沖縄南部の西原地区を望む。
本営首里城を守る日本軍の最後の拠点だった所だ。
この写真を撮るのはけっこう苦労した。
グーグルアースと地形図を頼りに、たぶんこのあたりだろうと当たりをつけた撮影場所に向かったのだが、首里の細い坂道はクネクネまがるし、一方通行や袋小路が多いのでなかなか目的地に近づけない。
ようやく丘の頂上にたどり着くと、そこは一般住宅になっていた。
しかたなく撮影をあきらめて車をバックさせる。
が、不思議と今日にかぎってはなんとなく後ろ髪がひかれるおもいがする。
車内で改めて昔の写真を手にとってみる。
爆撃の凄惨な爪あとの生なましさををみると、たぶん六十数年まえの
「今頃」(陥落した6月前後)に撮られたものだろうと察した。
再び車を降り、勇気をだして家のベルをピンポンする。
車椅子の爺様とその息子とおぼしき男性が玄関に現れた。
恐るおそるこの昔の写真を見せ、訳を話すと、
「おお、それはよく来た。入って、好きに撮りなさい」
と庭まで案内してくれたのだった。
芝生の庭の先に広がる東海岸の風景は、はたして60年前の写真と全く同じ場所であった。
梅雨明け間近の今日、
この夏初めての蝉の声をききながらシャッターを押した。
遠く左に見える稜線が米軍の拠点「スカイライン」。
この場までの4キロが最大の激戦地だったらしい。
米軍の圧倒的な物量をもってしても40日間のあいだ、1日に100mしか進むことができなかったと聞く。
同じ物資があれば米軍は負けていただろう、とアメリカの歴史学者が言うのもうなずける。
旧軍そして沖縄県民よく戦えり、だ。
本営首里城を守る日本軍の最後の拠点だった所だ。
この写真を撮るのはけっこう苦労した。
グーグルアースと地形図を頼りに、たぶんこのあたりだろうと当たりをつけた撮影場所に向かったのだが、首里の細い坂道はクネクネまがるし、一方通行や袋小路が多いのでなかなか目的地に近づけない。
ようやく丘の頂上にたどり着くと、そこは一般住宅になっていた。
しかたなく撮影をあきらめて車をバックさせる。
が、不思議と今日にかぎってはなんとなく後ろ髪がひかれるおもいがする。
車内で改めて昔の写真を手にとってみる。
爆撃の凄惨な爪あとの生なましさををみると、たぶん六十数年まえの
「今頃」(陥落した6月前後)に撮られたものだろうと察した。
再び車を降り、勇気をだして家のベルをピンポンする。
車椅子の爺様とその息子とおぼしき男性が玄関に現れた。
恐るおそるこの昔の写真を見せ、訳を話すと、
「おお、それはよく来た。入って、好きに撮りなさい」
と庭まで案内してくれたのだった。
芝生の庭の先に広がる東海岸の風景は、はたして60年前の写真と全く同じ場所であった。
梅雨明け間近の今日、
この夏初めての蝉の声をききながらシャッターを押した。
遠く左に見える稜線が米軍の拠点「スカイライン」。
この場までの4キロが最大の激戦地だったらしい。
米軍の圧倒的な物量をもってしても40日間のあいだ、1日に100mしか進むことができなかったと聞く。
同じ物資があれば米軍は負けていただろう、とアメリカの歴史学者が言うのもうなずける。
旧軍そして沖縄県民よく戦えり、だ。