新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

”武田の里”韮崎、美しい風景と往古の歴史16-01

2016-01-10 | 山梨、魅力の里山歩き!

 "武田の里”韮崎には・・・、美しい風景と往古の歴史がある!

武田郷は武田信玄の先祖、甲斐守護、武田信義公が開いた里・・・!

韮崎市役所前から武田橋と武田の里方面を臨むと冠雪の南アルプス鳳凰三山が覗く!

 

韮崎は、長く伸びる七里ケ岩がニラ(韮)の葉に似た形状でその先端部

(崎)に、宿場町が位置していることが地名の由来となったという。

韮崎の市名は近世の韮崎宿に由来している。※ウイキペディア韮崎市より

山梨県北西部に位置し、甲府盆地北西部に属する。

先史・古代よりの古墳があちこちに分布していて、古代律令制度下には、

穂坂牧と云う荘園が存在していた。

平安時代後期には宝荘厳院領甘利荘が成立していた歴史がある。

平安後期に、常陸の国武田郷から配流された源義清・清光親子が甲斐国

入りして、その子孫が甲斐源氏となり・・・、「武田冠者」と呼ばれた。

市域の神山町武田は中世の「武田郷」に比定され、清光の子、信義が、

当地に武田舘を構えて「武田氏」を名乗った初代と云われる。

市域神山町(旧武田郷)には、信義公が元服したと伝わる武田八幡宮や、

害の白山城跡、山麓には、為朝神社、白山神社(大権現)が囲む。

信義公舘跡周辺には、信義公菩提寺「鳳凰山願成寺」などの史跡が分布。

新年号は・・・、

往古の伝説と武田氏ゆかりが色濃く残される「武田の里」を紹介します。

この里は、今、ノーベル賞授賞大村智博士の生誕地で有名になって・・・、

大村博士が授賞インタビューに応えて「ふるさとには美しい景色がある」

と語られる言葉の通り、本当に美しい風景があるので一部紹介します。


武田の里の主な見どころを紹介します! 注)解説文は書ける範囲ですが・・・、

 武田八幡宮 ※ウイキペディア及び山梨県教育委員会標識より

武田八幡宮二の鳥居と(山梨県指定有形文化財)荘厳の武田八幡宮(重要文化財)

注)甲府の武田神社に比べて、武田の里の武田八幡神社は、”知る人ぞ知る”のみの厳かな初詣が叶う!

武田八幡神社は、往古は、武田八幡宮と呼ばれた。社記によれば・・・、

往古この地に”武田王”(武田武大神)を祀る宮社があったところへ、

弘仁13年(822)2月、嵯峨天皇の勅命により、豊前国宇佐神宮を

勧請して王の宮社に合祀し、地名の二字を冠として”武田八幡宮”と称した

のが草創とされる。

貞観年間(859~876)に京都岩清水八幡宮を社中に勧請合祀している。

新羅三郎義光以来甲斐源氏の尊崇が厚かったが、義光の曽尊信義(清光の子)

は武田八幡宮で元服し、武田郷に居館を定めて武田の太郎と名乗り、当社を

氏神と崇めて崇敬した。

二の鳥居は、武田太郎信義没後、承久(1220)に信義の弟加々美次郎遠光

が「本社・末社123の鳥居迄造営」と修理整備したと社記に残る。

後に300余年を経て天文10年(1541)、武田晴信(信玄)が甲斐守護

になると、当本殿の造営に着手し、12月23日に落成している。

神々しい本殿への石段、本殿は拝殿の奥。注)左奥へ廻ると見える。

石段を登ると拝殿があり、その奥に信玄公が造営されたという本殿がある。

武田八幡宮の背後に為朝神社、白山神社、白山城跡(信義の要害城跡)などがある。

但し、獣除けの金網の柵(入口)に”熊”注意の標識があり、筆者はお詣りしていない。

詳しくは、韮崎市観光協会 白山城跡⇒http://www.nirasaki-kankou.jp/?page_id=107

為朝神社⇒https://www.city.nirasaki.lg.jp/docs/2013021610682/


 武田信義公舘跡・・・菩提寺は後述の「鳳凰山願成寺」

武田信義舘跡・・・今は武田氏の歴史を知る人ぞのみ、始祖信義公を偲んでいる。

武田の里は甲斐源氏総領武田氏発祥の地である。

武田の里を開いた武田信義は、甲斐源氏(甲斐守護)4代目当主である。

平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で武田氏を名乗った初代当主(始祖)となる。

大治3年(1128)8月15日、源清光の次男として生まれる。※逸見光長は二子の兄となる。

13才で武田八幡宮にて元服し、武田太郎信義と名を改める。

治承4年(1180)4月、以仁王の令旨により、甲斐源氏を石和に集結して挙兵し、

甲斐国の実権を握る(山槐記)。この時、信義は53才。ついで信濃の諏訪に侵攻。

その後、駿河国で平家到着以前に駿河を占拠し、平家本軍が近づくと、弟の安田義定

一条忠頼らを引き連れ、源平富士川の戦いで奇襲により平維盛の軍勢を退却させた

戦功は有名。その後も甲斐源氏武田軍は、源頼朝に協調し、源範頼、義経と共に、

義仲の追討、一谷の合戦、平家追討壇ノ浦の戦いに参戦して、功績を挙げている。

吾妻鏡によると、文治2年(1186)3月9日、享年59才で病没とあるが・・・、

文治2年以降も信義が生存している可能性があるという指摘もある。

家督は五男信光が継いで石和舘と開いている。その子孫に有名な武田信玄がいる。

武田館跡の周辺には、御湟、御庭、的場、金精水、御旗部屋、御酒部屋等の地名

残されている。


 鳳凰山願成寺(ほうおうざん がんじょうじ)※武田信義公墓所  

鳳凰山願成寺 山門                   願成寺本堂

創建は宝亀2年(771)、開山は権大僧都心休了愚法印。

延長6年(928)、仏刹を建立して地蔵菩薩を安置し願成寺と号す。

武田信義(1128~1186)武田の荘に舘を営み、この寺を祈願寺として中興。

後白河法皇に山号「鳳凰山」を奉請、「鳳凰山願成寺」と号す。

武田信義公の墓 ※中央搭が信義公、左が夫人、右は乳母姫(13代信昌の息女)の墓搭と伝わる。

世には、巨摩郡武田郷、近世、九筋二領では北山筋鍋山村、現在は神山町鍋山

位置する。中世末戦国時代、武田信虎の甥俊虎和尚の時、臨済宗に改宗、諸堂を整え

寺運興隆す。天正10年(1582)、織田信長の兵火に伽藍焼失。復興途上にあった

慶長12年(1607)、寺より出火、衰退に瀕したるも幸い寺宝「阿弥陀三尊」が

焼亡免れて、寛永15年(1683)然室応廊和尚を迎え、曹洞宗に改め、復興緒に

つく。万治元年(1658)赫山和尚が継ぐや再興を成し、一山の面目を保つ。

本寺の由緒書きに、このように記されている。

武田家累代の仏殿

武田氏系図(抄)においては、清和天皇ー頼長ー義光(初代)ー2代義清(見氏)

ー3代清光(見氏)ーーー4代信義(武田氏)ーーー信光(武田氏)ーーーと続くが、

注)当寺の解説では、武田氏を名乗る武田信義公を始祖初代としているため・・・、

武田信玄は武田氏16代(当主)と記す。

現在の通説では、甲斐源氏の祖新羅三郎義光を初代甲斐守護で、信義公は4代甲斐守護

となる。従って、あの武田信玄は19代甲斐守護となっている。

注)武田氏累代の数え方は複数あるので留意。現在は①甲斐守護職累代で、甲斐源氏の祖新羅三郎義光を初代とするのが通説である。

  参考までに、①甲斐源氏(甲斐守護)累代 ②武田氏累代 ③射礼(じゃらい)、御旗、楯無鎧相伝などがある。


 諏訪神社 ※広乃神社、広神社とも云う

諏訪神社 祭神は建御名方命、武田武大神

山梨県神社庁によると、諏訪神社の由緒は次のように紹介している。

往時、日本武尊の御子武田武王を祀り「広乃神社」と号す。

その後、後奈良天皇の天文11年、信濃国諏訪大明神を勧請合祀されてからは、

諏訪神社と称された。

山梨県神社庁⇒http://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/6044


 「わに塚の桜」、山梨の名木、推定樹齢300年のエドヒガン桜は見事!

わに塚のさくら・・・背景は日本百名山著者深田久弥終焉の山として有名な「茅ヶ岳」

写真右側に豊かな大木が見えるのが「わに塚の桜」

茅ヶ岳は「にせ八つ」とも云呼ばれ、北西に臨む八ケ岳とそっくりの美しい山!

「わに塚の桜」は、日本武尊の王子武田の王の墓、前方後円墳、王仁族の居住跡。

また、古くこの地を治めた日本武尊の王子武田王が埋葬された「王仁塚」と呼ぶ。

また、塚の形が鰐口に似ているので「鰐塚」というなど・・・、諸説ある。

詳しくは、富士の国やまなし観光ネット 「わに塚の桜」に紹介されています。

富士の国やまなし観光ネット「わに塚の桜」⇒

http://www.yamanashi-kankou.jp/kankou/spot/p1_4881.html


 ノーベル賞を育んだ美しい原風景がここにあった!※韮崎市公示

大村智博士ノーベル賞授賞を記念して少年時代の通学の道を「幸福の小径」と名付く!

 

この甘利川沢に沿って歩くと韮崎市役所がある。

幸の小径(こみち)は大村智博士の生家(白山温泉、大村美術館、そば処上小路)から、

茅ヶ岳、八ッ岳を臨みながら北へ下り、甘利沢川沿いに、富士山を見て武田橋を渡る道筋!

詳しくは韮崎市役所ホームページ解説とMAP⇒往路から地図を頼りに歩いて見ると良い!

http://www.city.nirasaki.lg.jp/docs/2015120900015/files/koufuku.pdf 

または、韮崎MOVEの武田の里ウオーキングMAPをお薦めしますが、これには幸の小径は

書いてありません。一部は道標がないので事前にMAPを調べて歩かれることをお薦めします。

韮崎駅~大村美術館は3.2km 徒歩50分です。願成寺~韮崎駅は2km 約30分です。

茅ヶ岳は「深田久弥の終焉の山」として名高く、美しい山容!

幸の小径から西北に臨む冠雪の八ヶ岳、

八ヶ岳と茅ヶ岳の山容はそっくりです!山好きが「ニセ八つ」と呼ぶはずだ。

甘利沢川沿道にと武田橋からは「霊峰富士」が大きく臨める!


 あとがき

昔、高村光太郎が”智恵子抄”で「智恵子は東京には空がないと言う・・・、

安達太良山には本当の空があると言う・・・」と有名な一文を思い出す。

東京も今は綺麗な空になってきているものの、山梨の空には叶わない!

筆者も晩年、東京から山梨に移住してより元気になったような気がする。

”武田の里”を歩くのは3度目だが、歩いて見るといろいろと空想が湧いてくる。

恐らく、大村智博士も少年の頃、いろんな将来の夢を見ながら歩かれたのでは

ないかと想像している。もちろん足下にも及ばないが・・・。筆者

以前、バックナンバー9)山梨の魅力山行特集NO5「茅ヶ岳(1703.6m)

注)旧ブログの引越につき画面が少し崩れているのでご容赦下さい。

山行後、白山温泉を訪ね、茅ヶ岳と武田の里を紹介した記録が残っているます。

時間があればご覧下さい。この画面からバックナンバー9)まで遡って下さい。

http://blog.goo.ne.jp/yssoho/e/7d37afc7eeb0a6423f589389df20c


 

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2016「新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見」新年号!

2016-01-06 | 山梨、里山の美しい四季!

お待たせしました・・・!

2016年新年にあたり、Gooブログを活用して制作能力の範囲内です

が、「山梨の魅力」情報を再び発信することにしました。

新甲州人が移住した甲州の風景!富士山、南アルプス等日本百名山が7座臨めます!

「新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見」は久し振りの更新です。

Gooに引っ越した旧ブログ記事は今も大勢の閲覧を頂いております

が、Gooブログでは文字数や写真の制限もあり、かなりブログ記事

や写真が削減されて崩れて転載されていますのでご容赦下さい。

再発信する新年号は、Gooブログのデザイン制約と筆者の未熟な

制作能力の範囲内で試みたいと思いますので、引き続き・・・

ご覧下されば幸いです。

新年号は「武田の里韮崎の新年風景」を予定です。乞うご期待!

新甲州人より 


 

 

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