新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

55)山梨の春は"新府桃源郷"!韮崎の新府城跡を歩く!

2014-03-03 | 山梨、里山の美しい四季!

甲斐の古里・新府桃源郷に”桃の花”が春を告げる!

悲運の武田勝頼が築いた新府城跡を歩く!

”春”、山梨は新府の里、冠雪の鳳凰三山・甲斐駒ヶ岳、八ケ岳連峰、

茅ヶ岳、富士山のパノラマ風景に、新府桃源郷は、桃の花がピンクに、

美しく映える・・・

今月号は、3月末~4月中旬に見頃を迎える「新府桃源郷」の散策の

風景を紹介します!

写真は2013年4月11日筆者撮影


新府桃源郷と背景の鳳凰三山・甲斐駒!Photo Photo_2

 

 

 

 

 


新府桃源郷山梨県北西部に位置。

約60ha、”東京ドームの13倍”の広大な桃源郷!

「新府」という地名は天正9年(1581年)12月、武田勝頼が

甲斐国府を甲府の「府中」から”韮崎に移城”したことで、

「新府(しんぷ)」と呼ばれるようになった!

その地に開かれた「新府桃源郷」は、今も、桃の花に囲まれて・・・、

武田氏滅亡の歴史と哀愁を語り続ける美しい桃源郷である!

新府城跡は、山梨県韮崎市中田町にある。

現在、新府城跡と桃源郷を訪ねるには、JR東日本中央線「新府駅」

が最寄り駅が便利。

新府桃源郷:JR中央線「新府駅」前にあって、いきなり開ける

ダイナミックな大展望!

背景の山の向こうに冠雪の甲斐駒と桃源郷中心地点の

新府共撰場(右の白い屋根) 

Photo_3Photo_4

 


新府桃源郷散策コースの交通アクセスは抜群!

回遊所要時間は、約2~4時間。

電車:JR東日本で中央線韮崎駅(特急あずさ・かいじの停車駅)の次の駅「新府駅」で下車徒歩15分で桃源郷の入口に行ける。

車:中央自動車道は、韮崎ICより約20分。

 


 

新府桃源郷の散策路は、JR新府駅からスタート!

回遊散策コースは、所要約2~4時間でアレンジ自由!

韮崎ウオーキング&サイクリングガイド

穴山駅(穴山桜公園)~(2.6km約40分)~新府共撰場~(0.7km約15分)~(1.2km約20分)~新府駅で約1時間半の行程がモデルコース。

さらに韮崎市観光協会では、御牧子安神社~ゆーぷるにらさき(温泉と道の駅)~バス~韮崎駅のウオーキングコースもあり、距離約11km、所要約2時間コースを推奨している。

筆者は、ビューポイント探しと新府城探索に時間の余裕をもって散策したが、新府駅下車~桃源郷一周~新府城公園~新府城跡(藤武神社)~新府駅のコースで、新府城公園にて弁当昼食の時間を含め約3時間の行程とした。

開花情報と散策の具体的な情報は、韮崎市観光協会へ

http://www.nirasaki-kankou.jp/?page_id=83

韮崎MOVE感動を歩く:ウオーキング&サイクリングガイド「お花見コース」

※PDF複写版 韮崎市商工観光課&観光協会

「nirasakimove_shinpu_shangrilacourse.jpg」をダウンロード

富士の国やまなし観光ネットの「新府桃源郷」

http://www.yamanashi-kankou.jp/kankou/spot/p1_4256.html


北に茅ヶ岳(ニセ八つ)を望む  東に富士山の遠望(当日は雲で霞む)

Photo_5Photo_6

 

 

 


山梨の四大桃源郷(一宮、白根、塩山、新府)で、

最も開花が遅い新府桃源郷は4月中旬まで一面がピンクに

染まっている!桜と桃の花の競演も楽しめる!

新府城と富士山方面          鳳凰三山の地蔵岳Photo_8は圧巻! Photo_7

 


山梨の四大桃源郷の中で、最も遅くまで桃の開花を楽しめる

のは新府桃源郷!桜の開花と競演もある!

桃源郷の魅力は、「塩山桃源郷」でも紹介しています!

http://blog.goo.ne.jp/yssoho/d/20130410

 


新府城公園への道・・・Photo_9 Photo_10      淡い新緑の背景に残雪の鳳凰三山!

 


新府城公園は静かで美しい!    新府城の西堀跡

Photo_11Photo_13

 


 

新府城復元図Photo(文化庁・山梨県・韮崎市教育委員会)新府城跡概要図(左同じ)               Photo_2               

 

 


新府城跡:

国指定史跡「新府城跡」:文化庁・山梨県・韮崎市教育委員会による解説

新府城は、標高520m、標高差80m、南北7~8km、

東西2kmもある七里ケ岩突端部に位置、直下に釜無川を配して

断崖絶壁の独立丘陵台地にある。

本城は、南北600m、東西550mの大規模な甲州流築城述の

集大成となる城郭であった。

外堀の水準と大丸の平山城。近世の城郭のような石垣は組まず、

高さ約2.5mの土塁を巡らせている。最高所は東西90m、

南北120m、本丸の西に蔀(しとみ)の構えを隔てて二の丸があり、

馬出しに続く。

本丸の東に稲荷曲輪、二の丸を北方に下れば横矢掛りの防塁があり、

その外側に東・中・西堀を巡らしている。

堀は北西から、北、北東へと巡り、北方の高地からの敵襲に備えて

十字砲火を浴びせるための強固な二ヶ所の東西の出構えが築かれている。

東西三の丸の南方に大手が開け、望楼、三日月形の堀、外側に馬出しの

土塁が設けてある。

本丸と東西三の丸、三の丸と大手等の間には、帯曲輪、腰曲輪を配置。

搦め手にも望楼がある。蔀(しとみ)の構え、出構えは新府城の特色で、

防御のために工夫されたもので、特に出構えは、鉄砲のような新鋭兵器

をもって敵の攻撃に対抗するために工夫された構えと云われる。

※現地標識の解説

 


 

新府城の散策路を入る      散策路に「井戸跡」の標識あり

特に、城普請に際して”水役”の要請の記録があり、”水”の備えに相当苦心した跡が伺える!

Photo_3Photo_4

 


古城郭に咲くヤマザクラが美しい・・・   武田勝頼の碑Photo_5 Photo_6

 


城跡から眺める八ケ岳方面に広がる桃源郷 新府城本丸跡の碑

Photo_7Photo_8

 

 


 

武田勝頼は、ほんとうに・・・、悲劇の武将であった!?

勝頼が祖父信虎と父信玄が築いた甲府(躑躅ケ崎)を捨てた理由は!?

①諏訪に近く、甲斐・信濃を領国を統治がしやすい地で、果たして

 新しい夢を描いた新府城であったのか?

②父信玄を批判して、甲府(躑躅ケ崎)の負の遺産を捨て、

 甲斐国を新たに築き直すための新府城であったのか?

③長篠の戦いで、織田・徳川連合軍に無残に打ちのめされた傷痕から

 立ち直る力を失い、親戚の穴山氏に”新府城の築城”を勧められ、

 最後の詰城(穴山氏も謀叛)として、新府城を築いたのか?

 今も専門家の意見も分かれるところらしいが・・・、

いずれにしても、武田家の存続強化のために、織田家と縁組みもして

盤石の体制を築いたはずが、将軍足利義昭の上洛要請に乗せられて

上洛途上に病死した信玄の負の遺産を背負って武田家を継いだ勝頼は、

将軍義昭を追放し「天下布武」を旗印にした織田・徳川連合軍に対して、

長篠の戦いで惨敗を喫した後、窮地の判断ミスをしたのではないか

と云う人もいる。

織田軍に対して備えた要塞だとしたら、躑躅ケ崎の詰城とされた要害城

の方がよほど強固であったのではないかと評する人もいるようだ!

武田信玄の負の遺産を背負った勝頼と見ると・・・、

まさに悲運の武将である!

武田勝頼は、天文15年(1546年)父武田信玄、母諏訪姫(夕姫)

の間に誕生。

信玄は信州の名門・諏訪頼重を滅ぼし、その娘である諏訪姫を側室にして、

諏訪湖畔に通っていた間、山本勘助は、夕姫とその子四郎勝頼の側御用を

務め、勝頼は特に軍師勘助を尊敬していたと云われる。

注)諏訪姫に勝頼が誕生したことで、諏訪家の存続を祝い、人質を甲府に

送って武田家に忠誠を誓っていたが、信玄亡き後は、武田家重鎮は、

勝頼が武田家当主を継承したことに少なからず反発して武田家を離反

している。

※甲斐源氏武田家研究家平山優氏は「武田家が滅亡したのは、後継者

育成の失敗が最大の原因。勝頼が抱えた宿命や苦悩の多くは、実は、

父信玄の負の遺産であった」

また、最後の防戦を見ると勝頼の守りは仁科盛信と諏訪・伊那の家来

のみで「勝頼はやはり武田勝頼ではなく、諏訪勝頼であった」と

云われている。※筆者も「なるほど・・・」と思う。

※武田信玄の名軍師と云われた「山本勘助」は、将来の後継者と見た

勝頼に、「もし、将来城を築くなら、この七里ケ岩の崖上が良い」と

進言したことがあるという話を聞いたことがある。

確かに七里ケ岩と言うほど、釜無川に沿って7~8kmに渡りその岩壁

は強固な要塞になっていたはずであるが・・・!?

※新府城は、河内地方から織田・徳川領国と接する駿河を領する

穴山信君(梅雪)が織田軍の侵攻に備えて七里ケ岩台地への築城を

進言したと云われる。

天正10年(1582年)木曽福島城の木曽義昌が信長に内通した

ため、勝頼は正月を新府城で迎えた後、木曽征伐に向かった。

諏訪の上原城に陣している時、親戚の穴山梅雪も裏切ったことを知り、

引き返して新府城に火を放ち、大月岩殿城を目指して逃避するも、

笹子峠にかかる前に最後の頼み小山田信茂にも裏切られて、

甲斐大和田野にて自刃した話は、勝頼にとってまさに痛恨の極みで

あったと思う!?

武田家終焉の章は”裏切りの連続”で、勝頼は無念の死を遂げている。

まさに平山優氏が云う「武田勝頼ではなく、諏訪勝頼であった」と

言う歴史の検証にもなる話だ!

「人は城、人は石垣・・・」という信玄訓は、何であったのか・・!?


藤武神社(新府城守護神)右「勝頼公霊社」元禄(1684年)建立本丸跡の解説版

Photo_9Photo_10

 

 


新府城跡「藤武(稲荷)神社」の参道・・・石段と鳥居

Photo_11Photo_12

 

 


新府城跡:悲劇の築城物語は、”入城60日”の終焉!

新府城の築城は天正9年(1581年)、廃城は天正18年(1590年)。

※勝頼滅亡後、徳川家康が甲斐国へ入国し、天正壬生の乱の際、

残った新府城を本陣にして、北条氏直に対している。

その後、廃城されたと云う。

武田勝頼は、真田昌幸に釜無川の断崖に城普請を指示、天正9年

(1581年)2月1日に起工(真田昌幸文書)、計画工程は

約30日であった(居館を早く完成して勝頼が移転できるよう計画)が、

9月に大部分が完成、勝頼は落成を諸国に披露している。

※実際には、国内に謀叛等もあって引っ越しは延期になって、

12月24日に躑躅ケ崎から新府韮崎城へ移転をしている。

竣工まで僅か8ヶ月で築城して入城するも、天正10年(1582年)

3月3日に、勝頼は織田勢に攻められて、入城後わずか68日で自らが

火を放って大月岩殿城へ逃れたが、小山田信茂の謀叛に合い、大和田野

で自刃した武田家終焉の話は周知の通りである。

武田家の滅亡、岩殿城と小山田信茂についてはバックナンバーへ

①甲斐大和、武田家終焉を偲ぶ”秋の里山歩き”その1~

http://blog.goo.ne.jp/yssoho/d/20111209

②山梨大月、桜満開の岩殿城跡と名勝”猿橋”のドラマ探訪!

http://yssoho.blog.ocn.ne.jp/blog/2012/05/


 

 



コメントを投稿