新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

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甲州・旧「於曽鄕」を辿る④下於曽は現在甲州市塩山の中心地に!21-06

2021-06-02 | 山梨の魅力再発見!

甲斐「於曽鄕」は現下於曽「於曽屋敷」が地名発祥源!

現甲州市塩山の中心地は時代の変遷により「上於曽」

から「下於曽」へ移動している。本ブログ21年3月号①

で、往古「於曽氏の屋敷」があったことで、「於曽」郷の

地名が発祥したと紹介した。現在は甲州市塩山下於曽。

一番の理由は、地方都市は車社会が首都圏以上に進

んで、旧商店街(本町筋)は、寂しくなったと見ている。

しかも本町筋商店街とは云え買い物客は殆ど見えない。

いわゆる、シャッター商店街になって寂れている。

高齢化社会の後継者不足と時代の変遷対応の課題が

あるようだが、今は、首都圏に近く、適当に住み易い!

今号は、現在、甲州市塩山の中心地「塩山下於曽」の

様子を紹介します。


「於曽鄕」の地名の発祥は「於曽氏を名乗った屋敷」!

於曽鄕」の地名の起因となった「於曽屋敷跡」、今は閑静な駅前の「公園」に!


「於曽屋敷跡」は現甲州市により公園として堅持・・・!

現JR塩山駅から徒歩約10分の市中(甲州市塩山下於曽字元旗板)に

あって、東西90m、南北110mの広大な屋敷を有した中世の屋敷跡は、

現在はこのように広くて閑静な憩いの公園に整備されている。

記事が重複するが、於曽氏は、甲斐の古代豪族三枝氏の分流であった

が、平安時代末期、三枝氏の弱体化に伴い、加賀美遠光の4男と5男が

この地に入って「於曽氏」の名称を継いだという。

四男光経が於曽四郎、五男光俊が於曽五郎を称した。(甲斐国志)

詳しくは、ブログ3,4,5月号にて紹介したので、本号では省略します。


於曽氏勧請と伝わる下於曽の「若松八幡大神社」

於曽氏が勧請したと伝わる現甲州市塩山下於曽にある「若松八幡神社」の境内

山梨県神社庁の広報によると、加賀美遠光の四男於曽四郎光経の勧請

云われ、当地の氏神であるとされている。

注)於曽四郎光経は於曽屋敷の当主で、於曽四郎と呼ばれた。


現甲州市塩山下於曽に栄える商業地の現状!

現在の甲州市塩山下於曽の中心交差点!車社会に対応している商店街!

下於曽の中心交差点は、地方都市の銀座4丁目交差点に当たるが・・・、

最も車の往来が見られるものの、写真のように静かな交差点である。

交差点の角地には、山梨県を拠点に首都圏に進出し始めた「シャトレーゼ」

がある。角地で目立つ立地である。東側にはファミリーマートが大駐車

スペースを備えて営業中。その北側には同じく「K'S電気」塩山店がある。

首都圏の中心地では考えられない立派な駐車場を有するが・・・、 

これが・・・、現在の甲州市の中心商店街の様相である。


現在の甲州市塩山下於曽の典型的な駐車場付店舗の現況・・・!

大手チェーン店以外でも、地元の個人営業の店舗でも、この新道沿いに

営業しているお店は、写真のように車社会に対応して駐車場を有する。

この「昭和堂」は、流石に、首都圏から移住した新参者にも対応できる

「標準的サービス」を提供してくれて、筆者のお気に入り店でもある。

経営者は地元の方だが、縁あって「銀座和真」のフランチャイズとして

店舗新設以来、駐車場等完備、商品、サービス等もスタンダードを維持

して頂いている筆者の知る限り唯一推奨できる個人専門店舗である。


JR塩山駅開設により栄えた塩山の歴史の変遷を語る!

下於曽の「金光山妙善寺」の鐘楼と三門が市中の車通りから奥まって存在する。

甲斐国社記・寺記によると・・・、

宝塔山遠光寺末 「金光山妙善寺」(山梨郡下於曽村)、黒印地500坪。

天正廿年判物頂戴仕候者「身延山久遠寺」に一紙頂戴と記される。


下於曽の妙善寺本堂は”市中にあって厳か”、往古は市民の役所を兼ねていた。

甲州市塩山下於曽575の「金光山妙善寺」は、三門を潜り境内に入ると

流石に”厳かさ”を感じる!本尊は十界。境内は約500坪。客殿、七面堂、

庫裏、鐘堂、門、土蔵などの伽藍が配置される。

往時は除地2畝歩。境外字受地村方水帳御座候。※当時火葬場廟所。


「妙善寺」本堂には、山号「金光山」の扁額が架かる!

「金光山妙善寺」は、甲斐国志3-229によると、

黒印550坪、除地4段3畝5歩。日蓮宗(遠光寺村)宝塔山遠光寺末。

安土桃山時代の文禄11年(1568年)”慈眼院日恵”の開山と伝わる。

往古黒川金山の盛んな頃、発掘をしていた就労者の菩提寺として建立。

金山の衰退で、後に寺屋敷から現在地下於曽に移転。寛永年間に焼失。

以後、再建され、利便性を活かして市民の役に立ち現在に至っている。

注)同時代、下於曽500旗板に浄土宗廃宝池山正念寺も移転したが、現在は廃寺。

江戸時代末期、火災で焼失している。


「下於曽」には・・・、こんな歴史の変遷があった!

「下於曽」は、大日本地名辞典によると次のように紹介されています。

「下於曽村」は、上於曽村の南にある。西部を塩川が南流する。

慶長古高帳に村名が見え、高855石余、幕府領。寛永10年(1633)徳美藩、

元禄11年(1698)幕府領に復した。宝永9年(1705)甲府藩領、同7年(  )

甲府新田藩(柳沢時陸)領、享保9年(1724)幕府領になり、支配代官は、

石和、川田、石和と交替した。天保3年(1832)以降は、田安家領。

正徳3年(1713)の検地で高998石余、田36町1反余。畑26町2反歩余。

うち屋敷8町2反余となる。※検地帳(県立図書館蔵)。・・・、

江戸時代後期には、長百姓二人が酒造業を営んでいて、田辺七兵衛が

83石、風間半三郎が36石(慶応3年酒造石高諸道具書上帳)風間敏夫家文書。

注)於曽四郎光経が拠点にした「於曽屋敷」を囲んだ小集落「旗板」は、

中世豪族屋敷に因んだ小字と考えられている。

於曽四郎光経の勧請と伝える若宮八幡宮(現若宮八幡大神社)には、

社中の植え込みのうち、栗の木へ桜の枝が一夜にして生じたことから、

古来人々が「一夜桜」と称し、珍重した奇樹があったと云う。※甲斐国志

当村は、この若宮八幡宮を氏神様としていたが、ブログ前号で紹介した

上於曽村の「菅田天神社」も氏神様であったと云う。

下於曽の「日蓮宗 金光山妙善寺」は、天正20年(1592)加藤光政身延山

末寺寺屋敷免許状(久遠寺文書)によれば、寺地550坪の地子銭を免除

されている。江戸時代、寺地は黒印地(寺記)。他に旗板に浄土宗正念寺

真言宗祐泉寺(現風間酒造の敷地内)、曹洞宗宗竜寺があったが、廃寺

なっている。注)何れも、往時の金山衆で、金山衰退によって移転した

が、何れも現在は廃寺になっている。現在の住民には殆ど知られない。

天明年間(1781~89)には、長百姓廣瀬文左衛門、文化年間には、田辺

周右衛門宅に寺子屋があった。

明治8年(1875)、上於曽村他5ケ村が合併して「七里村」となった。

その後、塩山町となり、塩山市、甲州市へと合併により変遷している。


甲州市塩山の「温故知新」移住者が見る「塩山下於曽」!

これらの資料記述から、於曽鄕も往古は稲作が中心の地勢が読めるが、

現在は商業地の中心になり、未だ、畑はあちこちに散在するも、殆どが、

果物葡萄、桃)栽培されている。

特に旧「於曽鄕」は、商業店舗兼住宅やお庭の広い邸宅が目立ち、

駐車場の広い大規模店舗(スーパー・家電量販店などチェーン店)が、

増加しているが、依然、人口減少が続いており、高齢化と共に、適宜、

進化していると云いたいが、勢いは余り感じない。

移住者としては、これ以上、都会化をして貴重な自然(緑)を減らして

欲しくないと云う気持ちには変わらないが、地元の皆さんの意思は尊重

したい。適当に不便さのない住みやすい良い街だから・・・!

願わくは現状維持ができれば良いと思っている!


「於曽屋敷」のあった現「下於曽」には、こんな歴史が!

往古の於曽鄕の源流になった現在の甲州市塩山下於曽は・・・、

他に中世以降、黒川金山が栄えたことで、特に武田家重臣の金山衆ら

が館を構えたところが、現在の下於曽である。

注)現在は末裔が継承して居住のため取材写真は省略しますが、現在

の様子(写真)はネットでも紹介されているので、参照を乞う。

その代表的な金山衆は①田辺四郎左衛門、武田信玄公元亀2年(1571)

に駿河深沢城の闘いで金堀技術を駆使して活躍した大身であり、現在も

子孫に継承される。②依田宮内左衛門、③若月吉右衛門、武田氏家中、

三枝氏の配下と云われる。現在も子孫が継承。

④風間佐渡守、黒川金山衆で現在も甲斐ワイナリー(江戸末期酒蔵)が

建っているが、末裔が、風間氏の屋敷等を継承している。

⑤中村氏、黒川金山衆であったか否かは不詳だが、推定同じような屋敷。

池田東市祐(往時、黒川金山衆)、の屋敷が於曽鄕に構えられた。

大日本地名大辞典によると・・・、さらに、

黒川金山の衰退により、寺屋敷から、正念寺、祐泉寺、宗竜寺などが、

現下於曽に移転して、後の塩山市、現甲州市の基盤になったことが辿れる。

一言記載するが、往古は塩川の右岸標高375mに縄文時代の集落跡

「町田遺跡」が発掘されており、太古の時代から下於曽は、人が住み易い

地域であったことがわかる。


「塩山駅」開設以降、甲州市塩山旧於曽は現在に至る!

近代、明治36年6月、中央本線が新宿~甲府間に開通すると、塩山駅が

開設。往時、七里村上於曽の商店街の形成が進んだが、明治42年、

上於曽に”繭(まゆ)取引所”として”丸十商会”が創設され、県下でも有力

繭市場となった。その後、塩山駅を中心に東山梨郡第一の商業地として

発展し、大正8年(1919)の職業別戸数は、農業860,商工業620、

その他47であった。※七里村事務報告 現甲州市役所所蔵。

重川沿岸には安山岩(青石)、石英閃緑岩(御影石)の産出も多く、建築

石材として京浜方面へ搬出され、塩山駅の開設で上於曽は大いに栄えた。

第二次世界大戦後、市域の大部分を占めた農業生産の大きな変化は、

葡萄、桃栽培の増加で、昭和25年頃から見え始め、30年代~40年代に

掛けて中央部から北部へ及んでいく。以後、普通畑、桑園に留まらず、

水田の果樹園化が進み、葡萄の他、桃、スモモなどの果実生産が主力

なった。地域(野田地区など)により、サクランボの栽培、名産になった

松里の枯露柿があり、ハイキングコースとして「大菩薩峠」を始め、山梨市

域になるが「西沢渓谷」へのJR塩山駅下車にて、大勢の方が訪れている。

塩ノ山を中心部に、菅田天神社などの古社、向嶽寺など所在する上於曽、

、車社会に対応して、バイパス(新道)の付け替え工事によって、

商業地も下於曽に移っていて、平成8年に合併で「甲州市塩山下於曽」

を中心に、適宜コツコツと時代の変遷と闘いながら、少なくとも高齢者が

ますます増加する中で、現状は手頃に「住みよい街」を維持している!


次号から、甲州市内の赤尾~裂石へと具に辿ってみたいと思っています。


 



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