近頃よくみかける多機能トイレにある小さな謎の便器。
知り合いに、あれって村さ来やつぼ八にあるようなゲロ吐き用と思ってたけど、たぶん赤ちゃんのお尻洗いだよね、でもそれにしては使いにくそうな形じゃない?って話したら、「もしかしてオストメイトのことですか」と言われてあとでこっそり調べてみたら耳が赤くなりました。
さて、仕事が休みの本日は早朝は豪雨、午後から快晴という天気なのでここは晴耕雨読、小雨まじりの午前中に琉球大学の図書館へ行ってきました。
サイトには学生以外の一般の人は沖縄在住者に限るとあり、写真も必要とのことですが今回はどうでしょう。
入り口には湯川秀樹博士の揮毫が。
「読んで読んで、読みまくれ。死んでも読め」と学生に檄を飛ばしています。
シーサーの前足の下にも本が。 琉大の鬼十則か。
受付で聞いてみると、閲覧だけなら誰でもOKでした。
ただ、一般入館者記入用紙に「資料調査の目的」という欄があり、なんも考えてなかったのでしばらくうなっていたところ、係の人が「だいたいでいいんですよ」というから適当に「ふぐ毒について」と書いてスルー。
近頃は東京湾でとらふぐが繁殖している、っていうじゃない。
館山で釣ったとらふぐを河豚ちりで。夢のようだ。
ふぐ調理師免許取らなきゃ。
いやー、広い。さすがは国立大学だ。こんな棚で作られたダンジョンが三階建てで構築されていて、思わず便意を催してしまいました。
(ちなみにたくさんの本を見たときの便意のことを「青木まりこ現象」というらしいです)
沖縄関係書籍のコーナーだけでも町の図書館くらいあります。
ここでちょっとおもしろい本を発見しました。
大正15年刊「ペルリ提督 琉球訪問記」
ペリー提督の日本遠征記は有名だけど、こんなバージョンがあるとは知りませんでした。
本土復帰前の収蔵なのでしょうか、本の概略に3ドル50セントで買った、と記録されたカードが入っていました。
タイプライターの文字を久々に見ましたが、何とも言えない味わいがありますなぁ。
この本はペリーが沖縄で何を見て、なにを感じたのかが細かく記録されていてとても興味深いです。
冒頭に「那覇の町はゴミひとつ無く、人々の衣服もとても清潔で驚いた」とあります。
琉球に着くまで、インドや香港、上海などの魔都を経由しているから、なおさら綺麗に見えたのでしょう。
で、ペリー提督たち一行はこの後、中南部を探検に出かけるんですが、この理由がよくわかっていないのです。
沖縄に(捕鯨船の燃料のための)石炭はないかの調査のためだとか、日本との通商条約締結がうまくいかなかった事態に備えて、琉球を占領するための地理調査、などの諸説がありますが、この本を読んでみたら、それってなんだかちょっと違うんじゃないかと思えてきました。
だって、この本の内容ってこんな調子なんですよ。
土民たち、これが懐中時計だよどうだすごいだらう
ピストル、バーン! 住民キャー!
うわあ、こいつらちんちんの形の石を拝んでいるぜ!
「オランダやエゲレスのやつらが琉球に来ても、俺様より奥地は見たことがないだろう、ふん」という、なんかもうね、全編ヤンキーの物見遊山な内容なんですよ。
まあ、それはそれで読み物としては面白いんですが。
あと、水兵が酒を飲んで民家に忍び込み、女性を暴行して住民にフルボッコされて殺されたりもしています。
米兵と県民の状況は今とあんまり変わんないですね。
で、しまいには付近で一番高い岩山に登り、アメリカ国旗を立てて「この場所をバナーロック(旗立岩)と呼ぶがいい」と言って祝砲をぶっ放したりしています。
その岩山が、琉球大学の近くにあるのです。
そしてもうひとつ、今、住んでいる中城村の史書を紐解いてみたところ。
読谷から上陸した米軍が、首里の日本軍本営を目指して進軍してきた沖縄戦初期のころ「がに股で出っ歯でチビのジャップごときが」とたかをくくっていたヤンキーどもに対して、練度が高くかつ勇敢な戦術を持ってして彼らの心胆を寒からしめる戦闘が行われたという、いわくつきの高地拠点が、これがまたなんとペリーの旗立岩の近くにあることが判明したのです。
これはどうやら呼ばれているようですね。
雨があがったので、ちょっくら行ってみますか。
久しぶりの戦跡巡りです。
昔、首里城から中城・勝連城へは山の「ハンタ道」を使って往来していました。
ハンタとは崖とか端という意味で、太平洋側の稜線にその道がありました。
赤い道がハンタ道。 戦前までは、海沿いの国道329号線はなかったのです。
下方が首里城方面で、今回は琉球大学のあたりから上方へ、てくてくと歩きました。
山あり谷ありの険しい道ですが、時々、このような開けた場所があって、そういうところは道行く人の休憩所があったそうです。
遠くに勝連半島と津堅島が見えます。
こういう眺めの良い原っぱのことを、毛(もう)といいます。有名な万座毛もその一つですね。
沖縄には、夜な夜な毛に若い男女が集まる「毛遊び」(もうあしびー)という、今で言う合コンみたいなことをする風習がありました。
まあ、ぶっちゃけ「いちゃいちゃなこと」が行われていましたが、昔は婚前の娘っこはムラのみんなのものという共通認識があって、集落のそれぞれが定期的に毛遊びをすることでムラの結束を高めておったという背景もありました。
明治になって役人が毛遊び禁止令をだしたけど、昭和までこっそり行われていたそうです。
徴兵逃れのために毎晩のように毛遊びに参加させて子供を疲弊困憊させた、なんていう記録もあるくらいです。
他にたいした娯楽もないので、楽しいこと急にやめられるわけないですよ、ねぇ。
俺だってそんな疲労困憊なら毎日してみたいもんです。
リポD飲んで、チカレタビー!とか言ってみたい。
沖縄戦のころには若いもんがみんな兵隊に取られて、残念ながらこの素晴らしい毛遊びは廃れてしまったんですが、アメリカに占領されたあとに「ビーチパーリー」として毛遊びのDNAを存続させているから、さすがだな沖縄県民は。
さて、そんな眺望の良い場所の下にはかなりの確率で、お宝が眠っていることをよしざる犬は知っています。
そろりそろりと崖を降りてみますと・・・
ありました!ワンワン!
埋まり物のアンティークボトルです。
うちに帰って洗ってみると
ベストソーダでした。 1950年から70年にかけて沖縄で製造、愛飲されていた炭酸飲料です。一本5セントと安価だったので、多くの県民の喉を潤したそうですが、いまとなってはそれがどんな味だったのか知る由もありません。
話が横道にそれました。毛を後にして、先を急ぎます。
ハンタ道も中盤からは石畳がなくなりました。
夏場は蚊に悩まされそうです。冬のうちに来といてよかった。
自販機はおろかトイレも無い。ペットボトルくらい用意しとくんだった・・・
大丈夫なのかこれ。 ハブって冬眠しないっていうよね。
不安になりつつも分け入って、分け入った先に。
ありました!
日本軍168.1高地陣地
米軍はここをピナクル(とんがり山)と呼びました
ピナクルの下に壕がありました。
内部はおっかないから入りませんでした、すいませんねぇ小心者で。
ヘルメットとライトさえあれば楽勝ですけどね。(震え声)
米軍が攻撃してくるときはこの壕に隠れ、攻撃が止むとピナクルに登って内部から砲撃&機関銃掃射をしたそうです。
ベトコンのゲリラ戦と同じですね。
では、登ってみましょう。
東側の銃座
最上部からは嘉手納・北谷の海が一望できます。
ここから4月1日の米軍上陸をじっと眺めていたのでしょう。
ピナクルの上で風に吹かれながら、ここでの戦闘のことを想像しました。
破壊された軽便鉄道の線路をえっちらおっちら運んで、とても頑強なトーチカを作っってくれたのは中城村の住民です。毛遊び我慢して。
そのおかげで日本軍は少ない物資と人数で、3日間も米軍をここで足止めすることに成功しました。
このピナクルの激しい戦いがあったので、米軍はそれまでの安易な戦略を改め、慎重に進軍するようになったのです。
当初、沖縄戦は1ヶ月で終了すると計画されていたのですが日本軍の奮闘で3ヶ月も長引かせ、米軍は最高指揮官を失い、1万人以上の犠牲を払い、こりゃ本土に上陸したらとんでもない被害が出て国民の支持がえられなくなるんじゃないか、と上層部は一転して厭戦ムードになりました。
敗戦したドイツのように日本全土を掌握する方針が、結局は、天皇陛下を利用することでポツダム宣言を受諾させるよう方向転換。
ここでの戦が原爆投下やソ連との密約の原因になったという議論もありますが、沖縄で戦った日本兵は決して犬死になんかじゃなかった、と強く思いました。
っていうか、バックナーもそんな南部の崖っぷちまで追い詰めるなよ。
あのマッカーサーも、多くの民間人の犠牲をだした南部戦線を批判したそうです。
さて、ハンタ道に戻り先を急ぎます。
またまた小高い岩が見えてきました。
ペルリの旗立岩です
琉球訪問記によると、「上は狭くて一人が立てるくらいのスペースしかなかった。眺めが良かったので星条旗を立てた。下で祝砲が3発鳴った。 付近の住民にはこの岩をバナーロックと呼ぶように言った」
馬鹿とけむりは高いほうに登る、といいますからね、よしざるも上に登って会社の旗を立ててツイッターを炎上させてやろうと思いましたが当然、会社の旗なんかないし、岩は立入禁止。
ぺりーが密かに計画していた琉球占領。
100年後、ほんとに占領されちゃったんですねぇ。。。
米国民にとって国旗を立てるっていうのは特別な意味があるんです。
硫黄島も月面着陸のときもやりましたね。
ではまた。何か見つけたら報告します。
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