五十の手習い足払い

五十歳を過ぎて始めたブログももう何年目?
山梨に住む新しモノ好きのオヤジが自分の趣味や日々の暮らしをつづります。

1967年日本GPのポルシェカレラ6

2011年09月25日 | ミニカー
1967年の第4回日本グランプリ(GP)は5月3日富士スピードウェイ(1周6km×60周)で開催されました。
ポルシャカレラ6(#8)をドライブする生沢徹選手が2時間4分39秒22(平均速度173.280km/h)で走って総合優勝を勝ち取りました。

私は当時中学一年生。
まだモータースポーツを知り始めたばかりで、生沢選手の名前を知るのは翌年の日本グランプリの頃だったでしょうか。

前年の1966年に日本GPをプリンスのファクトリーで戦った生沢選手はその後単身渡欧し、F3で腕を磨き1967年の日本GPのために帰国します。
しかし、プリンスは日産自動車に吸収合併されファクトリードライバーが大勢いて、生沢選手のドライブするマシン(プリンスR380→ニッサンR380)はありませんでした。

その後生沢選手は前年のライバルであったポルシェのカレラ6(906)を手に入れ、レースに臨むことになります。
このとき見つけた個人用スポンサーはペプシ・コーラ、ヴァン・ジャケット、ブリジストン・タイヤなどでした。それらのステッカーがマシンに貼られました。
今でこそ当たり前の光景ですが、その当時のレースカーは(アメリカのインディ・レースなどを除いて)ほとんどがナショナルカラー(イギリスはグリーン、ドイツはシルバー、イタリアは赤など)に塗られていた時代でした。

予選をトップで通過した生沢選手のポルシャカレラ6は、1周目にトップに立つとそのまま順調に首位を快走します。
2位に付けた高橋選手のR380と接戦を繰り広げますがトップの座は明け渡さないまま、18周目にスピン。高橋選手もこれに巻き込まれてスピンしてしまいました。

先にレースに復帰した生沢選手はマシンチェックのためにピットイン。すぐにスタートしますが2位に落ちてしまいます。(このとき生沢選手のピットにいてガソリン補給をしたのが、今の徳大寺有恒氏というのは有名な話)

生沢選手は首位を行く同じポルシャカレラ6(#7、残念ながら未入手)をドライブする酒井正選手を追走し、34周目に首位を奪い返すと、43周目以降は首位を守ってチェッカード・フラッグを受けました。

大企業、それも自分を拒んだメーカーを相手に一匹狼の生沢選手が勝ち取った勝利で、一気に彼の名前は有名になったのです。(その後生沢選手はヨーロッパのF2、F3レースで活躍します)



2位には同ラップでニッサンR380(#10)の高橋国光選手、3位は同じニッサンR380(#12)の砂子義一選手が入りました。
3台を並べると上記の写真のようになります。

ミニカーはエブロ製(1/43スケール)。


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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ガルウイング (MK)
2011-09-25 17:57:24
この頃のスポーツカーのデザイン好きでした。
特にガルウイングドアが開いた場面がたまりません。
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見応え充分・・・ (300SL)
2011-09-25 21:41:55
素晴らしい!906格好良いです。NISSANも負けすに精悍です。当時の自動車メーカーの勢いを感じます。
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ガルウィング (のせ)
2011-09-25 22:42:52
MKさん、
ガルウィングかっこいいですよね。
私くらいの年齢から見ると、市道を走れそうなスタイルのクルマをかっこいいと感じるようで、最近は当時のグループ7よりグループ6の方が気になりだしています。

300SLさん、
こうして見比べてみると、R380は906に良く似ていますね。
この当時、10馬力ほど強力なR380に対してやや軽量な906は本当に互角の勝負をした感じがします。それは68年や69年の日本GPとは違うものだったんですね。
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