後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

明治維新直後に奔流のように流れ込んだキリスト教諸派

2019年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム
明治維新によって西洋の宗教が日本に奔流のように流れ込みました。そして当時の学生たちはキリスト教をこぞって受け入れたのです。
札幌の農学校や熊本の洋学校などの新しい学校にはプロテスタントの宣教師が招聘されていたのです。
その結果、明治初期の学生たちはキリスト教に従うとい誓約を集団的に宣言し、各地にこの集団組織が出来ました。この集団を「バンド」と呼びます。
札幌バンド(メソジスト)と横浜バンド(長老派)と熊本バンド(会衆派)は明治初期の三大バンドと言い、その後の日本のプロテスタント系の教会やミッションスクールの発展のもとになったのです。

そこで今日は明治維直後に出来た「バンド」について概観したいと思います。
まず内村鑑三や新渡戸稲造などを輩出した札幌バンドを見てみましょう。
札幌バンドは、日本のプロテスタントの発祥地の1つと言われています。札幌バンドの中の内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾を中心とする青年の活躍は注目され、横浜バンド、熊本バンドと並んで日本のプロテスタント発祥の3基点の1つに数えられてます。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AD%E5%B9%8C%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89 より抜粋)
ウィリアム・スミス・クラークの感化でキリスト教信者になり、「イエスを信ずる者の契約」に署名をした札幌農学校の学生集団は札幌バンドと呼ばれているのです。
ことに注目されるのは、適当な機会がくれば、信仰の諮問を受けた上で受洗し、「或る福音主義の教会に加入すべきこと」を誓約しました。そして青年達は、1878年(明治11年)、メソジスト派の宣教師M.C.ハリスから洗礼を受けました。
1882年(明治15年)、札幌バンドのメンバーは「札幌独立基督教会」を設立してその教会員になります。
しかし、その後、宣教師との関係の悪化により、メソジスト派との関係を絶つことになるのです。後に、新渡戸稲造はクエーカー派の信徒になり、内村鑑三は無教会を創始するのです。

一方、熊本バンドは、1876年(明治9年)1月30日に熊本県熊本市の花岡山で、熊本洋学校の生徒34名が、米国人教師L.L.ジェーンズの影響を受けて、自主的に奉教趣意書に署名してプロテスタント・キリスト教に改宗し出来上がりました。この盟約を交わした集団を熊本バンドと言います。しかしその直後に、熊本洋学校は閉校になり、その後、熊本の学生達は新島襄の同志社英学校に移り、卒業後は同志社大学、日本組合基督教会の重鎮になり基礎を築いたのです。

横浜バンドは1872年にアメリカ長老派教会のジェームス・カーティス・ヘボン夫妻と1859年11月にアメリカ・オランダ改革派教会のサミュエル・ロビンス・ブラウンを中心につくられました。日本初のプロテスタントの教会を日本基督公会といい、この集まりは横浜バンドと呼ばれるようになったのです。
そしてヘボンはヘボン式ローマ字を作り、さらに明治学院を創立したのです。

明治初期のバンドは日本各地に出来、プロテスタント教会が日本の学生社会を風靡したのです。
各地のバンドは日本各地にプロテスタント系のミッション・スクールを開設して日本の教育に大きな貢献をしたのです。
例えば私の郷里の仙台市には宮城学院や東北学院があります。
宮城学院は押川方義が創設したキリスト教(プロテスタント、福音主義:日本基督教団)系の学校で、1886年9月に創立されています。
アメリカ合衆国の改革派教会宣教師W.E.ホーイと押川方義をはじめとする日本人キリスト者たちによって、初めは「宮城女学校」が創立され初代校長にエリザベス・R・プールボーが就任しました。
女性の高等教育機関がほとんどなかった当時の仙台市で宮城女学校はキリスト教に基づく女子の高等教育を行う学校として注目を集めたのです。現在この宮城学院には幼稚園から大学まであり発展しています。

明治初期に出来た各地のバンドや聖公会やカトリックは日本の教育界に大きな寄与をしてきました。
しかし洗礼を受ける人はごく少なく、日本のキリスト教信者は総人口の3%を越えることはありません。
これも西洋の文化と日本社会の融合のありかたの一つとして興味深い独特の文化的風景と静かに眺めています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 

1番目の写真は札幌農学校の札幌バンドの青年たちです。

2番目の写真は札幌バンドの内村、新渡戸、広井、伊藤、大島です。

3番目の写真は日本組合基督教会の熊本バンド出身者です。

ウイグル民族の約100万人が強制収容所

2019年06月15日 | 日記・エッセイ・コラム
 中国政府から抑圧されている少数民族ウイグル人は国連人種差別撤廃委員会によれば、約100万人が強制収容所に拘束されていると報告されています。(https://news.yahoo.co.jp/byline/shivarei/20181218-00108064/)
その収容所から奇跡的に生還した男女が来日、日本のウイグル研究者とともに、深刻な人権状況について語ります。人権に関心のある方々のために以下の講演会のご案内をお送りします。
===============================
明治大学現代中国研究所では7月6日(土)に以下のイベントを開催いたします。
ご関心をお持ちでしたら、ぜひご参加ください。お申込方法もメール内に詳報いたしております。

ウイグル人証言集会
〜 中国新疆ウイグル自治区・ムスリム強制収容を語る~
【日時】 2019年7月6日(土)14:00 - 17:00
【場所】 明治大学駿河台キャンパス リバティ・タワー3F 1031大教室
(〒101-8301 東京都千代田区神田駿河台1-1)
【定員】 250人
【参加費】 無料 要事前申込
【主催】 明治大学現代中国研究所
【共催】 アムネスティ・インターナショナル日本 中国チーム
【お問い合わせ】 アムネスティ・インターナショナル日本
E-mail:camp@amnesty.or.jp
【お申込み】 以下のアムネスティ日本公式ウェブサイトの申込みフォームよりお申し込みください。
https://www.amnesty.or.jp/get-involved/event/2019/0706_8145.html
【開催趣旨】
2009年7月5日の大勢の死者と行方不明者を出したウルムチ事件から、すでに10年が経とうとしています。新疆ウイグル自治区の人権状況は、悪化する一方です。
ここ数年、中国北西部の新疆ウイグル自治区では、テュルク系ムスリム、特にウイグル人が、突然公安警察などによって、教育施設を騙る収容所へ、強制的に収監される事例が大量に報告されています。
強制収容所には、世界的に著名な大学教授、芸術家、スポーツ選手などから農民、商人まで、ありとあらゆるムスリム・ムスリマが収監され、拘束者数は、ゆうに100万人を越えると言われています。劣悪な施設では、思想改造教育や拷問が行われ、死者も膨大な数に膨れあがっていると推察されます。
今回、日本在住ウイグル人が初めて、こうした公の場に実名登壇し、 自身や家族に何が起こったか、生の声をお伝えします。また、強制収容所から奇跡的に生還したウイグル人女性が、インターネット中継の形で参加し、彼女にも現地の情勢を語ってもらい、新疆ウイグル自治区の人権状況を皆で考える場としたいと思います。
【プログラム】
第一部
新疆ウイグル自治区のいま~解説(明治大学商学部准教授:水谷尚子)
在日ウイグル人たちの証言
~日本在住ウイグル人10名が、故郷と家族に起ったことを語る
第二部
強制収容所から奇跡的帰還をしたウイグル人女性 メヒルグル・トゥルスンさんの証言
質疑応答
※ メヒルグル・トゥルスンさんはスカイプ中継で登壇します。
【スピーカープロフィール】
メヒリグル・トゥルスンさん(29歳)
数カ国語を話せる知識人で、以前は商社に勤務していた。エジプト人と国際結婚し、三つ子を授かる。2015年5月、子供を親に見せるため里帰りしようとした際、ウルムチ空港で拘束され、子供とも引き離された。刑務所のち強制収容所に収監され、その間、連れて帰った子供のうちの1人が死亡。本人も心の病を発症するほど過酷な拷問に遭い、同房者の死を目の当たりにする。子供たちがエジプト国籍だったため、エジプト政府の働きかけで奇跡的に収容所から出ることが可能となった。

水谷尚子(みずたに なおこ)
明治大学商学部准教授。専門は現代中国史。明治大学現代中国研究所。著作に『中国を追われたウイグル人 亡命者が語る政治弾圧』
__________________
明治大学現代中国研究所
china@meiji.ac.jp
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~china/

挿し絵代わりの写真は新疆ウイグル自治区の風景です。出典は、http://video-curation.com/blog/5820/ です。





===参考資料========================
https://ja.wikipedia.org/wiki/新疆ウイグル自治区 より抜粋しました。
2000年代
上海協力機構
中国政府は、中央アジア諸国の在外ウイグル人社会が、ウイグル民族運動の拠点となっていることを警戒し続けており、1996年には上海ファイブ、2001年には上海協力機構を設立し、国内のイスラーム原理主義勢力の伸張を警戒するロシアや中央アジア諸国と共に、分離主義、イスラーム過激主義に対する国際協力の枠組みを構築した。また、2001年9月11日の米国での同時多発テロ事件以降、中国政府はブッシュ政権の唱える「対テロ戦争」への支持を表明し、ウイグル民族運動と新疆におけるテロを結びつけて、その脅威を強調している。

公教育における漢語使用の義務化
2003年には、これまで少数民族の固有言語の使用が公認されてきた高等教育で、漢語の使用が中国政府によって義務付けられた。

2005年、ライス米国国務長官の訪中を控え、米国から人権問題での批判を受けることを恐れた中国政府は、2005年3月14日に「外国での病気療養」を理由にラビア・カーディルを釈放。ラビアは米国に亡命し、のち世界ウイグル会議議長に選出され、2006年にはノーベル平和賞候補にもなった。

2009年ウイグル騒乱前後
詳細は「2009年ウイグル騒乱」を参照
2008年3月には、新疆南部のホータン市で、600名を超える当局への抗議デモが発生し、2009年6月には、広東省韶関市の玩具工場で漢族従業員とウイグル人従業員の間で衝突が起き、死者2名、負傷者120名を出し、翌7月には、事件に抗議する約3,000名のウイグル人と武装警察が、ウルムチ市内で衝突し、140名が死亡、800名以上が負傷した(2009年ウイグル騒乱)。

2009年ウイグル騒乱では中国当局は死者は197人でありほとんどが漢民族としているが、事件以降、ウイグル人1万人が行方不明となっている。

北海道の花々の写真、梅雨の憂鬱な気分を晴らす

2019年06月15日 | 日記・エッセイ・コラム
梅雨です。毎日、毎日、雨が降って憂鬱です。梅雨なのだと諦めて日々を過ごしていますが、梅雨という季節の無い爽快な北海道の風景が懐かしく思い出されます。
そこで「後藤和弘のブログ、北海道の風景写真」というキーワードを検索しました。数十枚の写真が出て来ました。兎に角、私のブログには数千枚の写真が掲載されていて分類して検索することが出来ます。
それはさておき、今日は5枚の北海道の花々の写真をお送りいたします。
梅雨の憂鬱な気分を晴らして頂けたら嬉しく思います。

1番目の写真は私が北海道で撮ったルピナスやマーガレットの花の写真です。2016年5月12日のブログ記事に掲載した写真です。函館市の臼尻町で撮った写真です。そこには立派な縄文土器の展示館があるのです。
2番目の写真は北海道の道端に咲いていたアヤメです。同じく臼尻町で撮った写真です。

3番目の写真は富良野の あとみん さんの富良野健康生活というブログからお借りした写真です。出典は、http://furano2008.blog95.fc2.com/ です。

4番目の写真は長万部町の静狩の牧草地風景です。丸加高原を入り口付近から見た風景です。ここの牧場には「牛」「馬」「羊」が放牧されているそうです。写真の出典は、http://15.pro.tok2.com/~satoubin/index.htm です。

5番目の写真は北海道の稲作地の風景写真です。北海道は現在日本一の米の産地です。水田の背景の丘が北海道らしい風景です。空には白い雲が流れ爽やかな風景です。写真の出典は、http://15.pro.tok2.com/~satoubin/index.htm です。

北海道は5月頃からルピナスやマーガレットやアヤメの花などが咲きだして美しい野原が広がっています。そして街路樹のアカシアも咲き出します。本州では季節ごとにずれて咲く花々が一斉に開くのです。
白樺や楡の木やブナノキの若葉が萌え、北海道の6月は素晴らしい風景を見せてくれます。
それにしても北海道に梅雨の季節がないのは羨ましいです。
北海道の風景に魅了され何度も行きました。
北海道の写真を見ていると毎日の梅雨の憂鬱な気分が吹き飛んでしまいます。
皆様も爽快な気分になられたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

2千年前の登呂遺跡の水田と現在の東京の水田風景

2019年06月13日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は約2000年前の農村風景が現在の東京の農村風景とよく似ていることを写真で示したいと思います。
稲作の水田が広がる風景が同じなのです。しかし農家が立派になったことだけは違います。
日本に稲作の水田風景が広がるようになったのは現在より2300年前の弥生時代になってからです。
ご存知の通りこの弥生時代の前後の時代区分は次のようになってます。
旧石器時代 –約4万年前ー 紀元前14000年頃 (24000年間)
縄文時代 14000年前頃 – 前3世紀頃 (11700年間)
弥生時代 前3世紀頃 – 後3世紀中頃
古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃
飛鳥時代 592年 – 710年
奈良時代 710年 – 794年 、
さて約2000年前の農村風景は静岡県の登呂という場所にある遺跡を復元した風景に見ることが出来ます。

1番目の写真は登呂遺跡に復元した水田の広がる風景です。約2000年前を正確に言えば1900年前です。
写真の右手に写っている高床式の大きな建物は村の祭殿です。
続く2枚も含めて登呂遺跡の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/登呂遺跡 です。

2番目の写真は登呂遺跡の水田と竪穴式の農家の写真です。この写真の左をよく見ると高床式の米の貯蔵庫が写っています。

3番目の写真は村の祭殿です。これが時代の経過とともに村を守る神社になって行ったと考えられます。

4番目の写真はは昨日撮った八王子市の香月地区に広がる水田風景です。この地区の稲田は広大でこの写真の水田はそのほんの一部です。

5番目の写真は多摩川から水田に水を送る水路です。その堤が土手でなくコンクリートで出来ている点が1900年前と違う風景です。

6番目の写真は稲田の奥の山際にある村のお寺です。この農村を守るお寺です。神社でなく仏教のお寺になっているのが時代の流れを感じさせます。
この古刹は圓通寺です。圓通寺は、讃海(天暦年間947-956寂)が開山となり創建したといいます。天正19年(1591)徳川家康より寺領10石の御朱印状を拝領しました。近郷に数多くの塔頭・末寺・門徒寺を擁する中本寺格の寺院だったのです。
ですから高月の農村はこのお寺が出来た950年頃から存在していたことが分かります。
3番目の写真の村の祭殿と比べると随分立派な建物になっています。
そして現在の農家はエアコン付きの洒落た一戸建ての家々になって圓通寺の周囲にあります。その風景は2番目の写真の竪穴式の農家とは大に違います。住み心地が格段に良くなっています。
しかし稲作の水田が広がる日本の風景は弥生時代の始まる2300年前から変わっていないのです。
この日本の原風景は変わらないのです。

昨日は八王子の水田風景を眺めながら悠久の時の流れを考えていました。
一人の人間の一生などは文字通り邯鄲一朝の夢なのす。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===========================
登呂遺跡は静岡県静岡市駿河区登呂五丁目にある、弥生時代の集落・水田遺跡です。国の特別史跡に指定されています。( https://ja.wikipedia.org/wiki/登呂遺跡 )
弥生時代後期に属し、1世紀ごろの集落と推定されます。

遺跡は、戦時中の1943年(昭和18年)7月10日、軍事工場建設の際発見された。戦後間もない1947年(昭和22年)には考古学・人類学・地質学など各分野の学者が加わった日本で初めての総合的な発掘調査が行われ、8万平方メートルを超える水田跡や井戸の跡、竪穴式住居(正確には竪穴系平地式住居)・高床式倉庫の遺構が検出された。この他にも、農耕や狩猟、漁労のための木製道具や火起こしの道具、占いに用いた骨などが出土した。

また、1999年(平成11年)から5カ年計画で再発掘調査が行われ、新たに銅釧や漆が塗られた槽づくりの琴、祭殿跡などが出土している。
現在遺跡は、登呂公園として整備され、住居などが復元されているほか、遺跡についての資料がある静岡市立登呂博物館が隣接して建てられている。
現行の施設は2010年(平成22年)10月3日に開館した。

村について:
登呂遺跡は、安倍川の分流の洪水時に押し流された土砂が堆積し、自然に形成された堤防の上に造られている。村は、北東から南西の方向に広がる微高地を利用して住居12棟、高床倉庫2棟が建っており、水田は、その南につくられている。
文化財:
重要文化財(国指定)
静岡県登呂遺跡出土品(考古資料) - 内訳は次の通り。静岡市立登呂博物館保管。
土器・土製品 54点
木器・木製品 321点
石器・石製品 74点
金属製品 16点
ガラス小玉 5点
骨角製品 6点
織物・編物残欠 6点
樹皮製品 7点
土器片 126点(以上昭和18-40年出土)

土器・土製品 12点
木器・木製品 77点
石器・石製品 64点
銅環 5点
ガラス小玉 1点
灼骨残欠 1点(以上平成11-15年出土)

「花の好きだった山里のおばさんの思い出」

2019年06月12日 | 写真
1973年に山梨の山林の中に小屋を作ったとき大変お世話になったおばさんの家に寄ってみた。
花々が好きで冬以外は庭の花々を絶やさない小母さんでした。
ご主人は種卵専門の養鶏をしていました。
普通の卵の2、3倍大きい種卵を何度も貰い、山小屋の朝食が豊かになり楽しかったものです。

満州からの引き上げの苦労にも拘わらず明るく親切な夫婦でSた。
それから、しばらくして訪ねると、小母さんが独りいて、「主人はこんなふうになりました」と新しい仏壇を指さします。
あんなに明るくて元気な彼が死んでしまうとは。言葉に詰まってしまう。
息子が1人いて当時は東京で建設重機の運転をしているという。

2008年、あれから茫々35年、久しぶりに寄ってみました。当時、重機の運転をしていて、会ったことの無い息子が出て来て、小母さんは元気だが、定期検査で留守だという。昔話をしてから写真を撮らせてもらう。
相変わらず庭には花が絶えない。梅も櫻も、そして棚の藤も散った後だが、オオデマリ、ジャーマンアイリス、デージー、ボタンなどが咲き誇っていた。
「小母さんが居るとき、又来ます」と言って帰った。
今年の4月にまた行きました。門が鎖で厳重に閉まっていて人の気配がありません。あの花好きだったおばさんも旅立ったのでしょうか。
2008年5月21日午前11時頃に撮った花々の写真をお送りします。









日本に棲んでいた象とナウマン博士へ感謝

2019年06月12日 | 日記・エッセイ・コラム
趣味は人生を豊かにしてくれます。私の趣味の一つに考古学というものがあります。
地面を丁寧に掘って今は絶滅した昔の動物を調べたり、太古の人々の生き方を想像して楽しむ趣意です。地面を掘るので地質学も少し勉強しなければなりません。
日本の近代化革命の明治維新以来、日本は西洋諸国から近代科学を学び、工業技術を発展させて来ました。西洋人は常に日本人に丁寧に教え、指導してきたのです。ですから私はその恩を忘れません。常に感謝しています。
ハインリッヒ・エドモンド・ナウマン博士は1875年、明治8年から10年間も日本人を指導した地質学者です。
彼は全国の現地調査をして日本の地質地図を始めて作り、日本人へ地質学の重要性を教えてくれたのです。
そして地質調査の結果、日本には昔、象が棲んでいたことを発見しました。そして糸魚川から静岡にいたるフォッサマグマを発見し、その東西では地質が異なることを指摘したのです。
ナウマン博士が日本に象が棲んでいたことを発見したのです。このアジア象はナウマン象と呼ばれています。
私は日本に象が棲んでいたことに衝撃を受けました。象はアフリカや赤道に近いアジア諸国にしか生きられないと思い込んでいた私は嬉しい衝撃を受けたのです。
それが切っ掛けで私の考古学の趣味が始まったのです。

そこで今日は日本に棲んでいたナウマン象の話を致したいと思います。
さて日本で縄文時代が始まったのは12000年前です。その以前は無土器の旧石器時代でした。
その旧石器時代は約40000年前から12000年前までの28000年間も続く長い期間でした。
その時代の日本には象が棲んでいて、約20000年前に絶滅しました。絶滅するまでの2万年間は人々が集団で象を狩り、食料にしていたのです。
象が日本に棲んでいたことを科学的に証明したのが前述通りナウマン博士です。
人間が象を狩りして食べていた証拠は、象の解体途中の骨の間から石器の刃物が多数見つかっていることです。
このナウマン象の化石が多数発見されたのが長野県の黒姫山の麓にある野尻湖です。

1番目の写真は長野県の黒姫山の麓にある野尻湖です。黒姫山は左の山です。
写真の出典はhttps://tenki.jp/kouyou/3/23/35152.html、 です。
この野尻湖で長年、ナウマン象の化石の発掘調査が続行されてきました。その発掘を指導したのが数年前に88歳で亡くなった亀井節夫氏でした。
その発掘調査で発見された象の化石などは野尻湖の湖畔にある「野尻湖ナウマン象博物館」で展示してあります。私も野尻湖畔に一泊して丁寧に見て来ました。
野尻湖は毎年春先に水が減少し湖底が現れ、ナウマンゾウの化石が多数出てくることで有名です。毎年、この化石の発掘が行われていたのです。
野尻湖ナウマン象博物館の展示は良く出来てい明快です。検索するとこの博物館の詳細が出ています。
ナウマンゾウの解体現場に残った骨と共に、解体に使った石器が多数発掘され、それらもこの博物館に展示されています。
旧石器時代の人が作った石器は日本各地から多数出土します。しかし何を食べて、どのような生活をしていたかという問題を明快に示してくれるのは珍しいことです。
写真にこの博物館を訪問した時に撮ったナウマンゾウの写真を示します。

2番目の写真は野尻湖ナウマンゾウ博物館の外にあるナウマン象です。

3番目の写真は室内に展示してある実物大のナウマン象です。一緒に写っている見物客と比較すると象の巨大さが分かります。

さて、ナウマンゾウの化石は全国から発掘され、数十万年前から北海道から九州、沖縄まで繁栄していたことが分かっています。そして2万年前以後の新し地層からは発見されません。ですから二万年前に絶滅したと言われています。
この種類の象の化石は北海道や静岡県で多く出ています。野尻湖の象は4万年前から2万年前の地層から出ますが、これは日本に棲んで居た象のうちで一番新しい象の化石です。
関東地方にも当然棲んでいたと思いますが、化石が出ません。強い酸性の関東ローム層の土が動植物を溶かしてしまうので化石の出にくい土地なのです。
ナウマン博士の功績は古代象の発見だけではありません。最大の功績は日本人へ地質学を教え、その考古学や鉱山開発などでの重要性を説明してくれたことです。

4番目の写真がナウマン博士です。
彼は伊能忠敬の労作の日本全図に従って全国を歩き回り、日本の地質図を始めて作った学者です。そしてフォッサマグナなどを発見し、日本の地質学を始めた人です。
茨城県つくば市にある産業総合技術研究所の地質標本博物館はナウマンが設立に尽力した地質調査所が、その後発展した博物館なのです。
日本全土の土や岩石がどういう成分で出来あがっているか?どのような結晶で出来ているか?それらが何億年、何万年の間にどのように変化し動いてきたか?雨風に流されてどのように変化して来たか?
このような問題を体系的に研究する科学分野を地質学と言います。地質学を勉強すると自然に化石のことが分かるのです。動物の骨が石に変化し土壌に埋まれば化石になります。土質によっては化石にならない土壌もあります。ですから化石の出やすいところは限られるのです。

5番目の写真は数年前に、つくば市にある地質標本館で私が撮って来た写真です。この展示物に感動して何度も訪問しました。
良くご覧下さい。黒っぽい岩石の層が左上へ向かって90度折れ曲がっているのです。三陸海岸から持ってきた巨大な岩石標本です。
長い年月の間に地球の内部の動きによって表面の固い岩石も曲がってしまうのです。岩石がアメのようにグニャリと曲がったのではありません。岩石は弾力性の無い硬い結晶から出来ています。従って曲る場合には結晶と結晶の間の粒界に微細な割れ目(マイクロ・クラック)が多数出来て、次第に岩全体が曲がって行くのです。
岩が曲がる、島が海面から出て、移動する。大陸が離合集散する。壮大な自然現象を解明するためにも微細な結晶の研究が重要なのです。学問研究の醍醐味ですね。
ちょっと話題が本題からそれましたの止めます。
今日の記事では明治8年から10年間も日本に住み日本人へ地質学の重要性を教えてくれたナウマン博士をご紹介しました。教えを受けた日本人はその後日本の地質学を進歩、発展させ、つくば市に国立地質標本館を作ったのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料==================
ハインリッヒ・エドムント・ナウマン(Heinrich Edmund Naumann、1854年9月11日 - 1927年2月1日)は、ドイツの地質学者。
(ハインリッヒ・エドムント・ナウマン - Wikipedia、から抜粋)
いわゆるお雇い外国人の一人で、日本における近代地質学の基礎を築くとともに、日本初の本格的な地質図を作成。またフォッサマグナを発見したことや、ナウマンゾウに名を残すことで知られる。
ザクセン王国マイセンで生まれた。
1875年(明治8年) - 1885年(明治18年)、明治政府に招聘され、日本に滞在。東京帝国大学(現:東京大学)地質学教室の初代教授に就任。地質調査所(現:独立行政法人産業技術総合研究所地質調査総合センター)の設立に関わり、調査責任者として日本列島の地質調査に従事。
調査は本州、四国、九州と広範囲にわたり、距離は10,000kmに及んだと伝えられている。また、当時存在した地形図には等高線が記されておらず、海岸線の輪郭が記される伊能図を基に、地形図の作成と並行して地質調査をするという膨大な作業を成し遂げた。
ナウマンは貝塚を2、3発見し、ハインリヒ・フォン・シーボルトの貝塚研究を助けた。
1884年12月にナウマンの雇用は終了したが半年延長され、1885年(明治18年)6月、天皇に謁見して勲4等を叙勲し、7月に離日した。
ドイツに帰ってから、ナウマンは1886年にミュンスター大学で私講師(正雇いではなく講義ごとに学生から受講料を取る教師)となり、地質学や地理学を講じた。後年、ドイツ東亜博物学民俗学協会で日本の貝塚について講演している。ベルリンでの地質学会議に参加して論文『日本列島の構造と起源について(Über den Bau und die Entstehung japanischen Inseln)』を発表し、さらに同名の著書を出版してフォッサ・マグナ説を提案した。
1923年に関東大震災で東大図書館が焼け落ちたときには、自分の蔵書を寄贈した。

「初夏の花の写真をお楽しみ下さい」

2019年06月11日 | 写真
家から車で40分くらいの三鷹市、花と緑の広場の初夏の花々です。昨年の今頃に写真を撮って来ました。
サルスベリや美しい八重のヒャクニチソウなどなどが一面に咲いていて見事でした。
初夏の花々をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









香港の民主主義の終焉を暗示する大規模デモ

2019年06月11日 | 日記・エッセイ・コラム
香港政府は、中国本土で政治的な犯罪を起こして香港に逃げ込む容疑者を中国共産党政府へ引き渡す法律を議会で成立させようとしています。これは共産党独裁の強化になるばかりでなく香港がやがて中国本土に併合されることを暗示しています。まさしく香港の民主主義の終焉を暗示しているのです。
これに対して香港市民が立ち上がりました。数十万人のデモが昨日ありました。
考えてみると香港はイギリスの植民地として悲しい歴史を背負った都市でした。
1841年のアヘン戦争に勝ったイギリスの植民地になってしまったのです。1997年に中国へ返還されるまでイギリスの植民地だったのです。

1番目の写真は香港沖でのアヘン戦争の絵画です。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/香港の歴史 です。
1839年にアヘン戦争が勃発し1841年1月20日にエリオット大佐率いるイギリス軍は香港島を占領します。そして翌年締結された南京条約により、香港島はイギリスに永久割譲されてしまったのです。

2番目の写真は現在の香港です。写真の出典は1番目の写真と同じです。
さて次にyahooのニュースを示します。 
『「雨傘」の熱気再び 法案撤回大規模デモ 容疑者本土へ引き渡し 香港』
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190609-00000038-mai-int
香港で9日、刑事事件の容疑者を中国本土に引き渡せるようにする「逃亡犯条例」改正に反対する大規模なデモがあった。幹線道路を埋め尽くすほど大勢の市民が香港中心部を行進し、法案の撤回を要求した。反対運動は、民主的な選挙制度の実現を求めた「雨傘運動」(2014年)以来の盛り上がりを見せている。
逃亡犯条例改正案について、香港市民の間には「冤罪で拘束され、中国本土で公平ではない裁判にかけられる」との懸念が強まっている。市民らは市中心部のビクトリア公園を出発。「悪法を撤回しろ」「香港の自由を守ろう」などと叫びながら、政府庁舎前まで約4キロを行進した。先頭がゴールに着いた時点で、公園にはまだ大勢の市民が出発を待っていた。
2014年の「雨傘運動」に参加した経験がある多くの若者らもデモに加わった。「雨傘世代」の大学生、許垣恒さん(22)は「この悪法は全ての香港人にとって脅威だ。絶対に食い止めなければならない」と話していた。
香港政府は6月中に立法会(議会)で逃亡犯条例改正案を成立させることを目指し、中国政府も強くこれを支持する。香港政府は、中国本土で犯罪を起こして香港に逃げ込む容疑者を効果的に摘発するためだと説明している。
ただ、中国本土でのトラブルに巻き込まれた企業関係者らが引き渡しの対象になる恐れがあるため、経済界からも懸念が出ている。香港の立法会は民主派が劣勢だが、経済界の支援を受ける親中派の一部が慎重な姿勢を見せている。【福岡静哉】・・・

3番目の写真はデモの出発地点となった公園を埋め尽くした群衆です。(毎日新聞 6/9(日) 19:49配信)
「雨傘運動」で抵抗のシンボルとなった黄色い傘をさしている人も多い=香港中心部で2019年6月9日午後2時55分、福岡静哉撮影

4番目の写真はデモの夜の様子です。
写真の出典は、https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45923410Q9A610C1EA1000/ です。

5番目の写真はデモ終了後、若者らが設置したフェンスを倒す警官隊です。なおこの大規模なデモにもかかわらず逮捕者が19名出ただけで、死者は出ませんでした。

さて何故このデモを見て私が香港の民主主義の終焉を暗示すると感じたのでしょうか?
香港には中国の軍隊が進駐して防衛の任務にあたっています。香港には自由な外交権が無く北京政府が持っています。
香港の民主主義を守る責任のある旧宗主国のイギリスは EUからの脱退問題で大混乱状態です。とても香港にかかわっている余裕はありません。
アメリカは中国共産党軍の進駐している香港は諦めているのか香港の民主主義の危機に対して声明一つ出しません。
この状態は独自の軍隊と自由な外交権を持っている台湾と大いに違うのです。
アメリカは台湾の独立のためには中国と戦う勢いです。中国と台湾の間の海峡には度々アメリカ海軍の艦艇を派遣させています。
そして日本といえば、ただ傍観しているだけです。
せめて日本の市民団体が香港の民主主義を守る運動をすべきですが、それもありません。
私は香港市民に強い同情を覚えます。
しかし最近の習近平政府の圧政ぶりを見ると香港の将来を悲観的に考えてしまうのです。
香港は将来、上海と同じような都市になってしまうのでしょうか?
皆様からのご意見をお待ちしています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「北海道の富田ファームのラベンダー畑の美しさ」

2019年06月10日 | 写真
北海道の魅力の一つは富良野の富田ファームのラベンダー畑の美しさではないでしょうか。 1932年(昭和7年)に生まれた 富田忠雄さんが一生をかけて作りあげた花畑です。
この広大な花畑のお蔭で富良野市は全国的にも有名な観光地になったのです。
私どもも何度か行きましたが、なだらかな丘に広がる色とりどりの花畑に心を奪われてしまいます。それは本州では見られない風景です。
自分でも写真を沢山撮りましたが、出来の悪い写真です。そこで写真の上手な方々の作品をお借りさせて頂き、以下にお送りいたします。写真の出典のURLはそれぞれの写真の下に明記いたしました。

1番目の 写真の出典は、
http://polaris-t.seesaa.net/archives/20110718-1.html です。

2番目の 写真の出典は、
http://polaris-t.seesaa.net/archives/20110718-1.html です。

3番目の 写真の出典は、
http://blogs.yahoo.co.jp/hotaru_tabi/56309062.html です。

4番目の 写真の出典は、
http://ameblo.jp/1781-keizou-1781/entry-11292691311.html です。

さて富良野に行って感激することは美しいラベンダー畑に入場無料で自由に散策出来ることです。畑の中の小道を歩き回るとラベンダーの高貴な香りが風にのってきて体が香水に包まれるような気分なるのです。
この畑は、1897年(明治30年)に忠雄の祖父、富田徳馬さんがこの中富良野の原野に鍬を入れたのが始まりでした。
その孫の富田忠雄さんは1958年(昭和33年)に結婚し、念願だったラベンダー栽培を、妻の幸子さんと本格的に開始したのです。その時の畑はたった10アールだけのラベンダー畑だったのです。
そして1965年(昭和40年)には 7年も苦心して、ラベンダー畑を1.2haに拡大したのです。

5番目の写真にその頃の富田家の写真をしめします。
このような富田忠雄さんの苦難にもめげない一生の詳細は、http://www.farm-tomita.co.jp/history/ に出ています。

アメリカの黒人の人権と差別撤廃の苦難の歴史

2019年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム
2019年06月08日に私は「欧米人が人権を重要視する本当の理由」と題する記事を書きました。その中で欧米諸国が人権の重要性を他国へ宣伝し国内問題に干渉する傾向があるのはいけないことだと書きました。
しかし軍事独裁政権が長く続いてたタイに住むSunitra Satorn女史から次のようなコメントを頂きました。
You are in democracy country, never been in dictator country .So you have freedom and legally right. While the others were under military, that's why they need basic right, " human right "
Happy weekend dear Kazu
このコメントの趣旨は、「あなたは日本という民主国家に住んでいるからそのような気楽な意見を書くのです。軍事独裁政権の国に住む人々にとっては人権が非常に重要なのです。」というものでした。
私の書き方が間違っていたのです。
人権は古今東西いつでもどこでも最も重要なことです。人間が動物と違い人間らしく生きるためには人権を大切にしなければならないのです。それは自明のことです。

それはさておいて、私が欧米人の人権に対する主張を紹介すると日本人から必ず来るコメントがあります。次のようなコメントです。
・・・ポルトガルやスペインが南米で原住民の人権を蹂躙した歴史があり、イギリスやフランスが北米で先住民を殺戮したのです。アフリカでもそうでした。
その上アメリカでは1960年代まで黒人を差別し、黒人の人権を侵害していたのです。そんな歴史があるので欧米人の主張する人権を信用出来ません。アメリカの人権外交などは疑わしいものです。・・・

しかし西洋もアメリカも自分達の間違いを認め他民族の人権を尊重する努力を続けているのです。彼等を許し日本人も世界中の国々が人権を大切にする民主国家になるように努力すべきです。
そこで今日はアメリカの黒人の人権と差別撤廃の苦難の歴史を簡単にご紹介したいとおもいます。
1960年から2年間、オハイオ州の州都コロンバス市に住みました。バスに乗ると、白人は前半分の席、黒人は仕切りの後ろです。遠慮して黒人の席に座ったら、白人男性が寄って来て、君は前半分に座れと言うのです。それ以来、白人席の末席に座るようにしました。
コロンバス市の南半分は黒人街、北半分は白人が住む場所と厳格に分かれています。白人街にある映画館やレストランは白人専用で、黒人は立ち入りません。
白人と同じ席にすわれないのです。黒人には人権がないのです。
アメリカは自由と平等の国と言いますが60年前には凄い黒人差別が厳然としてあったのです。人権は白人だけが持っている権利だったのです。

良心的な白人と進歩的な黒人がこの酷い差別の克服へ血の滲む努力しました。挫折もしたのです・
その後、ベトナム戦争があり、黒人兵が危険な最前線に出て戦いました。
国内では黒人差別撤廃の公民権運動が盛り上がります。
リーダーは、後に白人に暗殺されたキング牧師でした。

1番目の写真はキング牧師夫妻です。
キング牧師は1929年に生まれ、1968年4月4日に暗殺されました。バプテスト派の牧師でした。
アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者でした。1964年にノーベル平和賞を受賞しました。

2番目の写真は「I Have a Dream」(私には夢がある)で知られる有名な演説を行っているキング牧師です。
アメリ人の白人も彼を尊敬しており、2004年には議会名誉黄金勲章を授章します。彼の暗殺後、各州では彼を記念する祝日が制定されます。オハイオ州も全官公庁・学校が休みになっています。
公民権運動の結果、アメリカ社会では黒人の人権も認められ黒人差別も完全に撤廃されたのです。
その結果アメリカでは黒人のオバマ大統領が8年間もアメリカのトップの座についたのです。これはアメリカの社会で人種差別は完全に無くなった証拠なのです。1960年代の悲しい黒人差別の実態を見た私にとってはアメリカの人種差別撤廃は感無量の一言につきます。

3番目の写真はオバマ大統領と家族の写真です。

4番目の写真は大統領に就任した後ホワイトハウスで撮ったオバマ大統領の写真です。

さてここで目をヨーロッパに転じてみましょう。
ヨーロッパ諸国でも人権を守る運動がありました。今日はあまり長くなるので1枚の写真だけを示します。

5番目の写真はウェストミンスター寺院に飾られている「20世紀の10人の殉教者」のレリーフの一部です。左からロシア大公妃エリザヴェータ、キング牧師、ロメロ大司教、ボンヘッファー牧師です。彼等は皆人々の平等と人権を守るために努力した殉教者たちだったのです。(エリザヴェータは生涯を通して悩める人々の救済に献身した。ロシア革命中に殉教死したため、エリザヴェー タは聖人の列に加えられた。)

人権は軍事独裁の国々や共産党独裁の国々ではあやうい存在です。
東洋人も西洋人も歴史上の過ちを許し合いアフリカも含めた全世界に人権を守り民主主義がいきわたるように努力すべきではないでしょうか。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===キング牧師の世界的に有名な演説=========
この有名な演説は1963年8月28日、ワシントン大集会で行われました。
リンカーン記念堂の前で、20万人の聴衆の前です。
内容が人種差別の撤廃と各人種の協和という高邁な理想を簡潔な文体で訴えたものでした。歴史的な名演説だったのでアメリカ国内のみならず世界的に高く評価されたのです。
この演説の冒頭だけを下に示します。

"I have a dream that one day on the red hills of Georgia the sons of former slaves and the sons of former slave-owners will be able to sit down together at a table of brotherhood."
「私には夢があります。いつの日にか、かつての奴隷の子供たちと、かつての奴隷を使っていた人の子供たちが、兄弟愛というテーブルに一緒に座れるようになるという夢が」

"I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character."
「私には夢があります。いつの日にかこの国が、私の4人の子どもたちが、肌の色でではなく、その人となりで評価されるようになるという夢が」

私はテレビで何度もこの冒頭部分を聞きました。キング牧師の声で。何度聞いても胸が熱くなります。
公民権法案を議会に提出したのはジョンソンが副大統領であったケネディ大統領でした。

そしてキング牧師は1968年4月4日にメンフィス市内のロレイン・モーテルのバルコニーで撃たれて死亡したのです。39歳の若さでした。
犯人のレイは国外に逃亡し、数ヵ月後、ロンドンのヒースロー空港で逮捕され、懲役99年の判決を受けます。その後、彼は服役中の1998年4月23日にC型肝炎による腎不全で死去しました。

暗殺の前日にキング牧師がおこなった最後の演説の最後の部分は以下のようなものであり、『申命記』32章のモーセを思わせる、自らの死を予見したかのようなその内容は“I Have a Dream”と共に有名なものとなりました。

…前途に困難な日々が待っています。
でも、もうどうでもよいのです。
私は山の頂上に登ってきたのだから。
皆さんと同じように、私も長生きがしたい。
長生きをするのも悪くないが、今の私にはどうでもいいのです。
神の意志を実現したいだけです。
神は私が山に登るのを許され、
私は頂上から約束の地を見たのです。
私は皆さんと一緒に行けないかもしれないが、
ひとつの民として私たちはきっと約束の地に到達するでしょう。
今夜、私は幸せです。心配も恐れも何もない。
神の再臨の栄光をこの目でみたのですから。

アメリカの黒人差別の撤廃は世界の国々の黒人差別に影響を与えるのが自然の成り行きではないでしょうか?
これで人間の心の中の人種差別が無くなったわけではありませんん。しかし少なくとも社会生活の中で黒人差別が撤廃されたことは人類の大きな進歩です。善い改革です。

「自生しているアカシアの写真をお楽しみ下さい」

2019年06月09日 | 写真
2015年の今頃、山梨県の甲斐駒岳の麓の石空川(いしうとろ川)の川原にアカシアの大木が沢山白い花を咲かせているのを発見しました。
あたり一面にとても良い香りが漂っていて夢見る心地でした。

このアカシアは正しくはニセアカシア (Robinia pseudoacacia) です。北米原産のマメ科ハリエンジュ属の落葉高木で、和名はハリエンジュ(針槐)というそうです。
日本には1873年に渡来したそうです。

本当のアカシアは、オーストラリア大陸に多く分布している黄色い花です。
日本では関東以北では育たないそうです。
明治時代に輸入されたニセアカシアを当時アカシアと称していたことから、現在でも単にアカシアと言うことが多いようです。

写真の白い花のニセアカシア(ハリエンジュ)からは香りのよい蜂蜜がとれ、アカシアの蜜として販売されているそうです。紛らわしいですね。
始めの4枚の写真がニセアカシアの花で最後の黄色の花がアカシアの花です。









聖霊って何ですか?

2019年06月09日 | 日記・エッセイ・コラム
カトリックでは神と子と聖霊の3位を信じます。
ここで子とはイエス・キリストのことです。それでは聖霊って何でしょうか?
誰も言葉では明快に説明出来ません。こういう宗教上の奥の教えは仏教では不立文字と言って文字では説明できないと言っています。
感じて信じるのです。
ですから聖霊も感じて信じるものです。
2019年06月02日 に「キリスト教は愛の宗教だと実感した今日のミサ」という題の記事を書きました。
そして先週の小金井教会のミサを司式して下さったレミ神父さまをご紹介しました。

1番目の写真がレミ神父さまです。
レミ神父さまは1948年3月にフランスのトロワで生まれました。フランスのエリート大学のソルボンヌ大学を卒業しました。その学歴は経済的に豊かな人生を保証する学歴なのです。
かれはその全てを捨ててはるばる極東の日本まで福音を伝えるためにやって来たのです。
この話を知って私はそれは聖霊の働きだと実感したのです。
聖霊の働きが無ければ彼は神父になって日本に来て、一生を日本で過ごし日本の土になれるわけがありりません。
私は聖霊の存在を実感しました。このレミ神父さまは私に聖霊の働きを確信させた一つの例です。
最後に聖霊に関するブリタニカ国際大百科事典の解説を転載しておきます。
聖霊とは、三位一体の玄義における3つの位格 personaの一つであり,ペルソナとしての独自性を有する一方,また真なる神として父と子とともに一つの実体をなす。子が父から生れるのに対して父 (および子) から発出するものであり,人々の霊魂を照し清め強め慰めるものとしてイエス・キリストについてのあかしを示し,キリストの栄光を現し人々を導いて,すべての真理を悟らせるのである。聖霊は絶えず人々の間に働き,彼らを聖化し,キリストの肢体である教会を「立てる」働きが帰せられている。

今日の挿し絵代わりの写真は木造で1番古いカトリック宮津教会です。







京都府の日本海側の宮津市にるカトリック宮津教会は明治29年に建てられました。
国宝の大浦天主堂は明治12年に建てられたので、それに次いで日本で2番目に古い教会になります。
そして現役の木造教会としては日本一古い教会なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人


「儚く消えてしまった合歓の木(ネムノキ)が残した写真」

2019年06月08日 | 写真
毎年、夏になると白い綿のような花を咲かせていた合歓の木(ネムノキ)の大木の物語です。それが2009年に行って見たら忽然と消えていました。大木の持ち主が切ってしまったのです。
夢幻のように消えた花の写真は2008年7月に撮ってブログで掲載してあります。今後は絶対に見ることのできないムネノキの花を偲んで写真を、ここに3枚掲載いたします。
繊細な構造の花の感じをお楽しみ頂ければ嬉しく思います。
  
撮影場所:北杜市武川町、横手の「みよしや」の前の三叉路の北角に有りました。高さ8m位の大木です(電信柱や看板に囲まれていて全体の写真が撮れませんでした)。 撮影日:2008年7月19日17時と20日9時、撮影者:Mrs.藤山