goo blog サービス終了のお知らせ 

後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

宮沢賢治の童話集、「注文の多い料理店」の出版

2012年04月20日 | 日記・エッセイ・コラム

宮沢賢治は生きている間に2つの本を出版しました。一つは昨日ご紹介した詩集、「春と修羅」です。それは1924年(大正13年)の4月でした。そして同じ年の暮れにもう一つ、童話集、「注文の多い料理店」を出版します。

そして賢治が亡くなる1933年(昭和8年9月)まで一切本の出版はしていません。

以下にこの「注文の多い料理店」の簡単な内容の説明を示します。

Wikipedeaの「注文の多い料理店」の項目の抜粋です。ご一読をお願い致します。次回は童話の一部をご紹介致します。

======Wikipedeaの「注文の多い料理店」の項目の抜粋========

短編集としての『注文の多い料理店』は、1924年に、盛岡市の杜陵出版部と東京光原社を発売元として1000部が自費出版同様に出版された。発行人は、盛岡高等農林学校の1年後輩にあたる近森善一となっている。書名には「イーハトヴ童話」という副題がついている。岩手在住の図画教師だった菊池武雄が描いた挿絵が付された。定価が1円60銭と比較的高価だったためもあり、ほとんどが売れ残った(当時の映画入場料は30銭ほど)という。

収録作品は下記の9作品である。

これに、自らの創作姿勢と生き方について言及したと見られる『序』が添えられている。いずれも、末尾に年月日が付されており、それによるとこれらの作品は1921年から翌年の前半にかけて完成している。思うように売れなかったことに加えて、作品の評判も芳しくなかったため、賢治はその後に構想を立てていた一連のイーハトヴ童話集の出版を取りやめてしまった。このため、賢治の生前に出版された彼の単行本は詩集『春と修羅』と本作品集の2冊のみである。

====以下省略===========


宮沢賢治の作品を気楽に読む(5)大正13年出版の「春と修羅」から

2012年04月20日 | 日記・エッセイ・コラム

大正13年(1924年)4月、宮沢賢治は生前唯一の詩集の出版をします。出版は東京の関根書店ですが、印刷は花巻でしました。自費出版でした。

詩集の題は「春と修羅」で詩の形式の序文を含めて70編の詩が収録されています。その詩は大正11年(1922年)から大12年(1923年)の作品です。

大正10年には花巻農学校の教師になります。東京の国柱会という仏教団体の街頭布教にも加わり、創作活動と宗教活動を活発に行った時期です。

そして大正10年の11月に妹のトシが病死します。

大正12年には樺太を訪問し、この旅にまつわる多くの詩を作ります。

大正13年の12月にはイーハトーブ童話「注文の多い料理店」を刊行します。

今日は「春と修羅」からの詩を読んで見ましょう。

心象スケッチなので理解に苦しむ箇所が随所に出て来ます。

かまわず読み飛ばしましょう。そして何か感じたら読み返して賢治の心情を想像しましょう。

なお「春と修羅」の中で有名な、妹の死を詠った「永訣の朝」を含む「無聲慟哭」の部分にある5つの詩は避けます。あまりにも有名な上に、悲しすぎるからです。

=======春と修羅===========

心象のはいいろはがねから

あけびのつるはくもにからまり

のばらのやぶや腐植の濕地

いちめんのいちめんの諂曲模様(てんごくもよう)

  (正午の管弦よりもしげく

  琥珀のかけらがそそぐとき)

いかりのにがさまた青さ

四月の気層の光の底を

唾し(つばきし) はぎしりゆききする

おれはひとりの修羅なのだ

  (風景はなみだにゆすれ)

砕ける雲の眼路(めじ)をかぎり

 れいろうの天の海には

  聖は璃(はり)の風の行き交ひ

   Zypressen 春のいちれつ

    くろぐろと光素(エーテル)を吸えば

     その暗い脚並からは

      天山の雪の稜さへひかるのに

      (かげろうの波と白い偏光)

      まことのことばはうしなはれ

     雲はちぎれてそらをとぶ

    ああかがやきの四月の底を

   はぎりし燃えてゆききする

 おれはひとりの修羅なのだ

・・・・以下省略・・・(修羅とは仏教の阿修羅のことで戦いの神様。修羅は争いや戦いで混迷した状態を示す)・・・・・・・・・・・・

=====雲の信号========

ああいいな せいせいするな

風が吹くし

農具はぴかぴか光ってゐるし

山は!ぼんやり

岩頸(がんけい)だって岩鐘(がんしょう)だって

みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ

   そのとき雲の信號は

   もう青白い禁欲の

   春ぞら高く揚げられてゐた

山はぼんやり

きっと四本杉には

今夜は雁もおりてくる

=====樺太鐡道======

やなぎらんやあかつめくさの群落

松脂岩薄片のけむりがただよひ

鈴谷山脈は光霧か雲かわからない

   (灼かれた馴鹿の黒い頭骨は

   線路のよこの赤砂利に

   ごく敬虔に置かれてゐる)

そっと見てごらんなさい

やなぎが青くしげってふるへてゐます

きっとポラリスやなぎですよ

おお満艦飾のこのえぞにふの花

月光いろのかんざいしは

すなほなコロボックルのです。

・・・・以下省略・・・・・・・・・

下は宮沢賢治が生涯、眺めていた岩木山の冬の風景です。

Iwakisan_011


南国タイの国の花、ゴールデンシャワーの写真をお楽しみ下さい

2012年04月20日 | 写真

gakuさんはタイのチェンマイにご夫婦で悠々自適のご生活です。そして、その写真には、いつも穏やかな佛教国の雰囲気が写しだされています。心がなごみます。

写真と撮っているgakuさんのお人柄が偲ばれます。

それで何度もお写真をお借りして、このブログでご紹介してきました。

今回はタイの国花、ゴールデンシャワーの写真をご紹介します。日本には無い花ですね。しかしその優しげな雰囲気はネムノ木の花のようですね。お楽しみ頂ければ嬉しく存じます。写真の出典は、http://gaku404.exblog.jp/です。

F0178278_102545241

F0178278_10249851

F0178278_102618111


大英帝国の没落が日本へ与えるその教訓の数々(1)個人の幸せを考える

2012年04月20日 | 日記・エッセイ・コラム

戦後、50年間くらい続いた日本の経済成長が止まりました。昨年は東日本大震災が起き、福島原発の爆発もありました。

もう日本は衰微する一方です。国民は働き口も少なくなり困窮する一方です。世の中が暗くなりました。

しかし個人、個人の人生まで暗く考える必要はありません。明るい希望を持って生きることが今まで以上に重要になります。

そこでかつて繁栄し、現在は衰微してしまった国の運命を振り返って参考にしようと考えました。

その一例が、大英帝国の隆盛と没落です。

大英帝国は1805年のトラファルガーの海戦で大勝利し、1945年の第二次世界大戦の終了まで世界の覇権を握っていたのです。

大英帝国は世界に植民地や領土を持っていました。インド、マレーシア、ビルマ、シンガポール、香港、ニュージーランド、オーストラリア、エジプト、カナダなどなどです。それが1945年の第二次世界大戦の終了がきっかけで、全ての植民地を失ったのです。香港だけは1999年までは保持できましたが。その没落は劇的です。

日本の衰退は大英帝国と比較になりません。あまりにも違い過ぎます。参考に出来ることではありません。ましてや教訓などある筈がありません。

これが常識的な考え方です。

しかし国家の衰退や没落と個人の幸せの関係を考えてみると幾つかの参考になる現象が見えてきます。そのような事をこれから少しずつ考えてみたいと思います。

個人の幸せを中心に考えていきたいと思います。したがって家族関係や宗教も重要な問題になります。

今回はスペインのトラファルガー岬の沖で1805年に起きた海戦のことを簡単に書きます。

イギリス帝国のネルソン提督指揮の27隻の戦闘帆船が33隻のフランス・スペインの戦闘帆船を完膚無きまで叩いて大勝利したのです。

横一列に展開したフランスの戦闘帆船の真ん中をネルソン提督の2列の縦型の戦闘帆船が分断し、突っ切ったのです。大胆な戦闘方法でした。この戦法は日露戦争の時の日本海、海戦で東郷元帥が用いて大勝利を上げました。

この勝利でイギリスが世界の制海権を完全に手に入れたのです。インド、マレーシア、ビルマ、シンガポール、香港、ニュージーランド、オーストラリア、エジプト、カナダなどの植民地からの富を安全に本国へ運べるようになったのです。

その理由で私は大英帝国の始まりは1805年と考えています。

そして1945年の終戦後のインド、マレーシア、ビルマ、シンガポール、ニュージーランド、オーストラリア、エジプトなどの独立をもって大英帝国の終焉と考えます。

1805年に始まって1945年に終わったというような単純な現象ではありませんが、物事を分かり易くするために一応そのようにして考えてみます。歴史は複雑なのが通例です。

さてここで観光案内です。

1805年にネルソン提督の艦隊の旗艦はビクトリー号でした。それが現在でも英国海軍の所有艦艇として軍港ポーツマスに公開展示されています。下の写真の通りです。ポーツマス港へはロンドンから電車で行くのが便利です。

04003e091

私は家族連れで1970年の11月に訪問しました。この船のタラップを登るとき、現役の英国海軍の水兵がピーと長く笛を吹き、客人を迎える時の登舷礼をしてくれます。

艦板に上がると大砲の列が舷側に並んでいて、殺伐とした雰囲気です。そして甲板のある場所に金色の小さな板がついていて「ここでネルソン提督が敵の狙撃兵の銃弾に当たって絶命した」という説明板がありました。

Trafalgarauguste_mayer1_2

上の絵画はトラファルガー海戦の様子です。

観光案内ですので下にカンタベリー大聖堂とロンドンの街の風景写真を示します。

Canterbury_cathedral__portal_nave_c

話は飛びますが、下のロンドンの風景は上海の黄江沿いのかつてのイギリス租界によく似ています。

20050627__united_kingdom__england__

このように観光案内をする目的は国家の衰退と個人の幸せの関係を考える糸口になると信じているからなのです。それは現在のイギリス人の考え方や心の支えを知るヒントになると思います。そこから想像したことは次回に書きたいと思います。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)