新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

甲州・塩山「上萩原」を辿る⑨「上萩原」は、往古「萩原郷」の源境!22-04

2022-04-01 | 山梨、秘めた魅力の再発見!

甲州は「塩山上萩原」。山梨県は往古甲斐国時代、

甲斐国防御の重要な鬼門の位置にあり、寺伝だが、

古代、聖武天皇の御代、行基上人が仏教普及のため

裂石の山中に「裂石山雲峰寺」を開基したと云う。

往時の行基は、奈良朝廷で聖武天皇の招聘により、

”上人”として、仏教思想の普及に努め采配し、古代

甲斐国の鬼門除けの重要拠点として開基したよう。

筆者はそれを行基の戦略的寺院配置と称している。

中世、武田信玄の時代には、番所(関所)が配置

され、「萩原口留番所」と称して甲斐国防御を果

たす重要な拠点とされたことでも知られる。

今号は2編に分けて「上萩原」を辿って紹介します。


筆者が始めて尋ねた時・・・、畑の雑草の中に、キジ鳥を見た!


樋口一葉は往時の郷土の誇り!先祖の旧邸跡が史蹟に・・・!

「たけくらべ」で有名なあの樋口一葉がの地の出身であることを

筆者も移住してから始めて知った。

塩山駅北口前の「甘草屋敷」資料館で、初めて見たのが始めで、

その時は、日本紙幣の肖像画像になっている姿を・・・。

上記写真は、あの樋口一葉の実家の墓が史蹟になっていたので写真

に治めたもの。青梅街道沿いの上萩原の入口にあった!

甲州市塩山出身の有名人としては、東京で生まれ、一度も帰郷した

ことがないようだが、樋口一葉は重要な人物で、有名だからだ!

その後、「たけくらべ」など名著も学ぶことになったが、まさか

生涯学習の糧になろうとは!?


「上萩原」は、裂石の番屋茶屋の辺りで標高950mもあると聞いて

驚いた!首都圏で頻繁に訪れた「高尾ですら標高599mと覚える。

旧塩山市役所の場所が標高410m(石標)であったことで、何と現在

JR塩山駅辺りから、標高約500mは高い処にあることにを知った!


現在、上萩原・裂石の拠点は「番屋茶屋」がポイント・・・!


今は地名のみ残る「番屋」跡に、先祖が開かれた「茶屋」だった。

「番屋」時代の写真はあるが、今号では省略。明治時代になって、

柳沢峠越が通じ、人の流れが変わったのを機会に現地に移転された。

現在は「大菩薩」行のバス終点になり、大菩薩峠に向かう登山客が

集う拠点だ。筆者も何度か、大菩薩峠⇒大菩薩嶺を登山の際に立ち

ったが、上りには、約4時間必要のため間合いがなく、帰路には、

バスの時間が合わず、「大菩薩の湯」に浸かって帰る習慣になって

からご無沙汰である。いつまでもお元気でいて欲しいと願ってます。

筆者は、山好きのこともあり、大菩薩峠の分岐路にあったため、

良くお茶を馳走になった!「岩波さん」という気さくな奥さんで

あった。ご主人は、往時、長年、癌を患っていても、筆者が箕輪山

の石切場から積み出した「御影石」を運んだトロッコ軌道の呼び名は

「神金軌道」を調べていて知り合ったのだが、子供の頃のことを良く

覚えておられて、病を押していろいろと・・・親切に教えて頂いた。

「番屋茶屋」の女将さんはお元気だろうか?

風の便りでは「元気なことは伺っている」が、娘さんには最近偶然に、

筆者の失せ物探しで世話なった。しっかりした娘さんなので、

こちらも見違えたが・・・!「お母さんはお元気ですか?

ご無沙汰ばかりで済みません。宜しく伝えて」と言うのが、精々だった!


伝行基上人開基と伝わる「裂石山雲峰寺」は、厳かな古刹!

「裂石山雲峰寺」境内を訪ねると如何にも古刹を感じる!

古刹「裂石山雲峰寺」は、天正17年(745)伝行基上人開基。

「裂石山雲峰寺」鐘楼の鐘の音は、郷中に轟くかのように!?


大日本地名辞典によると・・・、

「上萩原村」は中萩原村の東にあり、重川 上流左岸沿いの東西に

長い村。対岸は上小田原、下小田原の両村。大菩薩峠の西麓に辺り

東の大菩薩嶺(2056.9m)から南へ高山が連なる北西下りの村落。

村名は「かみはぎわら」と呼ばれる。

天正10年(1582)徳川家印判状写し(古文書選集)に甲州上萩原郷

とみえ、同所25貫文の地と夫丸三人被官等が本給として加藤五郎作

に安堵され・・・慶長古高帳には村名がみえ、高289石余幕府領。

他に裂石(現雲峰寺)領2石余と岩間大明神(現神部神社)領1石余

がある。寛永10年(1633)徳美藩領となって以後、福生(ふくおり)

村と同じ。・・・・・・、また雲峰寺の鎮守金比羅宮の氏子は、

「上萩原村上下、小田原上下四ケ村」と記されるように、天保6年

金比羅祭礼当番につき願い下げ書同文書、上切、下切は独立村落に

等しかった。・・・、用水は重川とその支流の佐野川、文珠川の

三ケ所から引き入れ、耕地の殆どが畑であったので年貢は皆金納で

あった。※萩原煙草の主産地であった他養蚕により年100両ほど

の収入を得ていたことは注目に値する!

文化2年の農間稼方品々書上帳によると、日傭取、縄ない、草履、

木綿織、蚕飼、絹糸引などを基調にしたようだ。

青梅往還の萩原口留番所の番役は、月の下15日、昼夜二人づつ

たので、諸役は免除されていた。・・・・・・、・・・・・・、

元禄11年(1698)の寺社帳には、10ケ寺が記されるが、

曹洞宗全相庵、臨済宗東光庵、庚申齊、広福庵、髄縁庵、浄土真宗

徳成寺、浄土宗畠桜寺は廃絶。※(廃寺)となっている。

古刹の臨済宗妙心寺派雲峰寺のほか、慶長8年(1603)黒印地

400坪を与えられた曹洞宗法幢院(寺記)と同宗岩昌寺がある。

岩間明神の山宮と伝える東の山腹の矢立石、天狗の祠では干魃の際、

に雨乞いが行われた。他に、大神社、神明社、松田山神社がある。


木食白道は当村の生まれ。木食行道の弟子になって、諸国を遍歴、

安永10年(1781)には、郷里を訪れ、法幢院に逗留して地蔵

や観音を刻み、また、痛み愁いの人々を呪いにより救治した。

白道が残した木食仏は数多いが、赤尾仲泉寺の子安地蔵尊(現湧泉寺

所管)下小田原上条にある百躰観音、上小田原福蔵院の百躰観音等が

有名である。


岩間神社「神部神社」は往古「萩原郷」の鎮守!

神部(かんべ)神社:岩間明神とも呼ばれた・・・。

神部神社の参道には、現在も「岩間温泉旅館(写真右)がある。

往古(江戸時代末期まで)は「岩間大明神」とも呼ばれ、文珠川

南岸の神戸(ごうど)にある。

祭神は、神直日神、大直日神、八十柱日神、表津少量命、表筒男命、

中筒男命、底筒男命。旧郷社。江戸時代末期までは、岩間大明神と

称し、湯山明神とも言った。

延喜式神名帳に見える山梨郡「神部神社」を当社に比定する説がある。

(※甲斐国志)かつて上、中、下の萩原村は「萩原郷」で、それ

以前は「神部庄(荘)」と呼ばれていたと言われ、その鎮守であった

推定される。・・・・・・・、

戦国期、萩原郷は、武田家の家臣「土屋右衛門尉昌続」の所領で、

元亀2年(1571)土屋昌続によって社殿の造営が行われ、

その代官で同郷地侍の羽中田新兵衛と神部村氏子中が共同で造営に

当たったことが棟札によって知られる。(※社記)・・・・・・。


神部神社の石鳥居から随身門を潜り、石段を上がると本堂へ・・!


番屋茶屋の直ぐ近く、茶屋の女将に紹介された秘湯「雲峰荘」!


「柳沢峠茶屋」は首都圏東京のライダー仲間では

有名ポイントになっている!

奥多摩を経由、青梅街道で東京・新宿から一本道!


青梅街道は、現在は柳沢峠越で山梨県に通じている!

この写真のように、現在も東京都民の水道源として、水源地

が大自然のまま保持されていることをしみじみと教えられた。


「柳沢峠茶屋」は首都圏のライダー仲間では知らない人はない!


柳沢峠は、「現在、東京新宿で知られているが、その青梅街道を

進むと、江戸時代は大菩薩越えと称して、現大菩薩峠を越えて

青梅街道(甲州裏街道)が山梨に通じていたが、明治時代になって、

柳沢峠の道が開かれ、現在の青梅街道が国道として整備されて、

現在、首都圏の旅好きの人々に、「柳沢峠は明治時代に開通し、

江戸時代には、甲州裏街道として大菩薩越えのルートがあった

ことを、改めて知って欲しいもの・・・。


第2編では、更に、更に奥地の「一ノ瀬高橋」を紹介します。

今は「一ノ瀬高橋」は二ノ瀬、三ノ瀬と奥深く、殆ど尋ねる人は

いないが、物好き夫婦は、新緑の季節になると、柳沢峠を越えて、

落合まで路線バスが運行されるので、その機会に辿って観た。

乞う、ご期待です!