往古、安田義定が領した「牧ノ荘」の中心は、現山梨市牧丘町
の旧中牧郷にあった!
今号は要害小田野山城跡の山麓に伝わる義定「西御所」址の安田
義定廟所と腹切地蔵尊(生涯石)を訪ねる!
今年も懲りずに探訪を続けます。ご寛容にご指導ご鞭撻ください。
伝安田義定の墓(※宝篋印塔は推定足利時代建立の供養塔)
この安田義定の廟所を訪ねると、そこには当時の牧丘町教育委員会の
「小田山城址と安田義定」の解説版があった。
「廟所 町指定文化財(昭和51年3月30日) 小田野山は標高882m
甲斐源氏 安田義定の要害城址である 義定は源頼朝のため建久5年
(1194)8月この地で滅亡 この宝篋印塔は義定と一族をまつる廟所で
石塚という」 ※2010年1月筆者撮影時の解説版であった。
真偽のことは探訪者自身の自習の世界や想像の中で楽しむ方がベター。
2015年10月再度訪問、山梨市指定史跡「伝安田義定の墓」は、
所在地 山梨市牧丘町西保下918番地3 昭和51年3月30日指定
「この付近一帯の集落は御所と呼ばれ、安田義定の御所が置かれたと
伝えられています。
安田義定は、長承3年(1134)源義清の子として、若神子(北杜市)に
生まれ、八幡荘、牧荘、安多荘を中心に現在の山梨市、甲州市の一部を
領有していたと云われる。特に一ノ瀬高橋(黒川鶏冠山付近)の砂金と
牧ノ荘の軍馬の生産は大きな軍事力になったものと考察している。
平家追討に功をたてた勇将でしたが、源頼朝の権謀術数により、
建久5年(1194)に滅亡したと云われる。
北西方向にほど近い小田野山は安田義定の要害城であるとも伝えられています。
この宝篋印塔は、室町時代に造立されたものと考えられ、安田義定とその一族
を埋葬した場所と伝えられています。※山梨市教育委員会記
2010年に撮影の「安田義定廟所」の標識は今は朽ちて読めない!
YS記:「安田義定廟所」は仰々しいが、「安田義定のこと」は、里人
からも次第に忘れられているように思われる。
しかも、よほど関心がある人でないと立ち寄らないらしい。
どうやら武田信玄の人気にはかないそうにない!?
中牧村郷土史(昭和4年発行)の第10章第一節名所・旧蹟・天然
記念物の節 小田野山 安田義定要害城址に続いて・・・、
第4項に「安田義定廟所」(在御所区)
御所区西方の東岸にありて精巧なる五輪塔の四方に梵字を彫刻してあり、
足利時代のものなりと云う。
付属地二百餘坪竹林及針葉樹ありて、一帯に當年士卒の死骨を埋めたる
石塚にて夜の丑の刻に参詣すれば経文を唱える聲ありてオコリと称する
病気平癒せりと伝う。 大正13年中、同区武藤光康、同興十郎氏が廟所
付近より土石を掘りたるに枯骨山の如く出でたりと云う。
この一帯は、今も地名で伝わる「御所区」と云う。
「安田義定の居館にして御所区東方に在り。今葡萄園たるも地積階段大石
累々宛然名士の居址たるを忍ばしむ。往時は碑石存在せしも葡萄園と為す
ため漸次地形を変更せしは遺憾千万なり。
其西の御所と称するは日下部村に本館ありて、之に対する西の御所なりと
云い。或は西保下村先住地たる木曾より西方に当たる故に西の御所と敬称
したるならんか」と・・・記される。
YS記:原文の古漢字はPC変換できる現代漢字に変換したのでご容赦。
参考:昭和55年出版の牧丘町誌に掲載の「牧丘御所址の安田義定廟所」
安田義定の要害城と西御所が往時の中牧鄕の拠点になるが、
今は、そこ伝自刃の地に供養塔が立つのみだが順次訪ねます。
安田義定の「牧ノ荘」布陣と戦略的寺社配置については、詳しく
本シリーズの最終章であたりで、再度辿ってみたい!
県道塩平線とフルーツラインの交差する三角地に眠る「腹切地蔵尊」
牧丘町誌 第3章史蹟と文化財の項・・・、
「腹切地蔵尊と生害石」
大字西保下小田野山麓にあり、県道塩平・窪平線(旧秩父裏街道)に沿った
ところに祀られている。土地のものは通称「腹切地蔵さん」と呼ぶ石仏である。
鎌倉初期この地方を領した甲斐源氏安田遠江守義定の生害の地と云う。
腹切地蔵尊は肩口から上の部分がない。台座の受け花の下に「御生害跡」
と刻まれている。明和7年(1770)に建てられたもので六地蔵尊と並んでいる。
安田義定とその一族を祀ったところと云う。
また、後方の山裾に大石があり、この石を生害石と呼び、石の上に小さな祠
が祀られている。※後方山裾の大石は、今は確認が難しい。
ここより西方の高地旧道の脇に安田義定が家来を呼び集めたといわれる
「呼ばわり石」がある。
甲斐国志に「山下に遠江守生害石と云うあり、此の山霖雨(りんう=ながあめ)
に会い時ありて鳴る音雷の如し里人は遠州宿怒の所為と云えり」とある。
また王代記に「寛政7年(1466)元辛巳、同4年甲申、甲州跡部上野介景家の
生害地」とも云われている。跡部家は夕狩沢の戦いで武田信昌に敗れ、八幡
入りより、山越に小田野城に逃れ、この地で自害をしたものとも言われる。
旧八幡方面から西保にかけての地名には、戦に纏わる名が多く切差、赤芝、
膝立、生捕など戦乱の有様を物語る地名があると記されている。
YS記:山梨県調査記録では、小田野山城そのものが、跡部氏の時代のもの
ではないかと云う専門家もいるようだが、筆者は小田野山城が安田義定の
要害城で、かつ中牧鄕に伝わる安田義定ゆかりの要所は時代考証もあわせて
矛盾しないように学習をしたい。
中牧村郷土史第10章第1節3項「生害石」!
小田野山南麓西保村に通ずる秩父裏街道に沿う石の大きさ6尺
餘方上に石仏を安置す 人呼んで「腹切地蔵」と称す。
大正14年山梨県庁は名所旧蹟地として表示杭をここに建てたり。
また腹切地蔵右方の石塔は、義定部下郎党の供養塔なり。
・・・と記されるが、下記写真と比べて見ると、右前衛に立つ大きい
のが”家来郎党の供養塔で、後ろ中央に”安田義定の供養塔”
(東坡が建てられている)その右に、”六地蔵尊”その左は地蔵尊
と云われる。
「腹切地蔵尊」※生害石(6尺餘方)の上にある祠は見当たらないが!
「生害」の地とは自殺、自害の地を云うが、YS記では「自刃」と云いたい。
ここは、確かに鎌倉勢に追い詰められた要害小田野城を背に義定が自刃した
場所であったかもしれない。そしてこの供養塔は明和7年(1770)に建てられた。
また、西御所跡の宝篋印塔は、室町(足利)時代に建てられた供養塔と云う。
何れも後世のものだと云うが、鎌倉幕府を倒幕した室町幕府(足利)時代には、
一時、二階堂道蘊がこの地を領したと云うが、安田義定が供養された謂われが
あったのだろうか?
まだ、学習の余地があり、また謎解きの研究課題になると思われる。
参考:昭和和55年牧丘町誌掲載の「義定生害跡」
昭和55年頃の写真で見ると、現風景と大きな違いがある。
それは小田野山城直下の山麓でその標識柱には「小田野山城址」
とある。現在は小田野山山麓をフルーツラインが走っていて、白い
ガードレールが延びる。いわゆる「安田義定生害の地」と云われ
「腹切地蔵尊」と呼ばれる供養(石仏)塔があるが、両側に地蔵尊
と六地蔵尊が祀られる。右前衛に建つ臣下の供養塔は今も伝わる。
昨10月よりシリーズ発信『安田義定のゆかり甲斐「牧ノ荘」を辿る』
は、第5号になるが、もっとも謎となりそうな”ゆかり”が見えて来る!
①安田義定は、甲斐源氏の勇将として源義経と源平合戦を戦い
天下の副将軍として平家打倒を果たし、背景にあったのは財源領の
豊かな「牧ノ荘」!その源は、砂金採集による軍資金とも云われる。
その天下のために大きな貢献をした勇将にも関わらず「牧ノ荘」には
殆ど帰ることはなく、鎌倉幕府開闢当時鎌倉に屋敷を構えていて、
終焉の時しか「牧ノ荘」には帰らなかったのだろうか!?
②「牧ノ荘」は義定にとって、あくまで故郷の要衝であったと思われ
るが、そのお陰で地元の里人は潤っていたと見られ、安田義定を
崇敬し、宗覚明神として祀る神社(七宗覚)が中牧、西保に多く見
られるなど、「安田義定は英雄であった」ことには違いないのだが!
何故、忘れられていったのであろうか!?
本シリーズは、”牧丘”と”旧中牧郷”の概要探訪から始まり・・・、
旧中牧郷の”小田野山城址”、東城戸に「普門寺」開基、”西御所”
等と”安田館跡”等に焦点を充て、一方、宗教信仰に厚く、律儀な
安田義定らしく「牧ノ荘」の”牧”の要にあった「中牧鄕」に要害
小田野山城を築き、その山麓に”西の御所”を構えた。
注)新年号は、墓が目立つが、不詳だが”西御所址”がテーマ!
そして安田義定のゆかりを順次辿って行くうちに徐々に見えてくる
ものがあるような予感がする!
先ず、単なる信仰心だけではなく、”西の御所”を囲んで守護神
となる神社を中央と西と南に配置し、その神社を囲んで集落を形成
するなど知的な布石である。
恐らくいざと云う時、集落は結集して要害城を守護したことであろう。
城下中央には法喩庵の「天神宮」、南の馬場には「若宮神社」、西
の牧平には「管ノ神社」などが戦略的に配置されている。
また、寺院に至っては「要害小田野山城」を囲んで、西(現在華)の
城戸に「旧蹟西源寺」、東の城戸に「普門寺」を建立している。
更に、鬼門の要衝(現倉科)には「無量院」などを開基している。
※鬼門除けの倉科にある「中牧城址」も、安田義定の出城であった
のではないかと云う説もあるが、このように辿ると頷けるのでは
ないだろうか!
恐らく、具に見聞すると、小田野山城の東・西城戸にあたるなど
戦略的な寺社配置にも長けていたことが見えてくる。
時間をかける自習が楽しみになってきた。
何故、頼朝の策略で最期に自刃するはめになったのかも心理
を奪われるが、究極は地元NPOの研究者が探求された「義定は、
天下取りについては、無欲であった!」ことが、権謀術数に長けた
頼朝の策略に嵌められた原因と見ることで、心中は少し救われる。
まだ、結論は出せないが、武田信玄は天下を狙って上洛を図った
途中で病死したのだが、結果的には天下取りに失敗したのと同じ
になる。どちらが真の英雄かは、比べない方が良いと思うが・・・、
安田義定を忘れることを無念と思うのは、”自然の感情”である。
改めて、「牧丘の里」を探訪することで、義定ゆかりの開基寺院、
勧請神社の配置には、とても感心させられたので、その布陣的な
配置を前提にして、本シリーズを順次展開して見たいと考えています。
門院領と世良親王墓臨川寺領牧ノ庄との関係を知りたく思います