フランス人観察記録

日本人から見て解ってきたフランス人の考え方、行動についての覚書

ニームのフランス語の先生

2011年05月26日 | ラングドック・ルシオン

学生時代からの夢に胸を膨らませ、小さな語学学校の門をくぐった。
迷路のような細い道が多いアヴィニョンで、その学校も小さな道の奥に門があり、木の扉を入る。
ちょっと遅れると鍵がかかるので、ベルを押し、扉を開けてもらわなければならなかった。

クラスには私を入れて、四人だけ。
それが翌週には三人になった。
たった10日間だったからか、正直語学力の向上は期待外れだった。
ただ、その時の先生(30代後半くらいの女性であった)との出会いは、今もなお続く大きな収穫であった。

最後の授業の後、庭でティータイムがあり、その日で終了のものが挨拶をする。
簡単なフランス語で、楽しく過ごせたこと、先生やクラスメートとの出会いに感謝を述べた。
そして最後に「アデュー」と言った。
「ノン、それはないでしょう。オー・ルヴォワールでしょう」とすぐに先生は訂正した。
フランス語にはいくつかの「さよなら」の言葉がある。
アデューはもう会うことのない人へ言う言葉なのだ。もちろん知っていた。私はもう会うこともない人たちだからと、使ってみたわけだ。

しかし、フランスで「アデュー」を使うのは永遠の別れ、つまり亡くなった人への「さよなら」。そしてもう一つは恋人など決別を意味するときに「アデュー」と言う。(物理的にはどこかでまたすれ違ったりするとしても)
それ以外はすべて「オー・ルヴォワール」(また会いましょう)、もしくはすぐにまた会うときは「ア・ビアント」(またね)と言うのだった。
もう物理的に会うことはない人でも、永遠の別れの言葉は使わない。

結果的に私はその後アヴィニョンにも何度もそのあと訪ねることになったし、先生とも再会したのだから、まったくそれは間違っていたのだ。

さて、それから二年。私がアヴィニョンを訪ねるとメールをしたとき、もう先生はアヴィニョンではなく、先生が住んでいるニームと言う街でまた教師をしていた。
「どこを案内しようか」と尋ねられ、交通の便が悪くなかなか個人では行きにくい、南仏では最高の(と私は思う)世界遺産、「ポンデュガール」(ローマ時代の水道橋)をリクエストした。
前日パリのホテルに電話があり、4月末、ニームは何と30度で、夏日だと言うことだった。




ニームの駅で再会を喜び、ニームの街を案内してもらった。

先生は大きなペットボトルに水を入れて持ってきてくれていた。
そして「私の車はエアコンがなくて、ごめんなさいね」としきりに気にする。
それより驚いたのが、駐車する時、ハンドルが動かないような大きなロックをかけたことだ。
「車を盗まれない」ためのものだった。その可能性が想像できるような場所も車で通った。


このニームというのは、ジーンズでもおなじみの「デニム」の語源でもある。
デニム(デ・ニーム)、つまり「ニーム産」と言う意味だ
詳しく言うとSerge de Nimes(セルジュ・ド・ニーム)、sergeとは綾織り(サージ)のことで、ニーム産のサージに由来する。

昼食を取った時、「オムレツ」を頼んだつもりだったが、何と一人分のお皿に三つの目玉焼きがのっていたのにはびっくりした。

先生は日本からのお土産に「もし可能ならお味噌製品、そして日本地図」をと言われ、その時先生が日本に興味を持っていることを感じたのであった。
日本に興味があるからと、すぐに来れる人はやはりまだまだ少ないのである。
ハイキングが趣味だと言い、「いつか日本に行けたらいいのだけど」と言っていた。名残リを惜しみながらお別れした。


その後は、ほとんどカードのやり取りだけだったが、東北の震災後はすぐに手紙で私の状況を尋ねて来られ、被災地の方々への哀悼と激励の言葉を頂戴し、先生の温かい人柄を再び確認したのだった。



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