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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

教養としてのキリスト教(6)今日は日曜日、キリスト教と仏教の祈りの比較を少ししてみます

2009年03月22日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は日曜日、教会のミサへ行く日です。教会で、どのような内容のお祈りをするか簡単にご説明します。キリスト教は宗派によらず、ほぼ下のような内容のお祈りを、「主の祈り」として一番大切にしています。

天におられる私達の父よ、み名が聖とされますように。

み国が来ますように。

み心が天に行われるとおり地にも行われますように。

私達の日ごとの糧を今日もお与えください。

私達の罪をお赦し下さい。

私達も人を赦します。

私達を誘惑に落ち陥らせず、悪からお救い下さい。

このお祈りの中の二つの言葉の意味さえ説明すれば、どなたでも簡単に分かる内容です。

最初の行の「私達の父」とは「私達人類全ての生みの親である一人の神」という意味です。

「私達の日ごとの糧」とは「私達人類のすべての毎日の食糧」という意味です。

この祈りの内容は2000年前に主であるイエス・キリストが神に祈ったときの内容と同じです。

ですから、これを「主(キリスト)の祈り」と言います。我々キリスト教徒は毎週、毎日この「主の祈り」を唱え、祈ります。

それでは仏教での、「ご先祖様への祈り」や「家内安全、無病息災の祈り」のようなお祈りはしないのでしょうか?勿論いたします。プロテスタント諸宗派では神への「主の祈り」の他の祈りとして祈ります。カトリックでは聖母マリア様へお願いいたします。

さて仏教ではどのような内容のお祈りをするのでしょうか?

キリスト教の「主の祈り」のような統一的な簡単なお祈りの言葉は有りません。しかし私は以下のように祈ります。

お釈迦さまのお教えが地上にあまねく行われますように。

お釈迦さまの慈悲のみ心で罪深い私達を御救い下さい。

私達がこの世の生を終えるときには浄土にお迎え下さい。

そして、続けて、亡くなった家族、恩人、友人、の冥福を祈ります。

家族の健康と平安を祈ります。

しかし上の祈りは一般的ではないと思います。仏教ではお釈迦様のお祈りするとき「般若心経」や「観音経」のようなお経を読みます。私も子供のころはよく読みました。祖父や叔父が田舎のお寺の住職をしていたからです。しかしお経の内容はお釈迦さまのお教えなのです。

お釈迦様の教義を唱えることが厳密には「祈り」とは違うような気がします。しかしお経を唱えながら、同時にお祈りをしている場合も多いのです。少なくとも私の場合は。

神とお釈迦様は違うと論理的に説明する人々がいます。しかし人間にとって一番大切なことは「祈る気持ち」だと信じています。神学論争よりもカトリックの祈りが圧倒的に重要と信じています。皆様のお考えは如何でしょうか?(続く)

今日はこれからの教会のミサでこの文章を読んで下さる、

皆様のご健康と平和を、お祈りしてきます。     藤山杜人