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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

世界文化遺産候補の富岡製糸工場と広大な群馬サファリパークの写真をお送りします

2012年04月07日 | 写真

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・富岡製糸工場が富岡市に出来た経緯:

明治3年、横濱のフランス商館に勤務していたポール・ブリュナ(Paul Brunat)らが武蔵、上野、信濃の地域を調査し、上野(現在の群馬県)の富岡に場所を決定しました。

場所がここに決まったのは生糸生産が盛んな土地で、なお製糸工程に必要な多量の水と燃料の石炭が高崎、吉井で産出していたからです。

その上、外人技師が住み込んで、工場の操業の指導をすることに地元の住民が同意したからです。当時は攘夷思想が地方には残っていたのです。

明治5年に工場が完成したには当時としては画期的な事でした。

(写真の出典は、http://www.city.tomioka.lg.jp/tourism/001/001/ です。)

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・群馬サファリパークとは:

アフリカ、アジア、アメリカなどの大陸から集めた約100種1000頭羽の動物が広大な敷地で本来の生態系に近い姿で生活し、動物たちの観察ができるサファリパーク。自家用車、レンタカー、レインジャーカーツアー、サファリバス、エサやり体験バスなどに乗って野生溢れるようなサファリ気分が味わえる。草食・肉食動物に餌を与えられるエサやり体験バスは、動物たちの顔や口が目の前に迫って大迫力である。車でサファリゾーンに入園する時は係員からガイドラジオがレンタルされ、車でサファリゾーンに進む時、ゾーンごとにその場にいる動物の情報が流れてくるガイドラジオで初心者にオススメである。またイベントではネコ科獣舎見学、モグモグタイム、フライングショー、ナイトサファリツアーなども行われている。毎年、イベントホールにはインドネシアの動物と地域を中心にインドネシアフェスティバルを開催している。

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「妻が疎開した下仁田町の産業と神津牧場の写真」

2012年04月07日 | 日記・エッセイ・コラム
戦時中、鎌倉に住んでいた家内の一家は米軍の上陸と乱暴狼藉を避けるため、母親と娘3人と女中が下仁田へ疎開したのです。横須賀の海軍経理学校に勤めていた父が考えたのでしょう。終戦間際の昭和20年8月の事でした。そこの小学校のクラス会があったのです。家内が山の生活を懐かしがっていつも出席します。優しかった「ふさ先生」にお会いするのも大きな喜びのようです。私は車で送り、夜は家内と隣の富岡市にホテルに泊まりました。</それにしても何も無い町です。山に囲まれ川が流れているだけの所です。
兎に角、水田もなく、小麦粉のオキリコミやオヤキだけで生きのびて来た貧しい山村だったのです。下に神津牧場の写真を示します。
下の神津牧場は数年前に訪問しましたが、なんとなく寂れていて、昔の栄光の影だけが残っていました。
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さて私は旅に出るときいつも、問題意識を持って家を出ます。
江戸時代から米が採れずに貧しかった下仁田です。
考える問題は「下仁田村の現金の収入源は何だったか?」という問題です。解答を想像してみると、蚕を飼って生糸を作り、現金収入を得ていたに違い有りません。それは江戸時代からでしょうか?それとももっと古い時代からだったのでしょうか?
また隣町の富岡製糸工場が明治5年に出来ていますが、下仁田村から娘達が女工として働きに行ったと想像されます。
この問題をなるべく解明するために富岡製糸工場とその資料館を訪ねました。
ついでに関東地方最大という群馬サファリパークも見物して、動物たちが活き活きしているのを見ました。

このように旅を始める前に、訪問先の土地に関係した「問題」をいくつか作り、道中いろいろ考えるのが私の流儀です。すると訪問先の人々や土地に愛着が湧いてきて、思い出が深くなるのです。

今日も皆さまのご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)