後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「夏の花々の写真をお送り致します」

2019年06月23日 | 写真
全ての写真と花名の由来や花言葉の出典は、http://hananokotoba.com/natsu/ です。

1番目の写真はジキタリスです。
花名の由来、
属名の学名「Digitalis(ジギタリス)」は、ラテン語の「digitus(指)」を語源とし、花の形が指サックに似ていることに由来します。
別名の「狐の手袋(キツネノテブクロ)」は、英名のフォックス・グローブ(Foxglove)をそのまま訳したもので、この花が手袋の指のように見えることにちなみます。
花言葉の由来、
花言葉の「不誠実」は、ギリシア神話にてサイコロ遊びが好きだったゼウスの妻ヘラに由来するといわれます。

2番目の写真はアガパンパスです。
花名の由来、
属名の学名「Agapanthus(アガパンサス)」は、ギリシア語の「agape(愛)」と「anthos(花)」が語源となり、「愛の花」という意味があります。
別名は紫君子蘭(ムラサキクンシラン)、英語ではアフリカンリリー(African lily)とも呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉も「愛の花」という意味をもつアガパンサスの名前にちなんだものとなり、「恋の訪れ」「ラブレター」の花言葉がつけられました。「知的な装い」の花言葉は、淡青紫色の涼しげで繊細な花姿に由来するといわれます。

3番目の写真はアリウムギガンジュームです。
花名の由来、
属名の学名「Allium(アリウム)」は、「におい」という意味の言葉が語源となり、この属の植物の多くが強いにおいを放つことにちなむといわれます。ラテン語で「allium」はニンニクを意味します。
花言葉の由来、
花言葉の「深い悲しみ」は、アリウムの花姿が悲しみたたずむ人間を連想させることに由来するともいわれます。

4番目の写真はアサガオです。
花名の由来、
花名のアサガオ(朝顔)は、朝に花を咲かせ、昼にしぼんでしまう様子を「朝の美人の顔」に例えた「朝の容花(あさのかおばな)」の意味であるといわれています。
花言葉の由来、
花言葉の「はかない恋」は、朝咲いて午後にはしぼんでしまう短い命の花であることに由来します。また、「固い絆」の花言葉は支柱にしっかりとツルを絡ませることにちなみます。

5番目の写真はオジギソウです。
花名の由来、
オジギソウ属の学名「Mimosa(ミモザ)」は、ギリシア語の「mimos(身振り、まね)」が語源で、この植物がおじぎのまねをすることに由来します。
このようにミモザは本来オジギソウ属を指す植物名ですが、フサアカシア(アカシア属)の葉がオジギソウのものに似ていることから、誤ってフサアカシアをミモザと呼ぶようになりました。
英語では「敏感な草(Sensitive plant)」、漢名では「含羞草(恥ずかしがる草)」と呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉の「繊細な感情」「感受性」「敏感」は、オジギソウの葉に軽く触れるだけで、葉が閉じ垂れ下がってしまうことにちなみます。



伊達政宗に仕えたクリスチャン武将、後藤寿庵

2019年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム
岩手県奥州市にはクリスチャン武将、後藤寿庵(1577?~1638?)ゆかりの「キリシタンの里」があります。以下にhttps://www.christianpress.jp/sendai-shirayuri-womens-college-christian-pilgrimage-bus-excursion/ から後藤寿庵の活躍をご紹介致します。

1番目の写真は後藤寿庵ゆかりの里の説明看板です。(写真:仙台白百合女子大学提供)
寿庵は洗礼名で、洗礼者ヨハネの意です。長崎でキリシタンとなり、1611年、仙台藩主・伊達政宗の家臣となり、見分村(現岩手県奥州市水沢区福原)に1200石を給されました。開墾するため「寿庵堰」と呼ばれる大規模な用水路を造ったが、現在もその跡が残っているそうです。
一方、熱心なキリシタン領主であった寿庵は、天主堂・マリア堂などを建て、家臣のほとんどが信徒となり、領地には全国から宣教師や信徒が訪れたと伝っています。

2番目の写真は後藤寿庵によって天主堂が立てられた場所に建つ毘沙門堂です。(写真:仙台白百合女子大学提供)
東北にキリスト教が初めて入ったのは1590年、会津若松の領主になったキリシタン大名、蒲生氏郷によるといわれいます。
その後、宣教師ルイス・ソテロが伊達政宗と親交を結び、仙台に呼ばれて東北での布教の道が開かれます。
1613年には、家臣である支倉常長率いる慶長遣欧使節が、キリスト教布教と引き換えにメキシコとの直接貿易を求めて出帆もします。
江戸幕府のキリシタン禁制が厳しくなるにつれ、九州や京都のキリシタンが東北に逃れて来て、殉教の嵐は東北にまで及ぶようになります。
「東北の島原」とも称される岩手県一関市にある大籠では当時、「キリシタン改め」を行う台転場が設けられ、踏み絵などが行われていたのです。
そして1639年から数年間で300人以上の信者が処刑されたと伝えられています。
そこは現在、大籠キリシタン殉教公園として整備されています。
3代将軍・徳川家光の時代、キリスト教を禁止とする動きが強まる中で、政宗もその取り締まりを命ぜられます。有能な寿庵を惜しんだ政宗は、「布教をしない」「宣教師を近づけない」ことを条件に信仰を許そうとしたが、寿庵はこの条件を拒否します。
その後、陸奥南部藩に逃亡したとも、出羽秋田藩に渡って死去したとも伝えられています。ちなみに、1951年、宮城県登米市で寿庵の墓が発見されました。
以上のことは仙台白百合女子大学、クリスチャン武将、後藤寿庵の足跡を訪ねてという文章から抜粋しました。

3番目の写真は毘沙門堂の入り口で学生たちを前に説明する川上直哉さんです。(写真:仙台白百合女子大学提供)
尚、仙台白百合女子大学は東北地方で唯一のカトリック系4年制大学です。
1878年からシャルトル聖パウロ修道女会のフランス人修道女が函館で活動し3年後に東京に学校を新設したのが白百合学園の始まりです。1893年に仙台女学校を開き、やがて幼稚園から高校、大学まである仙台白百合学園に発展しております。

今日は日曜日なので伊達政宗に仕えたクリスチャン武将、後藤寿庵をご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===後藤寿庵の生涯==========================
https://ja.wikipedia.org/wiki/後藤寿庵
陸奥国磐井郡藤沢城主・岩淵秀信の次男として誕生。
天正年間(1573年〜1591年)、豊臣秀吉によって主家・葛西氏と共に滅びる。
慶長元年(1596年)、長崎に住みキリシタンとなるが、迫害によって五島列島宇久島に逃れ、ここで洗礼を受け、寿庵(洗礼者ヨハネの意)と名乗り、五島氏に改名する。
慶長16年(1611年)、京都の商人田中勝介と知り合い、その推薦によって、支倉常長を通じて陸奥国の戦国大名・伊達政宗に仕えた。慶長17年(1612年)、後藤信康の義弟として、見分村(岩手県奥州市水沢福原)1,200石を給される。寿庵は原野だった見分村を開墾するため、大規模な用水路を造り、これが「寿庵堰」と呼ばれ現在もその跡が残る。大坂冬の陣・夏の陣では、伊達政宗の配下として鉄砲隊の隊長を務めた。
一方で、寿庵は熱心なキリシタン領主であったため、天主堂・マリア堂などを建てた。家臣らのほとんどが信徒となり、全国から宣教師や信徒がその地に訪れたという。また元和7年(1621年)、奥羽信徒17名の筆頭として署名し、前年のローマ教皇パウルス5世の教書への返事を送った。
ところが、江戸幕府3代将軍・徳川家光の治世となると、キリスト教の禁止が厳しくなり、主君・政宗もその取り締まりを命ぜられた。寿庵を惜しんだ政宗は、布教をしない・宣教師を近づけないことを条件に信仰を許そうとしたが、寿庵はこの条件を拒否。陸奥南部藩に逃亡したとも、出羽秋田藩に渡って死去したとも伝えられる。
大正3年(1923年)、治水の功により従五位が贈られた。昭和6年(1931年)には彼の館跡に寿庵廟堂が建てられ、毎年9月11日に寿庵祭が行なわれている。昭和26年(1951年)、宮城県登米市(東和町米川西上沢)で後藤寿庵の墓が発見されている。