後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「八ヶ岳と清里の八ヶ岳ロイヤルホテルの思い出」

2024年09月12日 | 写真
老境の幸せは時間が自由なことです。数年前の3月に思い立って、甲斐駒の麓にある山小屋に遊び、その足を伸ばして八ヶ岳の麓を巡る旅に出ました。夜は以前にも泊まった八ヶ岳ロイヤルホテルに投宿しました。一泊する小さな旅です。甲斐駒岳と八ヶ岳の写真を撮りながら清里まで行きました。
清里では清泉寮に遊びました。撮った風景写真をお送り致します。。
1番目の写真は甲斐駒岳の写真です。中央高速道路の須玉インターを出て日野春の駅を越えると武川町が見下ろせる公園があります。その公園から撮った写真です。釜無川が眼下に流れ、その向こうに甲斐駒岳が聳えている場所です。
2番目の写真は甲斐大泉の展望台から見た八ヶ岳です。ここから清里へ行きました。甲斐大泉は標高1200m位の素晴らしい高原でホテルやペンションや洒落た別荘が散在しています。
3番目の写真は清里の清泉寮の前に広がる牧場です。清里はこのように広々した牧場地帯です。ジャージー種の牛の牧場です。
4番目の写真は投宿した八ヶ岳ロイヤルホテルです。施設が良くて食事も美味しいホテルです。
次の日はホテルを出て俳優の柳生さんが作った八ヶ岳倶楽部を見にいきました。雑木林がとても美しい場所でした。
以上、甲斐駒岳と八ヶ岳と清里の八ヶ岳ロイヤルホテルの写真をお送り致しました。

「八ヶ岳の清泉寮と若かった妻の思い出」

2024年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム
八ヶ岳の麓の清春に清泉寮があります。新婚の頃若かった妻が目を輝かせて清泉寮の素晴らしさを話していました。学生時代に泊まって感動したと話していました。

そのせいで私も何度も泊りに行きました。
八ヶ岳の麓の清泉寮かいわいの写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。

1番目の写真は八ヶ岳です。

2番目の写真は清里の清泉寮です。清泉寮の売店でジャージー種の牛乳で作ったソフトクリームを販売しています。

3番目の写真は清泉寮の前に広がる牧場です。

4番目の写真は八ヶ岳の麓を走るJr小海線です。

「戦後の日本の激変の例、農地改革」

2024年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム
敗戦国となった日本は、占領地から兵士を引き上げさせられ、日清戦争以降に得た植民地を失いました。また沖縄や小笠原諸島、奄美諸島はアメリカの統治下におかれ、北方領土はソ連の統治下となりました。
国内は、空襲によって住宅や工場などが壊され、物価が急激に上昇し、多くの失業者が出ました。日本本土はアメリカを主とする連合国軍の占領下となり、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が置かれ、戦後改革が行なわれました。
GHQは、日本の非軍事化を進め、軍や政府の指導者を戦争犯罪人として、極東国際軍事裁判で公職から追放しました。昭和天皇も、GHQによって1946年(昭和21年)に「人間宣言」を行ないました。
GHQは、非軍事化と同時に民主化を進めました。治安維持法が廃止され、政治活動や言論の自由を保証し、選挙権を満20歳の男女に与えました。経済面では、日本経済の実権をにぎっていた財閥を解体し、労働者を保護する労働組合法や労働基準法を制定されました。農村では農地改革が行なわれ、自作農が多くなりました。
それでは農地改革について書きます。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E5%9C%B0%E6%94%B9%E9%9D%A9 )
1945年の12月9日、GHQの最高司令官マッカーサーは日本政府に「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示しました。
この指示にしたがい農地は政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡されたのです。
農地の買収は1947年3月31日に開始され、1950年7月まで16回にわたって行われ、193万町歩の農地が、237万人の地主から買収され、475万人の小作人に売り渡されました。
日本の農地改革は、専業的家族経営を優遇しており経営規模3反未満の零細層は原則として買受け対象から除外されました。
農業諸施設の買収では、生産力の向上を基準に是非が判断され、「中農主義」「生産力主義」 が加味されていた点が日本の農地改革の特質であると言われる。
この農地改革は同時期に施行された選挙権の大幅拡大に連動されていた側面もあったのです。
従来、賃金労働者と並んで日本共産党の主要な支持層であった水田および畑作地の小作人の大部分が自作農、つまり土地資本を私有財産として持つようになり、その多くが保守系政党や戦後保守に取り込まれたのです。
結果として小規模農家が主流となり、大規模化・効率化が遅れたという指摘もあります。2000年代以降の少子高齢化により、担い手が不足し耕作放棄地が増加したため、農林水産省は農地中間管理機構を組織して、農地の大規模化や農業法人での経営を促す方針に転換しています。

この農地改革は日本社会に衝撃的な影響を与えたのです。日本社会から封建的な制度を一掃し民主化に大きく貢献したのです。農地改革は日本社会の衝撃的な改革でした。

添付の写真は日本の農村地帯の風景です。写真はインターンットからお借りしました。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「体験した戦後の日本語の激変ぶり」

2024年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム
太平洋戦争で日本は敗れました。そうしてアメリカの軍隊が全国の津々浦々を占領しました。このアメリカ軍の占領で日本の社会が激変しました。明治維新以来の軍国主義の社会が自由と平等が徹底した民主主義の社会に急変したのです。日本語も変わりました。日本人の職業や階級による言語の違いも無くなったのです。
昭和11年生まれの私はこの激変をつぶさに見聞きし体験したのです。
今日は戦後の日本語の激変について書きたいと思います。
まず職業別の言葉の違いの一例を書きます。私の少年の頃の体験です。
終戦前に交番の前を歩いていると巡査が「おいこら!」と大声で私を呼び止めます。退屈しているので少年の私と話をしたいのです。巡査は威張って交番から出て来て私にサーベルを見せるのです。そんなことが2,3回ありました。大人に対しても巡査は「おいこら」「きさま」など威張った言葉を使っていました。しかしアメリカ軍が占領して来ると巡査は「おいこら!」などと言わなくなりました。
単に巡査だけでなく日本人の上からの威張った言葉が少なくなりました。
社会から敬語や丁寧語が急に少なくなりました。職業による話し言葉の違いもなくなりました。
その上美しい女言葉も少なくなりました。以前にNHK放送で有楽町で夜の女をしていたオトキさんの美しい女言葉を放送していました。あまりにも綺麗な日本語なのでNHKが録音して何度も放送していたのです。
現在でも美しい女言葉を話す人は沢山います。しかし英語には女言葉が無いと言って男言葉を話す女性も沢山います。困ったものです。
男と女の言葉が別なのは日本の素晴らしい文化だったのです。
それからアメリカ軍が占領して来ると日本語にやたらカタカナ語が混じるようになりました。意味不明のものもあります。困ったものでした。
戦後アメリカ軍のカービン銃を使った強盗が捕まりました。そしたら犯人が、「オー、マイミステーク!」と叫びました。このことがマスコミに出ると「オー、ミステーク!」が日本中の流行語になりました。
戦後の日本語の変化はまだまだまだありますが、長くなるので止めます。
今日は戦後の民主化による日本語の激変の数例を書きました。激変したのは言葉だけでなく職場や家庭における人間関係も変わったのです。私は民主主義というものを肌で体験しました。
今日の挿絵代わりの写真は家内が撮った甲州の桜の風景写真です。私の山小屋の付近の桜です。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人) 
1番目の写真は韮崎の「わに塚の桜」です。古代の有力者の墓の「わに塚」に亭々と茂った桜木が満開になっている風景です。周囲には何も無い一本桜です。
2番目の写真は北杜市武川の「真原の桜並木」です。500m続く高原の桜並木です。
3番目の写真は「真原の桜並木」の西に聳えている甲斐駒岳です。残雪の甲斐駒岳が美しく輝いています。
4番目の写真は「清春美術館」の門を飾っている桜です。昔の小学校の跡地なのでぐるりと満開の桜木が囲んでいます。
5番目の写真は甲斐駒岳の麓の桜の咲いた山です。桜が山々に咲いていますが山桜ではなく種を鳥が運んだソメイヨシノです。