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甲州・塩山粟生野を辿る④粟生野(あおの)の今と昔!21-10

2021-10-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

甲州市塩山粟生野(あおの)村集落は、塩山下粟生野、

塩山上粟生野の2つの行政区域に区分されている!

今号は、「下粟生野村と上粟生野村」を辿って見ます。


塩山下粟生野の臨済宗松泉寺は、今も見事に継承されている!


大自然背景の松泉寺石標       一度も火災なく、守られる歴史的庫裏!


東光山松泉寺は、当山の由緒によると・・・、

往古、現在の塩山下於曽に「松泉庵」と号する寺があったといいます。

本山向嶽寺第七世になられた華林大和尚は、はじめここに居住して、

本山開祖抜隊禅寺に参禅し、宗門の大事を修行しました。

その頃、華林大和尚の嗣法弟子である密傳和尚は現在の寺より二十間

ほど南西に地蔵院という密宗の廃寺を明徳年間に開創移築し、地蔵菩薩

を勧請し、当山の本尊といたしました。また、彼の松泉庵の名籍を当寺に

移し松泉寺と称しました。また、当寺は開創以来一度も火、風、水の災録

もなく、六百年近く往古の建物を保持しております。

県指定文化財:

絵画:絹本着色大円禅師画像             昭和51年2月22日指定

書籍:紙本墨書元享釈書 付版本元享釈書     昭和52年3月31日指定

市指定文化財:

建造物: 松泉寺庫裏                  平成8年5月8日指定

絵画 絹本着色阿弥陀如来両脇侍造図      昭和52年4月5日指定

平成14年2月   塩山市教育委員会


甲斐国志によると・・・、

東山梨郡大藤村字粟生野東光山松泉寺明徳年間密傳宗授化を闇里に

募て一古蹟を新たにして禅院を建て本山七世華林慧昌和尚を屈請して

化主となす。華林和尚は豆州に生るなり。抜隊和尚武州鍋沢山に庵居

る中に師事年十一其父母と征き瞻礼して薙髪を顧て父聴さす然も性屈

せず年十七にして薙髪出家す諸方行脚終わりて塩山に登り大事を領塁す

即ち抜隊和尚直伝の法嗣にして松泉寺に化道応永6年本山七世の住なり。

・・・と、本山七世が住持していたことが記されている。


大日本地名辞典によると・・・、

下粟生野村は、上粟生野村の南にあり、南西境を重川が南流する。

南西の赤尾村境から、北東の中萩原村境へ縦断する10町歩余りの青梅

街道沿いに集落が展開し、枝郷に室屋・向平の二箇所がある。

江戸時代、慶長古高帳に村名が見え、高462石余り。幕府領。

他に下青野(しもあおの)として山王(現山王神社)領二石余りが記される。

宝暦10年(1760)の家数60(本百姓53、水呑2、寺堂5)、人数223、馬4

(村明細帳田辺哲夫家文書)、文化(1804~18)初年の家数62,人数198、

馬4(甲斐国志)。※現在(令和3年4月1日)速報値は、甲州市役所による

と、下粟生野 世帯数117、人口288人、上粟生野 世帯数193,人口466

で、塩山粟生野計 世帯数310、人口754と統計されている。


今も守られる山王権現時代の往古の鳥居をみると感慨深い!

甲州市塩山下粟生野に鎮座する山王権現社は、大同元年(806)の創建と伝え、

大己貴命(おおなむらちのみこと)素蓋鳴命(すさのうのみこと)を祭祀する。

慶長8年(1603)徳川家康の黒印状を以て社領高二石一斗六升を寄進され、

元禄十一年(1698)には社殿を再建したと社記にある。

本殿の再建については、明確な史料を欠くが、小殿ながら、木割りは雄大であり、

西取り角柱、大瓶束(たいへいつか)の結線、蟇股(かえるまた)の形態絵様、

反り棰、斗棋や支輪の形状、木鼻、券鼻の姿、その他様式手法などの細部に

ついても室町的であり、再興は室町末期、降っても桃山初頭のものと推定できる。

山梨県指定文化財 昭和52年5月二十三日指定 建造物 山王権現社本殿一棟。

平成7年3月 塩山市教育委員会・・・現地標識に記される。


山王神社 本殿と境内、注)昭和年代に修理されていると言う、立派な氏子中が!

平城天皇の御代、大同元年(806)勧請。慶長8年に徳川家康より、社領

高二石一斗が寄進された。元禄十一年(1698)5月、社殿が再建され、

明治3年社領上地、同7年村社に列す。昭和五十六年十月本殿を解体

復元修理を行い御手水舎も氏子中より寄進された。(山梨県神社庁hp)


「上粟生野」は、青梅街道沿いに今も穏やかな里・・・!

千野から重川に架かる千野橋を境に東に位置する。

北は重川を隔てて竹森村。縦断する青梅往還沿いに以後田、青野、室屋

、鐙摺の四集落からなる。地名はもと「アハウノ」を約し読んで「アヲノ」と

なったという。(甲斐国志)。明和8年(1771)の家数は86、人数318(村明細帳)

文化(1804~18)初年、家数75、人数270(甲斐国志)、令和3年4月現在の統計

では、世帯数193、人口466人と程々に増加している”長閑な郷”である。

青梅街道沿いの民家は自動車音が容赦ないが、里全体は長閑である。


往古の厳粛な雰囲気が漂う「喜久理神社」の参道と鳥居その向こうに本殿!


上粟生野の「喜久理神社」の本殿は、厳かに・・・佇む!

喜久理神社は、天徳3(960)年7月)勧請。慶長8年3月徳川家康より社領七斗二升

寄進され、享保4(1720)年4月再建され、この時の棟札には「白山権現社」と称され

ていた。慶応二(1866)年二月十八日に喜久理神社と改め、明治3年社領上知、

同7年3月村社となる。昭和57年拝殿修理。(山梨県神社庁HP)・・・と解説される。


粟生野の氏神「粟塚神社」は、今はひっそりと祀られる。

安政元年(1854)勧請。京都伏見に鎮座する宇迦能御魂命豊御食津の大神の分

御霊を招き奉った。明治三十年9月耕地四反八畝を芦沢淑儀氏より寄付されたが、

昭和二十三年終戦後の農地解放により、境内地のみになった。(山梨県神社庁HP)

昭和三十八年十二月御殿改修及び玉垣が崇敬者の寄付により奉納された。


甲州の現在の里を具に訪ねると、何と言っても、昔のままの自然が目に

入る。筆者もどうしても、古きを尋ね新しきを知る「温故知新」の精神で、

その里の神社・仏閣を訪ねてしまう!もちろん、そこには古きを尋ねても

新しい世代の方々が住んでいて・・・、古きを尋ねるのは、身近な文献に

より学習するのが通例の習慣になってきた。よほどの高齢で物知りに

お目にかかることは殆どチャンスがないので・・・。

苦手な写真をSNSに貼って送るほどの写真材料もなく、それには・・・、

神社・仏閣の現在の風景が一番なので、見てもらいたいような写真が

発信できないので、拙い文章のブログになりますが・・・、ご容赦下さい。

パラパラと・・・懲りずに、ご覧あれ!