後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

趣味や宗教へ対する考えが変わりました

2009年08月21日 | 写真

私の生涯の考え方をほぼ決めたのは敗戦後すぐの戦後教育です。ガンになって分かりました。

昭和23年から26年の新制中学校で、復員してきた先生や、満州から引き揚げてきた先生が教えていました。「日本が戦争に負けたのはアメリカの科学技術に負けたのだ!」という台詞を毎日繰り返し聞かされました。「日本人の精神文化が負たのでは無い!科学技術だけが決定的に劣っていたのだ!」

この声は老年になった私の心に中に今でも木霊しています。その声が聞こえます。

科学技術をアメリカに追い付き、追い越すために英会話を学び、留学しました。すると付き合ってくれたアメリカ人が聞きます。「貴方の趣味(Hobby)は何ですか?貴方の宗教(Religion)は何ですか?」

アメリカの科学技術に追い付くためには専門分野の勉強だけでなく趣味や宗教を持つ必要があるのです。すくなくとも浅はかな私はその様に理解しました。中年になり生活に少しゆとりが出来た頃、この2つの宿題に取り組み始めました。宿題を解くために色々な本を読みました。

宗教の方は長崎の26聖人と江戸時代の隠れキリシタンに手をとられてカトリックになりました。

趣味の方は欧米人にならい、ヨットと山小屋の趣味に落ち着きました。これでやっとアメリカの科学技術に追い付いたような気分になったのです。これで、「アメリカ人へ追い付く」という人生目的がほぼ達成しました。新制中学校で「アメリカの科学技術に追い付け!」、と毎日のように叫んでいた特攻隊帰りの戦闘機乗りの先生へ誇らしい気持ちで報告したかったのを思い出します。

今回ガンになりこの考え方が変わりました。趣味は必要無い。それを持っている人が居ても良い。自分の趣味を急に捨てる必要も無い。毎朝元気に起き上がれることが至福の時です。生の充実感や達成感は静かに呼吸をして庭を見ているだけで得られるのです。若者が見て、「ああ、本物の老人ボケになってしまった」と思うかも知れません。しかし本人にとっては楽しいのです。生活の充実感で心が明るく高揚しているのです。

さて宗教の方はというと、宗教に入った動機は間違っていましたがガンになってますます信仰が強くなりました。死ぬのが怖くなったので信仰が強くなったのではありません。欧米経由のキリスト教ではなくイエスさまから長崎の26聖人、江戸時代260年の隠れキリシタン経由のキリスト教へ変化しつつあります。そうです遠藤周作流のカトリック信仰です。

昨日、長距離ドライブの練習と連根畑の花を撮るために90Kmほど走りました。ついでにヨットを見に寄りました。セイリングしないで見て楽しむだけのヨットになりました。鉄道マニアが列車の写真を撮って楽しむようなものです。ついでにこのブログのヨットの写真を色々開いて楽しんでいます。「行動する趣味から見るだけの趣味」に変わったのです。

その上、ブログをこうして書くだけでなく、以前皆様かた頂いたコメントを一つ一つ読みなおして楽しんでいます。もっとはっきり言えば、「趣味を積極的に楽しまなければ人生では無い!」という強迫観念から解放されたのです。私はそんなバカバカしい強迫観念をガンになったお陰でサラリと捨てることが出来ました。下には昨日、一か月ぶりに見たヨットと霞が浦の写真と、昨年9月に神奈川県の油壷で撮った私のお気に入りのヨットの写真を掲載いたします。

皆様は趣味をおもちですか?趣味を楽しんでいらっしゃいますか?楽しんでいらっしゃることをお祈りいたします。そして何も趣味の無い方の楽しい毎日もお祈り申し上げます。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 藤山杜人

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2 コメント

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サブタイトル「がんになってますます信仰が強くな... (yuchan_nabe)
2009-08-22 01:36:53
サブタイトル「がんになってますます信仰が強くなりました。」
言いえて居りますね!
健康で、忙しい生活を送っている時は人は普通自分の死について
考えようともしないで生きていますね。
また忙しい生活の中で趣味に時間をさき、ストレスの発散をします。
現役を引退して、出来た余裕を趣味の充実に当て、考えようともしませんね。
自分とは関係ない世界か、づっと遠い出来事と考えていますね。
身近な人や友人の死に出会うと考えますが、考えてもしょうがないと打ち消して、今までの生活パターンを守りますよね。
ところが、病気に罹りこれが死に結びつくと感ずる様になると、考え始めますね。
それが現実味を帯びてくるからでしょう。
現世利益を追求する、らしきものは別として、
死を見つめて、そこから何を知り、何を信ずるかを追及するのが宗教の原点と考えられます。
お金や財産、地位や名誉、仕事、趣味それらの物は肉体が存在し、生きている間は必要ですが、死を境にして瞬間で何の価値もないものに変化しますね。
マタイ6-20「天に宝をたくわえなさい」
    6-21「宝のあるところにはあなたの心もあるからです」
死後の霊の世界を認めない人には世の宝は一瞬で価値のないものになりますね。
天国を認める人には、世の宝は価値がなくなりますが、天の宝は死後の世界で価値があるのですね。
さて天に蓄える宝とはど゜んなものなのでしょうか。
形あるものではないことは確かですが、宝のあるところには心があるとイエス様が言われています。心をこめた何かなのですね。
でもこの宝はこの世で蓄えるものですね。

Yuchan_Nabe








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yuchan_nabeさん (藤山杜人)
2009-08-22 16:10:33
yuchan_nabeさん

コメント有難うございました。
小生の信仰がますます強くなるようなご指導に心から感謝いたしています。
どうぞ今後も折にふれてキリスト教のことを御教え下さい。
有難う御座いました。

敬具、藤山杜人
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