12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
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言葉の力その2

2009年01月28日 06時41分49秒 | Weblog

 前回、「よくもこの程度レベルの人が政治家に成れたものだ、我々の国では到底ありえないことだ」と外国の政治家に言われた話と、

根本的には、言葉を発する人の品性・品格・思想・理想などが言葉に力を与えるのではないかと思っていると書いたが、その続きである。

日本人の知的平均レベルは、世界でもかなり高いと思うが、良いほうにも悪いほうにもあまり突出せず平均値付近に集中しているのであろう。

それゆえ、あっと驚くような突出した人物が現れにくい国になっているのだろうと思っている。

物質的には貴族的な生活をしている我々は、精神的な貴族に成る必要があると思っている。

ブレス・オブリージュまたはノーブレス・オブリージュ (フランス語:noblesse oblige) は「貴族の義務」あるいは「高貴な義務」のこと。一般的に財産、権力、社会的地位の保持には責任が伴うことをさす。

この種の精神を実践している政治家・権力者達が日本にどれほどいるのだろうか。

本日の我国首相の演説を注目している。

Wikiよりの補足:
この言葉の意味する概念自体は新約聖書の福音書に由来している。
「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」(「ルカによる福音書」12章48節)(新共同訳)。

 F.A.ケンブル(フランセス・アン・ケンブル、1809-93,イギリスの女優)が1837年に手紙に「…確かに『貴族が義務を負う(noblesse oblige)』のならば、王族はより多くの義務を負わねばならない」と書いたのが、この言葉が使われた最初である。

 倫理的な議論では、特権はそれを持たない人々への義務によって釣り合いが保たれるべきだという「モラル・エコノミー」を要約する際にしばしば用いられる。

最近では主に富裕者、有名人、権力者が社会の模範となる様に振る舞うべきだという社会的責任に関して用いられる。

「ノブレス・オブリージュ」の核心は、貴族に自発的な無私の行動を促す明文化されない社会の心理である。

それは基本的には、心理的な自負・自尊であるが、それを外形的な義務として受け止めると、社会的(そしておそらく法的な)圧力であるとも見なされる。 法的な義務ではないため、これを為さなかった事による法律上の処罰はないが、社会的な批判を受けることはしばしばである。

現代のアメリカでは、裕福な人物や著名人がボランティア活動をする事は当然とされ、しない方が特異視されやすい。「最近どういうボランティア活動をしていますか」と問われて、「何もない」と答える事は、地域社会にとけ込む事を困難にしかねない。

貴族制度や階級社会が残るイギリスでは、
上流階層にはノブレス・オブリージュ(ノーブル・オブリゲーション)の考えが浸透している。

第一次世界大戦で貴族の子弟に戦死者が多かったのはこのためであり(皆志願して従軍した)。

フォークランド戦争にも王族(アンドルー王子など)が従軍している。
現在でも、例えば高校卒業後のギャップ・イヤーに、ウィリアム王子がチリで、ヘンリー王子がレソトの孤児院でボランティア活動に従事している。