今日は日曜日、教会のミサへ行く日です。教会で、どのような内容のお祈りをするか簡単にご説明します。キリスト教は宗派によらず、ほぼ下のような内容のお祈りを、「主の祈り」として一番大切にしています。
天におられる私達の父よ、み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
み心が天に行われるとおり地にも行われますように。
私達の日ごとの糧を今日もお与えください。
私達の罪をお赦し下さい。
私達も人を赦します。
私達を誘惑に落ち陥らせず、悪からお救い下さい。
このお祈りの中の二つの言葉の意味さえ説明すれば、どなたでも簡単に分かる内容です。
最初の行の「私達の父」とは「私達人類全ての生みの親である一人の神」という意味です。
「私達の日ごとの糧」とは「私達人類のすべての毎日の食糧」という意味です。
この祈りの内容は2000年前に主であるイエス・キリストが神に祈ったときの内容と同じです。
ですから、これを「主(キリスト)の祈り」と言います。我々キリスト教徒は毎週、毎日この「主の祈り」を唱え、祈ります。
それでは仏教での、「ご先祖様への祈り」や「家内安全、無病息災の祈り」のようなお祈りはしないのでしょうか?勿論いたします。プロテスタント諸宗派では神への「主の祈り」の他の祈りとして祈ります。カトリックでは聖母マリア様へお願いいたします。
さて仏教ではどのような内容のお祈りをするのでしょうか?
キリスト教の「主の祈り」のような統一的な簡単なお祈りの言葉は有りません。しかし私は以下のように祈ります。
お釈迦さまのお教えが地上にあまねく行われますように。
お釈迦さまの慈悲のみ心で罪深い私達を御救い下さい。
私達がこの世の生を終えるときには浄土にお迎え下さい。
そして、続けて、亡くなった家族、恩人、友人、の冥福を祈ります。
家族の健康と平安を祈ります。
しかし上の祈りは一般的ではないと思います。仏教ではお釈迦様のお祈りするとき「般若心経」や「観音経」のようなお経を読みます。私も子供のころはよく読みました。祖父や叔父が田舎のお寺の住職をしていたからです。しかしお経の内容はお釈迦さまのお教えなのです。
お釈迦様の教義を唱えることが厳密には「祈り」とは違うような気がします。しかしお経を唱えながら、同時にお祈りをしている場合も多いのです。少なくとも私の場合は。
神とお釈迦様は違うと論理的に説明する人々がいます。しかし人間にとって一番大切なことは「祈る気持ち」だと信じています。神学論争よりもカトリックの祈りが圧倒的に重要と信じています。皆様のお考えは如何でしょうか?(続く)
今日はこれからの教会のミサでこの文章を読んで下さる、
皆様のご健康と平和を、お祈りしてきます。 藤山杜人