新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

安田義定ゆかりの甲斐「牧ノ荘」を辿る!⑤牧丘・義定の西御所跡と宝篋印塔!?19-01

2019-01-02 | 山梨、往古の歴史と伝説!

 往古、安田義定が領した「牧ノ荘」の中心は、現山梨市牧丘町

の旧中牧郷にあった!

今号は要害小田野山城跡の山麓に伝わる義定「西御所」址の安田

義定廟所と腹切地蔵尊(生涯石)を訪ねる!

 今年も懲りずに探訪を続けます。ご寛容にご指導ご鞭撻ください。


 伝安田義定の墓(※宝篋印塔は推定足利時代建立の供養塔)

この安田義定の廟所を訪ねると、そこには当時の牧丘町教育委員会の

   「小田山城址と安田義定」の解説版があった。

   「廟所 町指定文化財(昭和51年3月30日) 小田野山は標高882m 

   甲斐源氏 安田義定の要害城址である 義定は源頼朝のため建久5年

   (1194)8月この地で滅亡 この宝篋印塔は義定と一族をまつる廟所で

   石塚という」 ※2010年1月筆者撮影時の解説版であった。    

真偽のことは探訪者自身の自習の世界や想像の中で楽しむ方がベター。

2015年10月再度訪問、山梨市指定史跡「伝安田義定の墓」は、

所在地 山梨市牧丘町西保下918番地3 昭和51年3月30日指定

「この付近一帯の集落は御所と呼ばれ、安田義定の御所が置かれたと

伝えられています。

安田義定は、長承3年(1134)源義清の子として、若神子(北杜市)に

生まれ、八幡荘、牧荘、安多荘を中心に現在の山梨市、甲州市の一部を統治

ました。

平家追討に功をたてた勇将でしたが、源頼朝により建久5年(1194)

滅亡しました。

北西方向にほど近い小田野山は安田義定の要害城であるとも伝えられています。

この宝篋印塔は、室町時代に造立されたものと考えられ、安田義定とその一族

を埋葬した場所と伝えられています。※山梨市教育委員会記


 2010年に撮影の「安田義定廟所」の標識は今は朽ちて読めない!

YS記:「安田義定廟所」は仰々しいが、「安田義定のこと」は、里人

からも次第に忘れられているように思われる。

しかも、よほど関心がある人でないと立ち寄らないらしい。

どうやら武田信玄の人気にはかないそうにない!?

中牧村郷土史(昭和4年発行)の第10章第一節名所・旧蹟・天然

記念物の節  小田野山 安田義定要害城址に続いて・・・、

第4項に「安田義定廟所」(在御所区)

御所区西方の東岸にありて精巧なる五輪塔の四方に梵字を彫刻してあり、

足利時代のものなりと云う。

付属地二百餘坪竹林及針葉樹ありて、一帯に當年士卒の死骨を埋めたる

石塚にて夜の丑の刻に参詣すれば経文を唱える聲ありてオコリと称する

病気平癒せりと伝う。 大正13年中、同区武藤光康、同興十郎氏が廟所

付近より土石を掘りたるに枯骨山の如く出でたりと云う。

この一帯は、今も地名で伝わる「御所区」と云う。

「安田義定の居館にして御所区東方に在り。今葡萄園たるも地積階段大石

累々宛然名士の居址たるを忍ばしむ。往時は碑石存在せしも葡萄園と為す

ため漸次地形を変更せしは遺憾千万なり。

其西の御所と称するは日下部村に本館ありて、之に対する西の御所なりと

云い。或は西保下村先住地たる木曾より西方に当たる故に西の御所と敬称

したるならんか」と・・・記される。

YS記:原文の古漢字はPC変換できる現代漢字に変換したのでご容赦。


参考:昭和55年出版の牧丘町誌に掲載の「牧丘御所址の安田義定廟所」 


 安田義定の要害城と西御所が往時の中牧鄕の拠点になるが、

今は、そこ伝自刃の地に供養塔が立つのみだが順次訪ねます。

安田義定の「牧ノ荘」布陣と戦略的寺社配置については、詳しく

シリーズの最終章であたりで、再度辿ってみたい!

県道塩平線とフルーツラインの交差する三角地に眠る「腹切地蔵尊」

牧丘町誌 第3章史蹟と文化財の項・・・、

「腹切地蔵尊と生害石」

大字西保下小田野山麓にあり、県道塩平・窪平線(旧秩父裏街道)に沿った

ところに祀られている。土地のものは通称「腹切地蔵さん」と呼ぶ石仏である。

鎌倉初期この地方を領した甲斐源氏安田遠江守義定の生害の地と云う。

切地蔵尊は肩口から上の部分がない。台座の受け花の下に「御生害跡」

と刻まれている。明和7年(1770)に建てられたもので六地蔵尊と並んでいる。

安田義定とその一族を祀ったところと云う。

また、後方の山裾に大石があり、この石を生害石と呼び、石の上に小さな祠

が祀られている。※後方山裾の大石は、今は確認が難しい。

ここより西方の高地旧道の脇に安田義定が家来を呼び集めたといわれる

「呼ばわり石」がある。

甲斐国志に「山下に遠江守生害石と云うあり、此の山霖雨(りんう=ながあめ)

に会い時ありて鳴る音雷の如し里人は遠州宿怒の所為と云えり」とある。

また王代記に「寛政7年(1466)元辛巳、同4年甲申、甲州跡部上野介景家の

生害地」とも云われている。跡部家は夕狩沢の戦いで武田信昌に敗れ、八幡

入りより、山越に小田野城に逃れ、この地で自害をしたものとも言われる。

旧八幡方面から西保にかけての地名には、戦に纏わる名が多く切差、赤芝、

膝立、生捕など戦乱の有様を物語る地名があると記されている。

YS記:山梨県調査記録では、小田野山城そのものが、跡部氏の時代のもの

ではないかと云う専門家もいるようだが、筆者は小田野山城が安田義定の

要害城で、かつ中牧鄕に伝わる安田義定ゆかりの要所は時代考証もあわせて

矛盾しないように学習をしたい。 


 中牧村郷土史第10章第1節3項「生害石」!

小田野山南麓西保村に通ずる秩父裏街道に沿う石の大きさ6尺

餘方上に石仏を安置す 人呼んで「腹切地蔵」と称す。

大正14年山梨県庁は名所旧蹟地として表示杭をここに建てたり。

また腹切地蔵右方の石塔は、義定部下郎党の供養塔なり。

・・・と記されるが、下記写真と比べて見ると、右前衛に立つ大きい

のが”家来郎党の供養塔で、後ろ中央に”安田義定の供養塔”

(東坡が建てられている)その右に、”六地蔵尊”その左は地蔵尊

と云われる。


「腹切地蔵尊」※生害石(6尺餘方)の上にある祠は見当たらないが!


「生害」の地とは自殺、自害の地を云うが、YS記では「自刃」と云いたい。

ここは、確かに鎌倉勢に追い詰められた要害小田野城を背に義定が自刃した

場所であったかもしれない。そしてこの供養塔は明和7年(1770)に建てられた。

また、西御所跡の宝篋印塔は、室町(足利)時代に建てられた供養塔と云う。

何れも後世のものだと云うが、鎌倉幕府を倒幕した室町幕府(足利)時代には、

一時、二階堂道蘊がこの地を領したと云うが、安田義定が供養された謂われが

あったのだろうか?

まだ、学習の余地があり、また謎解きの研究課題になると思われる。


参考:昭和和55年牧丘町誌掲載の「義定生害跡」


昭和55年頃の写真で見ると、現風景と大きな違いがある。

それは小田野山城直下の山麓でその標識柱には「小田野山城址」

とある。現在は小田野山山麓をフルーツラインが走っていて、白い

ガードレールが延びる。いわゆる「安田義定生害の地」と云われ

「腹切地蔵尊」と呼ばれる供養(石仏)塔があるが、両側に地蔵尊

と六地蔵尊が祀られる。右前衛に建つ臣下の供養塔は今も伝わる。


 昨10月よりシリーズ発信『安田義定のゆかり甲斐「牧ノ荘」を辿る』

は、第5号になるが、もっとも謎となりそうな”ゆかり”が見えて来る!

①安田義定は、甲斐源氏の勇将として源義経と源平合戦を戦い

天下の副将軍として平家打倒を果たし、背景にあったのは財源領の

豊かな「牧ノ荘」!その源は、砂金採集による軍資金とも云われる。

その天下のために大きな貢献をした勇将にも関わらず「牧ノ荘」には

殆ど帰ることはなく、鎌倉幕府開闢当時鎌倉に屋敷を構えていて、

終焉の時しか「牧ノ荘」には帰らなかったのだろうか!?

②「牧ノ荘」は義定にとって、あくまで故郷の要衝であったと思われ

るが、そのお陰で地元の里人は潤っていたと見られ、安田義定を

崇敬し、宗覚明神として祀る神社(七宗覚)が中牧、西保に多く

られるなど、「安田義定は英雄であった」ことには違いないのだが!

何故、忘れられていったのであろうか!?


本シリーズは、”牧丘”と”旧中牧郷”の概要探訪から始まり・・・、

旧中牧郷の”小田野山城址”、東城戸に「普門寺」開基、”西御所”

と”安田館跡”等に焦点を充て、一方、宗教信仰に厚く、律儀な

安田義定らしく「牧ノ荘」の”牧”の要にあった「中牧鄕」に要害

小田野山城を築き、その山麓に”西の御所”を構えた。

注)新年号は、墓が目立つが、不詳だが”西御所址”がテーマ!

そして安田義定のゆかりを順次辿って行くうちに徐々に見えてくる

ものがあるような予感がする! 


先ず、単なる信仰心だけではなく、”西の御所”を囲んで守護神

となる神社を中央と西と南に配置し、その神社を囲んで集落を形成

するなど知的な布石である。

恐らくいざと云う時、集落は結集して要害城を守護したことであろう。

城下中央には法喩庵の「天神宮」、南の馬場には「若宮神社」、西

の牧平には「管ノ神社」などが戦略的に配置されている。

また、寺院に至っては「要害小田野山城」を囲んで、西(現在華)の

城戸に「旧蹟西源寺」、東の城戸に「普門寺」を建立している。

更に、鬼門の要衝(現倉科)には「無量院」などを開基している。

※鬼門除けの倉科にある「中牧城址」も、安田義定の出城であった

のではないかと云う説もあるが、このように辿ると頷けるのでは

ないだろうか!

恐らく、具に見聞すると、小田野山城の東・西城戸にあたるなど

戦略的な寺社配置にも長けていたことが見えてくる。

時間をかける自習が楽しみになってきた。

何故、頼朝の策略で最期に自刃するはめになったのかも心理

奪われるが、究極は地元NPOの研究者が探求された「義定は、

天下取りついては、無欲であった!」ことが、権謀術数に長けた

頼朝の策略に嵌められた原因と見ることで、心中は少し救われる。

まだ、結論は出せないが、武田信玄は天下を狙って上洛を図った

途中で病死したのだが、結果的には天下取りに失敗したのと同じ

なる。どちらが真の英雄かは、比べない方が良いと思うが・・・、

安田義定を忘れることを無念と思うのは、”自然の感情”である。

改めて、「牧丘の里」を探訪することで、義定ゆかりの開基寺院、

勧請神社の配置には、とても感心させられたので、その布陣的な

配置を前提にして、本シリーズを順次展開して見たいと考えています。


 

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安田義定ゆかりの甲斐国「牧ノ荘」を辿る!④伝安田義定開基の妙高山普門寺18-12

2018-12-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

伝安田義定創建の「妙高山普門寺」は「小田野山城」の城戸に!

今号は、安田義定要害城跡と伝わる小田野山城の東城戸にあたる

位置に、伝安田義定開基の古刹「卍妙高山普門寺」を辿る!

城下から見る小田野山城(跡)東城戸(稜線の凹み)に妙高山普門寺!

※写真中央、白いガードレールのフルーツラインに沿って、

「妙高山普門寺」が見える!所在地は山梨市牧丘町西保下3631。

最寄りバス停は山梨市営バスで「小田野」、又は「城下」より登る。


安田義定ゆかりの小田野山の山容~天然要塞として好立地!

上写真で見ると「普門寺の位置は、小田野山東端にあたる城戸にあたる」

昭和初期の小田野山中牧村郷土史掲載より牧丘馬場から望む小田野山! 

 

注)写真右の山容が現在の小田野山。山頂が主郭部で、稜線の東端城戸に普門寺!

大手筋は、普門寺裏から登る東尾根で、津島神社、蔵王権現が祀られる。


山城としては山梨県最古の城跡とも云われているが、専門家

の間では昭和年代の調査によるも、安田義定が築城したと云う時代

様式は見られず、中世に跡部氏の要害城とされた際に改造され

ものと考察できると云う解説もある。

①「小田野山城跡」と伝安田義定開基「妙高山普門寺」は、位牌

に記す建久5年(1194年)8月19日以前に、堂宇が創建されたと考察。

寺伝では・・・、開創は行基菩薩、開基は安田義定と云われ、

その昔、聖武天帝の勅命を奉じ、諸国に国分寺を建立した僧行基

が甲斐に入国した折り、この小田野山の山腹に草庵を建立し自ら

彫刻した薬師瑠璃光如来坐像一体を安置し人々に崇信することを

説き立ち去ったと云う。

この堂宇こそ、当寺の草創であり、今も行基坂、行基の腰掛石等の

地名あり・・・と伝わる。

小田野城築城年と普門寺の創建年は不詳とされているが・・・、

筆者は、建久年間(元年から3年頃=鎌倉幕府開府と安田氏全盛)

小田野山城築城とともに、城戸口に行基作と伝わる薬師如来像を

遷して安置し、当寺の草庵を開基したと云う。

寺伝では・・・、時は流れ、当地領主安田義定公が小田野山に要害

築城の折、城域に建つ荒廃した堂宇(里人は阿弥陀堂と呼んだ)

を修建し、薬師如来を本尊として安置し、山門、庫裏等を建立し、

寺名も真言宗「富向山薬師寺」として安田公一族の祈願寺とした。

行基開創説は諸説ある。聖武天皇の御代、朝廷に疎まれていた

養老年間から一転し、天平年間には聖武帝により朝廷に招聘され、

仏教の教えに基づいた政治体制普及の統括として采配を振るう

ことになった。特に東大寺大仏殿の勧進の成功を収めた貢献に

より、聖武天皇から「大僧正」の最高位を賜った頃・・・、

特に行基上人が甲斐に入国した記録はなくても、行基作の仏像

「薬師如来」等の下賜があったことで伝行基開基とした寺院が多い

のは甲斐国ばかりではなく、地方国の趨勢でもあったと云う。

奈良時代より始まった寺院の戦略的配置は、平安時代、鎌倉時代

に渡って継承され、鎌倉幕府開府に貢献した安田義定の全盛期を

迎えるに「牧ノ荘の財源を背景にした重要な要害城」であったとも

考察できる。

②小田野山に要害城を築城した安田義定の狙いは、「牧ノ荘」を

統治するに、牧(軍馬補充)他、奥秩父山塊の砂金や鉱山開発

(前号記述)も主軸にしていたと見ていて、「本拠の館」は現山梨市

小原に置き、中牧郷には御所(西御所)を構えて、その要害城とし

「小田野山城」を備えたと見られる。

従って筆者は、「新編慕書」に「牧ノ荘」の中央を中牧と称し、杣口、

千野、城居寺、窪平、倉科、是なり」とあるも、鉱山に着目していた

ことを加えれば、「牧ノ荘」域は特に銘文の残る羅漢域から塩山・

一ノ瀬高橋域まで広域であったとしても頷ける。

筆者は、このような論議には疎いので専門家に委ねたいが・・・、

特に古代から中世のことは、里人の伝承を特に重視したいもの。


故に、YS記では、鎌倉幕府開府にあれだけ貢献した安田義定の背景として、

①本拠の「安田館」周辺の「七日子神社」が語るように貢米の宝庫であった。

「奥秩父山塊の砂金」開発により、軍資金の調達を可能にした。

「御牧」による軍馬補充体制が、「牧ノ荘」を背景に、軍事の備えを強力にして、

備えは万全であったことが伺える。

それ故に、征夷大将軍となった源氏の頭領源頼朝の嫉妬と思える対象になって、

武田信玄以上に「不運の武将」であるとも云えるが、筆者は「安田義定は牧ノ荘

背景に、武家社会を築くために功労のあった英雄の一人」であったとも思って

いる。そして「武田信玄はその後に続いた英雄であると・・・!」


古刹「妙高山普門寺」は、あの安田義定が伝開基(創建)!

普門寺の石段は、”ただ一生懸命に登ると雑念は消える”と・・・!

「甲斐国志」によると「西保下にあり。曹洞宗落合村永昌院末。

本尊は薬師(如来)。寺記に云う保田氏の城跡に建つ。

境内70間、50間。遠州義定の牌子を置く。開基曾覚定光大禅定門

建久六乙卯年八月十九日とあり。注YS記位牌は建久5年が正しい。

按に甲陽随筆に義定の廟所は西保下村に阿弥陀堂とあるは是か。

古くは真言宗なりしが、明暦中永昌13世撫天を請じて当宗となれり

と云う。宝永寺記作富向山。行基坂、同腰掛坂寺の辰巳にあり」と。 


妙高山普門寺は石段を上ると「薬師堂を左側に、本堂へ辿り着く」

中牧村郷土史による昭和初期の「財産」は次の様な規模であった。

1:境内 二反二畝三歩 1:墓地 四畝十九歩 1:田 二反七畝十三歩

1:畑 八反一畝二十四歩 1:山林 四反二畝O三歩 ※各地価省略。


荘厳の妙高山普門寺本堂は明暦年間に再興された!

「明暦年間に永昌院第十三世撫天性明和尚以て、曹洞宗に転宗、現今

の堂宇に修築せり依って中興轉宗開山とす」と中牧村郷土史に記される!

以後、幾度も住職や檀徒によって修復されて、今も輝く!


寺号生起によると「院寺の真西は安田義定の城蹟にして、即小田山は雲際

に聳え、鼓川は南麓を東流し、外川の流水は北より東南に巡り、地勢天険にして

流水の音妙なるが故に、妙高の二字を以て山号」となす。

天平年間行基菩薩の本尊を彫刻せし時、石上に胡座して「普門品を補讀せし故」

に「普門寺」と称す。


普門寺より望む展望風景は、南に富士山、東に大菩薩連嶺を眺める!

 


 

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安田義定ゆかりの甲斐国「牧ノ荘」を辿る!③安田義定築城の小田野山城跡!18-11

2018-11-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

安田義定は「牧ノ荘」を領地に、天下の副将軍として活躍!

今号は、かなり広域だった「牧ノ荘」(現山梨市牧丘)の要衝、

その要害城であったと云う「小田野山城跡」から訪ねて見る! 


牧丘(旧中牧郷の牧の要)辺りから望む丘陵地風景!写真に大菩薩連嶺!

シリーズ前②号で「牧ノ荘」の要であった「旧中牧郷」に

ついて紹介したので、今号では省略するが、写真で見るように

貴重な丘陵地である。現在、牧丘は「巨峰」の産地として有名! 


牧丘を訪ねると「北部背景は険しい山岳に囲まれ、丘陵地は少ない!」

往古「牧ノ荘」を領地にした安田義定は、上絵図で連想すると、

三枝氏から引き継いだ、背後にある大弛峠から繋がる金峯山筋

から奥秩父山塊の一ノ瀬高橋周辺にかけての鉱石や砂金採集と

塩山小田原に精錬鍛冶場を開発したのではないかと考察できる。

その後世には一ノ瀬高橋地域の竜喰金山遺跡、牛王山金山遺跡、

金湯沢金山遺跡等が伝わる。

また平沢には鈴庫鉱山遺跡、増田鉱山遺跡、黄金沢金山遺跡等

も伝えられており、往時は金鉱開発まで進んでいなかったよう

だが、鉱石の他、砂金も採集されて、製錬技術も導入され、

精錬まで行って財力になっていたものと考察している。

それらの伝承を連想すると、往時より塩山上萩原~下萩原には、

「金の道」と呼ばれた道もあり、萩原山の黒川金山等・・・は、

平安時代~鎌倉時代には既に安田義定が砂金等の採集を行って

いたと云う説の根拠にもなると云える。

故に、旧青梅街道北線の小田原地域には鍛冶職守護神の金矢

大神を祀る金井加利神社、原之京鍛冶遺構もあり、鍛冶屋沢、

鍛冶屋向等の地名も残り、同時期の創建と云われる金剛山福蔵院

は安田義定の館跡説も伝わり、金山開発の工具や鉱石の精製等

が行われた可能性を示している。※今号は牧丘域のことなので省略。

山梨県歴史の道、甲州市外郭域発掘調査報告書等参照。

そのような伝説を辿ると、安田義定は、古代甲斐国の時代より、

三枝氏が統治・開発を始めた峡東の鉱山開発を引き継ぎ、砂金

の採集と精錬を行って、それを軍資金にして、源平の合戦を機

に天下に向けて軍旗を揚げた勇将とも言える。

因みにその領地を継いだのが、甲斐武田家中興の本拠を八代の

赤甲城から、有力な地盤とみて千野郷へ本拠を移転し千野館(後

慈徳院)を築いた第12代甲斐守護武田信成と第13代信春親子で

あり、武田信虎、武田信玄へと続いて、信玄時代には黒川金山の

金鉱採掘は最盛期を迎えて、武田信玄の上洛への軍資金となった

ことは云うまでもないと想像する。※残念だが信玄も病死で上洛できなかった。

江戸時代になっても、徳川家康は、武田時代より金鉱開発の技術

統括をしていた大久保長安を登用し、甲斐国の金鉱を引き継いで、

その後、佐渡金山などの開発に大久保長安を登用したことは、

周知のとおりです※甲斐金山の物語りだけでも話は尽きないがここでは省略する。


安田義定ゆかりの要衝小田野山城跡を中心に記すと要所は多彩に点在する!

安田義定が開拓したと考察した要所を辿る前に、安田義定と

牧丘について「牧丘町誌」にて若干概要を把握しておきたい。

牧丘町誌第二節、安田義定と牧丘の項によると・・・

「安田義定は長承三年(1134)3月10日、現在の北巨摩郡須玉町若神子

生まれたと伝える。武田系図によると清光の四男となっているが、

吾妻鏡によると「安田冠者義清が四男」とあることから、義清の子供で

あり、それも三男で清光の弟と考えられる。」・・・と解説される。

安田義定については、北杜市高根町熱那庄八幡神社の社記に「八幡宮御像

は当国武田の元祖新羅三郎義光末孫安田三郎義定公御勧請に而御座候」と

あり・・・、土地の伝えでは社殿を義定が再興したと伝えているので、

吾妻鏡によると安田冠者と云ったこともあるので、義清の所領を受け継い

のではないかと思うと記されているので、本ブログに登場する安田義定

武田義清の四男の安田義定と見ている。注)義清は信玄の武田家始祖。


 その安田義定が晩年統治していた荘園を見ると、当町を

中心とする牧ノ庄(荘園)と加納庄(荘園)であると伝える。

注)牧ノ庄は、前号で述べた通りであるが、範囲は広域すぎて推定するのみ。

加納庄は現在の山梨市上神内川あたりと云う説と一宮町金川原とする説あり。

安田氏との関わりのある史跡から見ると小原の館跡、雲光寺、窪八幡神社等

から見ると山梨市説をとりたいが、長寛勘文にみる安多庄が加納田である

で、安田氏の加納庄と一致するので一宮説が位置的に見て考えられる。

とあるも、このような学説的判断は専門家に委ねて、本ブログは進めたい。 


安田義定は、牧丘町誌を参照すると・・・、

甲斐源氏として初出陣と云われる治承4年(1180)年8月25日、

工藤庄司景光、同子息小次郎幸光、市川別当行房らと「石橋山

の合戦」を聞き、駆けつけたことが「吾妻鏡」に見えており、

甲斐源氏の最初の出陣と見られている。注)頼朝の敗戦と云う。

以後、安田義定は富士川の戦いの戦勝を期にその功賞で

朝廷でも評価され「駿河守」に任ぜられるなど貢献は大きい。

そして一ノ谷、ひよどり越の合戦、屋島、壇ノ浦の合戦など

あの牛若丸こと源義経を将軍に、天下の副将軍として平家討伐

を見事に果たし、源平合戦による数々の功績によって鎌倉幕府

の開府に際しては、天下の要職を務めることになる。

残念ながら、甲斐源氏武田義清等武田家一党の力を恐れ、特に

安田義定は源頼朝その腹心の讒言によって、謀反の罪を着せ

られたりして、漸次、追い詰められて自刃したようだ。

子息の義資とともに不運の武将として語られているが・・・、

筆者は天下の副将軍として活躍したことや、朝廷にて「従五

位の下」に昇格、「駿河守」に任ぜられたこと、源平合戦の

功績などあの武田信玄に劣らぬ武将であると思うが、安田義定

往古甲斐国の英雄の一人であったと云える武将である!

その遺跡については数々の謎も残るが歴史ロマンが伝わるので、

黙々と要所、要所を辿って、シリーズで発信しようと思います。


西保下の城下から見上げる安田義定ゆかりの要衝小田野山(城跡)!

※写真は城下より望む小田野山(正面城跡)と安田義定開基の普門寺方面!


 如何にも山城に相応しい峻険の小田野山(城跡)を望む!

その小田野山城跡は、東山梨郡牧丘町大字西保下地内の

小田野山にあり、現在は西保下部分林となっている。

平安時代~鎌倉初期に安田義定が標高883mの山上に要害城

(山城)を築いたと伝えられる。往時は、写真の十王入り沢

は小田野城の命水場であったと云われる。

城戸口には安田義定が建久年間(1190~1199)に建立した

寺院と伝え、南麓には「城下」、「御所」、「馬場」等の地名

が残る。地元では城山(じょうやま)と呼んでいる。

「王代記」には、跡部上総守西保小田城ニテ腹切」とあり、

中世寛政年間(1460~66)に至っても使用されていた。

甲斐国志では「小田ノ谷とありて、山内広く巨摩郡に接し、

古時は西保四村(中村、下村、北原、牧平)一帯に小田ノ谷

と呼びたるを中世、牧ノ庄を置き牧場となし、馬場によって

中牧、武川、西保(保字疑わくば部の字を転訛ならん)等の

分名できると見えたり、また・・・・今存するところの城跡

は、安田遠江守義定の要害なり。・・・以下、下段に続く。


小田野城跡の見取り図※牧丘町誌掲載図より複写(蔵王権現より登る)

 

甲斐国志記述より続く~「山上の本丸に櫓跡荒塁あり、

二ノ丸に龍石雌雄あり三ノ丸に蔵王権現を祀る。箭竹あり、

養生して節を齊くす。

柳清水、烏帽子石、呼石(よばりいし)あり。

外川子丑の方より回りて溝となる西保川は南麓を東流す。

ここに至りて鼓川と名ずく域は、城溝に水を蓄える。

故に、堤川とも云う。

この小田野城跡は、現在は荒れているので踏査の写真は掲載し

ないが、現在は最近登山して撮影した人が、Web掲載している

のでご覧あれ。

寛政6年(1465)に武田氏との間で甲斐守護の地位を争って、

跡部景家が武田信昌に追い詰められてここで落城したようだが、

この城郭跡を見た人で、これは中世の城跡と云う人もいるも、

自害沢、生捕、穏家、切差などの地名はこの時代後と見ている。

筆者は、「牧ノ庄」を領地とした「安田義定の要害城跡」

考察する。※跡部氏の時代に小田野山城を使う場合に改造しされたと考えている。

代の歴史ロマンは謎だらけと云えば謎のままだが、口伝も

信じれば歴史のロマンが蘇ってくるものも多いと信じている。

何故なら”民”の言い伝えは、口伝が唯一の手段であったから。 

※何故なら役人や武家以外は文章が書ける人が殆ど居なかったからである。


  甲斐豪族の三枝氏が峡東に精力を注いだのは・・・、

一つには、一ノ瀬高橋周辺の黒川鶏冠山の砂金(金鉱)を始め

鉱山であり、もう一つは「御牧」で牧場経営であったと考える。

従って、安田義定が選んでこの地を領地としたのは、三枝氏と

全く同じ考えであったと思われる。

もちろん、前述の通り、三枝氏~安田氏の後は、甲斐守護

武田氏第11代信成と第12代信春が千野館を構えて、地盤を

後継し、後に、本拠こそ躑躅ケ崎(現甲府市)に構えるも、

武田信虎~信玄の時代に至って、峡東は特に黒川金山の発掘

は最盛期になったと云われる通り、発展をしたものである。

それほど、古代甲斐国の時代より、いわゆる峡東は、活力の

あった地域だと云うことが分かる。従って、その中心であった

現甲州市、山梨市、そして笛吹市は、往古から如何に甲斐国の

中心拠点であったかを知ることができるが、今は温故知新精神

で学んでいるのの、なかなか掴めないところもある。

ただ言えることは「峡東は革新期に来ていることは確か!?」

今は、温故知新の温故を知るため、黙々と辿ることを続けたい。


 

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安田義定ゆかりの甲斐国「牧ノ荘」を辿る!②その要は「中牧郷」だった!18-10

2018-10-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

平安末期~鎌倉時代初期、甲斐国「牧ノ荘」は、あの安田義定

より開かれた!山梨市「牧丘町」には往古の歴史ロマンが眠る!

注)上図は、牧丘町誌(図1)による「牧丘町の全体図」と

右上添付図は、ウイキペディアによる「山梨県牧丘町の位置図」参照

山梨市全体を紹介したいが、今回は広範囲にあたるので省略し、

主に安田義定ゆかりの「牧ノ荘」の要としてあった、今もその名を

引き継ぐ、山梨市の旧「牧丘町」に焦点を置いて紹介します。 


「牧丘町」は、総面積のおよそ80%を山地で占め、古くから人の住める平地

及び丘陵地は、町の西北部の山地に源を発する東西のタナ沢、フシマタノ沢、

白張沢、下ノ差沢、藤原ノ沢、ブナヨコテ沢などを集めた鼓川と赤芝川とが合流

した鼓川の本流の沿岸部と、井戸川が鼓川に合流する僅かな扇状地、それに

北部山地に源を発する塩水沢、余沢、大川沢などを集めて南東に流れる琴川の

沿岸部に点在する部分に限られている(図1)・・・と牧丘町誌は記している。


往古、あの勇将安田義定が領したと云われる「牧ノ荘」は・・・、

甲府盆地東部に位置し、荘域は山梨市牧丘町から、山梨市北部の

三富、甲州市塩山北西部付近(推:上於曽、三日市場、小屋敷、

藤木辺りも含む)に比定され、笛吹川上流部にあたる。

この頃は、高橋荘と同一の荘と認識をされており、高橋荘には塩山

竹森も含まれる。また甲斐市吉沢の羅漢寺の木造阿弥陀如来坐像

の応永30年(1423)銘文には牧ノ荘を指す可能性もあると云われ、

大変広域にわたると思われる。

特に、後の黒川金山を含む現甲州市塩山一ノ瀬高橋辺りも含まれる

と云い、安田義定の一番の財源になったのは「牧」で生産する名馬

のみならず、奥秩父山塊域で採れた「砂金」ではないかと考察する。 


あまりに広範囲なので、今回先ずはその要にあった現牧丘町・・・、

特に往古の「中牧郷」から辿ってみるのが良いであろうと考えている。

山梨市牧丘町は上図のように山梨県の北部にあたり、その「中牧郷」

には、安田義定ゆかりの小田野城跡、普門寺、御所区、馬場区など

が読めると思うが、往古城下を称す地名が今も残されていると云う。

上図は、昭和4年発行の「中牧村郷土史」に中牧村全図として掲載されたもの。

ここではYS記自習NOTEの学習のために記録参考に再複写させて頂いたもの

ですがご容赦。注)さらなる複写は遠慮して下さい。 


往古、大地の恵みと鼓川の清流に惹かれて「牧」が形成された!

「鼓川」沿いに開けた中牧村(現在の牧丘西保中、西保下)は、主流「笛吹川」

に注ぐ鼓川、琴川、大沢の三支流を主にして集落が形成されている。

その中で、鼓川(往古は堤川)には最も清い水が流れていたことが分かる。

)牧丘町誌に昭和53年4月琴川の水質検査検査結果表(解析データ)記載。

その堤川(現鼓川)の沿岸に、往古、あの安田義定は西御所を構え、乾の方位

にある小田野山に要害城を構え、その城口には普門寺を開基して、「牧ノ荘」

の要地を治めた。


 「牧丘町(まきおかちょう)」は・・・、~以下ウイキペディア参照~

往古、甲斐国(山梨県)東山梨郡に存在した町!

平成17年(2005)3月22日、隣接山梨市、三富村と新設合併をし、

新制市による山梨市となった。旧町域は現在、山梨市牧丘町になっている。

注)昭和29年(1954)5月17日、諏訪町、西保町、中牧村が合併して牧丘町が発足。


「牧丘」には、旧石器時代より、里人が暮らせる環境があった!

町域の井戸川遺跡からは、旧石器時代末期の石核が出土している他、縄文時代

早期の堀之内遺跡が分布し、弥生時代には須川道上遺跡で弥生中期の土器が出土

している他、古墳時代の遺物も確認されている。


古代、律令制下では、山梨郡に属す。

「中世」には、甲斐源氏の一族「安田義定が牧ノ荘へ進出」し、琴川

右岸の丘陵地にあたる「中牧郷」はその中核地域に位置した。


上記の地図と記述を頼りに、旧「中牧郷」を辿ることにしました。

徒歩なので晴耕雨読の日程ですが、”長期戦”を覚悟で自習したい

と思います。そのためシリーズ9月号①~10月号②は「まえおき」

として発信しました。


 

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「古代甲斐国の歴史ロマンは大蔵経寺南麓から始まった!」シリーズ最終章まとめ編18-08

2018-08-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

~5世紀、ヤマト王権は雄略天皇の御代、大連物部目に命じ倭国

東端甲斐国の覇権・統治のために物部氏一族(不詳)を遣わした。

物部氏一族は東海道を経て若彦路を越えて甲斐国へ入り、奈良原

から武居の花鳥山へ立ち寄り、甲斐国(現甲府盆地)を見渡したら、

正面北山筋にヤマトの三輪山を彷彿する松本山(現大蔵経寺山)

臨み、甲斐国統治の拠点は現大蔵経寺辺りが相応しいと見た!

故に「古代甲斐国の歴史ロマンは大蔵経寺山南麓から始まった!」

と見ている。そして8世紀に至り聖武天皇の御代、奈良朝廷は現

春日居に甲斐国府を開府して統治体制を整えたと見ている!

その布石に伝行基開基の古刹寺院が要衝に配置されていた!?

※2018年9月号~「古代甲斐国の歴史ロマンを辿る」シリーズ序章~第4章参照

今号「大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の歴史ロマンを辿る!」

シリーズ第12章は「甲斐国府を中心とした伝行基開基の寺院配置」

に焦点を置いて、”最終章まとめ編”を発信します。

シリーズ序章から振り返って素人の論拠と解析にお付き合い下さい

古代甲斐国の歴史ロマンは大蔵経寺山南麓から始まった!~マトリックス解析~

甲斐国府と補完関係にあったと見る寺本廃寺付近から見る伝行基開基の寺院配置。


古代甲斐国は奈良朝廷の統治体制下に入り、春日居に甲斐

国府を開府。天平年間には国司田辺史広足が派遣されている。

甲斐国府の配置位置から考察すると、聖武天皇が僧行基を招聘

して仏教寺院の建立を推進したが、往時の仏教寺院は仏教思想

普及のための修験と併せて「甲斐国府」の警護も兼ねて要衝の

置に山岳寺院を配置したと見ている。


「甲斐国府」の配置を中枢に、伝行基開基の仏教寺院の配置

をマトリックス解析図を応用して見ると、警護の要衝に適した

にあることも頷ける。

代甲斐国に於ける伝行基開基の寺院配置と「国府」の補完関係解析図

 


 奈良時代741年(天平12年)聖武天皇(奈良朝廷)は僧行基を招聘し、

そのノウハウを活用して仏教思想の普及と仏教寺院の建立を推進を図った。

往時、倭国東端甲斐国にも「国家鎮護」を目的にして、仏教修験の山岳寺院を建立。

養老6年(722)大蔵経寺寺伝では伝行基開基と伝わり、それは行基作弥勒像を安置

して弥勒堂を開基。行基の安置した弥勒像が本尊となって弥勒平に建立された弥勒堂

は⇒弥勒実相院となり⇒青獅子山松本寺(七堂伽藍を構える寺院となり、仏教普及策

の広告塔の役割を果たし)⇒やがて中世、応安3年(1370第11代甲斐守護武田

信成公により室町三代将軍義満に言上して庶子観道上人を迎え、真言宗智山派として

中興開基。現在地に「松本山大蔵経寺」の七堂伽藍が建立して現在に至っている。

注)弥勒平の伽藍跡は現在は山中に平地が残るのみで、寺伝と共に享保6年(1721)

古絵図にのみ記す弥勒堂の礎石跡が証があるが、現在は現地を確かめる術はない。

※詳しくはシリーズ第5章「弥勒平編」~第6章「松本山大蔵経寺編」参照

あの行基上人は、養老年間は、朝廷に疎まれて放浪ができたであろう時期に甲斐国

に来ることができたか否かは比定できないが、殆どは畿内にいて、行基集団形成し、

社会インフラの造営や寺院建立を行い民衆の絶大な支持を得ていたとことが認められる。

天平年間になって聖武天皇の御代、行基は奈良朝廷に招聘されてから、仏教思想を

基軸にした政治体制構築のため、全国に国分寺を配置するための総本山たる東大寺

盧舎那仏の建立で勧進の功績を挙げ、行基は「大僧正」の最高位を得ている。

そのような史実を照らして見ると、天平年間には奈良朝廷にあって仏教思想の普及

寺院建立を管掌する総責任者となっていることから、往時、奈良周辺で多く彫ら

れた弥勒像(木造)を行基作として下賜し、全国的に仏教を広めたと推察される。

それ故に弥勒像安置の伝行基開基寺院が伝わる。古代甲斐国ではその前後に行基作

薬師像を安置する寺院も建立されており、伝行基開山ではなく、伝行基開基となる

古刹寺院があるのは、そのことが由縁であると考察される。 


往時、甲斐国中央部にあった伝行基開基と伝わる古刹を注視!

伝行基開基となる現大蔵経寺山中の弥勒実相院(後に七堂伽藍を構える青獅子山松本寺

=現大蔵経寺の前身)、伝行基開基の末寺菩提山長谷寺(第8章参照)、伝行基ゆかり

の廃瑠璃山鎮目寺跡(第9章参照)、また、里宮にして伝鎮目軍団駐屯地国府警護

も兼ねたと考えられる山梨神社(第7章参照)の遷座・建立。

摂社吾妻屋宮(第10章参照)、そして雄略天皇の時代に配置されたと云う日下部氏

(第11章参照)、そして現甲州市に至るが、東山の要衝に柏尾山大善寺が配置され、

甲斐国防衛のための鬼門に伝行基開基の裂石山雲峰寺、南方の若彦路方面には、行基

の時代より前に創建されている伝無音律師開山の無碍山瑜伽寺と、少し後、南方に、

甲斐国分寺、国分尼寺が建立された配置位置などを総合的に(マトリックス)考察して

見ると、上図のような寺院配置になっているので戦略的配置に疑いはない。

注)鎮目寺跡碑には行基作薬師像三体が大善寺、瑜伽寺に安置された伝承がある

ため、若彦路方面の瑜伽寺を考慮に加えてあるが、瑜伽寺の寺伝には行基のゆかりは

見えない。

しかし、往時は国府を中枢にして寺院、神社が戦略的に配置され、統治体制が整えら

れて行ったと見ることには疑義もなく、読者も上記マトリックス解析図の有様にて

概要は想像してもらえると思います。

このことは私的な考察につき、既に専門的に研究をされた方がおられたら、ぜひ、

ご教授願いたいと思っています。


~「大蔵経寺山南麓から始まる古代甲斐国の歴史ロマンを辿る」~

4世紀、松本山(現大蔵経寺山)の中腹から裾部近くには積石塚等古墳も

多く、現大蔵経寺南側には古墳時代から平安時代にかけて多くの集落跡が

発掘されていて、里人が集まったことが証されている。

注)考古学的には、甲斐銚子塚古墳などの発掘により既に4世紀後半には畿内影響を

受けていた形跡があると云われる。旧高麗郡などの地名など渡来人(主に高麗人)の

残した先端文明も、この辺りには早くから伝えられている。

5世紀、雄略天皇の御代、大連物部目に命じ倭国東端甲斐国覇権統治のため、

物部氏一族を遣わして朝廷が支配する古代甲斐国の統治体制を整えていった。

その足がかりを築く本拠の館を現大蔵経寺境内辺りに構えたと見ているので、

そこから「古代甲斐国の歴史ロマンは、大蔵経寺南麓から始まった!?」と見る。

注)現大蔵経寺境内にある物部神社の旧蹟物部宮が御室山山上にあったことで、

往時の物部氏一族の館があったことを逆説的論拠としている(※第4章参照)

7世紀末創建と推定される寺本廃寺の発掘によって、それを補完機能寺院

見ると、筆者は「甲斐国府」設置を概ね同じ時期ではないかと見ている。

養老6年(722)、山中の弥勒平に伝行基作の弥勒像を安置して弥勒堂を開基。

弥勒実相院として修験道場になり、山岳寺院として七堂伽藍を構えた青獅子山

松本寺へと変遷。奈良朝廷の仏教思想普及の広告塔の役割を大いに果たした

と見ている。

やがて甲斐国は平安時代になって荘園時代を迎え、石禾荘なども中心的な

位置を保ったが、やがて荘園時代は鎌倉、室町時代に至って武家社会に代わる。

応安3年(1370)第10代信武公の守護代として先に甲斐国入りを果たした第11代

甲斐守護武田信成公は甲斐国帰還後、八代の石甲城に館を構え、真正面に

見えた現大蔵経寺南麓を要衝地と見て、甲斐国内平定のための基幹寺院とする

ために、室町三代将軍義満に言上、庶子観道上人を迎え、真言宗智山派松本山

大蔵経寺として中興開基した。

往時、山中の弥勒平にあった伝行基開基の青獅子山松本寺を現在地に移し、

荘厳の七堂伽藍を建立して中興開基としている。

※真言宗に改宗した後の寺歴は、寺記に詳しく記されて継承されている。

本シリーズは現住第37世秀典和尚の監修、教授によって、素人の興味が、

ここまで辿り着いたわけですが、只、只、感謝しかありません。

何分、史実で解かれていない時代のことを、特に伝説や伝承、寺伝を頼りに、

積み重ねて論拠を構成したので、未だ要所はつかめていない処はありますが・・・、

この辺りで、取りあえず一段落とすることにしました。合掌!


あの織田信長が大蔵経寺に御禁制を発して庇護したとは・・・!

天正10年、武田氏滅亡後、織田軍が甲斐国に侵攻した時、恵林寺など特に

武田氏所縁の寺院は悉く焼き尽くしているが、松本山大蔵経寺は信長の御禁制

を発布され庇護されている。注)これは信長も大蔵経寺を甲斐の要衝と見た証し。

信玄公が信成公を高祖として崇め、菩提寺の恵林寺へ快川国師を迎える時、

「継統院」と号す塔頭を千野から恵林寺に移して建立し、兼帯させているほど。

残念ながら恵林寺は織田軍の兵火で継統院も焼失し、現在、墓碑も不明のよう。

武田氏三代と云われる信虎、信玄、勝頼の時代は、特に有名なので省略するが、

信虎時代に、石和に近い川田館から、現甲府市の躑躅ケ崎に武田館を移し、

先進的な城下町を築いた基礎が、県庁所在地にある現在の甲府市になり・・・、

来年は、開府500年を迎え、記念行事の準備が進んでいるようだ。

天正11年(1583)、いちはやく徳川家康は甲斐国に入り、甲府が東西の要衝と考え

甲府城の縄張りをした説もあるが、その甲府城から見て、大蔵経寺は鬼門に当たる

要衝立地と見極め、同4月20日、当時、自ら立ち寄り御朱印状を与えて徳川家祈願

に定め、以後累で庇護される。

徳川時代は全盛期であったと思われるが、その後、明治以降も地元の有力な

旦那衆に支えられて、現在も荘厳の伽藍を立派に継承されている。合掌!

(YS記2018)


春日居「甲斐国府跡」と伝わる現笛吹市春日居字国府(こう)の「甲斐奈神社」

春日居国府跡「甲斐奈神社」神殿裏から望む大蔵経寺山、御室山、菩提山方面 

「甲斐国府」から見ても、現大蔵経寺山(弥勒平、御室山)や菩提山は要衝と

して相応しい位置にあり、諸条件を備える山岳寺院である。また、山側から見ても、

警護上国府周辺を一望できる所にあり、往時の山岳寺院の修験武闘集団(団徒)

に育成されていったことも考察できる。

歴史的に見て往時の山岳寺院は要衝の陣地としたこともあることで、筆者は「往時の

寺院は要衝に戦略的配置」と云う表現をしている。


 

「寺本廃寺跡」も春日居の「甲斐国府」の補完寺院と見れば配置位置が頷ける。

現在、寺本廃寺の発掘跡は、このような農地に変わっているが、その背後には、

要衝の役割を持った伝行基開基の菩提山長谷寺、廃瑠璃山鎮目寺、現大蔵経寺山中

の弥勒平にあった弥勒実相院⇒青獅子山松本寺は全て甲斐国府と寺本廃寺を警護する

に相応しい立地にあったことが分かる。

寺本廃寺跡の掲示版には「往時の大伽藍絵図」が描かれる。往時の伽藍は要塞。


以上から、古代甲斐国の伝行基開基の山岳寺院は春日居の「甲斐国府」を中枢に

して、山岳寺院配置がされていたことが分かる。


  5~8世紀、古代甲斐国はヤマト王権の覇権により、統治下に入り、

飛鳥、奈良時代へと変遷するが、古代より仏教思想に基づく律令国家形成

の目的のために、古墳、宮殿、寺院や飛鳥京、藤原京、平城京などの

大造営事業が続き農民は食べるものにも不自由し、民衆にとっては、飢饉

や疫病の恐怖にさらされていて、厳しい死活問題が続いていたと云われる。

しかし、その基盤づくりは民衆の動員のために仏教の普及こそ一大事業で

あったと考えた奈良朝廷は、仏教本来の思想である困窮する民衆を救うと

云う布教活動を行った僧行基をのノウハウを活用したのではないかと云う。

こうして、奈良朝廷下では甲斐国にも甲斐国府を置き、仏教思想に基づく

律令国家への道が始まったと云えるのである。(YS記自習NOTEより)


 

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