今日は約2000年前の農村風景が現在の東京の農村風景とよく似ていることを写真で示したいと思います。
稲作の水田が広がる風景が同じなのです。しかし農家が立派になったことだけは違います。
日本に稲作の水田風景が広がるようになったのは現在より2300年前の弥生時代になってからです。
ご存知の通りこの弥生時代の前後の時代区分は次のようになってます。
旧石器時代 –約4万年前ー 紀元前14000年頃 (24000年間)
縄文時代 14000年前頃 – 前3世紀頃 (11700年間)
弥生時代 前3世紀頃 – 後3世紀中頃
古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃
飛鳥時代 592年 – 710年
奈良時代 710年 – 794年 、
さて約2000年前の農村風景は静岡県の登呂という場所にある遺跡を復元した風景に見ることが出来ます。
1番目の写真は登呂遺跡に復元した水田の広がる風景です。約2000年前を正確に言えば1900年前です。
写真の右手に写っている高床式の大きな建物は村の祭殿です。
続く2枚も含めて登呂遺跡の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/登呂遺跡 です。
2番目の写真は登呂遺跡の水田と竪穴式の農家の写真です。この写真の左をよく見ると高床式の米の貯蔵庫が写っています。
3番目の写真は村の祭殿です。これが時代の経過とともに村を守る神社になって行ったと考えられます。
4番目の写真はは昨日撮った八王子市の香月地区に広がる水田風景です。この地区の稲田は広大でこの写真の水田はそのほんの一部です。
5番目の写真は多摩川から水田に水を送る水路です。その堤が土手でなくコンクリートで出来ている点が1900年前と違う風景です。
6番目の写真は稲田の奥の山際にある村のお寺です。この農村を守るお寺です。神社でなく仏教のお寺になっているのが時代の流れを感じさせます。
この古刹は圓通寺です。圓通寺は、讃海(天暦年間947-956寂)が開山となり創建したといいます。天正19年(1591)徳川家康より寺領10石の御朱印状を拝領しました。近郷に数多くの塔頭・末寺・門徒寺を擁する中本寺格の寺院だったのです。
ですから高月の農村はこのお寺が出来た950年頃から存在していたことが分かります。
3番目の写真の村の祭殿と比べると随分立派な建物になっています。
そして現在の農家はエアコン付きの洒落た一戸建ての家々になって圓通寺の周囲にあります。その風景は2番目の写真の竪穴式の農家とは大に違います。住み心地が格段に良くなっています。
しかし稲作の水田が広がる日本の風景は弥生時代の始まる2300年前から変わっていないのです。
この日本の原風景は変わらないのです。
昨日は八王子の水田風景を眺めながら悠久の時の流れを考えていました。
一人の人間の一生などは文字通り邯鄲一朝の夢なのす。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===========================
登呂遺跡は静岡県静岡市駿河区登呂五丁目にある、弥生時代の集落・水田遺跡です。国の特別史跡に指定されています。( https://ja.wikipedia.org/wiki/登呂遺跡 )
弥生時代後期に属し、1世紀ごろの集落と推定されます。
遺跡は、戦時中の1943年(昭和18年)7月10日、軍事工場建設の際発見された。戦後間もない1947年(昭和22年)には考古学・人類学・地質学など各分野の学者が加わった日本で初めての総合的な発掘調査が行われ、8万平方メートルを超える水田跡や井戸の跡、竪穴式住居(正確には竪穴系平地式住居)・高床式倉庫の遺構が検出された。この他にも、農耕や狩猟、漁労のための木製道具や火起こしの道具、占いに用いた骨などが出土した。
また、1999年(平成11年)から5カ年計画で再発掘調査が行われ、新たに銅釧や漆が塗られた槽づくりの琴、祭殿跡などが出土している。
現在遺跡は、登呂公園として整備され、住居などが復元されているほか、遺跡についての資料がある静岡市立登呂博物館が隣接して建てられている。
現行の施設は2010年(平成22年)10月3日に開館した。
村について:
登呂遺跡は、安倍川の分流の洪水時に押し流された土砂が堆積し、自然に形成された堤防の上に造られている。村は、北東から南西の方向に広がる微高地を利用して住居12棟、高床倉庫2棟が建っており、水田は、その南につくられている。
文化財:
重要文化財(国指定)
静岡県登呂遺跡出土品(考古資料) - 内訳は次の通り。静岡市立登呂博物館保管。
土器・土製品 54点
木器・木製品 321点
石器・石製品 74点
金属製品 16点
ガラス小玉 5点
骨角製品 6点
織物・編物残欠 6点
樹皮製品 7点
土器片 126点(以上昭和18-40年出土)
土器・土製品 12点
木器・木製品 77点
石器・石製品 64点
銅環 5点
ガラス小玉 1点
灼骨残欠 1点(以上平成11-15年出土)
稲作の水田が広がる風景が同じなのです。しかし農家が立派になったことだけは違います。
日本に稲作の水田風景が広がるようになったのは現在より2300年前の弥生時代になってからです。
ご存知の通りこの弥生時代の前後の時代区分は次のようになってます。
旧石器時代 –約4万年前ー 紀元前14000年頃 (24000年間)
縄文時代 14000年前頃 – 前3世紀頃 (11700年間)
弥生時代 前3世紀頃 – 後3世紀中頃
古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃
飛鳥時代 592年 – 710年
奈良時代 710年 – 794年 、
さて約2000年前の農村風景は静岡県の登呂という場所にある遺跡を復元した風景に見ることが出来ます。
1番目の写真は登呂遺跡に復元した水田の広がる風景です。約2000年前を正確に言えば1900年前です。
写真の右手に写っている高床式の大きな建物は村の祭殿です。
続く2枚も含めて登呂遺跡の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/登呂遺跡 です。
2番目の写真は登呂遺跡の水田と竪穴式の農家の写真です。この写真の左をよく見ると高床式の米の貯蔵庫が写っています。
3番目の写真は村の祭殿です。これが時代の経過とともに村を守る神社になって行ったと考えられます。
4番目の写真はは昨日撮った八王子市の香月地区に広がる水田風景です。この地区の稲田は広大でこの写真の水田はそのほんの一部です。
5番目の写真は多摩川から水田に水を送る水路です。その堤が土手でなくコンクリートで出来ている点が1900年前と違う風景です。
6番目の写真は稲田の奥の山際にある村のお寺です。この農村を守るお寺です。神社でなく仏教のお寺になっているのが時代の流れを感じさせます。
この古刹は圓通寺です。圓通寺は、讃海(天暦年間947-956寂)が開山となり創建したといいます。天正19年(1591)徳川家康より寺領10石の御朱印状を拝領しました。近郷に数多くの塔頭・末寺・門徒寺を擁する中本寺格の寺院だったのです。
ですから高月の農村はこのお寺が出来た950年頃から存在していたことが分かります。
3番目の写真の村の祭殿と比べると随分立派な建物になっています。
そして現在の農家はエアコン付きの洒落た一戸建ての家々になって圓通寺の周囲にあります。その風景は2番目の写真の竪穴式の農家とは大に違います。住み心地が格段に良くなっています。
しかし稲作の水田が広がる日本の風景は弥生時代の始まる2300年前から変わっていないのです。
この日本の原風景は変わらないのです。
昨日は八王子の水田風景を眺めながら悠久の時の流れを考えていました。
一人の人間の一生などは文字通り邯鄲一朝の夢なのす。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===========================
登呂遺跡は静岡県静岡市駿河区登呂五丁目にある、弥生時代の集落・水田遺跡です。国の特別史跡に指定されています。( https://ja.wikipedia.org/wiki/登呂遺跡 )
弥生時代後期に属し、1世紀ごろの集落と推定されます。
遺跡は、戦時中の1943年(昭和18年)7月10日、軍事工場建設の際発見された。戦後間もない1947年(昭和22年)には考古学・人類学・地質学など各分野の学者が加わった日本で初めての総合的な発掘調査が行われ、8万平方メートルを超える水田跡や井戸の跡、竪穴式住居(正確には竪穴系平地式住居)・高床式倉庫の遺構が検出された。この他にも、農耕や狩猟、漁労のための木製道具や火起こしの道具、占いに用いた骨などが出土した。
また、1999年(平成11年)から5カ年計画で再発掘調査が行われ、新たに銅釧や漆が塗られた槽づくりの琴、祭殿跡などが出土している。
現在遺跡は、登呂公園として整備され、住居などが復元されているほか、遺跡についての資料がある静岡市立登呂博物館が隣接して建てられている。
現行の施設は2010年(平成22年)10月3日に開館した。
村について:
登呂遺跡は、安倍川の分流の洪水時に押し流された土砂が堆積し、自然に形成された堤防の上に造られている。村は、北東から南西の方向に広がる微高地を利用して住居12棟、高床倉庫2棟が建っており、水田は、その南につくられている。
文化財:
重要文化財(国指定)
静岡県登呂遺跡出土品(考古資料) - 内訳は次の通り。静岡市立登呂博物館保管。
土器・土製品 54点
木器・木製品 321点
石器・石製品 74点
金属製品 16点
ガラス小玉 5点
骨角製品 6点
織物・編物残欠 6点
樹皮製品 7点
土器片 126点(以上昭和18-40年出土)
土器・土製品 12点
木器・木製品 77点
石器・石製品 64点
銅環 5点
ガラス小玉 1点
灼骨残欠 1点(以上平成11-15年出土)