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フランス人観察記録

日本人から見て解ってきたフランス人の考え方、行動についての覚書

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カテゴリーは居住地によって分けています

ヴァンサンと日程が被っていしまったこのカップル

2013年04月11日 | パリ郊外

ヴァンサンが来日する前に我が家に滞在するはずだったこのカップルが、アクシデントで旅程変更を余儀なくされた。

つまりパリ空港へ向かうため、彼らはもちろん余裕をもって家を出たのだが、何と交通事故で大渋滞したそうだ。

そして予定の飛行機には乗れず、関西空港着ではなく、成田着になったことから、東京での滞在からのスタートに変更された。

このカップルの奥さんは高校の校長先生で、彼女ヴァンサンと同じくスキー休みを利用しての初来日だった。

それでも普通は宿の変更なども含めて、彼らだけでは簡単に旅程は変えられない。なぜできたのか?

それは彼らの友人であるJLさんがちょうど東京に滞在中で、彼らの宿の変更から旅程変更まですべて手伝ったからだ。

我が家にも滞在日の変更を申し出られたのだが、あいにくヴァンサンの滞在と重なり、変更を受けることができなかった。

実は彼らのキャンセルは当日だったので、夕食の準備の買い物なども済ませていたのだが、理由が理由だけに彼らの気持ちを察すると、出来るだけいい思いをして帰ってもらいたい気持ちになった。

そして奈良に来るとき観光ガイドだけでもと、ヴァンサンが友人と京都の鞍馬温泉に出かけた日に約束をしたのだった。

このカップル、奥さんは流石高校の校長と言うだけあって風貌も立派なマダムだった。ご主人は薬局を経営されていて、メールのやり取りはほとんど彼とだった。

氷室神社~東大寺~二月堂~春日大社を案内した。

初めて会ったというのに不思議と話が弾んだ。

薬局を経営しているからか、食にはとても注意されていて、揚げ物は食べない(つまり天ぷらは食べない)し、野菜を多くとるようにしているとのことだった。

ウナギ以外の日本食は好きだそうで、あんこも好きというので、ぜんざいを一緒に食べた。そして南仏の珍しい白ワインをお土産に頂いた。

彼らはパリに(正確に言うとパリの外れだが)一軒家を持ち、その半分をアパートとして貸している。

とても快適そうな家なので、いつか泊まってみたいと思っているが、まだそのチャンスはない。

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日本企業へ就職活動中のソフィアン君に会う。

2013年04月07日 | パリ郊外

ジョルジュと別れしばらく歩きかけたが、方向を見失なってしまいそうなので、シャンゼリゼに戻り、メトロに乗り、パリ市役所駅まで行った。今度はここからソフィアン君と落ち合う予定のサン・シュルピス教会まで散策することにした。

パリ市役所の裏側

 

パリ市役所の裏手からセーヌ川に出ると、バカンスに行けない人達のために、パリ市が作った「砂浜」(パリ・プラージュ)で多くの人が日光浴しているのにぶつかった。多くの人はこの季節バカンスに出かけるが、そうでない人のために砂を持ってきて、ここで日光浴をどうぞと言うわけだ。

セーヌ川沿いの「パリ・プラージュ」で日光浴する人たち

これはこの季節パリだけでなくリールにもあった。

ちびっこたち・・・多人種国家を実感した。

なんと粋な計らいだろう。日本人は基本的に日焼けを嫌うが、白人は日焼けがステータスみたいなところがある。色白は「バカンスに行く余裕がない人」となるのだ。

冬が長く、日照時間が少ない緯度の高い所に住んでいる白人にとって、夏の日光浴は欠かせないらしい。カフェでもわざわざ屋外の席を好むのは、それと関係があるように思えてならない。

逆に日本で屋外のカフェの席があまり流行らないのは、そこに根本原因があるように思える。 

シテ島の最高裁判所の前を通り、サン・ミシェル橋をセーヌ左岸へ渡った。サン・ミシェルの泉の前を通り、しばらく歩いてサン・シュルピス教会に着いた。その途中、以前来たことのあるお医者さんと実業家の奥さんのカップルの住んでいるアパルトマンの前を通った。今回は彼らには内緒で来ているので、そっと通った。

シテ島の最高裁判所

噴水のある広場

サンミッシェルの泉

 

友人が多く、特に当然パリに多いので、全員に知らせたら大変なことになる。その時その時に会う人を選択して行くことにしている。限られた期間の滞在なので全員にとても会い切れないし、パリからどこへも行けなくなるのは必定だ。

サン・シュルピス教会前の広場

修理中のサン・シュルピス教会

 

やがて若いソフィアン君がやってきた。日本の企業に就職したくて頑張っている彼だが、日本語がまた一段と上手になっていた。

近くのカフェで話しをした後、セーヌ川に向かって歩き、ルーブルのところまで行きそこで別れた。今度は日本で会おうと、約束した。

ルーブル博物館

 

エリックの家への帰りもバスに乗った。最後のパリの夕食をエリックの家でいただき、食後折り紙遊びをした。エリックは小さな兜を頭に乗せ、二羽の鶴をイヤリングに見立てておどけて見せた。

明日彼等は朝早く仕事に行くので、家のカギ渡してくれた。彼等の出勤後に私は日本人の奥さんとフランス人のご主人の家を訪問に出かけ、それからまたここに戻って荷物をまとめてシャルルドゴール空港に向かうことになる。

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やっぱり金銭感覚はシビアだった。

2013年01月03日 | パリ郊外

この次にやってきたのは、ダニエールの当時の上司で経営幹部というラルフだった。

年齢はダニエールより若かったが、上司で経営幹部らしい。 

私の直接の友人ではないので、ガイドはしなくていいお客さんである。 しかし彼女は「彼はお金持ちなので、ガイドも有料でしたらどう?」と持ちかけてきた。

昼食も込みの料金を提示してきた。さてうまくいくだろうか?と思った。 

ラルフは仕事で上海に行った後、初来日ということなので、JR奈良駅に迎えに行った。

残念ながら、彼の滞在の後に先約で来客の予定があったため、彼は一泊二日だった。

ラルフは独身、名前からしてフランス人ではないようにも思えたが、フランス人だった。 

アルコールは白の甘口ワイン以外はだめ、また母親思いで、よく旅行を一緒にすると言っていた。

家にはテレビもなく、アナログな部分も多くあるらしい。

日本食はご飯は大丈夫だったが、あんこは苦手だった。

習字や抹茶も楽しめた。 

経営幹部で、お金持ちということだが、さすがにフランス人は、シビアな金銭感覚も持ち合わせていた。有料のガイドは必要ないということで、翌日は1人で出かけて行った。

ちょうどダライラマが来県していて、奈良ホテルに立ち寄ったとき会ったとか、帰ってから興奮気味に話していた。 

そして夕方荷物を取りに戻ってきたが、本当はもっと泊まり話をしたかったようだ。

彼は経営幹部ということもあるのか、猜疑心と行かないまでもかなり慎重な面が初めはあったように思う。

でも奈良の後の京都のホテルの予約をはじめ京都の見どころなどについていろいろ話をしているうちに、私に対して警戒心も解かれたようで、京都のホテルに滞在した後も延泊の交渉を私に依頼してきたのだった。 

ああ、もう一日でも泊めることができたらと思ったが、夕方18時過ぎに彼を見送って19時過ぎには別の客を迎えることになっていて本当に来客の多い秋だった。

 

あけましておめでとうございます。

お読みいただき、ありがとうございました。

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夫婦ともに「フランソワ」の似た者同士

2013年01月01日 | パリ郊外

この日パリ郊外へ訪ねたマリーアンジュの両親は、似た者同士の夫婦である。

大体フランス人は背の高い人と、日本人程度の人とに大別されるが、彼等はどちらも高くなく日本人程度なのだった。 

そして何よりも彼等は同じ名前である。「フランソワ」と言うのだが、奥さんは当然女性だから語尾に「E」がついてフランソワ―ズになるだけなのだ。ご主人はフランソワである。 

二人とも人柄がとてもいい。娘のマリーアンジュはそれを受け継いでいる。 

前回の訪問時と同じく二人で駅まで迎えにきてくれた。ご主人は心臓の手術をした後だったので、厄介をかけてはと、辞退したのだが、「是非にと」言われ、会いに行ったのだ。もうかなり回復していた。他の友人の病気治療のことも聞くにつけ、フランスの医療技術も相当のレベルだと思う。 

さて早速奥さんが腕をふるった御馳走をいただいた。私の胃袋の疲労ぶりを汲んだ優しい料理であった。

 

 

日本で買ったと言う茶碗は、お菓子入れになって出てきた。

 

以前にもこのブログに書いたと思うが、前回来た時に指摘した中国絵の牡丹の絵は、正しく掛けられていた。中国語(讃)は縦に書かれるものと思い込んでいた彼等は、90度左回転させて掛けていたのだった。

でも掛け直したのは私が再訪する数日前だったと、彼等は告白して笑った。

 

彼等はモンゴルに旅行したとのことで、その時の写真を見せてくれた。

「パオ」に寝泊まりしたらしい。トイレのことを質問すると、パオから少し離れたところにトイレが立っているとのことだった。勿論水洗などではない。

毎日ウォッシュレットに御厄介になっている私としては、どうもこういう点に距離を感じてしまう。 

ウランバートルの地図を見せてもらったところ、何と日本語のものだった。でも彼等はそれと知らなかったらしく、びっくりして、そして大笑いした。

再会を約束し、駅で別れた。

その日の内に今度は娘夫婦であるマリーアンジュの家を訪問するため、再びRERに乗ってパリにもどった。 

途中から歩くことにし、セーヌ川を渡った。

もと鉄道線路の高架橋で、上の線路敷きは散歩道で、高架下は芸術関係の店が多い「芸術高架橋」潜って歩いて行った。 

マリーアンジュ宅は、向かいのネスカフェに勤めているカップルの家に行ったことがあったし、その後一度ミッシェルさんの家(ビットショーモン公園に面しているアパルトマン)から歩いて行ったこともある。前回からとは反対方向からの訪問だったが、地図を頼りに探し当てた。 

この続きは次回に。

 

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パリで着物暮らし?

2012年12月02日 | パリ郊外

アドリアンが五泊した後やってきたのは、久しぶりというか、思いがけない紹介でやってきた親子三人であった。

紹介者はベルニで、彼女はたくさんの友人を紹介してくれたのだが、彼女が夫の赴任期間を終えて帰国したのが7月だったので、それ以降はもうないと思っていた。 

しかし彼女の友人のフランス人で東京にまだ住んでいた友人が、親戚が来日するからと私のところへ泊めてほしいという希望であった。

そしてすき焼きをというリクエストもベルニにからである。彼女はすき焼きがほんとに好きだった。 

一泊だった。しかも夕方着いて、翌日は奈良を観光して(彼らだけで)、夕方にはまた別の場所に移動するというスケジュールだ。

なぜわざわざ我が家に来たのかというと、来てから分かったのだが、奥さんが着物が好きで「着せてもらえる」ということを聞いていたからであった。 

子供は11歳にしては小柄で小さく見える男の子だったが、可愛い金髪の子なので、観光地ではもてもてで、特に女学生から写真をたくさん撮られたそうだ。

お母さんはダンス教室を経営していて、スタイルもよく着物を着てもとても姿勢がいいので、着姿はさすがにきれいだった。 

念願の着物を着て、「こんなのを買って帰りたい」と言っていたほど似合ってもいたが、残念ながらこの年の秋の写真がコンピューターの不具合で消失してしまったのは本当に残念である。 

折り紙や習字はお父さんと子供が楽しんでいたが、折り紙の「飛ぶ鳥」は、すでに知っていて、ちょっとこちらががっかりしてしまった。 一番の見せ場だったのだが。 

そんな彼らは震災後すぐに安否を気遣うメールをくれた。その時彼女たちの親戚はまだ東京にいたが、すぐに九州へ避難し、その後帰国してしまったそうだ。 

それ以来、音沙汰がないのだが、着物を着れるようになるためにパリで先生を探すと言っていた。今頃はパリで着物暮らしを始めていたりするかもしれない。

 

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