後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「近所の大国魂神社は2000年前の弥生時代に出来た」

2019年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム
趣味にはいろいろありますが地方史を調べてのも興味深いものです。
特に3万年以上前の旧石器時代と続く縄文時代の生活の様子を詳しく調べると面白いのです。
最近の井戸尻遺跡の研究によると畑作農耕に使われた石器の刃の鍬や鎌などが多数発見されています。縄文時代に畑作農耕が普及していたことを証明しているのです。
そして青森、三内丸山遺跡からは巨大な六本柱建物跡が発見されています。
この建造物は何に使われたか不明ですが、縄文人の宗教行事に使用されたとも考えられます。
大樹や大きな岩など自然のものに神が宿ると崇拝する神道の起源は縄文時代にあると言われています。
現在の神道の原型は弥生時代や古墳時代に出来たという説が広く認められています。
ですから日本には約2000年前の弥生時代に起源がある神社があります。

今日は弥生時代に出来たと言われている近所の大国魂神社をご紹介したいと思います。
東京都府中市にある大国魂神社の起源は、第12代景行天皇41年(西暦111年)5月5日大神の託宣に依って造られたものであると言い伝えられています。
景行天皇は実在していませんから景行天皇41年は嘘です。しかし西暦111年頃には起源があったことは信用しても良いと私は思っています。
その理由は大国魂神社の2Kmくらい西に熊野神社古墳があるからです。
この府中市の近辺は弥生時代や古墳時代から武蔵野の中心として栄えた場所だったのは間違いの無い事です。
出雲臣天穂日命の後裔が初めて武蔵国造に任ぜられ大国魂神社に奉仕してから、代々の国造が奉仕してその祭務を掌られたといわれています。
その後、孝徳天皇(596-654)の御代に至り、大化の改新(645)ののち、律令国家の武蔵国の国府をこの処に置くようになり国司が奉仕して国内の祭務を総轄する所にあてられたのです。
そして大国魂神社の東の隣に国衙が建設され武蔵国の首都になったのです。
そんな古い歴史のある神社なので地方史が趣味の私にとっては興味深い場所です。
一昨日も訪れて写真を撮って来ました。以前撮った写真もまじえて大国魂神社の写真をお送りします。









この神社は昔は六所宮とも呼ばれていました。
本殿の両側に国内の六所の神が祀られていたのです。六所とは小野大神、小河大神、氷川大神、秩父大神、金佐奈大神、杉山大神です。
寿永元年、1182に源頼朝が正室政子の安産の祈願をし1186年には新しい社殿を造営しました。
天正18年(1590)に徳川家康が江戸へ入城してからは武蔵国の総社として社領五百石を寄進し、社殿の造営を行っています。
正保3年(1646)の類焼により社殿は焼失しましたが、寛文7年(1667)に将軍家綱の命により新しい社殿を造営し現在に至っています。
この様に大国魂神社は大和朝廷や鎌倉幕府や江戸幕府の庇護を受けて来たのです。武蔵国の最も重要な神社だったのです。
ちなみにこの神社の有名な欅並木は1051年からの前9年の役で源氏の頭領、八幡太郎義家が蝦夷の安部一族を平定した戦勝祝いに欅1000本を寄進したのが始まりです。
現存する欅並木は老化し朽ちるので保存に苦労しています。

地方史が趣味の私にとっては大国魂神社の歴史は興味が尽きません。地方史のお好きな方は是非一度訪れてみて下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)

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