新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

23)甲州勝沼の魅力は葡萄とワインだけではない!?

2011-09-16 | 山梨、往古の歴史と伝説!

甲州・勝沼の魅力は葡萄とワインだけではない!?

もし、勝沼を訪ねる時は、少しだけでも予知情報があると、楽しさは倍増します!

甲州市勝沼は、聖徳太子の時代に、我が国の仏教文化がいち早く伝来したところ・・・

往時は仏教寺院草創期の先端にあった古郷で、つぶさに歩いて観ると・・・、葡萄畑の合間にたくさんの”古刹・名刹”があります!

勝沼は、”葡萄園”、”ワイナリー”や”お洒落なレストラン”だけではなく・・・、稀に見る”古代史の里”でもあるのです!

勝沼は甲州市に合併して以後、観光PRも限られたスペースになったのでしょう!?また、国内ワイナリーの先駆として、”甲州ワイン”が少々ブームに湧いているせいか?地元でも勝沼の古代歴史資源は、”無関心なのか?”、・・・忘れられているような感じがします!?

勝沼の観光ガイドでは、国宝「柏尾山大善寺」のみ紹介されています・・・!

中央高速道で甲府方面へ向かうと、勝沼ICが甲府盆地の玄関口”になっていて、大善寺は、勝沼ICを下りてすぐのところにあり、マイカー観光立地も良く、観光客が気軽に拝観できるようになっています。

甲州市塩山は、”甲州の鎌倉”とも云うが、安田義定の菩提寺「高橋山放光寺」、武田信玄の菩提寺「乾徳山恵林寺」、武田家軍旗や最古の日の丸旗が納まる「裂石山雲峰寺」などがある。甲斐大和にも、武田家終焉の地として、武田勝頼の菩提寺「天童山景徳院」、武田勝頼が”すわ天目山”を目指した「天目山栖雲寺」などが、歴史的由緒がある寺院として存在するし、観光客にも認知されている。しかし、その認知とは、観光ガイドブックに何時でも紹介されているからに過ぎませんが、断然、武田家や甲斐源氏の有名な武将を偲ぶ名刹なら、多少は興味もあるのでしょうが、勝沼の仏教文化と古代史では、人々の興味も薄いかと思われるが・・・、今は、若い人もTVのヒストリーブームに興味を沸かしています。そんな着眼点もあって、昔々の勝沼を紐解いてみます!

注)その他に紹介する古刹・名刹(寺院)は、観光客に拝観が開かれていないので、そのつもりで訪ねて下さい。

国宝「柏尾山大善寺」は、ホスピタリティのある名刹です!

Daiji01 大善寺 国宝”薬師堂” 

写真は柏尾山大善寺ホームページより複写

拝観や由緒など・・・、大善寺の詳しいことは、http://www.katsunuma.ne.jp/~daizenji/ をご覧ください。

今回は、簡単な紹介で、ご容赦を・・・

奈良時代、養老2年(718年)、行基上人(弘法大師)が開山したという「柏尾山大善寺」は、国宝薬師堂(本堂)や厨子、重要文化財で行基上人自ら彫刻した本尊の薬師如来像(葡萄の房をもつ薬師如来像で、医王善逝、薬師瑠璃光如来、葡萄薬師ともいう)”、日光・月光菩薩像、十二神将などがある。国宝薬師堂は、お寺の方に名口調でガイドしてもらえます。

その他、当山を氏寺とした三枝国守の墓、武田勝頼の顛末を手記で残した理慶尼の墓、役の小角を祀る行者堂、武田の勇士土屋惣蔵を偲ぶ山門、その他、行基衣掛けの松、北条時頼手植えの松、武田勝頼の腰掛け石(大和天目へ逃げる途中立寄った)、本堂の裏に夢想国師が築いたといわれる庭園、14世紀の鰐口などがあり、せっかくなら、少しだけ、予知情報を得た上で、じっくり拝観してほしいところです。

に、ビックリするのは”国宝の寺”であって、実は予約すれば誰でも泊めてもらえる宿坊があるのです。筆者も以前に東京の知り合いの子供たちを招待して宿泊体験したことがあります。宿坊はツインベッドルームもあって1~2名でも泊まれます。京都、奈良、鎌倉のような厳粛な宿坊ではなく、気さくな家族的なもてなしで、料理も地元の家庭的料理でもてなしてもらえる。宿泊体験した子供たちは、都会では見たこともない大広間で、お寺の小さな子と一緒に遊んだことを良く覚えているようです。

大人1名、1泊2食付5980円(税別)・・・、有り難い!

さて、今号では、特に、あまり知られていない勝沼の名刹「菱渓山上宮院三光寺(旧号三岳寺)」にスポットをあてて、紹介したいと思います!

何と・・・!?推古天皇3年(595年)に創建されたという凄い歴史がある寺「菱渓山上宮院三光寺(旧号三岳寺)」が、”勝沼ぶどうの丘”へ通じる道沿いに、ひっそりと佇んでいるのです!!

注)「旧三岳寺跡」は、三光寺から見える宮宕山山麓の寺沢というところにあった。

推古天皇3年に創建・・・!!、しかも開基は、あの歴史的人物”秦河勝”だというので、驚く!!

我が国最古の仏教寺院といわれる「荒稜山四天王寺」が、聖徳太子により推古天皇元年(593年)創建されたといわれるので、「菱渓山上宮院三光寺(旧号三岳寺)」が、わずか2年後の595年に創建されたという古刹だとは、知る人も少ない。”そんな・・・、凄い歴史と由緒のある寺院”がこの勝沼にあるのです!

注)仏教草創期には、推古天皇4年(596年)蘇我馬子建立の「鳥形山飛鳥寺(旧号は法興寺、安居院)」、603年秦河勝創建の「蜂岡山広隆寺(蜂岡寺、秦公寺といわれる秦氏河勝の氏寺)」、607年聖徳太子建立の「聖徳宗総本山法隆寺(別名斑鳩寺)」などの名刹があるが、何と・・・、その同じ草創期に、この勝沼に、「菱渓山上宮院三光寺(旧号三岳寺)」が創建されたということが、凄いことだと思われませんか!?

しかも、開基は、あの”秦河勝(※後付記)”だということで、聖徳太子が仏教伝播のため、この勝沼にいち早く着目していたことが伺われて・・・、ますます、興味が湧いてくる。

何故、仏教文化の草創期に・・・、いち早く、この勝沼菱山に・・・、「菱渓山上宮院三光寺」が開山されたのか?

聖徳太子が仏教寺院伝播(普及)のため、何故、勝沼に着目したのか?興味はつきません!

なぜ、ひっそりと佇んでいるのか?なぜ、訪れる人が少ないのか?それは、別の課題として・・・、

とにかく、その凄い名刹を紹介することにします!

Photo古刹の雰囲気漂う”三光寺の山門”

※往古は山岳信仰を目指す修験道場であったので、門前町が開けていないのが特徴です。

門前は、果物畑や自然に囲まれた中にある。

菱渓山上宮院三光寺は・・・、

注)以下、三光寺の紹介は、勝沼町誌、寺伝由緒、甲斐国志などを参考にダイジェスト化しています。専門的な解釈は直接参考文献をご覧になり、各自ご判断下さい。

大和時代・・・、往時の国司であった秦河勝(※後述)が、33代推古天皇3年(595年)に、菱山の宮宕山山中に、五町四方余の境内を開いて創建した寺院で、「菱渓山上宮院三岳寺」と号した。

上宮院は、聖徳太子が常に上宮におられた為、「上宮太子」とも呼ばれ、太子像を祀る寺であることから、上宮院三光寺と称している。

※上宮院を名乗る数少ない名刹です。

Photo 三光寺境内

往時は、南の堂、中の堂、北の堂の三堂からなり、二天門、湯立堂、稚児舞台、太子堂、開山堂等を配置した「三岳寺」と称する南都六宗に属する寺院であった。※勝沼町誌によると後年、三堂の跡より天平2年鋳造と銘ある”古馨”が発見されているとある。

・奈良時代、和銅年間(708年~715年平城京遷都の頃)に、寺号を「三光寺」と改めた。

・平安期に至り、鎮護国家を旨とした天台・真言二宗兼学の道場を開き、弘通につとめた。

・北の堂には”救世観音”、中の堂には”阿弥陀如来”(真宗に改修後安置)、

南の堂には、”聖徳太子、薬師如来、不動明王”が安置されていた。この聖徳太子像が太子自作の”聖徳太子二才の像”で、太子より秦河勝が拝受した尊像といわれ、後に、太子堂を建てて別堂に安置した。また、太子孝養の像(父用明天皇の平癒を祈願している14歳の姿)も安置されている

Photo_2 三光寺境内にある現在の太子堂 

・現三光寺境内にある太子堂は、和様に宗様の折衷様式で、建立年代は室町時代と推定され、市文化財に指定されているが、この堂に、聖徳太子御自作と云われる”太子二才の像”が安置されている。

普段は、像を見ることはできませんが・・・。

・旧三岳寺の境内にあった太子堂は、宮宕山で兵火を免れ、移築したものと云われる。

・桁行、梁間とも九尺の正方形であったが、数次にわたる改修の結果、現在では、間口九尺、奥行き十二尺・・・、屋根は往古、檜皮葺破風造りの入母屋造りで、大正年間に亜沿引き鉄板葺となっている。

・太子堂の扉に彫られている青竜、白虎、朱雀、玄武の四神は、信仰上、美術史上でも貴重なものだそうです。

注)扉の四神彫は、その昔、中国より伝来したものと云われている。

※庫裏へ声をかけて訪ねたら、境内にある太子堂の外観はいつでも拝観させてもらえます。

・奈良時代、養老3年(719年)2月7日、元正天皇の綸旨を賜り、勅願所となって、”不動明王像”を下賜され、その不動明王像を南の堂に安置してあったのです。

・平安時代、甲斐源氏のルーツ、清和源氏の祖、”清和天王の頃”、元慶4年(880年)、当山7代目金界坊大阿闍梨が、大瀧山を開き、ここに不動明王像を安置して、”三光寺奥の院”と称した。・・・現在の大瀧不動尊です!

Photo 大瀧不動尊と雄滝             大瀧不動尊の山門Photo_2

後述、三光寺~大瀧不動尊の散策ハイクコース紹介のPDFでも、詳しく大瀧不動尊を紹介しています。

往時は、修験道場として栄えたようですが・・・、今でも滝修行をしているようです!

・鎌倉時代、安貞2年(1228年)11月、親鸞聖人が宮宕山に巡化の際、当山47代永空(俗名義光六郎)は、親鸞の教えに帰依し、自力難行の天台・真言道場から、他力易行の浄土真宗に転宗しています。

注)そのこともあり、滝修行や護摩祈祷を行い自力難行を修業する大瀧不動尊は、後に真言宗大善寺の兼務となっているのです。

・南北朝時代、康永元年(1342年)2月7日、当山54代永珍の時、武田治郎左衛門の家臣、岩村兵部正重と口論がもとで、兵火にあい、数百年の霊場美観と諸堂は焼失している。

注)今は、往古の三岳寺霊場は、”寺沢”というところの遺跡を偲ぶしかないようです。

・同年7月、「菱渓山上宮院三光寺」は、武田治郎左衛門により、現在地に五町四方余の境台地の寄進を受け、宮宕山から移転した後、武田家の帰依によって祈願所となって、当山54代永珍により中興(再興)されました。

先の永空の時、浄土真宗に改宗したものの、当時は本願寺教団はなく、54代永珍の時、本願寺3代覚如が本願寺教団の基を固めたので、このため、当山の中興浄土真宗開基は永珍としているのだそうです。

注)甲斐国志、巻之75仏寺部第3ー224Pでは、中興永珍より記載されているが、社記・寺記4-523Pでは、上宮院 推古天皇3年、秦河勝建立が記されている。

Photo_3現在の三光寺本堂

・本堂は、室町時代後期、天文9年(1540年)8月11日に台風で破壊したが、永禄2年(1599年)に松沢藤太郎の帰依で修復され、その後、江戸時代になって、寛永2年(1625年)に再建され、現在に至っている。

・本堂の仏壇や欄間などは、一見して往時の煌びやかな名残りが偲ばれる。

「見真」の額が・・・、心眼を戒めます。

・もし、拝観するなら、事前に電話で都合を伺ってからがよいでしょう!?

・宮宕山の最盛期は、大覚坊など十二坊を有し、その寺跡は今もなお宮宕山の山麓に埋没したままのよう。注)往時全焼したとして本格的な発掘はされていないようです。しかも末寺には、大瀧不動尊、小滝山道源寺、滝沢山信行寺、菱窪山浄教寺、三尾山聖徳寺、池手山聞光寺の6寺を有したが、聞光寺は、安永年間中原寺と改め、不動寺は柏尾山大善寺へ預け末寺となり、浄教寺、信行寺は明治初年廃寺になっている。

・江戸時代、慶安2年(1649年)10月、徳川家光より、三光寺阿弥陀堂領の朱印を賜り、大寺であったが、特に明治以後の改廃の歴史によって、規模は著しく縮少されてしまったようです。

Photo_4三光寺大杉門

・境内には、昔、”四大本”と称して、松、欅、杉、楢の四本の名樹があったが、惜しくも現存するは、”大杉”のみのようで、大杉門は中興の姿を留めています。

・三光寺が現在地に移転したのが、康永2年(1342年)なので、既に樹齢650年を越えているのではないかと推定される大杉です。一見の価値ありです!

「流水式池泉観賞式蓬莱庭園」(写真は下記HP)

築庭は元和年間(1615~1623年)と推定される”桃山時代の古庭園”と云われています。

庭園の構成は、ゆるやかな裏山の山畔を利用して、中央に渓谷を模して右側高台から水を落とし、浅い池に流している。左側は亀出島及び鶴出島等の石組、その奥に富士山を模した名石が配置されて、書院からの眺めは素晴らしく、京都風の雅やかさより、武家風の力強さに満ちているところが特徴のようです。※境内の解説版より。

注)県の名勝だが、荒廃しているので改修検討中のようだ

三光寺の概要は、「甲斐百八霊場」第17番「菱渓山三光寺」で紹介されています。

HPは、http://www.y-shinpou.co.jp/108/017ryouk.htm

一軒の古刹を紹介するだけで、これだけの中身があります。ダイジェストでも読むのは大変でしょうが・・・!?

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以前に作成した「菱渓山三光寺と大滝不動尊を訪ねる古史探訪ハイク」をPDFで提供します。

大瀧不動尊前宮、奥宮、虚空蔵菩薩堂のことなど、道中スポットを解説してあります。参考に、散策してみて下さい。

「katunuma_hishiyama_sankouji_to_otakifudouson_hike.pdf」をダウンロード

勝沼の古史散策の起点になるお薦めルートです。

山道ですが、舗装されているので前宮、奥宮へは、車でも行けますが、できれば、歩いてみるのも元気がもらえるかも・・・!?

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勝沼は、何故、これほど古代より、仏教文化が伝来したのか!?

我が国の仏教伝来の歴史では、欽明天皇13年(552年)とされているが、当時は小乗仏教と称し、教団などを形成していなかった。聖徳太子が逝去した3年後625年に、恵灌が三輪宗を伝えたが、その三輪宗こそ日本仏教史の宗派の奔りと云われ、聖徳太子治世の頃、勝沼にも、いくつかの寺院が建立されているのです。

・勝沼町誌の研究では、”三岳寺”や”仙光寺、万福寺”などが、仏教伝来の草創期に、この甲斐国に建立されたということは、甲斐、特に勝沼の地形が大和国に酷似している為、当時の山岳仏教伝播(修験道場など)の適地として選ばれ、浸透して来たと考えられているようです。

前述の”旧三岳寺の地形”や、その後建立された”大瀧不動尊”などを訪ねると、そのわけがわかるような気がします。

・推古天皇(日本最初の女帝)の御代、聖徳太子が摂政として在位した593年~621年)に、諸国巡遊をした際、甲斐の国へ実際に來化されたかどうかはさだかではないが、聖徳太子が甲斐の黒駒に乗って富士山に飛来した伝説すらあるくらいゆかりの伝説が多くあるところから見ると、忙しい聖徳太子に代わって、使者として、国司秦河勝や舎人調子丸仙光が仏教伝播の地を開拓したという話はどうやらほんとうのように思われます。

先の秦河勝が創建した「菱渓山三光寺」の他・・・、595年に舎人調子丸が創建したという「諏訪山仙光寺」。同じく調子丸の604年創建となる「等々力山万福寺」等が存在し、勝沼は古代伝説の宝庫でもあるのです。特に「等々力山万福寺」には、太子が甲斐の黒駒に乗って、富士山頂へ飛來され、帰路山頂より当地に飛び降りて来られた時、ヒズメの跡がついたという馬蹄石の伝説が残り、大変、面白い。

特に聖徳太子と甲斐の黒駒伝説は有名です。よほど、甲斐の黒駒(足は白い)は、優駿な軍馬として都で評判だったようで、その黒駒があまりに俊足なので、富士山へ飛来となったようだが、帰路は、勝沼の万福寺に降りたって、次に、塩山三日市場の常泉寺、山梨正徳寺の聖徳寺に立寄って、長野を経て、わずか3日で飛鳥へ帰ったと伝説が残るくらい、聖徳太子は、国内あちこちを駆け廻り、特に仏教寺院普及と治世のために貢献したことが伺われます!筆者は、とても面白い伝説だと興味を抱いています。まだ・・・、謎だらけですが・・・!?

・三輪宗に属した地蔵寺(休息山立正寺の前身)は、天平年間、”役の小角”により創建、前述の柏尾山大善寺もこの期に創建されています。

・次に平安期に入り、伝教・弘法両大師により広められた顕密二教(天台宗、真言宗)は厳しい戒律と修験、祈祷により支えられ、修験者は、好んで山岳、川沼などの難所を選んで修業した行者や山伏であったため、その一つに大瀧不動尊が開かれ、柏尾山大善寺、金剛寺が現存し、三光寺、万福寺等は法相宗、天台宗、真言宗三宗の兼学道場として栄え、地蔵堂(立正寺)、長福寺(真光寺)、真教寺(正宗寺)、福泉寺、林照寺、寺町十二坊等、ほとんどが「元真言宗の寺なりしが・・・」と始まる寺記を開いても、当時如何に、天台・真言二宗が隆盛を極めたかが想像できる。

とりわけ真言宗は、空海(弘法大師)の伝導力の偉大さを残しているが、その後、山梨では、身延山に、日蓮宗総本山・身延山久遠寺を開いて、転派を導いた日蓮上人の足跡も凄い。

往古は、柏尾三千坊、子安千坊、萬福寺の十二坊、長遠寺(上行寺)屋敷の坊塔など密教を奉ずる寺々が林立していたのが・・・、今回、紹介している”古代史の古郷、勝沼”なのです!

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付記:

前述の秦河勝は、聖徳太子に任命された国司といわれる人物でなのです。※ウイキペディアより

Hatano_kawakatsu 秦河勝絵像 「前賢故実」菊地容斎著より

※歴史解説がテーマではないのですが、歴史資源として観光的魅力を紹介するには、一応、基礎知識として確認して見たのが、秦河勝という人物像です。

・秦氏は、6世紀頃、朝鮮半島を経由して倭国へ渡来した渡来人と云われ、そのルーツは秦の始皇帝とも云われている。裕福な商人でもあり、聖徳太子のブレーンとして、朝廷の財政に関わり、財力もあって、平安京の造成、伊勢神宮の創建などにも関わった説もある。

・本拠地は、京都太秦や墓のある大阪寝屋川市太秦にその名を残す。

・広隆寺を創建した人物で有名。

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付録:勝沼の見どころ・・・、あれこれダイジェスト!

今号では、詳しく書ききれないので、その他の勝沼の見どころを箇条書きだけしておきます!

●先ず、勝沼のランドマーク「勝沼ぶどうの丘」ホテル&レストラン&温泉&ワイン売店があります。勝沼の展望と勝沼の美味しい空気に触れることができます。

ここからの南アルプス方面を望む甲府盆地の風景は(夜景も)抜群です!

●観光客に評判が良いワイナリー&レストランは・・・、

・「シャトー勝沼&レストラン鳥居平」

・世界のワインラベルコレクションが凄い展示館&レストランがある葡萄工房「ワイングラス館」

 ・・・等がありますが、訪れる目的と好みによるので、事前に調べて来ることをお薦めします

●ワイナリーは、勝沼だけでも33軒公開されています。※試飲酔いにご注意ください。※軒数は11年7月現在の甲州かつぬまエリアマップによる

●観光葡萄農園も114軒が登録されています。葡萄狩りも事前調査が大事です!品種も農園によって特徴があるし、収穫時期によって好みの品種があるかどうか?など、事前に確認して来られることをお薦めします!

●民族文化の見どころでは・・・、

・大善寺の藤切り祭り(別名三枝祭り)が毎年5月

・上岩崎の浅間神社の火祭り(8月)などは・・・、面白い。

●史蹟と文化財

・勝沼氏館跡 

・岩崎氏館跡

・小佐手氏館跡など、室町、戦国時代に武田家累代などとゆかりのある武将が本拠を置いていた館跡がある。

●古街道と宿場跡 旧田中銀行など、特に明治の面影が残る旧街道風景がある

・柏尾の古戦場跡と柏尾橋 現在も昭和の柏尾橋があり、江戸から、明治、大正と移り変わりがわかる記念公園になっている。

●旧中央線のトンネルを活用した遊歩道とワインカーブ、※勝沼駅からも、トンネル遊歩道を抜けて、柏尾橋まで歩くコースになっています。

●明治37年宮崎光太郎が中央線開通でワインの大量出荷が可能になり、生産拡大のために建設した旧ワイナリー「宮崎第二醸造所」通称宮光園(現、ぶどう資料館)、明治31年に建設した最古の龍憲ワインセラーは必見。

●勝沼のぶどうとワインの歴史がわかる「ぶどうの国文化館」

●大正4~6年に完成した「勝沼堰堤」祇園の滝、日本で最初にコンクリート堤防をテストしたモデル事業で、現在も、専門的な見学者が多く訪れている。

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このように、古代から、中世、近代にかけて、勝沼は大きく時代の文化の端境期に関わっていて、大変、幅広く、奥深く、興味深いところです

・勝沼は、近代でも、明治維新の夜明けには、有栖川宮仁親王と板垣退助の東征軍と近藤勇を隊長とする幕府軍(甲州鎮撫隊)が激突する柏尾の戦争があって、東征軍が圧勝し、明治維新を迎える、維新分け目の激戦地(柏尾古戦場)となったところもあります。

・明治初期に入ると、いち早く殖産事業に目覚め、葡萄栽培からワイン醸造へ発展を目指して、明治10年には、勝沼上岩崎に日本で初めてワイン醸造の「大日本山梨葡萄会社」が設立され、青年2人をフランスへ派遣し、ワイン造りを学び、帰国後、本格的にワイン造りが始まった歴史があります。

今や、勝沼の”甲州ワイン”は、本場フランス・ヨーロッパでも認めらるワインができるようになって、国際ワインコンテストでも多くの賞をもらっています。毎年、進化したワイン情報が発信され、各ワイナリーを訪ねると、いろいろな趣好をテイスティング体験ができます。勝沼を訪ねた方のみの楽しみです!

昨今、ワインツーリズムを通じて、勝沼の評判が年々高まって、着実に、希望の未来へ向かっています。

毎年秋(10月)に行われる”勝沼ぶどうまつり”は、地元ワイナリーが一同に参加していて、各ワイナリーの無料試飲ができることもあり、行列の人気です。首都圏から、数万人のワインファンと観光客が訪れます。

特筆すべきは、勝沼には、往古より、時代の端境期を切り開いて来た先人とその子孫達が、今もこの美しい里山を守り続けているということを知っておいて欲しいと思います。ぶどう農園でも、筆者が知っているところは16代も続いているとか・・・。

・たかが葡萄狩りと思わないで、各葡萄園が、どれほど品種改良に取り組んでいるか?オリジナル品種開発にとりくんでいるか?お客様のニーズを意識して常に進化しているので、勝沼を通る時は、ぜひ、地元の人から新しい情報を得て、直接、人情とその情熱に触れて欲しいと思います。

但し、勝沼にはもの知りも多く、知っていることは凄く喜んで話してくれるが、地元のことも知らない人も多いので、その時は容赦してあげて下さい。農園を営む人々は、年中、休む暇もなく働いていて、あちこち出かける暇もない人が多いのです。

※もっとも・・・、時間があれば、日常、東京へ行ったりしていて、けっこうモダンな人々も多い・・・、勝沼なのです!

最後に、辛口ですが・・・、特に、勝沼の人は塩山のことを知らず、塩山の人は勝沼に関心がない人も多いので、甲州市として合併したとは云え、まだまだ、昔の村単位のままでは、観光客の広域観光化と情報ニーズにはついていけません。山梨県は、今や首都圏からの日帰り広域観光圏であるので、地元でも、もう少し、周辺地域の素晴らしさと組み合わせして、観光客に観光情報提供ができるようになると、本来のもてなしに繋がるのですが、”もてなしを、接遇マナーだけと”勘違いをしている方も多いようなので、もっと広義に原点を知り直すことも大切かと思います。

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追伸:

勝沼の観光ガイドはなかなか適切なものはありませんが、甲州市が発行する「勝沼編ガイドブック」や旧勝沼役場発行の「ぶどうの国文化館」という歴史読本があります。歴史読本著者の上野晴朗氏は茅ヶ崎に住んでおられるようですが、昭和35年、勝沼町史編纂に携わって以来、ぶどうの国文化館の設立、ぶどうの丘センターの設立と勝沼のことを知りつくしている方がおられます。その歴史読本でも、勝沼は葡萄ばかりではなく、古代史の宝庫であることを触れておられます。機会があれば、地元文化館で1000円で買えるし、事前なら、公の最寄りの図書館で照会すれば、読めると思います。お薦めです!

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