後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

あなたの生まれる前の事でもお読み下さい(1)追加:福島、郡山市の空襲の実体験記

2010年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム

当時、福島県の郡山市にお住まいだったyuyu (http://yuhoh.hp.infoseek.co.jp)さんがコメントとしてご投稿下さいました文章をご紹介いたします。

===福島、郡山市の空襲の実体験記====

B29の独特の金属音は高度1万メートル以上で飛んでいるときの音でした。空襲警報が鳴り、あの音は今も耳に鮮明に残っています。
今考えるとそれは偵察機の飛行で、本土には爆撃の危険はなかったのですが、襲撃の音に聞こえました。
日本の対空戦力が落ちるにつれて、飛行高度が低空に変わり、私の町、東北の工業と交通の町(現在の郡山市)は当然狙われました。
仙台大空襲より前のことでした。狙いは軍事工場と鉄道だったようです。
鮮魚店を大きな店構えであきなっていましたから、鉄筋コンクリートの台が作られていて、その地下に防空壕が掘られていました。子供と女性は豪の中に、入れない父と祖母は裏口の風呂場の横から空をにらんでいました。
小5の私も豪には入らず、表通りの空を見ていました。飛行機の頭部にガラスで機銃操作なのか、爆弾投下のためか空軍の兵士の飛行機眼鏡の姿がこちらを見ていました。空は真っ暗になるほどの数。ガラス戸はビンビンと鳴り、爆音は偵察機の音とは全く違う、重い、暗い唸りでした。
爆弾投下の音は地響きを繰り返し、ドカン、ズシンです。通過のあいだの何分間なのですが、父の母親も丁度田舎からきていましたから、母と二人は手を合わせて念仏を唱えていました。
空襲が終わって、何時間後には、防空頭巾姿で顔は真っ黒の母の里の一家が全員歩いてきました。
爆撃で家を焼かれ、命からがら登ってきました。危険だからと我が家でお茶を飲んでまた西へ、田舎の親戚を頼って非難してゆきました。
後で知ったことは、軍事工場が壊滅、鉄道の駅も爆撃されていたと聞きます。駅の近くの問屋が母の実家でしたから、空襲の標的近くだったのでした。
その二日後には、父方の祖母が手配した牛車が田舎から来て「こんな恐ろしいところへ孫たちは置けない」と2里も離れていない田舎へ疎開することになりました。
疎開前日に、恐ろしい一夜をすごした記憶があります。
偵察機ではない高さで、爆撃音です。音と町の周囲に照明弾が投下されて、ドカンドカンと、爆弾の音が続きました。町の周囲から狙っているように思われたので、町から逃げ出さない恐怖でした。
これは暗闇での空襲に失敗したB29が、目標ではない田舎の田畑へ一トン爆弾を落とし、大きな穴をいくつも作っていったのでした。
それで疎開は迷うことなく決定しました。豪農の父の里は屋敷が広く、母屋、隠居所、閑居の住まいがあり、蔵が三つと納屋が三つ、大きな池と西の林で構成されていました。
隠居所がわれわれの住まいに用意されていました。疎開したその年の夏には終戦となりましたが、それまでは艦載機の襲撃を郡山の町は毎日受けていました。
田舎からそれが見えて、煙を吐いて墜落する敵機、B29も見えました。
敗戦が近いのを子供ながらに知る時期でした。飛行場が海軍と陸軍の二つもありながら、一機も飛び立つことなく、敵機のおもうままでした。練習機の赤い二枚羽根の飛行機しか日本にはなくなったのだと知りました。
田舎の山林に、戦闘機がまともな姿でかくされていましたが、飛び立つ燃料がないので避難していると言います。
松林は切り倒され、松ノ木の根からとる所謂、松根油なるもので飛行機を飛ばすのだと聞きました。
軍事工場に動員されていた父は支那事変の傷痍軍人でした。何を作っていたかと言うのが今も不思議です。笑い事でした。風船爆弾を作っていたのです。空になった弁当にその切れ端を持ち帰る父でした。その強い油紙とビニールの中間のような分厚い紙で風船、気球のようなものを米国本土へ飛ばす計画が軍事工場でなされ、マッチ箱爆弾を搭載すると言う話を聞いていました。

戦争へ出て「弾の下をしくぐった男」と戦後の不良たちを怒鳴り散らず元気な父でした。くぐるどころか大腿部を敗残兵に狙撃されて負傷した衛生兵だったのです。
それから後、空襲が毎日のように続き、東京大空襲、仙台の油種焼夷弾攻撃では空から火が降ったと聞きました。そして、遂に、広島、長崎の原爆です。噂で、何かあちらで大空襲があったらしいという情報しかありませんでした。
まもなく、8月15日の玉音放送を本家の庭に一族が集い、座して聞いたのでした。途中まで意味が分からず、大声で「戦争が負けた」のおじの声で事実を知ったのです。夏休中でしたが、登校すると、わら半紙の分厚い教科書に墨汁で、先生が言うとおりに、文章を消してゆくことが小学生、即ち、当時の国民学校生徒の勉強でした。
旧制中学から幼年学校に合格していた兄が帰ってきました。その後の日本はどうなるのか五里霧中の日本でした。それでも蔵に日本刀が棚一杯にあった旧家でしたから、男の子に好きなものを一振りずつ渡しました。
鬼畜米兵が来るから、女子供を守るのが男の仕事と言われました。
田舎に通達はだいぶ過ぎてからですが、無条件降伏の武装解除は家庭の武器弾薬にまで及びました。何十本という日本刀と鉄砲も全部放出しました。
悔しがりながら本家のおじは気の小さい人でしたから、全部差し出してしまいました。それでも一振り残した名刀を裏の竹やぶで試し切りをして、保存したのです。後で知ったのは、それだけは油紙に包んで、竹藪の地中に埋めていたのでした。

しばらくして、ジープで現れた米兵は鬼畜ではなく、子供に愛想の良い、ガムやチョコレートを沢山持ってくる大男たちでした。日本は勝てない筈で、身の丈180以上の大きさです。これが、終戦前後の農家に疎開した私の経験のほんの一部です。

===ご投稿くださいましたyuyuさん有難う御座いました===


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