帰ってきた特派員報告

2004年に沖縄移住しteacupブログ開設→gooブログへ引越し

朝起きて

2007-06-30 10:39:06 | ノンジャンル
今朝、例のごとく二日酔いぎみで冷蔵庫をあけると、
変なものが入っていた。
眼をこすりながらよくみると、
それは木酢液だった。

こんなことをする人は我が家にはひとりしかいない。

ばあちゃんだ。

ボトルを見せながら苦情を言う。

「どうしてこんな危ない物を冷蔵庫に入れるんだよ」

「あらまあ。りんごジュースかと思ったのよ。ベランダに置いてあったし」

「いやいや、冷蔵庫とベランダって関係ないけど」

「でもそれ、酢ってかいてあるじゃない。もしかしたら身体にいいんじゃないの」

「ぜんぜん良くないよ。むしろ農薬や殺虫剤に近いよ」

「農薬。。虫を殺す・・」

「うん。飲んだらたぶん人も死ぬね。」

(2~3秒沈黙)

「そうそうあんた、あぶらむしは牛乳をかけると死ぬの知ってる?」

「いや、木酢液の話をかたずけようよ」

「そんなのあんたが危ないもの使うのがいけないのよ。牛乳使えばいいじゃないの(逆ギレ)」

「・・・・。」

ばあちゃんとの会話はいつも不毛である。



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ガーラ

2007-06-27 11:20:42 | 釣り

我が家の食材捕獲場所である糸満港へ。
青い海を眺めながら、釣りをする。
季節や潮の様子によって、その日のおかずはかわります。
イカ・サヨリ・黒鯛・グルクン・タマン・・・

本日はガーラ(ロウニンアジ)です。
ちょいと小ぶり(成長すると1メートル)なのですが、
刺身にしていただきました。
コリコリして美味い!

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慰霊の日(3回目)

2007-06-23 22:09:59 | 沖縄ねた

沖縄にやってきて、今日でちょうど3年。
汗だくになりながらも、時にはぼーっと過ごし、
なんというか、あっという間の三年間であった。

3年前の今日、荷物を満載した軽自動車でやってきた。そしてコザの<ahref="http://homepage.mac.com/rafutei/goyahso/hp2/index.htm">ごーやー荘という民宿に居を構えた。
当初、ゴキブリや台風に悩まされもしたが、
民宿の主人の秀さんや隣のバーのオーナー、マリさんを介して多くの知己を得ることができ、なにより優秀なスタッフに恵まれて、なんとかここまでやってこれた。

で、これからは・・。
どうなるんでしょうねぇ。
自律神経、ぼろぼろですし。
足の皮もむけてきたし。
わかりませんねえ。

とりあえず、世界一の嫁さんがみつかるまでは帰りませんから。
それは俺の空ですから。

・・・つかれたので、寝まス。

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戦地巡礼 3

2007-06-21 18:19:36 | 戦跡巡り
今日は朝からやけに日差しが痛いと思っていたら、
梅雨明けであった。

門下生が開業したので、沖縄南部のお店へお祝いに行く。
極上のアロママッサージを受け、午前中にもかかわらず眠ってしまった。

帰り道、平和祈念公園から抜けるような青い海を眺める。
いよいよ夏本番だ。



その後、平和公園から10キロほど離れた、富盛というところにある大獅子へ寄り道してみる。
獅子の視線の500メートル先には八重瀬岳がひかえ、ここに日本軍の拠点があったそうだ。

獅子くんのからだに残っている銃弾の跡は、八重瀬岳で抵抗した旧軍からのものであろう。
現在は草木が茂り、見晴らしは悪くなっているが、丘のふもとにはさとうきび畑がザワワと拡がっている。






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戦地巡礼 2

2007-06-15 23:18:01 | 戦跡巡り
沖縄南部の西原地区を望む。
本営首里城を守る日本軍の最後の拠点だった所だ。

この写真を撮るのはけっこう苦労した。
グーグルアースと地形図を頼りに、たぶんこのあたりだろうと当たりをつけた撮影場所に向かったのだが、首里の細い坂道はクネクネまがるし、一方通行や袋小路が多いのでなかなか目的地に近づけない。
ようやく丘の頂上にたどり着くと、そこは一般住宅になっていた。
しかたなく撮影をあきらめて車をバックさせる。

が、不思議と今日にかぎってはなんとなく後ろ髪がひかれるおもいがする。

車内で改めて昔の写真を手にとってみる。
爆撃の凄惨な爪あとの生なましさををみると、たぶん六十数年まえの
「今頃」(陥落した6月前後)に撮られたものだろうと察した。

再び車を降り、勇気をだして家のベルをピンポンする。

車椅子の爺様とその息子とおぼしき男性が玄関に現れた。
恐るおそるこの昔の写真を見せ、訳を話すと、
「おお、それはよく来た。入って、好きに撮りなさい」
と庭まで案内してくれたのだった。

芝生の庭の先に広がる東海岸の風景は、はたして60年前の写真と全く同じ場所であった。

梅雨明け間近の今日、
この夏初めての蝉の声をききながらシャッターを押した。



遠く左に見える稜線が米軍の拠点「スカイライン」。
この場までの4キロが最大の激戦地だったらしい。
米軍の圧倒的な物量をもってしても40日間のあいだ、1日に100mしか進むことができなかったと聞く。
同じ物資があれば米軍は負けていただろう、とアメリカの歴史学者が言うのもうなずける。
旧軍そして沖縄県民よく戦えり、だ。

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