宗教があるために世界で戦争が絶えません。鰯の頭も信心からとも言います。だから宗教なんか無いほうが良いのです。そう言う人々が多いのも事実です。そういう方々も尊敬しています。ところが一方で、この「教養としてのキリスト教」(1)、(2)、(3)、(4)へ好意的なコメントを下さる方々もいらっしゃいます。宗教を信じたり、重要と考えたりするのは全くの個人の自由です。私はカトリックですが、イスラム教でも仏教でも宗教を信じている人々に親近感があります。
今回は、カトリックの信者は、具体的に何をどのように信じているのか?と、いう問題を分かりやすく書いてみたいと思います。知識としてご紹介しているだけで、信じて下さいというお願いをしているわけでは有りません。そのような気持ちは毛頭ありません。
信仰の宣言の言葉です:
天地の創造主、全能の、神である父を信じます。
父のひとり子、おとめマリアから生まれ、苦しみを受けて葬られ、
死者のうちから復活して、父の右におられる主イエス・キリストを信じます。
聖霊を信じ、聖いなる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、
永遠の命を信じます。(終わり)
上の信仰宣言は洗礼の時も、日曜日毎のカトリックのミサの時にも、必ず声を出して唱える文章です。科学的には信じられない部分も多いのですが、具体的に、そして平易に説明すると以下のようになります。
全宇宙を創った、全知、全能の一人の神様の存在を信じています。
この神様のただ一人の子供であるキリストは、処女であったマリアから生まれました。
「苦しみを受けて葬られ」という句は次の一連の事件を圧縮して表現したものです。
成人したキリストは、後に新約聖書になったような新しい内容の信仰を人々に勧めました。その結果、反対派の律法学者の一群によって捕えられ、ローマ総督のピラトの裁判にかけられました。そして磔の刑を受けて、屍は横穴に葬られました。この流れが、「苦しみを受けて葬られ」という句の意味です。
ところが死んだ筈のイエスが3日後に、起き上がり歩いて立ち去りました。そして弟子たちの前に現れた後に、天に上がって、神様の右の座に座っています。そのようなイエス様の存在を信じています。
神聖な霊、ローマ法王傘下の全ての教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、自分の死後に体が復活し生き返ることを信じています。従って自分の命も永遠の命なのだと信じています。
(終わり)
荒唐無稽だ。バカバカしいと無視するより、これを信じようとしている人が世界中に何億人といる事実を考慮に入れるほうが、人間を理解する上で重要なことではないでしょうか?
最後に簡単なコメントを追加します。
最初の一行は、イスラム教もユダヤ教も同じです。キリストの誕生のくだりからキリスト教独自の内容になります。カトリックでは肉体の復活を非常に重要視しますが、プロテスタント諸派は重要視しない宗派が多いです。プロテスタント諸派は科学的に不合理な部分はなるべく重要視しない傾向があります。しかし科学的合理性と宗教の信仰はまったく別世界のものです。それを一緒にしようとすれば矛盾も起きますし、宗教的な深遠さも無くなります。
仏教の教えも科学的合理性が無いからこそ魅力的な宗教なのだと思います。密教や修験道の奥深さもその神秘性によっているのではないかと思います。(続く)