本田透氏が書いた「なぜケータイ小説は売れるのか」という本を読みました。
それによると、ケータイ小説のオチに求められているのは、真実の愛による救済だそうです。
あれ、これって泣きゲーとあんまり変わらないんじゃねえ?
そう思って違うところを考えてみたら、
・ケータイ小説は、援助交際・妊娠・中絶・ドラッグなどで汚れてしまった人物が救済される
・泣きゲーは、理不尽な不幸に見舞われた純粋な人物が救済される
このへんだと思いました。
まあ、中には救済されない話もあるんですけど。
それから、どちらに感情移入するかの問題がありますね。
ケータイ小説の場合は、読者は「救済される側」に感情移入しているのだと思います。
世間一般の人間は、そこまで純粋ではありませんから、いい子が普通に救われても自分の救済にはつながりません。
ベタベタに汚れた人間が救われるところを見て、ようやく「自分も救われうる存在だ」と感じることができるのです。
逆に、泣きゲーの場合は、プレイヤーは「救済する側」に立っていることが多いです。
となると、やっぱりいい子を守ってあげたくなるのが人情というもので。
しかし、泣きゲーの場合「救済する側」は男性なんですけど、「救済する側」に立ちたい女性は、どういうフィクションを求めるんだろう……。
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そこでBLなのか?