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フランス人観察記録

日本人から見て解ってきたフランス人の考え方、行動についての覚書

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抜け目のない?ラテン系男性

2012年11月12日 | パリ郊外

可愛い二人の女の子が帰った翌月にやってきたのは、名前をアドリアンと言う三十歳前後の若者だった。

彼は前年の来日を考えていたが、なかなか決断がつかず、やっと実現したということだ。

 

日本に関空へ初めて降り立ち、滞在は奈良からである。

この時は毎年来るようには思えなかったが、振り返ると今年まで三年連続での来日の一歩であった。

 

彼はパリの郊外、フォンテーヌブローに住んでいるエンジニアで、一見内気なフランス人に見えた。

魚が食べられない彼は、「フランス人は魚を食べる人は少ない」と言っていたが、そうでないフランス人も多いことを私はよく知っている。

 

そして、彼はワインも飲まず、コーヒーも飲まない。

朝ご飯は、ココア、パンにはジャムではなく、「僕はフランスでは、ヌテラをつけて食べている」という。

ヌテラとは、いわばチョコレートのジャムのようなもので、フランスの子供の朝食の定番であるようだ。

 

そんな彼は、一週間の滞在で、奈良はもとより、大阪や京都へ足を延ばした。

大阪ではメール友達だけれど初めて会うという日本人の女の子に、天王寺を案内してもらったそうだ。

 

京都の一日目のルートをアドバイスした。

龍安寺、金閣寺、大覚寺、銀閣寺、哲学の道である。

彼はその往きのバスの中で埼玉から京都に観光に来ていた二人の日本の女の子と出会った。

一緒に龍安寺、金閣寺を見たら、彼女たちの決めたコースに沿い、大覚寺は飛ばし、金閣寺からそのまま銀閣寺へ行き、新幹線で帰る彼女たちに同行し京都駅で、別れたという。

 

そのあとは時間があったので、1人で伏見稲荷を回り、帰ってきた。

「とても感じのいい子で、親切だった」というので、「連絡先は聞いたの?」と聞くと、「もちろん」と言う返事 大人しそうで、幼そうに見えても、これがフランス人である。

ちゃっかり連絡先は交換し、奈良の滞在の後、埼玉でホームステイする予定だった彼は、彼女たちと東京での再会の約束までしていた。

 

この後の埼玉のホームステイ先での彼の評価も「牧師さんかと思っていた」というくらい、朴訥で生真面目に見えるアドリアンの第一印象であるが、回を重ねるごとにやっぱり、フランス人だなあと思わせてくれるのである。

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君は幸運を連れてきたよ。

2012年05月13日 | パリ郊外

マリー・アントワネットの庭園を散策した時大きな木が生えていた。また、別の所に大きな切り株が倒してあった。

 樹齢200年以上は十分あると言うことは、もしかしてマリー・アンとネットもこの木に触ったのではないかと想像した。そう思うと木の周りに落ちている木肌の片すら貴重に見えてきたから不思議だ。

  カラオケを歌いに行って、シャンソンをかけるとよく画面に出てくるあの「愛に神殿」もあった。ここでマリー・アントワネットは愛人と密会したそうな。 

 プチ・トリアノンから、サンジェルマンアレーに帰り、彼の手料理を御馳走になった。彼は料理が好きだそうで、奥さんは大助かりだろう。そういうこともあるから、奥さんは彼のコレクションが、家の相当の部分を占領していてもまあ我慢もできると言うことだろうか。料理はとても美味しかった。 

 その夕食を早めに切り上げてその夜、再び彼の運転でパリにもどり、パリ祭の夜行われる恒例のエッフェル塔付近の花火を見物に出かけた。

 車を止める場所が見当たらず、あちこち探して運よく1台だけ空いている地下駐車場を見つけた。このとき彼は「マリー・アントワネットの庭にも運良く無料で入れたし、今うまく駐車場も見つかった。君は幸運を連れて来てくれたよ。」と言った。 

 よくない時は「セラビ、セラビ」(運命だ仕方ない)とあっさりあきらめ、良い時はこういうように喜ぶ。しかも幸運を私のせいにして人を楽しくさせる。こういうときはいかにもフランス人らしい洗練された生き方を感じる。 

セーヌ川の見やすい橋の付近は身動きが出来ないほどの人出だった。 花火はビデオ撮りばかりでここに載せられないが、エッフェル塔の電飾もこのように綺麗だった。 

 かくして朝からシャンゼリゼのパレードを見て、午後にはベルサイユのマリー・アントワネットの庭園を見て、夕方にはまたパリにもどり花火を見て、夜またまたサンジェルマンアレーに戻り泊まると言う忙しい一日も終わったのであった。 

 翌日彼は午後に仕事があるのだが、午前中サンジエルマンアレーの街の中心を案内してくれた。私が前日降り立った地下鉄の駅のすぐ横に城があったが、此の城はパリの西の守りとして重要だったようだ。 ルイ14世はここで生まれたそうで、そのように表示された門もあった。

 古い教会もあった。 

町には有名な老舗のチーズ屋さんもあり、

広場に面して郵便局があった。ここで葉書を出した。

 その広場を挟んで郵便局の反対側の大きな綺麗な建物があり、

その1階のカフェで休憩してから、地下鉄の駅まで帰り、そこで彼と別れた。 

  このときから1カ月後、彼と奥さんと一人息子が日本にやってきて再会するのだが、それはまた後日に紹介したい。

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マリー・アントワネットの田舎暮らし

2012年05月05日 | パリ郊外

サン・ジェルマン・アン・レイの友人宅に行くため、凱旋門からRERに乗って出かけた。 

途中で気がついたがなんだかおかしい。そこで親切そうなムッシュに聞くと、この列車は同じA線でも違う方のいくとのことで、次の駅で乗り換えたらよいと言うことだ。 

聞いてよかったと思い次の駅で降りた。そしてサン・ジェルマン・アン・レイ行きの列車を待った。

地下駅であるがどうも日本と違ってこういう駅は、気持ちが良くない。駅員は見当たらないし、変な目つきや、変な感じの人もいるから緊張してしまう。暗いホームに人はまばらだった。しかしやがて列車が来て無事サン・ジェルマン・アン・レイ駅に着いた。 

ムッシュが車で迎えに来ていてくれて、10分ほどで彼の家に着いた。静かな住宅地にあり、3階建になっていて、道路に面した階が2階部分であった。

驚いたことに、家中彼のコレクションだらけであった。小さい頃から飛行機や列車の模型が好きだったようで、そういうものが陳列ケースに沢山入っていた。その陳列ケースがいくつもあった。

よく奥さんが不平を言わないものだと、感心したくらいだ。 

一人息子さんは夏休みでおばあちゃんのところに出かけていて留守であったが、休憩したのち、ヴェルサイユ宮殿の庭園のマリー・アントワネットゆかりの「村里」へ連れて行ってくれることになった。

以前ヴェルサイユに来たけれど、ここまでゆっくり見られなかったので行きたいと言ったからだ。 

日本で言う「パリ祭」は革命記念日であるが、ご存知の通り1789年の革命を指す。この日バスチーユ監獄が革命派により襲撃されたのだ。 

その日から二百数十年たったが、期しくもこの日にマリー・アントワネットゆかりのヴェルサイユの庭園に行くことになったわけだ。 

庭園の入り口で入場料を払うことになっているが、受付係の若い女性二人が何やら慌てている。どうやらパソコンが故障したらしい。そしてもう入場料なしで入っていいと言う。

日本人の感覚からいえば、切符を売ることなどパソコンが壊れても何とかできると思うのだが、相手が折角いいと言ってくれているので、メルシー・ボクーと言うことになった。大らかなものだ。 

友人も「あなたは幸運を連れてきた」と言った。

庭園は、のどかな田園風景であり、ヴェルサイユ宮殿の荘厳・華麗さとは無縁の世界に思えた。

18世紀の貴族にこういう田舎を自領内に所有し、体験してみるのが流行したとかで、マリー・アントワネットもそれを望み、ここで煩わしい宮廷生活から逃れ、非日常を楽しんだのだそうだ。 

この続きは次回にする。

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このカトリーヌも我が道を行く

2012年03月28日 | パリ郊外

初来日のときは東山の銀閣寺と清水寺を観光したので、金閣寺を見たいという彼の希望に添い、金閣寺と竜安寺に行くことにした。 

そこで二人きりになりたいだろう若いカップルとは別れ、私は両親と一緒に一保堂で抹茶の体験をしてもらったが、お母さんは「苦い」と言う顔をした。おそらく息子が言う「あまりにもフランス人」と言うのはこういうことかと思った。ほとんどのフランス人は私の前では、そういうそぶりを見せないが、感情をそのまま表す人なんだということが、だんだんわかってくるにつれ、悪気もなければ裏表もないので、そんな顔をしながらも御機嫌がいいのである。

この後、平安神宮へと向かった。 平安神宮の庭園で、意外なお父さんの一面を見た。

池にかかる石の上を飛んで渡り、落ちそうになるようなふりをして笑わせるのだった。「役者だなあ」と思わず口に出たくらいだ。

フランス人は少年の心を残すムッシュもまた多く、そういう人が私を嬉しくさせる。 

折しも帰りは雨になったが、東山の駅に向かう小川沿いでもお父さんはおどけて見せる。

 

お母さんは養子として引き取った息子のことを「あの子も今はとても大人になったけど、うちに来たころはいろいろと大変だったのよ」と言ったのが今も忘れられない。

そしてありのまま正直に話してくれる彼女に親近感を覚えた。 

息子に言わせると、彼女は感情をストレートに出し、古い考えもある人なのだが、それは気にならないということも後々感じるようになる。 

そしてこのお母さんの名はカトリーヌ。つまり私の知り合いのカトリーヌは三人(他には、この人そしてこの人だ)いるのだが、揃ってすべてスペシャルな人柄と言える。

つまり、三人とも自分の意志のまま突き進む。相方はついて行くだけである。 

サンダーバードで金沢や富山に向かう彼らを、京都駅で見送って別れた。 

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東京で暮らす息子を訪ねてパリからやってきた

2012年03月21日 | パリ郊外

両親から子供交換の依頼があり、うちにやってきてから再び1年半後に来日し、東京で暮らし始めたこの青年に会うため、両親が来日した。

そして日本人のガールフレンドとともに、奈良で再会することになった。

 

若い二人は夜行バスでやってきて、ネットカフェで仮眠を取った後、新幹線でお昼過ぎに到着する両親を迎えにJR奈良駅へ行った。

私もそこで合流することにした。

 

まず驚いたことは、彼はすっかり日本語が上手になっていたことだ。

ガールフレンドができて自信のようなものもうかがえる。若い人の短期間での成長は著しく、こちらも親のような気分で嬉しくなる。

そこへ両親がやってきた。

思えばきっかけは都踊りを見た後、彼らと少し立ち話をしたことに始まる。

だからこの時にはどんな人達なのか、まだ詳しくは分からなかった。

 

息子の彼によると、「とってもフランス人的で、スペシャルだから、申し訳ない」とまで言う。

こちらはよく理解しているつもりだが、日本に住んで日本人との違いをいろいろ感じ、出た言葉であろう。

 

まずお昼を一緒にいただいた。和食である。

お父さんは全部きれいに平らげた。しかしお母さんは食べられないものもあるようで、小食であった。

 

驚くことにこの二人、とても仲がいい。確かお母さんは再婚であるが、年上で60代、お父さんも50代後半である。

しかし腕をしっかり組み、ラブラブなのだ。

 

宿に荷物を下ろして、少し染井吉野の桜の開花時期には早いので、早咲きのしだれ桜で有名な、氷室神社へいった。

そこでは丁度奉納の舞をしていたが、フォスターペアレントの会長のお父さんはネパールへ行ったときに見た舞だと大喜びであった。

 

それから東大寺、二月堂、春日大社を廻り、夕食はうちで取ることにした。

時間を約束して別れたが、少し早めに若いカップルが、遅れて両親が来た。

 

彼がうちに滞在したときに気に入っていたしゃぶしゃぶにした。

その時は夏で冷しゃぶだったのだがごまだれは一緒だ。

「これだよ。このソース!!僕が好きなのは」と言うのを聞いて、彼女は「いくつか買ってみたけど、『違う、奈良で食べたソースはこれじゃない』と言われたんです。」と言うことなので、レシピを教えた次第である。

 

翌日は京都へ一緒に行くことにした。

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