最近の日本では高齢化がどんどん進み独り暮らしの老人が次第に増えて来ました。
このような老人は一見孤独で淋しいように見えます。そして誰にも看取られずに死んでしまう孤独死も起きます。
今日は老人の孤独の問題を考えてみようと思います。単なる問題提起であり、正解ではありません。
まず一人暮らしてるからといって不幸とは限りません。独り暮らしだから孤独で悲しいとは限りません。
孤独な老人を助けようといろいろ干渉して嫌われることもあります。この問題は簡単ではありません。
そこで議論をなるべく客観的に進める為に一人暮らし老人のいろいろな事情を分類してみます。
(1)これといった原因も無いのに、生涯独身だったので、自然に一人暮らしの老人になっている人々。
(2)長い間幸せな結婚生活をしていたが夫婦のどちらかが亡くなり、その上、子供がいなかったので一人暮らしになった人々。
(3)別居している子供や孫もいるが、幸せだった夫婦の一方が亡くなってしまい一人暮らしになった老人。
(4)何度か結婚と離婚をした経験があり、子供もいるが、終いには一人暮らしになってしまった人々。
(5)同性婚をしていて一方が亡くなって一人暮らしをしている人々。この場合は子供はいません。
(6)種々の障害が原因で結婚が出来なくて一人暮らしをしている人々。
(7)その他、いろいろな事情で独り暮らしをしている老人。
上記のように一人暮らしの老人にはいろいろ違った事情があるのです。
ですから一人暮らしの老人を助けようと安易に近づくのは必ずしも良いとは限りません。
人によって孤独が好きで他人に干渉されることを嫌う人々もいます。
それでは孤独でも幸せな老人、孤独で不幸な老人は上記のどれでしょうか?
(1)の人々は孤独に慣れていますから問題がありません。孤独でも幸せな老人です。
(2)の人々は一番悲しい老境を送っているのではないでしょうか?孤独で不幸な老人です。
(3)の人々は子供や孫がいるので一人暮らしでも悲しくありません。何処かで子供や孫が元気に育っていると考えると孤独を感じないのではないでしょうか?孤独でも幸せな老人です。
(4)の人々は何度か離婚の経験があるので人生の悲しみに対する耐性が出来ているので、あまり心配しなくても良いのではないでしょうか?孤独でも幸せな老人です。
(5)の人々は悲しみに沈んでいると考えられます。孤独で不幸な老人です。
(6)の人々には深く同情せざるを得ません。孤独で不幸な老人です。
(7)その他、いろいろな事情で独り暮らしをしている老人については個々の事情によって異なります。。
以上のように簡略に書くと、皆様は孤独感はそんな簡単な問題でないととおっしゃると思います。
孤独で、不幸と思い込んでいる人々に対して、他人がその悩みを解消することも出来ないのです。
しかし、孤独で不幸な老人を助ける方法は一つあります。それは日常の暮らしで困っていることを具体的に支援することです。
車の運転が出来ずに買い物や病院通いが出来ない一人暮らしの老人は車で送迎してあげることです。体が動かず、庭が雑草だらけになっていたら雑草刈りをしてあげるのです。一人暮らしの老人の生活を少しでも楽になるように助けるのが良いと思います。
しかしそれもうるさがられないようい控え目にするほうが良いようです。
一人暮らしをしている老人には全く社交性が無く、偏屈な人もいます。
そのせいで一人暮らしの老人になっている人もいます。こういう場合は要注意です。どんなに善意で支援して上げても感情的に拒絶され、挫折させられることがあります。私はそのような善意の人を知っています。しかしその人を心から尊敬しています。
人間は非常に複雑です。孤独を愛しながら、他人の支援や愛を期待するものなのです。矛盾しているのです。
ですから孤独な老人を助けることは至難の技なのです。
これを書いてしまえば鼻白む方々も多いと思いますが、まあ書かせて下さい。
キリスト教では神様やイエス様が人を愛していますと教えています。
私も神様やイエス様を愛しています。ですから全く孤独になっても信仰の篤い人には孤独の悲しみが無い筈です。しかし人間は弱いものです。イエス様の愛に、四六時中確信が持てないのです。
今日の記事は家内が私より先に旅立ってしまった場合の心の準備として書いたのかも知れません。困ったものです。
さて皆様は孤独を感じ不幸を感じるときがあるでしょうか?
今日の挿し絵代わりの写真は心が豊かになるような広い明るい風景写真です。昨年9月15日に甲斐駒岳、八ヶ岳、白樺湖、車山、霧ヶ峰などで撮った風景写真です。




このような老人は一見孤独で淋しいように見えます。そして誰にも看取られずに死んでしまう孤独死も起きます。
今日は老人の孤独の問題を考えてみようと思います。単なる問題提起であり、正解ではありません。
まず一人暮らしてるからといって不幸とは限りません。独り暮らしだから孤独で悲しいとは限りません。
孤独な老人を助けようといろいろ干渉して嫌われることもあります。この問題は簡単ではありません。
そこで議論をなるべく客観的に進める為に一人暮らし老人のいろいろな事情を分類してみます。
(1)これといった原因も無いのに、生涯独身だったので、自然に一人暮らしの老人になっている人々。
(2)長い間幸せな結婚生活をしていたが夫婦のどちらかが亡くなり、その上、子供がいなかったので一人暮らしになった人々。
(3)別居している子供や孫もいるが、幸せだった夫婦の一方が亡くなってしまい一人暮らしになった老人。
(4)何度か結婚と離婚をした経験があり、子供もいるが、終いには一人暮らしになってしまった人々。
(5)同性婚をしていて一方が亡くなって一人暮らしをしている人々。この場合は子供はいません。
(6)種々の障害が原因で結婚が出来なくて一人暮らしをしている人々。
(7)その他、いろいろな事情で独り暮らしをしている老人。
上記のように一人暮らしの老人にはいろいろ違った事情があるのです。
ですから一人暮らしの老人を助けようと安易に近づくのは必ずしも良いとは限りません。
人によって孤独が好きで他人に干渉されることを嫌う人々もいます。
それでは孤独でも幸せな老人、孤独で不幸な老人は上記のどれでしょうか?
(1)の人々は孤独に慣れていますから問題がありません。孤独でも幸せな老人です。
(2)の人々は一番悲しい老境を送っているのではないでしょうか?孤独で不幸な老人です。
(3)の人々は子供や孫がいるので一人暮らしでも悲しくありません。何処かで子供や孫が元気に育っていると考えると孤独を感じないのではないでしょうか?孤独でも幸せな老人です。
(4)の人々は何度か離婚の経験があるので人生の悲しみに対する耐性が出来ているので、あまり心配しなくても良いのではないでしょうか?孤独でも幸せな老人です。
(5)の人々は悲しみに沈んでいると考えられます。孤独で不幸な老人です。
(6)の人々には深く同情せざるを得ません。孤独で不幸な老人です。
(7)その他、いろいろな事情で独り暮らしをしている老人については個々の事情によって異なります。。
以上のように簡略に書くと、皆様は孤独感はそんな簡単な問題でないととおっしゃると思います。
孤独で、不幸と思い込んでいる人々に対して、他人がその悩みを解消することも出来ないのです。
しかし、孤独で不幸な老人を助ける方法は一つあります。それは日常の暮らしで困っていることを具体的に支援することです。
車の運転が出来ずに買い物や病院通いが出来ない一人暮らしの老人は車で送迎してあげることです。体が動かず、庭が雑草だらけになっていたら雑草刈りをしてあげるのです。一人暮らしの老人の生活を少しでも楽になるように助けるのが良いと思います。
しかしそれもうるさがられないようい控え目にするほうが良いようです。
一人暮らしをしている老人には全く社交性が無く、偏屈な人もいます。
そのせいで一人暮らしの老人になっている人もいます。こういう場合は要注意です。どんなに善意で支援して上げても感情的に拒絶され、挫折させられることがあります。私はそのような善意の人を知っています。しかしその人を心から尊敬しています。
人間は非常に複雑です。孤独を愛しながら、他人の支援や愛を期待するものなのです。矛盾しているのです。
ですから孤独な老人を助けることは至難の技なのです。
これを書いてしまえば鼻白む方々も多いと思いますが、まあ書かせて下さい。
キリスト教では神様やイエス様が人を愛していますと教えています。
私も神様やイエス様を愛しています。ですから全く孤独になっても信仰の篤い人には孤独の悲しみが無い筈です。しかし人間は弱いものです。イエス様の愛に、四六時中確信が持てないのです。
今日の記事は家内が私より先に旅立ってしまった場合の心の準備として書いたのかも知れません。困ったものです。
さて皆様は孤独を感じ不幸を感じるときがあるでしょうか?
今日の挿し絵代わりの写真は心が豊かになるような広い明るい風景写真です。昨年9月15日に甲斐駒岳、八ヶ岳、白樺湖、車山、霧ヶ峰などで撮った風景写真です。




