山文化遺産インフォーメーションセンター」を紹介されたが、

以前、取材でお世話になったその参道左筋(旧東町新屋敷)にある唯一公開中の山梨県

指定有形文化財・・・御師「旧外川家住宅」を訪ねてみたら、そこに富士吉田市歴史

民族博物館が編集した分かり易い「吉田の火祭りのヒミツ」が100円で販売されて

いたので、買って読むと、分かり易く知りたいことが網羅してありました。

本ブログではそれらの資料を参考に、素人スナップ写真を添付して紹介させてもらいます。


「吉田の火祭り」とは・・・、

「吉田の火祭り」は、諏訪神社の祭神「建御名方神(たけみなかたのかみ)」を地元の

人々が松明を持って迎えたことから、”火を燃やす祭り”になったと云う話がある。

もう一つは、富士山の神様である「木花開耶姫(このはなさくやひめ)」が「邇邇芸命

ににぎのみこと)」との一夜の交わりで妊娠し、邇邇芸命に疑われたので、身の証を

たてるため出入口のない産屋をつくり室内を壁土で塗り込め、その産屋に火を放って

燃え盛る火中で、無事三人の子を産んだと云う話がある。

そのため浅間神社の祭神の神徳(しんとく)は、火伏(ひぶ)せ、安産、災厄除け、

産業守護などと云われています。

そこで、神道説では「火祭り」の起源は、猛火の中で出産した「木花開耶姫命」の古事に

ならって”火を焚く”のだと云われるようになったそうです。

現在、広く知られている起源伝説は、浅間神社の祭神と火祭りの関係を説く、この伝説に

なっているそうです。※富士吉田市観光振興サービスオフィシャルサイトより

『甲斐国志』には、上吉田村諏訪明神の7月22日の例祭として町中で篝火(かかりび)

を焚くとあり、上吉田の産土神(うぶすながみ)であると記されているようです。

注)明治5年に、太陰暦から太陽暦に暦法が改正になり、陰暦では火祭りは7月21日、

山仕舞いは7月26日に行われていました。

『山梨日々新聞』の記事で、当時の祭日を新暦で拾うと、明治18年は9月1日、

明治20年は9月8日、明治41年は8月19日であったそうですが、何れも陰暦では

7月21日であったそうです。

太陽暦では、8月中旬から9月上旬に相当するので、右余興説もあったようですが、

大正3年8月の合議で、火祭りは8月26日、27日に固定化されたそうです。

火祭りは、元来、諏訪神社の神主である佐藤家を中心とした諏訪神社の祭りであったが、

浅間神社の社司(しゃし)や御師(おし)が関るべき祭りであったことが伝えられていて、

現在は、浅間神社と諏訪神社の合同祭になっています。

北口本宮富士浅間神社 参詣      ”諏訪神社神殿と「明神神輿」20120826_118 20120826_139

 

 

 

 

 

 


「諏訪神社」は、諏訪の森にある浅間神社の境内地にあって、記録によると今から

約500年以上も前(室町時代)にはあったことがわかっているそうです。

「吉田之新宿帳」と云う上吉田が新しくできたことを記録した元亀3年(1572年)

には、神輿が通る道のことが書かれているので、約400年以上前(安土桃山時代)

には、既に「火祭り」が行われていたことが伺えるようです。

また、富士山型の御影(御山神輿)も約400年前から担がれていたと云われます。

凄い歴史のある”火祭り”ですネ!


”吉田の火祭り”は、2日間の長編ドラマ!

1日目、8月26日(日)が宵祭(よいまつり)、2日目、8月27日(月)が本祭

ほんまつり)で、「諏訪神社」と「浅間神社」の神様が神輿に乗って上吉田を巡幸

(神輿の渡御)し、御旅所(おたびしょ)へ御宿泊され、翌日、神輿は金鳥居を廻って、

夕方、高天原へ帰り、神社神殿に戻る”還幸のドラマ”です。

「諏訪神社」の奉安を待つ”神輿”   「浅間神社」の”本殿祭(ほんでんさい)”Photo_2Photo

 

 

 

 

 


『本殿祭(ほんでんさい)』PM3:00~ 注)浅間神社神霊の奉遷を願う神事

本殿御神霊の諏訪神社奉遷(ほうせん)を願う神事で、氏子総代、世話人、富士講、

御師団など約100人が出席します。

この神事の最後に、神輿行列の先頭で鳴らす「太鼓」を打つバチが宮司から渡されます。


『御動座祭(ごどうざさい)』PM4:00頃~4:30頃神様の引越 

本殿祭の後、浅間神社と諏訪神社の神様に神輿に移ってもらう神事が行われます。

浅間神社の神様は、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、 神輿は御山神輿。

諏訪神社の神様は、建御名方神(たけみなかたのかみ)、神輿は明神神輿。

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神様のお引越し:これを「遷御(せんぎょ)」と呼びます。

神社の中から神様を移す時には、灯りを消します。

そして、神様が人に見られないよう神主達が白い布で周りを覆います。

これを「絹垣(きぬがき)」と云う。御神体は宮司が運びます。

引越は、浅間神社の神様が、絹垣で隠されて、隣にある諏訪神社に移ります。

諏訪神社では御供え物をして再び神事が行われ、祝詞を読み上げて、玉串をささげ、

神輿に乗ってもらうようにお願いをします。この神事が終わると・・・、

宮司が浅間神社と諏訪神社両社の神様を白布で囲い明神神輿に移します。

これで神輿出発の準備が整ったことになります。

注)御山神輿にはもともと神様の御札が入れてあるので、遷御はないそうです。


『発輿祭(はつよさい)』 PM4:55頃 ・・・神輿の出発!

先ず、子供神輿が出発します。

子供神輿は、小さな明神神輿が一つ、御山神輿が三つの計4台が続きます。

御山神輿の一台は、女の子が担ぎ、明神神輿と御山神輿2台は男の子が担ぎます。

※到着時に写真紹介、大人神輿に負けず立派な御輿で神札も祀られている。

次に、明神神輿が先に出発、御山神輿がその後に続きます。

出発してすぐ諏訪神社の前にある”高天原”広場に止まって、もう一度出発の神事を行います。

これが終わって正式な出発(神輿の渡御)となります。

明神神輿の出発             明神神輿の行列Photo_5 Photo_4

 

 

 

 

 


御山神輿の出発             御山神輿の行列Photo_7 Photo_6

 

 

 

 

 


『輿の渡御(みこしのとぎょ)』PM5:10頃・・・神輿の行進

まさかき台、太鼓、明神神輿、富士御影(御山神輿)、氏子参列者の順を整えて出発します。

神輿の行列は、定められた道順に従い、御旅所(おたびしょ)である富士吉田コミュニティ

ーセンターへ行進します。

御山神輿は、最初の上宿交差点などで、大休止の時、地面に「ドスン」と3回落とす決まり

があり、荒っぽく担がれるのが特徴です。

神様の巡幸と御旅所(おたびしょ)!PM6:40頃:

『御旅所』は、上吉田の中心地、富士吉田市コミュニティセンターに設定されている。

子供「明神神輿」が御旅所へ到着    子供「御山神輿」の到着Photo_2Photo

 

 

 

 

 


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