新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

石和・大蔵経寺山南麓から古代甲斐国の歴史ロマンが始まった!?2017/09

2017-09-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

 大蔵経寺山南麓に始まった古代甲斐国の歴史ロマンを辿る!?

                  ~序章~

古代甲斐国(山梨県)は国中の北山・大蔵経寺山と御室山南麓から始まった!?

古代甲斐国の歴史は、5世紀頃、ヤマト朝廷が雄略天皇の御代、倭国構築・平定のため、

雄略天皇1年、物部(目)氏を大連に任命し、東端・甲斐国の覇権・統治命じて、

物部氏一族が派遣され、この時代から古代甲斐国の国造りが始まったものと考えられる。

ヤマト朝廷による古代甲斐国の最初の支配者は「物部氏一族」ではないかと考えている。

その拠点「館」を石和の現大蔵経寺山南麓に置いて古代甲斐国の国造りを始めた・・・!?

もしかしたら、現大蔵経寺辺りが古代甲斐国を統治した物部一族の館址ではないか!?

そんなことから”歴史ロマンを膨らませる”と、”歴史散歩”も益々面白くなってくる!

石和温泉駅・大蔵経寺山南麓に眠る「古代甲斐国の歴史ロマンの道」を辿って見る!


JR石和温泉駅北口は、今、歴史ロマンが好きな石和の観光客に着目されている!

平成29年、JR石和温泉駅駅舎が新装され、新たに”北口”が開口された・・・!

「石和温泉郷」は、昭和時代の新興温泉として発展し、特に首都圏・東京から便利で、

近いこともあって、東京の奥座敷的温泉地として大勢の観光客が訪れていたが、今、

石和温泉は「個人客をもてなそう」と云った旅館も多くなっている。

そして・・・、その観光客の過ごし方は多様になってきた!

石和温泉域には、甲州市から南アルプス市まで広域に、”いちご狩り”から始まり、

”桃”、”葡萄”や”甲州のワイナリー”が楽しめ、特に一宮の桃栽培風景などは・・・、

まさに”日本一”の風景に相応しい。また晩秋になると、”枯露柿”の風景が魅力だ!

観光の楽しみ方は数々あれど、とても挙げきれないので、それは専門ガイドに任せて

おきたい。

今はSNSの普及した時代、旅の事前情報も”よりどりみどり”好み”で選択して、

良い旅を楽しんでもらいたいものです。

筆者は東京から甲州に移住してようやく8年目、具に山梨県内を散策してきたが

最近は自転車で広範囲(甲府盆地全域)を走れるようになって、農道も走ること

があり、さらにジックリと「山梨の魅力再発見」を楽しめるようになっている。

筆者は元気な高齢者の目線が濃いと思うが、特に、自然と歴史が破壊された東京

では馴染むことができなかった山梨の多彩な歴史遺産や古代遺蹟にも興味を惹か

れている。

最初は「温故知新」の精神で地元を知るために”博学”を目指したが、山梨には未だ、

東京・江戸以降の歴史では見ることもできない古代からの歴史資源が豊富に遺るので、

今は、生涯学習生を楽しんでいる。

特に殆どの人々が文字の読み書きもできない古代においては古文献や証しが遺され

ているものが殆どなく、そのせいか意外に「歴史の謎」「未解明の謎」が多くある

ことを知りました。

当初は古代への興味は薄かったが、「温故知新」のためにも、最近は無視出来ない

と思うようになってきている。

※但し、専門家や学者の方の研究論文を学ぶことが精一杯ですのでご寛容に願います。


今号から、高年観光客向きで”歴史好き”にはたまらない

魅惑の「大蔵経寺山南麓の古代甲斐国の歴史ロマン」が楽む

散策スポットを数回に分けて「シリーズ」で紹介します!


このJR石和温泉駅北口の開口で、今まで眠っていた石和の観光歴史

資源を訪ねるのが便利になった。※2017-06月号で要点紹介。

注)読むのは大変でしょうが、歴史好きな人にはたまらないスポット。

http://blog.goo.ne.jp/yssoho/e/32f89da6d24c42f1bbababc765b7d447

今、甦る・・・!

その大蔵経寺山南麓には、「古代甲斐国の歴史ロマンを辿る道」がある。 


注①新甲州人の自習NOTEでは、本編、続編を併せて、既に数十ページの自習NOTE

を編集していますが、まだまだ自習中の宿題が残っているのと、ボリュウムが大きいた

め、一度では紹介しきれません。

しかし、観光を楽しむには今までのようなテキスト(観光ガイドやパンフレットなど)

持ち歩いて未知の観光ルートを辿るのは情報コンテンツが時代遅れになってきました。

各町の観光案内所でも知る人は少なく、また観光客が予習をするには旅先での時間が

もったいないと思います。

今は、ネット情報やタブレット端末などを旅先で持ち歩いている人が増えています。

筆者はそこまで観光情報の提供サービスはできませんが、専門家や観光担当者の方など

への情報提供の素材(タタキ台)になればと願い・・・、情報発信をするものです。

しかし、この時点で紹介することで、むしろ専門家の方からも、”未知の教え”を乞う

ことができるのではないかと図々しく期待をするところでもあります・・・。

注②現在も大蔵経寺井上住職と史誌や寺伝などを考査中ですが、この時代のことは謎も多く

専門家も明らかにできていないところもあるため、特に歴、史上一時滅亡している「物部氏」

については、後世に史実を再編・滅失されているところもあるようで、素人の手には負えない

ものの、この際、むしろ素人の「無知の強み」もあると思うので、あえて、証しのない項は

「推論の物語」で繋いで見ることにした。

注)但し、本シリーズの記事、特に推論部分は公式見解にはなりませんのでご留意下さい。

古代甲斐国の謎のことは、学習すればするほど”なるほど!?”の推論として濃くなって

いくので、本ブログで短編抜粋シリーズで紹介することにしたものです。

また「古代甲斐国の歴史ロマン」は、読まれた読者が各自勝手に想像を膨らますことも

”楽しむ秘訣”です。そのことを承知して、石和・大蔵経寺山南麓を散策して下さい。

※散策はレンタサイクルがお薦めです!「笛吹市石和温泉駅観光案内所」でお訊ね下さい。


注)前ダイジェスト版で問うた内容では・・・、

http://blog.goo.ne.jp/yssoho/e/32f89da6d24c42f1bbababc765b7d447

ブログ内容に関して異論ご教授のコメントは頂けませんでしたので、

さらに自習NOTEの中身を分解して本ブログで公開することにしたものです。

今流の楽しいブログ表現には向かない上、公の教科書にもならない。

しかし観光の楽しみ方もいろいろあって「それぞれがブレイクスルー

(切り口)を持って、知らないところ、眠っている資源、施設などを

訪ねて見る」と一見では面白くない処も・・・、面白くなって来る!


「JR石和温泉駅」北口に蹲踞する「大蔵経寺山」南麓に、

名刹「松本山大蔵経寺」がある。ここが散策の起点となる。

石和・松本の「大蔵経寺山」山麓に「松本山大蔵経寺」が建つ。

道順は「JR石和温泉駅」北口へ出て、徒歩約5分の拠点です。


 大蔵経寺山麓の”古代甲斐国の歴史ロマンを辿る”

            ~序章~はじめに~ 


往古、都から覇権・統治のために遣わされた尖兵は、若彦路を越え花鳥山に

立って、甲斐の盆地を一望してみると、北山中央に見える大蔵経寺山(往時は

無名の松本村にあった山=松本山と称しておく)が大和(後の奈良県)の三輪山

(御神躰山)を彷彿して、その南麓が甲斐国の中心拠点を置くに相応しく見えた

のではなかろうか・・・!?

果たして、雄略天皇の御代、都から来た物部氏一族が往時の倭国東端にあたる

甲斐国を覇権・統治するために、現大蔵経寺南麓辺りを拠点にしたのか・・・!?

その証しが、往時御室山山頂にあったと云う旧蹟物部宮の存在そのものであった

のではないだろうか・・・!?


古代甲斐国の歴史ロマンは、ここから始まった・・・!?

古代甲斐国の歴史は、雄略天皇(457~479年)の御代、大連物部目に命じ、

物部一族を東端甲斐国の覇権・統治のために派遣したと考えられるところから、

・・・”古代甲斐国・国造りの物語”は始まる。

その足跡を辿るには、甲斐国に伝わるヤマトタケル伝説(東征の帰路伝説)も

も基調になるが、さらに若彦路の竹居に遺るワカタケル伝説は感心を惹く。

尖兵物部氏一族は、ヤマトの都から東海道を経て、駿河から大石峠、鳥坂峠

を越え、若彦路から甲斐国へ入ると、最初に望んだのがこの風景・・・!?

花鳥山一本杉より望む甲府盆地と北山筋の現大蔵経寺山南麓の遠望・・・!

ヤマトの都から古代甲斐国覇権・統治の遣いで来た尖兵の第1歩は・・・、

若彦路(竹居に残るワカタケル伝説とヤマトタケル伝説の花鳥山)から入国した

と考える。※この伝説は、もしかしたら、その言い伝えを後世に残したもの!?

注)「甲斐銚子塚古墳」の発掘により4世紀後半、都から中道を経て入国の説や

甲斐の古代豪族そのまま甲斐における管掌者、国造(くにやっこ)、在庁官人

任命され等も考えられる説もあるが、筆者は往時甲斐国に来た渡来人が伝遺

した先端文化や諸技術(砂金採掘と精錬技術や米麦等稲作技法)から見ても、

最初の管掌者都から来たと考えている。※推論のみが頼りだが、正しいかも!?

しかし、素人であるが故か、筆者は若彦路に遺るヤマトタケル・ワカタケル伝説

重視している。そうすると、5世紀頃、若彦路入国説を中心に物語が生まれる。

※恐らく永久課題となるであろうが、考査を続けるつもりでいる。

ヤマトタケル東征帰路伝説は、奈良時代、朝廷により遡って”創作美化”された

言う説主流であるので、必然的にワカタケル伝説と若彦路、同時に雄略天皇

の御代の入国が信憑性を帯びてくる。

しかし史記では、雄略天皇は往時、近畿(畿内・備中)の平定に忙しく・・・、

また軍事を司る”大連”に任命されたのは「物部目」であるが、往時の世情から、

直々に甲斐国遠征はできなかったとみえるので・・・、

雄略天皇が「物部目大連」に甲斐国平定を命じて、その大連物部目氏はその

一族を東端甲斐国の覇権・統治のために遣わしたと云うことが考えられるのである。

注)物部氏は国内勢力拡大のために、特に、東海・駿河、甲斐国、東国へと一族

の基盤造りを図っていたようで、その一例が、古代甲斐国の松本郷物部神社と、

後世にも「松本郷の隣郷・青沼郷に物部氏一族が存在した」ことが残されている。

しかし、物部氏の滅亡以来、後世には史実も抹消されたようで殆ど不詳である。


甲斐の国(現甲府盆地)を一望すると正面北山筋の松本山(大蔵経寺山)が

甲斐国の好立地(中心拠点)に浮かび、往時はまるでヤマト王朝にある三輪山を

彷彿させることから、物部氏一族は若彦路を辿って酒折へ向かい、そして現松本山

大蔵経寺の辺りを開拓の本拠地に定めたと考えられる。


往古ヤマト朝廷が開かれた御神躰山の「三輪山」の現風景(ウイキペディアより)

「三輪山」(みわやま)は、現在の奈良県桜井市にある山。

奈良県北部・奈良盆地の南東部に位置し、標高467.1m周囲16km。

三諸山(みもろやま)とも云う。なだらかな円錐形の山。

「三輪山」は、縄文時代または弥生時代から、原始信仰(自然物信仰)の対照。

古墳時代、山麓地帯には、次々に大きな古墳が作られたため、この一帯を中心に

して日本列島を代表する政治的勢力、即ち、ヤマト政権の初期の三輪政権(王朝)

が存在したと考えられている。

そのうちには、第10代崇神天皇(行灯山)、第12代景行天皇(渋谷向山古墳)

の御陵があるとされ、さらに箸墓古墳(はしはかこふん)は、『魏志』倭人伝に

現れる邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかと推測されている。

『記・紀』には三輪山伝説として、奈良県桜井市にある三輪明神の祭神・大物主神

(現在大神神社)の伝説が載せられている。

よって、「三輪山」は神の鎮座する山、「神奈備」とされている。


従って、日本国創世の時代より「神宿る山」とされ、三輪山そのものが神体

であるとの考えから、禁足の山とされてきた。

飛鳥時代には、山内に大三輪寺が建てられ、平安時代には空海によって遍照院が

建てられた。鎌倉時代には、慶円が三輪氏の氏神であった美和神社を拡大し、

本地垂迹説によって三輪明神と改め、別当寺三輪山平等寺を建立した。


往古、この大蔵経寺山中にも奈良の「三輪山」を彷彿するような荘厳の歴史

辿った址があったのかと思うと、想像しただけでも、”歴史ロマン”を感じる。

時代考証と歴史のなりわいは異なるが、御室山に物部宮が祀られ、そして後に、

の大蔵経寺山々中に行基上人により「彌勒実相院」が開かれ、それは、やがて

旧蹟「靑獅子山松本寺」となり、室町3代将軍義満の時代、即ち中世、甲斐守護

が第11代武田信成公の時に、現在地に遷設され、三重塔(五重塔?)も建立

されて経典が納められたことから「松本山大蔵経寺」と改称されたと伝えられる。

歴史ロマンの深みを改めて感じることができる!


~序章~今号のダイジェスト

~古代甲斐国の歴史は、何故、大蔵経寺山南麓から始まったのか?~

①なぜ、ヤマト朝廷は、はやくから甲斐国を注視したのか?

往時、甲斐国は、倭国東端の要衝で、山岳に囲まれ、金(砂金)、

鉱石(水晶など)と貢米(日下部氏の派遣と後の七日子粥献上) の

宝庫(富国の糧)になると見た。

②北山筋大蔵経寺山南麓の物部神社は、この辺りを物部氏が

拠点にした証し!もしかしたら・・・、

現大蔵経寺の境内地は、往古物部氏一族の館址であったのか!?

往時、物部氏一族の本拠(館址=現大蔵経寺)であったとして見ると、

物部一族が背後の御室山山頂に物部宮(旧蹟)を祀ったことが頷ける。

③5世紀、雄略天皇の命で東端の要衝甲斐国の覇権・統治に

 派遣されたのは、尖兵物部氏一族・・・!?

第21代雄略天皇は康3年(456年)11月13日~雄略天皇23年

(479年)8月7日在位。

大泊瀬幼武命(オオハツセワカタケルノミコト)とも云う。

甲斐国最古の神社とされる甲府御嶽の金桜神社里宮の創建もしている。

注)これは①の砂金や鉱石の鉱脈が奥秩父山塊(往時の中心は金峰山)

にあったことを物語り・・・、

その金峰山々頂の金桜神社奥宮にはヤマトタケル伝説も残る。

④古代甲斐国の豪族三枝氏は、ヤマト朝廷(雄略天皇と大連

物部目氏)から遣わされた尖兵物部一族に服したと見る。

三枝氏は、いち早くヤマト朝廷の力と文化を取り入れ、甲斐峡東の勢力

を平定していったようだ。

⑤甲斐国北山筋(酒折宮)は、後の甲斐九筋の起点立地。

御室山山麓(現笛吹市春日居)には後世甲斐国府が置かれた。

大蔵経寺山はヤマトの三輪山を彷彿し、甲斐国の中心拠点として注視

されていたことが伺える。


今号は、この辺にしておきます。本シリーズは次の順で、

「大蔵経寺山南麓の歴史ロマン」のブログ発信予定です。

(第1章)養老年間に行基上人が「彌勒実相院」を草創。室町3代将軍足利義満の命で、

   観道上人が入山、守護武田信成公が「松本山大蔵経寺」の伽藍を建立・中興。

(第2章)物部神社に祀られる物部氏十祖神と御室山山頂の旧蹟

(第3章)大蔵経寺山南麓の歴史ロマンを辿る

 ①山梨岡神社(春日居に国府が置かれた時、鎮目軍団が駐屯)

 ②山神社~お天狗さん~積石古墳址と渡来人の足跡

 ③菩提山長谷寺(行基上人開基)

 ④廃・鎮目寺 (行基上人開基)

 ⑤吾妻屋宮  (ヤマトタケル伝説)

 ⑥日下部氏  (物部氏と同じ頃朝廷から派遣された農民集団)


いつも、長文ブログで済みません。

歴史を一言で語れると良いのですが、なかなかうまく書けません。

何卒、自習NOTEの現状と真意をくみ取って頂けると有り難く。


古代の物部神社を尋ねる前に、拠点立地にあり、歴史的

にも由緒が解りやすい大蔵経寺山南麓の「松本山大蔵経寺」

のことを尋ね、学ぶことから始めたいと思います。

次回シリーズ:第2章「松本山大蔵経寺」の項をお待ち下さい。