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甲斐源氏安田義定ゆかりの「牧ノ荘」を辿る!⑥義定は小田野山城の西城戸、在華に旧蹟西源寺を創建していた!?19-02

2019-02-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

往古、平安末期~鎌倉時代初期、安田義定全盛の頃、着々と

領有「牧ノ荘」備えを行った。その一つが要害「小田野山城」で

あったが、その東城戸(小田野)に現存の「普門寺」を創建したこと

は既に周知されている。そして証しがないため不詳が残るが、その

西城戸にあたる在華」に守護寺として「旧蹟西源寺」を創建し

考察される。

今月号はその「旧蹟」が在華にあったと云う現「長松山西源寺」を辿る! 


現牧丘町西保中字鳥谷原(とやばら)と在華周辺の鳥瞰図!

注)鳥瞰図は矢印に記される在華の横道分岐の目立つ場所に設置してある。

牧丘全体の鳥瞰図(後述図)を撮影し、中央部を抜粋した部分を開示しています。


小田野山城跡を中心に見ると、絵図左にある卍は現在鳥谷原にある「西源寺」。

西保中字在華の「西源寺入り」にあった「旧蹟西源寺」は、西城戸として戦略的な

立地にあったいうことがよく分かる。注)西源寺入りは、現在は地名のみ残る。

従って、在華の西城戸にあたる立地にあった「旧蹟西源寺」が小田野山城の

守護寺として安田義定によって創建されたものと考察できる。

絵図右側の小田野に桜が描かれた卍は安田義定の開基と伝わる「普門寺」

だが、「普門寺」は既に安田義定開基として寺伝も甲斐国志等に記され、既に

表城戸の山城道として専門家によっても検証されており、小田野山城を挟んで

東西の山麓の防備に両寺院が創建されたものと考察できる。

注)安田義定の時代には、真言、天台宗の二大宗派が普及し、特に金峯山信仰

盛んな頃の往時は、これらの寺院は、修験僧を鍛えて、いざという時の備え

にしたと見るのは歴史上の見識でもある。


山梨市役所観光課の温井一郎氏作の牧丘鳥瞰図は県道沿い在華にある。

筆者(YS)記:温井一郎さんの鳥瞰図は牧丘を訪ねると、あちこちで見かける。

巻頭の写真この鳥瞰図を撮影し、中央部要所を拡大抜粋したものです。 

注)巻頭の中央部抜粋拡大の鳥瞰図の小田野の卍は「普門寺」なので、鳥瞰図に

追記したいと思いましたが、原画写真のままに、文章による解説だけにしました。


西にも適地の城戸にあたる守護寺があっても良いはずだと・・・、

検証していたところ、偶然に現在鳥谷原にある「西源寺」の由来を

尋ねたら、ホームページに「西源寺は、1190(建久元年)、安田

義定の小田野山城の守護寺として活眼全竜大和尚によって創建

され、黒印500坪を拝領した寺であります。」と云う由来を見た。

詳しくはHPを、http://www.saigenji.org/about.html 

昨年末、西源寺を訪ね、若月住職にご挨拶の機会を頂きました。

「何れ時間を頂戴して、桜の花が咲く四月頃、ぜひ教授頂きたく」

と、次のゆかりを訪ねました

その時、感じた現「西源寺」の惣門(山門)と本堂と境内の荘厳さ

と美しさの一部スナップ撮影させて頂いたので・・・、

今号では、外観撮影した「長松山西源寺」を添えて紹介しました。 


昭和55年頃の西源寺写真(牧丘町誌掲載の複写)

東山梨郡誌によると、「西源寺は、曹洞宗、鳥谷原にあり。

阿弥陀如来を本尊とす。黒印五百坪、甲斐国志に曰く、草創の

年暦を知らず、永昌七世の住僧格外を請じて、今の開山とす。

古は小田山の西麓井戸窪にあり、西源寺入りと言う地名存せり。

後上組に移る、古西源寺と云う山林あり、慶長中また今の地に

移せり。・・・。」と記される。

若月住職は「古文書等の証しこそ見つからないが・・・、」と曰く。

旧蹟が字在華にあったことを再考察し、口伝も含め、在華に小田

野山城から山城道があったことを勘案すると義定築城と繋がる。

東城戸に安田義定開基「妙高山普門寺」が創建されていること

から見ると、西城戸の在華に「旧蹟西源寺」があったことが頷ける。

「旧蹟」の草創は不詳と云われてきたが、どう見ても、往時、要害城

構築の倣いから見て、西城戸に寺院が構えられたことは戦略的と

考えられ、従って「旧蹟西源寺は、安田義定の全盛期と云われる

建久元年(1190)頃、小田野山城の守護寺として、安田義定

よって開基された」と云う理論武装も成り立つものと見られる。

注)往時の観点では真言寺院として創建されたものと考察もできる。


牧丘町誌等を参照すると・・・、

筆者には、往古、金峰山信仰が盛んな頃、伝安田義定ゆかりの

古刹寺院は、要害「小田野山城」を中心に城下が築かれ、往時

の寺院は戦略的配置されていたことがわかる。

注)要所には真言宗寺院があったが、今は室伏の円照寺だけで

あるが、かつての真言宗寺院を見ると、牧丘には洞雲寺、地蔵院、

普門寺、杣口の正福寺、室伏の地蔵寺などがあり、又真言系修験

に西保の万光院、倉科の内膳院、上求寺、遍照院、隼の林光院、

教正院等があり、他の町村に比べ、修験が多いのが特徴である。

これは、金峰山信仰の中でも特に南北朝時代に全国の修験が

この地に入り、盛んであった時代を物語るものであると記される。 


真言・天台寺院のうち、平安末~鎌倉初期にこの地に勢力を

もった安田義定の開基、また保護を受けた寺も多い。

安田義定の開基寺としては、「山梨市下井尻の雲光寺」、「甲州市

塩山の放光寺」が有名だが、そこまで辿るには時間がかかりそう。 


シリーズ⑤で紹介した山麓の腹切り地蔵、御所跡の義定墓所

を始め、この地域を具に辿ると、往古、安田義定が「牧ノ荘」を領有

していた頃、安田館(現小原西)に対して、小田野山要害城と山麓

の西御所を中心に、安田義定の戦略的な寺社配置と集落形成

布石が敷かれたものと考察できる。 注)文字制限のため、詳細は省略要。


在華の旧蹟より現在地に移転した鳥谷原の曹洞宗「西源寺」


「長松山西源寺」の荘厳の本堂と境内!


鳥谷原の鎮守として、安田義定が勧請と伝わる「管神社」!

安田義定は神社の勧請によって、鎮守として城下を集落形成す

ことも着々と行っていたことが見えて来る。

注)鎮守とは、いざ有事になると、民衆が防備の軍団に加われる

ように集落を形成していたことが読めてくる。

特に、小田野や城下の民衆を集め、法を説いて学ばせる「法喩庵」

は安田義定が如何に優れた領主であったかを知ることが出来よう。

文章の文字制限があるので、今回は中途半端になるのはご容赦

願いますが、義定の偉大さは、点をつなぎ合わせて理解していく

必要がありそう思えてきました。

特に戦の武勇伝だけではなく、治政において残されたものを学ぶ

必要もありそうです。

現段階でも、主要な牧ノ荘の要害小田野山城と東西の城戸に名刹

「普門寺」と「西源寺」を開基し、鬼門(現倉科)に「無量寺」を開基して

いたことが再認識でき、シリーズ①~⑤で概要を示しただけでも、

幾多の広域治政の偉大さが見えて来る・・・。


 



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