フランス人観察記録

日本人から見て解ってきたフランス人の考え方、行動についての覚書

ヴィエンヌの3人家族

2011年05月27日 | ローヌ・アルプ

グラブソンを発つ朝、あいにくの風(ミストラル)で屋外での朝食は出来なかった。

アルザスの3人組も前日に去ったが、建物の中で食卓に着くと新しい親子連れと一緒になった。
若い夫婦とかわいい6歳の男の子の3人だった。

折り紙をあげるとすぐに仲良しになり、メールアドレスを交換した。
男の子の写真も撮った。
かつて繊維の街、そしても今も食の都として知られるリヨンから少し南に下ったヴィエンヌという駅の近郊に住んでいるという。

時間にして30分ほどあったかどうかの出会いだった。


帰国してからもメールの交換やカードの交換もした。むこうからヴィエンヌを中心としたローヌアルプ地方の写真集も送ってきた。
是非次回フランスに来たら家に来てほしいということだった。
お返しに男の子へ浴衣を送ったりした。


翌々年、いよいよ旅の途中この招待を受けることにした。
待ち合わせはリヨンの駅(Lyon Part-Dieu)の売店前と言うことだった。

ここに一つの問題があった。
実はシャンブルドットで会った際、男の子の写真は撮っていたが両親の写真は撮っていなかった。
つまり両親の顔は、忘れてしまったのである。

迎えには奥さんが来てくれるという。
まあいいか、日本人はおそらく私だけだから、向こうが先に気が付いてくれるだろうと思った。

実際その通りで、にこやかに彼女は寄ってきてくれた。会っても「こんなマダムだったのか」と、まるで覚えてなかったのだ。
やれやれである。

ヴィエンヌの駅からもかなり離れたところではあったが3階建の広い家だったし、周りは農地で環境は良かった。

男の子は浴衣を着て待っていてくれたが、成長が早くもう短くなってしまっていた。
ヴィエンヌの小学校に通っていて、登校時は奥さんが出勤時に送っていき、下校時は人を雇って家まで送ってもらっていた。
奥さんも公務員で忙しい身なのだ。

ここで「アペリティフ」というものに初めて気がついた。
正式の食事前のおつまみみたいなもので、シャンパンもでる。

考えてみれば、それまでもこの「アペリティフ」はあったなと気がついたが、同じ部屋でテーブルを移動しただけだったので、そう気に止まらなかったのだ。
ここでは食事のテーブルとは別の場所でこの「アペリティフ」をし、その後正式の食事のテーブルのある部屋に移動したから、移動後にはっきりと「おや?さっきのは?」となったのだ。

あまり「アペリティフ」で食べ過ぎると、せっかくのおいしい本番で困ることもわかった。「アペリティフ」で沢山つまみのようなものが出るけれど、それは少しだけにするのがよいようだと学習したのである。


奥さんも勤めているから私の面倒をみるのも大変だっただろうが、休暇を取ってリヨンより少し北東のペルージュに連れて行ってくれた。

そこは中世の香りがする小さい村だった。何でもクリントン大統領も来たそうで彼らが食事したというレストランもあった。
私たちは、昼食にガレットを食べた。ブルターニュのガレット(そば粉で作ったクレープ)とは違い、少しケーキ状(パイ?)のガレットである。


またヴィエンヌの夫婦は、学校の休日にスイスとの国境の街アヌシーへピクニックに連れて行ってくれた。
湖があり、高級避暑地でもある。

その湖畔で、シートを広げアヌシ―の街で買ってくれたパンやソーセージ、チーズ等を食べた。
男の子は習っている空手の型を見せてくれた。
フランス風ピクニックも、これが初めての体験で、素晴らしい思い出である。

ご主人は、フランス人としては背が高いので、出身を尋ねると、やはりベルギーとの国境近くの生まれであった。静かで穏やかな人であるが、エレキギターが趣味だという一面も見せてくれた。
またフランス人にしてはハードに仕事をしており、責任あるポストということもあり、なかなか休みも取れないようすであった。

最終日、リヨンを見物に行く私を奥さんは出勤途上リヨン駅まで車で送ってくれた。
駅に上るエスカレーターの前でお別れした。
エスカレーターに乗りながら、そして降りてからも駅の上から振りかえっても、彼女はさっさと車のほうに歩いてゆくのが見えるだけだった。

ここでもフランス人は振り返らないことを改めて思った。
それにしても3泊4日の私を、忙しい中よく面倒見てくれた奥さんだった。
全力で歓迎してくれ、やるべきことを果たした彼女は、今ひたすら前を向いて帰っていく。
いつかこの家族が日本に来たら、この時の恩返しを精一杯したいものである。



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