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甲州・旧「松里」を辿る⑦「三日市場」を歩く!20-08

2020-08-01 | 山梨、里山の美しい四季!

甲州市塩山「三日市場」を歩いて見ると・・・、

「松里」と呼ばれた時代の面影が、あちこちに残されている!

特に秋、あちこちの”乾し柿農家”を見て歩くと「松里」を体感できる。

そこで、諸文献により「三日市場」の項を読んで見ると・・・、

「上井尻村」の北に位置し、東は「千野村」、西は南流する笛吹川

隔てて万力筋の「隼村」(現山梨市牧丘隼)。

地名は古時の市場に由来すると云う。※甲斐国志記。

枝郷に乙川戸があり、本村と枝郷に町屋、天王宿、大手先(旧大手前)

下市場や仏師原(現武士原)などの小字がある。

今号は、旧「松里」村の主要地「三日市場」を歩いて見ます。


「三日市場」の中心は「十組(徳美)屋敷」が置かれた「天王宿」の辺り!


塩山「三日市場」は、後の秩父往還などが交差する交通の要所で、また

御嶽への登り口である蔵王権現(現山梨市牧丘町金桜神社)への入り口

にもあたり参詣者などの往来も頻繁であったことから繁栄したと思われる。

戦国期は恵林寺領に属し、永禄6年(1563年)10月吉日の恵林寺領検地

日記によると、市場の軒数は、計26間半、うち、公事免が14間であった。

上畑、野地、中畑もあって、年貢は合わせて二貫688文、このうち408文

屋敷村より踏出となっており、公事免の他、つきうき免一間があったと

記される。「三日市場」の栄えた時代が読める。

これに「九日市場」が開かれたという伝承もあるので、往時の恵林寺領

繁栄が特に小屋敷、三日市場と共に「松里」へ変遷したことが読める。


「十組屋敷址」の石碑が建つ現民家(小宮山家)は現在も立派なお屋敷!


この「十組屋敷址」は、正徳元年(1711)、「三日市場検地帳」には、長百姓勘兵衛

屋敷として、45間半、40間の6反20歩、他4壁引780坪と見える。

※現小宮山家のご先祖か否かは不在のため取材できなかったが、恐らく違いない。

現在、遺構はなく、跡地の東に、十組屋敷の大手門があった「大手前」(現大手先)

の地名を残す。


「三日市場」の地名を今に残す!※往古の三日市場の探索の目安となる。


「十組屋敷」とは、諸文献によると、江戸時代、寛永10年(1633)に甲府城番を命じら

下総国(相馬九千石)の勘定頭伊丹康勝山梨郡1万2千石を治領する徳美藩

の治所としたと言う。

治所が設けられた場所は、三日市場のうち、戦国期は武田氏の陣屋と蔵が置かれて

いた地であったと云う。(※記甲斐国志)

筆者の嘗ての学習で「千野郷を辿る」自習NOTEには「陣屋街道」と記録してあり、

その「陣屋街道」を筆者は仮称「陣屋古道」と称して、何回も、踏査したことがある。

その結果、千野館(現慈徳院)から昔道(ルートを4本想定踏査)を辿ると、江戸幕府

徳美藩治所を置いた「十組屋敷址」に辿り着いたことを想い出す・・・。

注)文献では、殆ど上萩原、竹森村へ通じる「陣屋街道」と見える理ある)も・・・、

筆者は”謎”として残している。何方か造詣の深い方に教えを乞いたいと願うものです。

その古道を武田信成と信春公が築いた「千野館(現慈徳院)」から結んで「陣屋街道」

として使っていたと考察もできる。※そうすれば、往時「陣屋」と「蔵」が配置されていたのが頷ける。


注)「十組」は、上下井尻、上塩後、三日市場、小屋敷・藤木、上下柚木、川浦、

上下於曽、上萩原、上下小田原、福生里・竹森の19ケ村、10組からなっていたこと

から「十組」と呼ばれ、徳美、または徳見は借字であると、甲斐国志は記す。

また、山梨県が昭和後期に建てた標石によると「寛永9年11月甲府城番伊丹康勝が

この地に庁舎を置く。山梨郡のうち領地10ケ村を管理す。組数凡そ十組。因て名を

・・・「徳美」にも依る。元禄11年9月以降廃止す」と刻んでいたそうだ。


注)徳美藩は、元禄11年(1698)伊丹勝守の自殺により除封され廃藩になった。


『やまなしの歴史文化公園』「えんざん」絵図 ※十組屋敷址の角地にある。


『やまなしの歴史文化公園「えんざん」絵図』によると・・・、

江戸時代は、左側中段に見える「十組屋敷址」が「三日市場」の中心地

にあったことが解る。更に昔、その周辺には、「浅間神社」、「白鬚神社」、

「定林寺」、「緑瑞寺」、「常泉寺」などが旧秩父往還に添って、由緒ある

神社や仏閣が拓かれたことが見えるので、感心を持って歩いて見ると良い。

特に「常泉寺」などは聖徳太子伝説なども伝わり、古代の足跡を伝える。


現在の地図で見る「十組屋敷址」※十組屋敷址の北角△地に上図看板!


江戸時代、「徳美屋敷」として諸文献にも見えるが、武田時代にはここに陣屋と御蔵

があったとも云われ、それは「三日市場」が如何に好立地にあったかを示すといえる。

さらに、武田時代には、「陣屋街道」と呼ばれる古道があったと伝わるので・・・、

筆者は、以前、その古道を踏査したことがあるが、地元の文献には、殆ど上萩原と

竹宮郷へ通じた「道」だと記されていて、「陣屋」ではなく「御蔵」へ納品を運ぶ道なら

他の名がついても可笑しくない。そして、時代考証も証されていない・・・。

そこで、筆者は嘗て武田信成と信春公が「千野館(現慈徳院)を」構えた場所があり、

武田時代と云うのはその「武田信成公」の時代のことではないかと考察できるので、

注)筆者は、武田時代とは、何でも信玄の時代とは限らないと考えている・・・。

仮称「陣屋古道」として踏査したことがあり、「千野館」を結ぶと「今流の散歩道になる

くらい美しい風景があるので、「陣屋古道」が知られたら、恐らく健康都市の先駆けに

なるだろうとも思った。そこで、明らかにそれらしい古道が3~4ルートあるも・・・、

そのうち一本の道筋を「千野館」と三日市場「陣屋」と「御蔵」を結ぶ主要な「陣屋街道」

あったと考える方が理に叶うと考察したことがある。

そうすれば、武田時代より「三日市場」が甲斐国の重要な立地であったことも頷ける。


江戸時代の「三日市場」の古絵図※往時は栗林が目立つ。

江戸時代に「甲州八珍果」と云われた「葡萄、梨、桃、柿、栗、林檎、石榴、胡桃、

または銀杏」のうち「三日市場」古絵図で見ると殆どが栗林と書かれ、小物成として

納税の貢献をしていたようだが、今は「松里の枯露柿」の生産地として名を伝える

※この古絵図は塩山市誌の文献コピーのコピーで参考までに無理に掲載した物でご容赦。


この「柳澤山慈徳院」が往古、武田時代の「千野館」跡であったことは証されている。


筆者は、嘗て仮称「陣屋古道」を辿ったことがあるが、その古道と思われる一部!


「陣屋街道」※仮称「陣屋古道」を辿って見ると、民家の方々は、殆ど古道の名前

すら知らない人ばかりだし、由緒等も興味がない方が多く、確証はえられなかった。

筆者は推察・考察の範囲から出られないが、この道の右折こそ「陣屋古道」では

なかったかと考察したことあるので、素人の勇気もあってその写真を掲載した。


気になるのは、現「三日市場」の辺りに「九日市場」もあったと伝わることである。

地誌に詳しい方は「三日市場」の「慧林寺寄り」に開かれたと考察する方もあるが、

筆者も、恵林寺領内の三日市場に近い位置で開いたに違いないと考察している。

そう考えてみると「三日市場」のみならず、今は、山梨市になるが「七日市場」も

あり、さらに「八日市場」跡もあったと伝わる通り、安田義定の時代より、いや

奈良時代より、七日子神社の伝記の如く、この地域は、古代から稲作を始め、

農業生産に恵まれていた史実があちこちに見られ、「三日市場」を鑑みると・・・

改めて見直される。

時代の変遷により、主要産物は変遷があったようだが・・・、笛吹川の水流が

産物をもたらしているには違いないと、やはり”水”の尊さを見直さざるをえない。

往時は必ずしも農産物(特に稲作)に適している農地とは云えなかったようだが、

先人達が長年苦労して築き上げた農地なのです。※現在は山麓扇状地迄果物栽培地。

その証しに、もし塩山を歩かれる場合は、”堰”があちこちに張り巡らされ、しかも

豊富で綺麗な水が流れている”堰の風景”も堪能して欲しいと思います。

東京の先輩(観光業界)を恵林寺へ案内し、放光寺へわざわざ歩いてもらった時、

その”堰(セキ)”の豊富で綺麗な水の流れを見て感動していたのを想い出します。

筆者も大好きな散策コースの一つです。