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新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

甲州市塩山の旧小田原村を辿る⑥塩山上小田原は裂石と口留番所の歴史!21-12

2021-12-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

甲州市塩山上小田原は、中世、武田信玄の時代に

「萩原口留番所」が甲斐国の要所に配置され、江戸

時代には青梅往還の関所として、甲斐国を地元

集落民が交替で守った!

そこには「裂石」の伝説が伝わり、今は集落の繁栄

を祈願する「裂石」と云う祠を祀る!

今号は・・・、甲州市塩山「上小田原」の”今と昔

紹介します!


萩原口留番所跡は、今、コンクリートの駐車場に・・・!

番屋跡」は史跡「萩原口留番所跡」として教育委員会の標識のみ見える


現在ここには、甲州市教育委員会の解説版があるのみ・・・、

ここから徒歩で行ける「大菩薩の湯」に史実に基づいて復元した

「萩原口留番所の門」があることが紹介されている。


伝説の「裂石」は青梅街道411号線のバス停「番屋」から歩いて約5分!


大日本地名辞典によると・・・、

上小田原の東、重川の上流域右岸にあり、対岸は上萩原村、北に山が迫り、

東西に細長い村で、南部を青梅街道(現国道201号線(旧青梅往還))が

走り、「萩原口留番所」が設けられていた。注)教育委員会は、開設年不詳。

※地元民の間では、中世、武田信玄の時代、往時の甲斐国を強固守るため、

甲州裏街道と呼ばれた江戸時代まで、出入りする旅人を見張るための関所”

として設けられた各口留番所は、甲斐国(現山梨県域)の要所に配置され、

その関所では、強固な甲斐国を守るため、特に「入鉄砲と出女」を監視した

今は、コンクリートの壁に「史跡 萩原口留番所跡」を解説する教育委員会

の標識があるのみ。尚、標識には・・・、次のように記されている。

「史跡 萩原口留番所跡」 昭和六十二年十二月十二日(市指定)

・・・、江戸時代上小田原村に設置されていた「萩原口留番所」は、山梨側

青梅往還唯一の関所(番所)で、大菩薩峠の西麓に位置し、甲府城下から

約6里の地点に当たる。この往還は江戸或いは関東への道として甲州裏街道

呼ばれたことから、”番所”として果たした役割は大きかったと考えられる。

成立年代は明らかではない。(注)地元では”武田信玄”時代に強固な甲斐国

築くため要所に口留番所が配置され、特に「入鉄砲と出女」を監視した。

番所の警備は村番として、上小田原村が月の1日から5日まで、下小田原村

6日から15日まで、上萩原村(往時上切・下切の二ケ所に分かれていた)

16日から晦日までと・・分担で昼夜務めた。

このことにより、3ケ村(4ケ所)は、石和代官所から命じられる諸役を免除

された。享保9年(1724)の上小田原村鑑明細帳や明和8年(1771)

の上萩原村村鑑明細帳によると、番所の敷地は27坪(9間、3間)建物は

10坪(4間、2間半)の茅葺の番屋が道路北側に石垣を積んで建てられて

いた。・・番所は明治初年に廃止され、遺構として認められるものは少ない。

古絵図と「番屋東」の小字名くらいである。平成22年6月甲州市教育委員会

注)標識には「古文書を元に復元された門(大菩薩の湯)」の写真がみられる。


史実に基づいて復元された「萩原口留番所の門」※往時は茅葺屋根と云う。


現在、上萩原にある甲州市直営の「大菩薩の湯」の門として復元されている。

現在も、駐車場から大菩薩の湯へ入る玄関として使われている。


「萩原口留番所」の位置が示す現在の「旧青梅往還の古道」の様子!

今は車社会に即応した舗装だが「旧青梅往還の古道」は今も使われる。

しかし、表通りの現代の国道411号(青梅街道)の騒音は、特に週末は、

ツーリングなど、首都圏からの往来も途切れもなく・・・、続いている。

注)写真の正面に見える高い峯は「大菩薩嶺で、右下の窪み辺りが往時

の青梅街道(大菩薩越)があった。中里介山で有名になった「大菩薩峠」

である。この車道を上って右へ少し下ると「大菩薩の湯」の駐車場がある。


上小田原には、美味しい「大菩薩の湧水」がある!

「大菩薩の湧水」と名づく名水は、県内の知る人ぞ知る名水で、遠来の

常連客もあるようだ。無料はもちろんだが、有り難い美味しい水である。


「裂石」は、今も地元集落民の栄誉を守っている・・・!

行基伝説のある「裂石(さけいし)」は、萩原口留番所跡の上にあった!

 


晩秋の「裂石」は、大きな岩が裂けて、真っ二つのままに・・・!


三体の萩で彫った「伝・行基」の仏像伝説に・・・!

「裂石」の由縁は、奈良時代(天平年間)に行脚していた高僧行基が

萩ノ木から作った菩薩像を安置したとされる上萩原の雲峰寺に安置し、

開創したと伝わる伝承は、地名「萩原」の由来となっているそうだ。

伝承によると、西暦745年(天平17年)6月17日夜、行基が甲斐国を

行脚した時、雲が立ちこめ激しい光とともに、十一面観音菩薩が現れ、

15mほどの大岩がオノで割ったように裂けて、その間から、萩の大木

生じ、行基は萩ノ木を伐採して、3体の十一面観音菩薩を彫った。

一体を安置して建立した庵が「雲峰寺」で、他の2体は、根古橋観音堂

と長昌院へ安置したと云われ、このため一帯を「萩原郷」と呼び、像が

安置されたという。安置されたという地域が現在の「上・中・下萩原」

地名の起源になったという。山梨新報2017年6月23日号山梨の地名と民話12「萩原」参照。

注)現在も萩ノ木彫りの菩薩像3体は謎のまま!

伝承は他にも伝わるが、「塩山市史」によると・・・、

大昔、空が突然曇り、巨岩が現れて石が割れると、その間から萩ノ木

が一晩のうちに大きく育って花が咲き、花が順に3箇所に散ったため、

それぞれ「上、中、下萩原」と称したと云う。

この「裂石」(さけいし)と呼ばれる巨岩は、雲峰寺から約2km西の上、

(現上)小田原地区にある。中世武田信玄が開いたと伝わるが、江戸

時代にあっては「青梅街道」の関所跡「萩原口留番所跡」の上にあり、

一つの巨岩が二つにわれた「裂石」の状態のままであったと云われる。

花崗岩で、高さは約4.5mあると云う。

「史跡、萩原口留番所跡」の上に見る「大岩」が伝説「裂石」の原点だ!

地元では「昔は旅人の安全を祈り、現在は集落の繁栄を願う場」とな

っていて、神聖に小さい祠が祀られて、今も集落民で守護されている。

筆者はある調査で高僧行基について学習したことがあるが、奈良時代

特に天正年間は、聖武天皇に乞われて、奈良の朝廷にて筆頭ととして、

采配し、全国に仏教寺院の建立を促進し、仏教思想(政治体制構築)

普及に努めたと云われ、「大僧正」と云われた最高位の高僧であった

ので、この甲斐国に行脚できる機会があったか否か立証できず・・・!

筆者は、地元の伝説や伝承を尊重しながら、そのままで謎だからこそ、

自由に甲斐国の時代より、里山の探訪を楽しめているのだと信じている。

この機会に”僧行基”が、甲斐国を行脚出来たか否かは、夫々が空想の

世界も楽しまれて、もし証しがあったら、ご教授頂ければ幸いです。


「上小田原」は世帯数は増え、人口は減少傾向・・・!

江戸時代、慶長古高帳に上小田原村は村名が見え、高58石余、幕府領。

享保9年(1724)の家数42、人数176であった。

令和3年、現在甲州市行政区別人口統計によると、上小田原は78世帯、

156人となっていて、人口も伸び悩んでいるようだ。

注)現在も、人口はほんの少しづつだが減少傾向になっているようだ。

現在の上小田原は、ハザードパップにより公示されていて、急勾配の山

間の「土砂崩れ危険地帯」を裂けて、特に若い人達は外へ出て暮らして

いるようだ。地形的にも、世帯数が伸びにくい地域でもある。

※現在は、別荘風のモダンな家が見えるが、この美しい里(集落)の風景

都会の方が、現青梅街道沿いに別荘として建てているもいるようです。

確かに、景色は素晴らしいところだと思うが・・・!


伝説の「裂石」、この下の「萩原口留番所跡」から大菩薩峠が臨める!


その「番屋」から移転したと云う「番屋茶屋」、現在も裂石の「番屋茶屋」は、

登山シーズンには、特に週末にお店を開けている。

※現在の「番屋茶屋」は塩山上萩原。大菩薩峠登山口のバス停前にある。

筆者も移住して間もなく、好きな大菩薩嶺の登山帰りに、良くお茶を頂いた

憩いのお茶屋です・・・!

後には「大菩薩の湯」へも暫く通ったが、往時、度々、お世話になりました。

特にコーヒーと手作り草餅と近所の畑でできたトマトはお気に入りでした。

また、今は亡きご主人には、「箕輪山」と「神金軌道」のことを教わったこと

があり、懐かしい「番屋茶屋」です。※伺った後で箕輪山へ調査に行った。

最近、頑張る女将さんとお二人の娘さんと可愛らしいお孫さんの倖せ一家

のスナップ写真を拝見する機会があり、とても懐かしかったです。

来年には、下萩原、中萩原、上萩原と・・・、上がって行きますので・・・、

その節には、立ち寄らせて頂きます。お互いに元気ならばですが・・・!

甲州市は広域で奥深い。柳沢峠~一ノ瀬高橋まで辿れるのももう直ぐ!


明治8年(1875)下小田原村、一ノ瀬高橋などと合併して、「神金村」と

云う村名は「萩原の神戸神社と下小田原の金井加里神社の頭文字を

取って付けられた名前だという。「良い村名だったと思うが、今はない!」


「天狗沢橋」には残されていた「神金軌道跡」。まさに”栄華の跡”だ!

この「天狗沢橋」に残る「神金軌道」跡は、地元民でも殆ど忘れている!

「神金軌道」は、特に大正時代には、優れた御影石を箕輪山から産出。

トロッコで「現JR塩山駅」迄運ばれ、東京、横浜の”市電の敷石”に使われ、

九段会館の柱等建築資材の運搬に「神金軌道」が活躍した時代があった!

箕輪山の採掘現場は、現在の裂石の黒門より近く、筆者は嘗て登って調

べたことがある。”栄枯盛衰”を感じたところでもあるが・・・!

当時の古史料(軌道図)も、山梨県庁まで伺って、頂いたことがある。


まだまだ、塩山下萩原、中、上萩原の柳沢峠や一ノ瀬高橋へ辿るには、

時間がかかりそうですが、懲りずに、お待ちください。

歩くことは楽しいが、体力の続く限り歩いて見たいところが尽きないので

コツコツです。宜しくネ!


 


甲州・塩山粟生野を辿る④粟生野(あおの)の今と昔!21-10

2021-10-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

甲州市塩山粟生野(あおの)村集落は、塩山下粟生野、

塩山上粟生野の2つの行政区域に区分されている!

今号は、「下粟生野村と上粟生野村」を辿って見ます。


塩山下粟生野の臨済宗松泉寺は、今も見事に継承されている!


大自然背景の松泉寺石標       一度も火災なく、守られる歴史的庫裏!


東光山松泉寺は、当山の由緒によると・・・、

往古、現在の塩山下於曽に「松泉庵」と号する寺があったといいます。

本山向嶽寺第七世になられた華林大和尚は、はじめここに居住して、

本山開祖抜隊禅寺に参禅し、宗門の大事を修行しました。

その頃、華林大和尚の嗣法弟子である密傳和尚は現在の寺より二十間

ほど南西に地蔵院という密宗の廃寺を明徳年間に開創移築し、地蔵菩薩

を勧請し、当山の本尊といたしました。また、彼の松泉庵の名籍を当寺に

移し松泉寺と称しました。また、当寺は開創以来一度も火、風、水の災録

もなく、六百年近く往古の建物を保持しております。

県指定文化財:

絵画:絹本着色大円禅師画像             昭和51年2月22日指定

書籍:紙本墨書元享釈書 付版本元享釈書     昭和52年3月31日指定

市指定文化財:

建造物: 松泉寺庫裏                  平成8年5月8日指定

絵画 絹本着色阿弥陀如来両脇侍造図      昭和52年4月5日指定

平成14年2月   塩山市教育委員会


甲斐国志によると・・・、

東山梨郡大藤村字粟生野東光山松泉寺明徳年間密傳宗授化を闇里に

募て一古蹟を新たにして禅院を建て本山七世華林慧昌和尚を屈請して

化主となす。華林和尚は豆州に生るなり。抜隊和尚武州鍋沢山に庵居

る中に師事年十一其父母と征き瞻礼して薙髪を顧て父聴さす然も性屈

せず年十七にして薙髪出家す諸方行脚終わりて塩山に登り大事を領塁す

即ち抜隊和尚直伝の法嗣にして松泉寺に化道応永6年本山七世の住なり。

・・・と、本山七世が住持していたことが記されている。


大日本地名辞典によると・・・、

下粟生野村は、上粟生野村の南にあり、南西境を重川が南流する。

南西の赤尾村境から、北東の中萩原村境へ縦断する10町歩余りの青梅

街道沿いに集落が展開し、枝郷に室屋・向平の二箇所がある。

江戸時代、慶長古高帳に村名が見え、高462石余り。幕府領。

他に下青野(しもあおの)として山王(現山王神社)領二石余りが記される。

宝暦10年(1760)の家数60(本百姓53、水呑2、寺堂5)、人数223、馬4

(村明細帳田辺哲夫家文書)、文化(1804~18)初年の家数62,人数198、

馬4(甲斐国志)。※現在(令和3年4月1日)速報値は、甲州市役所による

と、下粟生野 世帯数117、人口288人、上粟生野 世帯数193,人口466

で、塩山粟生野計 世帯数310、人口754と統計されている。


今も守られる山王権現時代の往古の鳥居をみると感慨深い!

甲州市塩山下粟生野に鎮座する山王権現社は、大同元年(806)の創建と伝え、

大己貴命(おおなむらちのみこと)素蓋鳴命(すさのうのみこと)を祭祀する。

慶長8年(1603)徳川家康の黒印状を以て社領高二石一斗六升を寄進され、

元禄十一年(1698)には社殿を再建したと社記にある。

本殿の再建については、明確な史料を欠くが、小殿ながら、木割りは雄大であり、

西取り角柱、大瓶束(たいへいつか)の結線、蟇股(かえるまた)の形態絵様、

反り棰、斗棋や支輪の形状、木鼻、券鼻の姿、その他様式手法などの細部に

ついても室町的であり、再興は室町末期、降っても桃山初頭のものと推定できる。

山梨県指定文化財 昭和52年5月二十三日指定 建造物 山王権現社本殿一棟。

平成7年3月 塩山市教育委員会・・・現地標識に記される。


山王神社 本殿と境内、注)昭和年代に修理されていると言う、立派な氏子中が!

平城天皇の御代、大同元年(806)勧請。慶長8年に徳川家康より、社領

高二石一斗が寄進された。元禄十一年(1698)5月、社殿が再建され、

明治3年社領上地、同7年村社に列す。昭和五十六年十月本殿を解体

復元修理を行い御手水舎も氏子中より寄進された。(山梨県神社庁hp)


「上粟生野」は、青梅街道沿いに今も穏やかな里・・・!

千野から重川に架かる千野橋を境に東に位置する。

北は重川を隔てて竹森村。縦断する青梅往還沿いに以後田、青野、室屋

、鐙摺の四集落からなる。地名はもと「アハウノ」を約し読んで「アヲノ」と

なったという。(甲斐国志)。明和8年(1771)の家数は86、人数318(村明細帳)

文化(1804~18)初年、家数75、人数270(甲斐国志)、令和3年4月現在の統計

では、世帯数193、人口466人と程々に増加している”長閑な郷”である。

青梅街道沿いの民家は自動車音が容赦ないが、里全体は長閑である。


往古の厳粛な雰囲気が漂う「喜久理神社」の参道と鳥居その向こうに本殿!


上粟生野の「喜久理神社」の本殿は、厳かに・・・佇む!

喜久理神社は、天徳3(960)年7月)勧請。慶長8年3月徳川家康より社領七斗二升

寄進され、享保4(1720)年4月再建され、この時の棟札には「白山権現社」と称され

ていた。慶応二(1866)年二月十八日に喜久理神社と改め、明治3年社領上知、

同7年3月村社となる。昭和57年拝殿修理。(山梨県神社庁HP)・・・と解説される。


粟生野の氏神「粟塚神社」は、今はひっそりと祀られる。

安政元年(1854)勧請。京都伏見に鎮座する宇迦能御魂命豊御食津の大神の分

御霊を招き奉った。明治三十年9月耕地四反八畝を芦沢淑儀氏より寄付されたが、

昭和二十三年終戦後の農地解放により、境内地のみになった。(山梨県神社庁HP)

昭和三十八年十二月御殿改修及び玉垣が崇敬者の寄付により奉納された。


甲州の現在の里を具に訪ねると、何と言っても、昔のままの自然が目に

入る。筆者もどうしても、古きを尋ね新しきを知る「温故知新」の精神で、

その里の神社・仏閣を訪ねてしまう!もちろん、そこには古きを尋ねても

新しい世代の方々が住んでいて・・・、古きを尋ねるのは、身近な文献に

より学習するのが通例の習慣になってきた。よほどの高齢で物知りに

お目にかかることは殆どチャンスがないので・・・。

苦手な写真をSNSに貼って送るほどの写真材料もなく、それには・・・、

神社・仏閣の現在の風景が一番なので、見てもらいたいような写真が

発信できないので、拙い文章のブログになりますが・・・、ご容赦下さい。

パラパラと・・・懲りずに、ご覧あれ!


 


甲州・塩山の往古を辿る②今、「下萩原」はサクランボと桃栽培が盛ん!21-08

2021-08-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

今号は、甲州市塩山「下萩原」の往古を辿ってみます!

「しもはぎわら」は先に紹介した赤尾村から重川を隔て

東にある。※参照:大日本地名辞典より。

北は中萩原村、南は牛奥村。東の大窪山から南流する

重川との間の複合扇状地(斜面)に展開する村である。

現在も、各民家の窓から南アルプスを背景に甲府盆地

を望める素晴らしい風景を有する・・・!

特に穏やかな日差しの日は、都会の人々は羨む風景


塩山下萩原は写真中央の恩若峰(982.6m)と源治郎岳(1476.6m)の扇状地!

筆者は登山したことはないが、大菩薩峠の登山口にあたる上日川峠から

「日川尾根」を辿って、中日川峠、下日川峠を経て、1540m峰の分岐

経て、源治郎岳(1476.6m)へ行ける。約65分でNTT無線中継所へ着き、

そして約40分で源治郎岳に至ると云う。表側(下萩原)からの案内はない。

源治郎岳頂上から急尾根を下り”モグチョッピラ”と言う鞍部に着く。

アカマツの植林地でヤブコギの覚悟がいるようです。

雑木の間からは、アルプスを背景にした甲府盆地が望めると云う。

往古、山頂の南西に「桝石」と呼ばれる大岩で木曾義仲の乳母夫である

中原兼遠の従臣岩竹源治郎が、源頼朝の手勢に追い詰められて、この

の上で自刃したと云う伝説が、山名の由来となっているとのこと。

※参照:甲州観光協会HP。

「源治郎岳」の紹介は少ないが、小林経雄著「甲斐の山山」を参照した。

注)筆者も嘗ては全て踏破したいと思い調べたが、縁がなかった山です。

因みに恩若峰(982.6m)は、登山客が楽しめるコースではないようです。

※当初の写真のように東山連峰の尖鋭にあり、見晴らしは良さそうだが、

恩若峰も頂上が登山客向けに整備されていないそうだが、見晴らし処は

探せばあるようです。

上日川峠から下日川三角点(1627.1m)を経て、日川無線中継所までは、

西側が唐松帯にて、富士から南アルプスまで眺められるようです。

NTT電波塔(日川無線中継所)から日川へは林道が下っている。

塩山下萩原は、江戸時代享保9年(1,724)家数70、人数243,馬11とあるが、

現在の下萩原は、平成28年(2016)調査で、世帯数174、人口:492となり、

世帯数、人口ともに往時の2倍強になっている。

甲府盆地東山の扇状地に開け、昔は煙草、木綿が盛んに栽培されたが、

今は、サクランボ、桃・葡萄等果物栽培が盛んです!

先に紹介した赤尾の「雨敬橋」を渡った辺りから、6月の”シーズン”には、

「サクランボ狩り」の幟(のぼり)に誘われます。


往古は、古豪三枝氏の御屋敷があったようです。今も字名「御所」が残る。

塩山市教育委員会資料による。注)但し、図面上の色づけは筆者メモにてご容赦。


塩山市史 第一章考古資料36によると・・・

「平城」は、所在地:下萩原字平城。

立地環境:下萩原集落の北方の扇状地に占地しており、西側は

重川の急崖に面している。付近には、黒川金山へ通じるいわゆる、

”黒川道”も走っている。※不詳だが、”黒川道”は、往古三枝氏の

御殿から黒川金山への開発道であったのではないかと考察される。

注)筆者は、安田義定の調査もしたことがあるが、その時・・・、

黒川金山の鉱脈(砂金)は、三枝氏の時代から開発が始められた

みられ、それが安田義定氏から武田氏に継がれて、武田信玄の

時代に発掘のピークを迎えたように考察した!改めて学んだ視点!

「甲斐国志」古跡部には「村北にあり、下粟生野に接す。東南に

湟(堀)あり、深さ5丈余り長さ4町余り、北方にも湟(堀)あり、

西は面川(重川)に臨む。今、その内は畑となり”平ら城”と呼ぶ。

北に”御殿”と称する所あり。柏原の渫(セツ=堰(せき))から古

城中の用水のために堀し由、里人は伝えて三枝守国の居城なり

と云う。「絶えて、証左なし」と記されており、江戸後期の平城

の状況と村人の間に伝えられてきた伝承が紹介されている・・・。

「東山梨郡誌」には、さらに「柏原天皇が当城に隠れ、この堰が

柏原天皇の用水に使われたためこの名が付けられた」旨追記され

ている。※三枝氏は、伝承では守圀の時代に、罪を蒙って甲州・

東郡の野呂村に配流され、土着した古代甲斐国の在庁官人と云われ

ているが、守国伝説には信憑性がなく。既に、「続日本後記」の

承和11年条に初見される甲斐国の古代氏族であった可能性も大きい。

残念ながら証しはなく、資料や古文献もなく、更に遺構もないが、

付近に「御殿」、「柏原大神社」など柏原天皇の名をえる地名

残り、「柏原堰」との深い関わりを想定させる・・・。

と「塩山市誌」には記されている。筆者が予習して訪れてみると、

地名:下萩原字「御殿」、「要害沢」、「平城」、「平田」は、

往古の下萩原の様子を伝えていた。※但し、遺構、解説版等はなし。

筆者は、地元の伝承は尊重したいので、ここに掲載している

特に、”地名”として伝わるのは、凄いことだと考えています。


下萩原「柏原神社」の現況は、神秘的な緑豊かな境内・・・!

特に境内に伝わる塩山市天然記念物「クロモジ」の大樹は貫禄と歴史を

語る。


「柏原神社」は、江戸時代末期、慶応2年(1866)「白山権現」と呼ばれ、

「正一位白山権現」の扁額が示す通り、格式高い由緒ある神社である。

山梨県神社庁の由緒沿革によると、『創立年月不詳。※筆者推定では

史実はないが、「柏原堰」、三枝氏の「御殿」など地名の残るところから、

後柏原天皇の御代に、勧請・創建された可能性はあると考察できる。

山梨県神社庁明細帳正徳3年松平甲斐守検地の時、社領高二石三斗

五合寄付・・・、始め「白山権現」と云い、慶応2年(1866)9月28日「柏原

神社」と称す。享保9年(1724)正月「正一位」を戴く。

延宝9年(1724)6月神殿再建。寛延3年(1750)11月再(神)殿再築。

明治3年(1870)、社領上地。明治7年(1874)、村社に列す』と記される。


境内や「柏原神社本殿」は、いつも、綺麗に清掃されている!

特に「夏祭りの季節」には、神社の境内は、いつも綺麗に清掃されている。

今でも里人の有力者に崇拝されている鎮守の神だと云える。


時系列で解いていくと・・・、「後柏原天皇」とは、

『在位:明応9年(1500年11月16日)~大永6年(1526年5月18日)』の御代、

この「下萩原」に一時隠れられていたと言う伝説を”史実”であったとすると、

下萩原に「三枝御殿」があったことが頷ける。

柏原天皇は、「後柏原天皇」のことと云われ、後柏原天皇は、往時、この

下萩原に隠れられていたと云う伝説があり、「柏原堰」は「御殿」に仮住い

の頃、重川から用水を引いた名残と伝わる。


慶応2年(1866)には、「正一位白山権現」と称し、扁額が本殿に見える。


 慶応2年の後「正一位柏原神社」を賜り、この扁額に変更されたようだ!


近年に、「正一位柏原神社」へと神社名が改名されている。

※考察すると、里人の伝承が「柏原神社」の名称へと導いたと考察される。

往時の山梨県内の神社で「正一位」に格付けされた神社は数少ない。

この「下萩原」に存在したとは・・・!?


下萩原の臨済宗向嶽寺派「法谷山東林寺」は現代に息づく・・・! 

塩山・下萩原村には、今も継承される「法谷山東林寺」がある。


甲斐国志巻75,仏寺部第3によると・・・。

臨済宗向嶽寺派「法谷山東林寺」は、向嶽寺末。黒印寺内320坪。

除地3段6畝。本尊十一面観音※行基作と云う。

享禄3年(1530)3月再興開山天林和尚※天林義籌(ぎちゅう)永正6年10月28日寂ス。

※天林義籌(ぎちゅう)和尚が、享保3年(1718)3月再興と伝わる。

寺記には、本尊:観音大士、由緒:永正二巳巳(1505)二月二十日

創建。開山:天林和尚 堂宇:桁間七間、梁間五間半。

境内五百壱坪。・・・と記されるが、考察に値する。

注)慶長8年(1603)東林庵宛に寺内寄進の判物を与えらる(寺記)

往古は東林軒、東林庵と称し、

※建立、文亀中(1501~1504)~永正2年(1505)、後柏原天皇

御代となり、下柏原に白山権現が勧請された時期とダブルが・・・、

天林和尚による再興が享禄3年(1530)かと考察できる。


学習①下萩原は、あの微笑仏の「木食百道」が出身!

また、「下萩原」は「木食白道」(もくじきびゃくどう)宝暦5年(1755)~文政8年

(1827)、江戸時代の仏教行者で造仏聖(仏教彫刻家)の出身地でもある。

生家は今はないが、独特の微笑が表現された「微笑仏」を全国に残した

木食行道の弟子で、各地に約160体以上発見されていると云う。

筆者も、山梨県内で何体か見たが・・・、木彫の素晴らしさを感じる

「心も和むような微笑ましい木彫仏像仏」である。


学習②下萩原「三枝氏の『御殿』跡」は、今、果物畑!

「三枝氏」の先祖は・・・!? 「御殿」跡は、散策と学習の要点・・・!

下萩原の「三枝氏」御殿(地名:字御殿の名)跡の伝承は面白い。

「三枝氏」のことは山梨において初めて知ったが、不詳のことがかなり

あるも、「この下萩原に、三枝館「御殿」に纏わる伝承があった!」

しかも、「三枝守国の館「御殿」であった」と伝わる。※伝承は危うい処もある一例。


「塩山市史」では、史実にないものは、そのままに

「塩山市史」第一章、第3節荘園の発達と在庁官人三枝氏の活躍・・・項、

『甲斐の三枝氏は、大化前代に見える古代氏族「三枝直」にまで遡るの

あろうが、三枝直との繋がりは全く伝えておらず、平安時代に甲斐に

流罪になった三枝守国を先祖とするのが、一般である。』と記される。

果たして、下萩原の字「御殿」は、三枝守国の館跡であったのか!?

時系列に並べると、時代考証は異なる時代ではないか?・・・、未解決!


「塩山市史」:第2節 律令国家の成立と於曽鄕  

~大化改新と「甲斐国」の成立によると、国域の確定において・・・、

大化の改新(645)8月、改新政府は東国に国司を派遣している。

当時の東国とは、尾張、美濃以東、若しくは、遠江以東の東山道・東海道

諸国を指すから、当然、その中に、甲斐国も含まれていた。

往時の日本国の北端は「甲斐国」であったと思われるが・・・、

この時代には、三枝氏は甲斐国にいた豪族であったはずで・・・!

平安時代に、都から派遣されて来た「三枝守国」ではないと考察される。

この時の国司は国単位の派遣ではなかったが、命じられたのは管内の

戸口、田地の調査、武器の収公などであった・・・と云われる。


守国伝説:「三枝守国」伝説の内容は、次の通り・・・。

・・・・・・・、三枝氏が平安時代に存在したことは、諸資料等により確実で

あるが、守国伝説の真偽とは別に同氏の存在は認められて良い。

系図によれば、守国の嫡子守将が野呂介、二男守忠が立河介、三男

守継が於曽介(※バックナンバー下於曽の於曽屋敷跡参照)、四男守党が林部介を

称したあり、「甲斐国志」は三枝、能呂、林戸、於曽、石原、立河、辻

(或は萩原)を三枝七名といい、窪田、石坂、山下、葛間(久津間)、

内田等の氏族も三枝姓からの分かれと伝えている。


塩山市史では「三枝氏」のことを不詳は不詳のまま記載!

三枝直:承和4年(837)に逝去した三枝直平麻呂は山梨郡の住人である

(古代・中世5)。三枝部は、5世紀末~6世紀初頭に在位した顕宗天皇の

時代(在位:顕宗元年(485)1月1日~同3年(487)4月25日)に設置された

名代で、三枝直はその現地管掌者だった氏族である。

史料的には確認できないが、その存在は当然三枝部が設置されたはず

の顕宗天皇時代まで遡ろう。【磯貝正義「甲斐の古代氏族について」、

「甲斐史学」丸山国雄会長還暦記念特集号】三枝氏の後世での活躍は

後述する・・・と記される。


学習③・・・あとがき

自習NOTEによると、古代「甲斐国」は、第21代雄略天皇の時代に国域が

定められのではないかと考察できる伝承の足跡があり、第23代顕宗

天皇(在位485~487)時代に設置された名代だとすれば、三枝直は、

その現地管掌者(※現地豪族)が務めたその氏族ではないかと考察する。

従って、三枝守国伝説は平安時代になって都から左遷同然に甲斐国へ

赴任した三枝部であったとしても不思議ではない。

三枝氏は熊野神社事件で敗訴、没落していく話は、信憑性も高いし・・・。

そして武田(信虎)氏の時代、滅亡した三枝氏を復活させた話もあり、

後に徳川氏に仕えた話もあり、子孫が現代に至っている話は有名です。


このように下萩原を探訪したが、「三枝氏」の御殿跡でかなり楽しんだ!

しかし、今は果物畑の風景のみを見るも、遺構も史蹟案内すらないので、

山と自然に興味がなければ、退屈する里山であろうが・・・、風景の美しい

里山であることには違いない。次号は、塩山千野(千野郷)を辿ります。


 


甲州・塩山・「赤尾」村を辿る①甲州・塩山赤尾に雄略天皇御代勧請の大石神社!21-07

2021-07-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

甲州・塩山は、古代の歴史が秘かに蘇る町・・・!

「赤尾村」は千野村の南、上於曽、下於曽両区の東に

あり、南流する重川(おもかわ)の西岸に沿う。

北(上)、中、下の三組からなる。(※大日本地名辞典)

地名は「赤埴山(あかはにやま)の尾崎」に因む(※甲斐国志)

と云うが、”東山・恩若の峯”の下の尾崎であったようで、

明治40年と明治43年の重川の大洪水で崩壊したよう。

今や甲州市塩山「赤尾」の地名発祥の由来を知る術

はない。今号は、古代の古郷:旧「赤尾」村を辿ります。


JR 塩山駅へ徒歩約5分位の民家より撮影した「赤尾」の風景はこんな処!

甲斐国志巻之四 村里部第二 山梨郡栗原筋、赤尾村 

「北ハ千野・粟生野西ハ於曽東ハ面河ヲ隔てて下荻原、牛奥に界へり

赤埴山ノ尾崎二村居ス故二此名アリ」とある。


JR塩山駅は、現在、何とか「特急あずさ」が停車する駅だが、乗降客数

は年々減少しているようです。この塩山駅構内の東側端に「赤尾」の

踏切がある。駅から歩いて近く、首都圏へ通勤する方もいるようです。

「赤尾」からは、日本百名山が同時に7座も眺められるとは・・・!?

南に富士山、西に南アルプスの白根三山(北岳、間ノ岳、農鳥岳)、

荒川三山、金峯山、大菩薩嶺など日本百名山が7座も見渡せる処は、

全国でも珍しいが、山好きが選んだ移住地の風景は大事にしたい。


「塩山赤尾」には、古道を歩くと、往古の歴史が蘇る!

赤尾を代表する曹洞宗「湧泉寺」は「赤尾の歴史」を伝える古刹!

湧泉寺(ゆせんじ)の三門は鐘楼を兼ねて、寺の伝統と風格を伝える!

現在、第17世橘田住職の代、古刹の(維持など)に苦労を顔に出さず、

現在も本堂、庫裏等伽藍建造物は見事に再建されて、輝いている!


歴代の住職は流石・・・!境内の墓地には、立派に現代の墓石が並んでいる!

甲斐国志3-229に記される往古の名刹である。黒印は1150坪。広い。

永生9年(1512)、甲斐守護武田信重の子、基経が開基。

山梨市にある曹洞宗永昌院の2世菊隠大和尚が開山した古刹である。

本山5世敬翁性尊、武田伊豫守基経(武田信重の子で、八代(奴白)氏を

継いだ基経がこの地を領し、土豪赤尾氏の女を娶って、赤尾氏の屋敷跡

に開創。(旧庵を再興して寺とす)赤尾兵衛守俊公(法号敬樹院万叟斤)

の屋敷跡に開創。天正10年兵火により2世武山頼邑再建造立。末寺2寺。

現存の建物は、宝永元年(1704)、鎮守社は2社あり。

本尊は釈迦如来。慶長8年(1603)湧泉寺は寺記に寺地1105坪と記さる。

安政10年(1781)には、下小田原上条の木造百観音と春日居の長谷寺

観音像を造立している木食百道作の子安地蔵も祀っていて、現在も、

廃仲泉寺境内地に塩山指定文化財として子安地蔵尊を祀るお堂が建つ。


木食百道作の木彫りの仏像は、拝む人を和ませる!

現在もお堂の中には、木食百道作の木造の「子安地蔵」が安置されている。

往古、湧泉寺末として、「十家山仲泉寺」があった処で、除地6畝歩。

甲斐国志3-220記。子安地蔵堂はその境内にあったようだ。

慶応4年の記録に有り。

明治の廃仏毀釈で廃寺になったが、往時の境内地は現在も残されている。

現在は、残念ながら草茫々で、お堂の中を覗くと、仏像は金属の扉の中

に納まっているので公開しづらいが・・・、

「木食百道」は、有名な修行僧で地元の出身とか!? 

結構、山梨県内では有名な木造彫刻の仏像です。

現在は、甲州市の指定文化財。残念だが特定の人しか拝観できない!

他にも赤尾に湧泉寺末で廃「円通山長谷寺」があったが、今は忍ぶのみ。


赤尾の「大石神社」は、雄略天皇御代の勧請!

赤尾の「大石神社」は往古は「大石明神」と云い、かなり由緒のある神社です!

所在地は、甲州市塩山赤尾982。JR塩山駅南口から徒歩約~15分の処

にある。周辺は瀟洒な住宅に囲まれ、主に赤尾の住民に守護されている。

大石神社々記

一、祭神は、大山積命(山之神)、可美直手命(うましまでのみこと=軍神物部大神)。

一、由緒

雄略天皇の御代(456~479)、※古代甲斐国が開かれた時代!?

海部直赤尾物部兎代宿禰(アマノアタイアカオモノノベノトヨノスクネ)の

奉勅勧請と伝わる。鎌倉将軍守邦親王(モリクニシンノウ)深く崇敬せり。

江戸時代、寛永19年徳川家光により、社領など4石5斗余寄進された。

元禄2年3月には「正一位」を授かった由緒ある神社であるが、

宝暦13年9月に、社殿が再建されている。明治3牛年社領上地。

明治7年3月、「村社」に指定され、一つに「物部神社」と称す。

明治34年9月従来の祭日9月15日を10月15日に変更す。

一、本殿 行一間半 梁一間

一、渡殿 行二間 梁二間

一、拝殿 行六間 梁三間

一、鳥居 1基 一、境内四〇〇坪

一、境内社 大神神社:山神社、地神社:稲荷大神社、三峯社:道祖神社、

※いずれも石祠!

以上、昭和56年9月吉日大石神社氏子総代の解説版に記される。

※雄略天皇、海部直、赤尾、物部兎代宿禰を祀っているとも云われる。

筆者は、移住して間もなく、温古知新の心もあって、現甲州市の神社、

仏閣を訪ね、エクセルベースの一覧性作成のため、調査を開始して

あの雄略天皇の時代に建立(神社本庁記)されたことに・・・、驚いた!

その頃(弥生時代)から、「赤尾」には集落があったのかと感嘆した!

雄略天皇は、古代甲斐国を開く際、金桜神社を勧請した話は有名だ!


大石神社の拝殿・本殿は、荘厳さが漂う!

本殿:行1間半、梁1間、渡殿:行2間、梁2間、拝殿:行6間、梁3間、

鳥居:1基、境内地:400坪 

境内社:大神神社:山神社、地神社:稲荷大神社、三峯社:道祖神社。

※以上、本殿に掲げる「大石神社々記」に記される。厳かな境内である。


山梨県人雨宮敬次郎が故郷に錦を飾った「雨敬橋」!

塩山の「雨敬橋」は、往古、地元出身の成功者雨宮敬次郎が故郷に寄進した!

この「雨敬橋」は、橋の袂に、往時の故三枝市長が建てた石碑があるが、

今は殆ど語られないで、殆どの利用者は、便利に車で素通りする。

石碑には「この雨敬橋は、明治40年、雨宮敬二郎翁が還暦を記念して

私財を投じ、郷里塩山駅より東に新道を開発、これを雨敬新道と称し、

重川に木橋を架け郷人はこれを「雨敬橋」と名付けた。その後、山梨県

施工により、平成6年3月永久橋として竣工したが、歴史は今も「雨敬

橋」として受け継がれ、翁の徳望は今も賞賛されている。

雨宮敬次郎(通称雨敬)は、弘化3年(1863)塩山市牛奥の名主雨宮

惣右衛門の次男として生まれた。幼少、家塾に学び・・・、14歳にして

商人の道に入りあらゆる商売を手がけ、苦節浮沈の青年期を過ごした。

20歳代に欧米に学び、国際的視野を広めて明治時代の文化国家創造

に偉大な貢献を成した。・・・、雨敬橋と並んで現在のJR中央線は雨敬

の山梨鉄道発企が基となり、国鉄の中央線(現JR)となり、沿線市町村

今日の繁栄を築いた。・・・、翁逝いて84年、ここに・・・、篤志人徳を

後世に伝えるものである。

今は車社会で、地元の人は便利に素通りしているも、石碑に書いてある

ことは忘れられてはいるものの、「雨敬橋」の名は皆が知っている。

注)筆者も以前に簡単に調査したが、実家(跡)は残っていないとのこと。

甲斐国山梨郡牛奥村(現:甲州市塩山牛奥)に生まれ、少年時代から、

季節商いに従事し、青年になって、一財産を築いたという。

横浜市に転居、1884年(明治17年)東京府に転居して、甲州財閥の一員

なったと云う。県庁には、要人(甲州財閥の一人)として拝見できる展示

があるが、代表する第一人者、若尾逸平「甲信鉄道案」と意見が対立して、

「山梨鉄道案」を起案して、実現を図った。・・・と云う。

現在は「若尾逸平の甲信鉄道案」が基で、新宿~松本間で「特急あずさ」

などが新宿~信州迄運行されている。

注)特急名では山梨をイメージする「かいじ」があるが、「あずさ」のほうが

本数は多く、利用者も多いようだ。

昔、有力者が残した事業の評価は、後世になって時代評価が証かされる

こともあるが、「現在のJR中央線は新宿~甲府間が約2時間半は掛かる。」

新型車両になって約2時間少々に短縮されたものの、現在世論目線では、

「これは雨敬が生まれ故郷に近い塩山駅へ迂回したため」と弊害視され

て、異論もあることも事実である。

実際には、現勝沼ぶどう郷駅周辺の用地買収に地元民が反対したと云う

理由が一般的だが、勝沼ぶどう郷駅~塩山駅に大きく迂回しているのは、

往時の雨宮敬次郎が財力を駆使して故郷(塩山牛奥)に鉄道を敷いたと

伝えられているためだ。※現在も、山梨中央銀行のパネルにはそう残されている。

現在でも、新宿から甲州街道に沿って、勝沼ぶどう郷から甲府まで概ね

直線軌道であったら、特急新車両では約30分短縮できると云う県知事

さえ出たほどであることも事実・・・。しかし、雨宮敬次郎氏が、故郷に

中央線を引いたことにより、往時の塩山市を如何に潤わせたことか!

その時の政治家や有力者の歴史の評価は、世界中でも往時の貢献度

より、後世になって、現在の目線で評価されることが多く、評価の意見

分かれることがあるのは、やむをえないことか!


上赤尾の日蓮宗「栄久山法連寺」は、静かで、厳かなお寺です!


「栄久山法連寺」  甲斐国志3-229  除地1段6畝4歩。

昔、黒川金山にあり、古府(現甲府市)に遷り、後に現在地に移転された

と云う。このように、日蓮年譜記に記される。

開創は鎌倉時代 正応2年(1289)、山号は「永(栄)久山」。

栄久・法蓮2世開山。日蓮宗「休息山立正寺末」。

慶長8年四奉行の黒印古府内180坪の証文は、今、立正寺に蔵。

※地所は甲府清蓮寺隣にあったと云う。

当山の建立は、文永11年(1274)頃だと云う寺伝もあるが、年歴は不詳!

慶長8年(1603)の記録では、正応2年建立とある。

注)往時、一清迄州6世より580年後36世が相続された記録は文永年間

とは誤差がある。


開けつつある上赤尾の今!現、ウエルシア関東塩山北店付近の様子!


甲州市教育委員会により、ウエルシア関東塩山北店 建設に伴う発掘

調査において、「赤尾堰口堤防」があったことが、分かった。

その報告書抄録の要約欄に次のように記されている。

「甲州市塩山赤尾に所在する堤防。明治40年、42年の水害を契機にして、

赤尾を南流する重川に対して取り付けられた堤防で、店舗建設に伴い、

記録保存のための調査を行った。調査の結果、基底幅約16.75m、

天端幅約3.75m、高さ約3m、長さは調査範囲内で約61mを測る。

堤体内は礫のみで構築され、川に対して裏側の基部から木製の土台

確認された。・・・「片梯子状」の土台であり、県内では最初の検出例!

・・・文献や古地図から大正後半~昭和初期頃の築造と考えられている。


以上のように、現在は、何かの大規模工事がある場合に限り、工事者

負担と工期の責任範囲で、地域の教育委員会の発掘調査が行われ、

このような発掘報告書が公開されているが、地域民は何が出来るのか?

と、話題と感心が集中し、出店がオープンすると、自分達の生活にメリット

あるか否かに、興味が集まっている。

今は車社会に対応した赤尾(北端)周辺の便利な日常品のショップとして、

親しまれている。


このように、関東に展開される大規模チェーン店の進出により、大きく

町並みが変わっていくが、果たして、里人はどちらが幸いなのか・・・!?

少なくても住民にとっては、便利なショップになっていると思われるが!

開けて(都会化して)いく、「赤尾」の北端の様子を紹介しました。


 


甲斐源氏安田義定ゆかりの「牧ノ荘」を辿る⑯義定最期の法光寺(現放光寺)と鎧淵伝説・・・19-12

2019-12-10 | 山梨、往古の歴史と伝説!

甲斐源氏安田義定のことを詳しく深く学びたいと、往古の

「牧ノ荘」現山梨市牧丘町(旧中牧郷)を中心に、甲州市塩山

の一部ゆかりの地を辿って見た・・・。要点を抜粋して、

シリーズで要所毎にダイジェスト(15編)レポート発信して

来ましたが・・・、

前号の高橋山法光寺には、安田義定が開基しただけではなく、

義定の自刃と鎧淵伝説があるので、最終まとめの前に、放光寺

その②~として、今号は「鎧淵伝説」について簡単に紹介します。


YS記自習NOTE「安田義定ゆかりの牧ノ荘を辿る①~⑮」は、

いよいよ最終号になりました。テーマは「自習NOTEの⑲-2

義定の菩提寺「高橋山放光寺」における自刃と「鎧淵」伝説!~


放光寺裏から見る現在の「鎧淵」笛吹川鍛治屋橋から見る「鎧淵」

窪平の初老曰く「子供の頃から鎧淵と呼ばれていて、現在の鍛治屋橋から見る

鎧淵は知る人ぞ知る」であると伺った。※写真右が鍛治屋橋から見た笛吹川と鎧淵。


YS記:放光寺の裏庭の奥になるが、笛吹川から見上げる「鎧淵」は現在

切り立った断崖になっている。注)今は、放光寺の裏庭園からは覗けない。

如何にも、往古の伝説を彷彿する崖淵である。

義定最期の地(自刃の地)は、山梨市には3説ある!

その一つは、要害小田野山城と西御所へ追われ山麓で自刃した説。

一つは、窪八幡のミミンドウ自刃伝説であるが、何かものたりない。

そこで学習を深めて見ると、注視した一つは「放光寺大御堂と鎧淵伝説

の自刃説」である。そのことを詳しく紹介します。


「鎌倉大草紙」によると、義定謀反の由を梶原景時らが讒言した

ことによって、源頼朝は怒って梶原景時と加藤景廉を討ってとして

甲斐国へ発向させた。安田義定は放光寺において自害したが、

その後、義定の亡霊が荒れ出したので恐れをなして放光寺に多聞天を造り、

その亡骨を納め「法光禅定門」としたとある。

伝説によると、義定は館と領地のある甲斐に避難したが、追撃が厳しく、

義定夫人と二人の嫁女を三挺の駕籠で逃れるように図ったが、

途中、追い詰められて、笛吹川に身を投げ捨てて最期を遂げたと云う。

義定も建久5年8月9日に、放光寺まで逃げ延びて、身に纏っていた鎧を笛吹川に

投げ捨て、菩提寺高橋山放光寺(往時法光寺)の大御堂に籠もって自刃したと云う。

法名は「法光大禅定門」、享年は61歳であった。

この時、鎌倉より従った郎党も義定に従って殉死したと云う。

こうして安田一門は滅亡し、鎌倉の屋敷は北条泰時に、甲斐の所領

も東部の都留郡は加藤景廉に、東山梨郡は梶原の末子景則に与えられ、

鎌倉の頼朝により、悉く安田氏とその身内は抹殺されたようです。

梶原景則はここに住むようになってから、義定の亡霊に悩まされたため、

義定の木造を多聞天(毘沙門天)に掘り、放光寺に納めたと云う。

現在の尊像は、寛文5年に保田若狭守宗雪が修復したものであると伝わる。

以上、YS記自習NOTEで学んだ記録を複写したものだが、結論として力はあったが、

運に恵まれず、頼朝の影響もあり悲劇の武将だと云わざるをえないと考察している。


安田義定の自刃の地は、山梨市には、今も3ケ所伝わるが、筆者は、

放光寺での自刃説に信憑性を感じている。

未だ、謎は謎のままにしておきたいところもあるが・・・、

今後とも、ジックリと再検証し、史実と伝説をも重んじて、より

深く学びたいものである。もし、何方か造詣の深い方がおられたら、

できればデータベースで教えを乞いたいものと願っています。


安田義定ゆかりの地を辿っても、シリーズで学習すると

やはり大きな謎が生まれたが、これ以上、正しく詳しく解析する

術(すべ)は見当たらないので時間だけを要している。

①安田義定の開基した寺院は守護寺として館や要害城を基点にして

戦略的配置している。

②安田義定が勧請した神社は、鎮守集落の形成を図るために

配置している。

注)①②は往時の戦略的に配置したインフラ基盤であったかも知れない。

③安田義定は何故小原西に安田館を築いたのかに着目したが・・・、

大井俣八幡と窪八幡は、義定の八幡信仰と乾の方位に仰ぐ窪八幡宮で、

今流に見て、領有のベストな中心立地であったので選んだと見られる

安田館のあった小原西を起点に、現牧丘の”牧”を往来するため秩父往還を開き、

一ノ瀬高橋や黒川鶏冠山辺りの砂金採集にあたって、萩原口(後の青梅街道)

を開いたのではないかと考察できるが、往還の時代考証が不詳なので、

2地点を管掌するための好立地に館を構えたと見て間違いはないと云う結論。

④要害小田野山城の東城戸に妙高山普門寺、西城戸に旧蹟西源寺を創建した

のではないかと言うYS記の検証は、旧蹟西源寺は「井戸窪」に創建と云う

甲斐国志や牧丘町誌の記述と公図による字名「西源寺入り」とが異なり、

場所は特定出来ているが、結論に時間がかかっている。※昔は「井戸窪」!?

もしかしたら、また別の機会に発信することになるかも知れません・・・!?